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バイロイトの「指輪」新しさの中に輝く美しさ
アンソニー・トマシーニ記者
ニュウヨーク・タイムス 8月2日
バイロイトの8月1日 ― バイロイト音楽祭の新演出作品のカーテン・コールでは、聴衆が制作者たちをブーイングとブラヴォで競い合うのが伝統になっている。月曜日祝祭劇場の聴衆は「神々の黄昏」がおわるや、この伝統を尊重した。この「神々の黄昏」で音楽祭の4部作、ワグナーの叙事詩「ニーベルンクの指輪」の演奏は終わった。
「指輪」を引き受ける以前、タンクレド・ドルストは80歳になるドイツの傑出した脚本家、監督、映画製作者、物語作家、俳優であり、劇場でなしうるすべての仕事を成し遂げてきた。唯一の例外がオペラの演出である。
彼の任命が発表されたとき、「私にとって有利な点は、オペラの演出の経験がないことだ」と彼は述べた。聴衆の反応とオペラ界の最初のざわめきから判断して、彼のデビューは今後数ヶ月は大議論を巻き起こすことであろう。私には彼の演出は新鮮、刺激的、効果的であった。今後ますますそう思うだろう。
今回のバイロイトの「指輪」の真のヒーローはジークフリートでもブリュンヒルデでもなく、指揮者クリスティアン・ティーレマンである。バイロイト音楽祭が今なお世界一のワグナー劇場かどうかは久しく議論されてきたところである。ティーレマン氏は献身的な楽器奏者(ドイツの一級のオーケストラから抜擢された)、それに合唱、声楽的にはムラがあるとしても配役からも、徹底した、光り輝く、晴れやかな演奏を引き出した。
ティーレマン氏の話はわかりやすいとはいえず、ドイツ文化の国民的伝統を語るときにごたごたを巻き起こす。彼の最近のコメントを読んでみるに、彼が言いたいのは、20世紀前半のドイツのオーケストラは、本来の情念と伝統との繋がりをワグナー演奏に持ち込んだ。このときの質を取り戻すべく努力において、演奏家は焦ってきた。この努力は実を結んだようにみえる。47歳の指揮者ティーレマン氏は現代的感性の持ち主であり、さらに鋭い、最新の演奏を望む人物である。
これはバランスを取るのが難しい行為である。しかし彼は「指輪」でそれをなし遂げたのである。「ワルキューレ」第一幕の嵐のような出だしの音楽のテンポはゆっくり始まった。なぜか重複する楽節に彼が持ち込んだ明瞭性で緊張した。この激しくぞっとするような挿入部の複雑さを明瞭にすることにより、この音楽を暗示的でありながら面白いものにした。
いつものように、音楽的レトリックと呼ぶべきもの、フレーズの始まり方、終わり方、重なり合い方に、彼はその鋭い洞察力を示した。「神々の黄昏」の冒頭の三ノルンの音楽は、はっきりせず、けだるいが、悲しげではない。ティーレマン氏は絡み合った対位法的旋律を非常に明晰に配置したからである。さらに私が当分忘れそうにないのは、「ワルキューレ」の最後のシーンの豊かで広がりのある彩色と悲劇的気品である。すなわち、神ウォータンが反抗的な娘ブリュンヒルデに眠りのまじないをかける、おそらく音楽史上悲しみをもっとも荘厳に表現した場面である。ここでティーレマン氏は情念に明快さを混じりあわせたが、そのとらえどこのない混ざり合いがすばらしい。
演出に戻ろう。ドルスト氏は、音楽祭の最初に選考された高名な映画監督ラース・フォン・トリエールが手を引いてからこの仕事に選ばれたのである。ドルスト氏には容易な状況ではなかったはずである。しかし彼は非常に面白い芸術家である。彼の制作のコンセプトは「指輪」狂たちがしつこく問うていた問題意識で展開されていく。すなわち、結局神々の黄昏でどうなるの?私の解釈は腐敗と行き過ぎで神々は自らを滅ぼすというものであった。最後の「生け贄」の場面で、神々は滅んでしまう。良かれ悪しかれ、人類は神々なしで生きて行かなくてはならない。
ドルスト氏はちがう。彼は孤独ではない。彼には、神々はつねにわれらとともにある。しかしわれら凡俗はしょせん神々を見ることはない。この演出では、神々はいたましくも現代的な仮設の場所に登場する。この一貫して目立つ舞台はフランク・フィリップ・シュレスマンの設計による。多くのシーンでは、見えざる神々に気づかずに人々は自分の仕事をしている。例外は長いブロンドの若い男である。彼はアディダスのTシャツを着て、スケートボードに乗っているが、周りの神々の振る舞いを感じている。
もちろん場面を現代の観察者で埋め尽くすこと自体、陳腐な劇場的手段であろうが、バイロイトではちがう。部外者はなにも見ていない、このコンセプトは神々に起こる事柄の魅力的な問題にかかわっている。これにより、ドルスト氏が明らかに配役との作業を楽にし、沈黙を守る役の微妙にニュアンスの違う、あるいは強く訴えかける肖像を描きやすくしている。
「ラインの黄金」では、われわれはウォータンと彼の家族に出会うが、ある公園の荒廃したビルのような所に住んでいる。そこからは、落書きされた薄汚い石の壁がみえる。ウォータンとローゲは魔法の指輪の持つ権力を求めて、マニアックなこびとアルベリヒが運営している鉱山に降りてくるが、この場所は現代のエネルギー・プラントである。発電所ですよ、わかります?計器監視員があるところに現れ、計器をみるが、ウォータンとアルベリヒが知恵をしぼって闘っているのには気が付かない。
粗野な部族のフンディングと虐待されている妻、とらわれの身の半神ジークリンデの住む家は、かっては大邸宅であったが、電線の垂れ下がった電柱に壁を破られ台無しになっている。好奇心の強い人達がうろつき回っている。そして山の上を歩き回るウォータンの周りの雲が晴れるとき、その場所はバイクに乗った人達が目指す、眺めの良い丘の上の公園である。
抜け目のないこびとミーメが若きジークフリートを育てるのに見つけた最善の場所は今や廃墟となった教室である。私はこの発想が気に入った。ミーメが薬を調合する科学実験机、黒板、かって幼児ジークフリートが眠った散らかった隅にあるベビー・ベッドがある。さらにすごいのはヴァルハラを表す石切場ではヴァルキューレ達は戦場で倒れた英雄に仕えるという立派な仕事をしていないし、男達は青白くて、きゃしゃな若造で、レースのような衣装を身にまといぐっすり熟睡しているかのようである。
ベルント・スコドチクのデザインした衣装はこの制作の最大の失敗のように私には思える。ドルスト氏は神々が人間ではなく、エイリアンのように見せたかったのである。エイリアンとお馬鹿とは別物である。「ラインの黄金」では、神々の衣装一式は「スタートレック」のコスチューム・ショップの不良品のように見えた。
主な配役のうち、声楽的に一番良かったのはウォータン役のバス・バリトンのファルク・シュトルックマンであった。逞しいトーンとパワーで歌った。無常と尊大になやむ神を十分に伝えてくれた。アメリカのソプラノ、リンダ・ワトソンはブリュンヒルデ役でかなり一貫して賞賛を受けた。私はつとめて彼女を好きになろうとした。彼女は、物思いにふける一節やが楽句によっては、声をふるわせ、オーケストラを突き抜ける声で歌った。彼女の声はかん高すぎ、不安定であるように思えた。
ジークフリート役のアメリカのステファン・グールドは生来のヘルデン・テノールとは言い難い。彼の声には英雄的な重みと澄んだ高い調子にかける。しかし彼は元気衰えることなく歌い、軽快に演技し、やり遂げた。真の競争相手が登場するまで彼は続くであろう。多くの共演場面で、彼の歌唱は、見事に子鬼的なミーメ役を演じた、鼻声のテノールであるゲルハルト・ジーゲルに圧倒されることが多かった。
アンドリュー・ショアは陰謀家アルベリヒをよく演じた。他に見事だったのはジークリンデのアドリアンネ・ピエツォンカ、ぞっとするようなハーゲンのハンス・ピーター・ケーヒッヒ、エルダとワルトラウネ(神々の黄昏)の暗い調子のミホコ・フジムラであった。
バイロイトのユニークなピットのせいで、オーケストラの演奏家は見えない。月曜日の最終オベーションでは感動の場面があった。演奏者が楽器を手にして快適な服装で舞台に上がったのである。大きな当然のオベーションがあった。カラフルなTシャツやジーンズ、ショートパンツ、夏服は舞台衣装よりはるかによく見えた。
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