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チーフは忙しい。トマシーニ記者はバイロイトで5日ぶっ通しで楽劇を聴き、記事を書いた後、どこにいたか知らないが、エリザベート・シュワルツコプの追悼記事を書き、ザルツブルクに飛びモーツアルトの「コシ・ファン・トゥッテ」の記事を書く。
アンソニー・トマシーニ
ザルツブルク、オーストリア、8月5日
権威あるザルツブルク音楽祭が始まった今、町中に張り出されたスローガンが二種類ある。一つは「モーツァルト250」であり、もちろんモーツァルトの生誕250周年を知らせるものである。もう一つはちょっと分かりにくいスローガン「モーツァルト22」である。これは今年の音楽祭のたまげるような野心的なプロジェクト、モーツァルトの22曲(音楽祭の数え方では)のオペラ作品を全部上演するというものである。その中には彼が12歳の時に書いた作品もあり、未完成のものもある。私はここに滞在中、4作品を見る予定である。第一曲は20番目の「コシ・ファン・トゥッテ」であり、木曜日の夜に始まる。
モーツァルトはこんな大騒ぎを思いもしなかっただろう。やんちゃな青年時代、彼はザルツブルクなんか田舎町だと思い、早々に脱出した。彼の死後、50年経って、この町は彼を顕彰する銅像を立てた。
しかし、それ以来ザルツブルクは歴史的な黙殺をつぐなってきた。今年の夏の音楽祭は格別重要である。ウィーン・フィルハーモニックとその他有名な管弦楽団と合奏団が、モーツァルトの作品と15人の作曲家の新曲、さらには現代音楽を並べて演奏する。
ここ20年、ザルツブルクは新機軸の温床であり、アメリカのヨーロッパ旅行者の聖域であった。現代服を着た「コシ・ファン・トゥッテ」はウルセルとカール・エルンスト・ヘルマンの演出である。二人は、結婚しており、開幕の夜聴衆から喝采を浴びた。コンセプトの中心要素に疑問を抱いたが、私も熱狂した。
プラスの側面としては、ヘルマン氏の舞台と衣装の演出は素晴らしいかった。舞台は簡素で、かなり抽象的であり、必要最小限のもの ― テーブル、傘、木 ― があるのみであり、色彩が変化し、広い眺望の背景に対応している。現代的衣装はハイカラで、奇抜である。メイドのデスピーナは茶色のドレスを着ているが、腰から突き出たプラットフォームがあり、お盆のようである。
配役は、4人の容姿端麗で、声が素晴らしい、魅力的な若手歌手が2組の婚約者を演じている。さらに、二人の有名なベテランたちが脇役を演じている。すなわち、ヘレン・ドナトがデスピーナ、トマス・アレンがドン・アルフォンソである。ピットにはウィーン・フィルハーモニック、これ以上の楽団は望めない。指揮者マンフレット・ホネックは、生き生きとして、率直で、優雅な演奏を引き出した。
では何が問題か?モーツァルト・オペラのファンなら知っての通り、物語はある賭に絡んでいる。年老いた独身男ドン・アルフォンソが若い二人の親友、フェルナンドとグリエルモが互いに婚約者が美徳の鑑であると自慢しているのを聞いて、それでは賭けてみようと提案した。二人は同意し、婚約者に、自分たちは戦争に召集され、すぐに出発しなければいけないと告げた。二人はやがて風変わりなアルバニア人に変装して戻ってきた。そして二人は友人の恋人を誘惑した。なんとうまくいった。
この演出では、二人の女友だち、フィオルディリギとトラベラは姉妹であり、仕組まれた賭を聞いてしまう。そこで彼女たちは求愛者におしであるふりをし、どうなるかを見て、教訓を与えようとした。
モーツァルトと脚本家ロレンツォ・ダ・ポンテのこのオペラ、正直いって、下品な無言劇である。現代服を着た演出で、ギャルたちが馬鹿げた変装をした野郎どもを見破れないというのは信じがたい。しかし、モーツァルトの自分のしていることはわかっていたと思う。音楽を通して、彼はOKといっている。この物語は馬鹿げているかもしれない。登場人物の意識下の感情に潜り込んで観て聴いてみよう。
第一幕の複雑な五重唱を例に取ろう。あの二人の若者が婚約者に戦争に行くと告げるときである。口ごもりながら悲しみを表す歌をうたうところから始まる。女達は非常に悲しく、リリカルなフレーズで応える。ここには偽りはない。一方では後ろのアルフォンソは目の前の茶番劇で一人笑っている。最初の20秒間彼と一緒に笑うがよろしい。この浅はかに見える女たちは本当に恋をしているのである。どう考えたらいいのかわからなくなる。
この演出では、姉妹は五重唱できれいに歌う。実際には聴衆にウインクして、本当のことを知っていることを伝えている。恋をする純情な乙女は決して馬鹿ではなく、ちゃんと承知している娘になる。このねじ曲げは面白いが、機敏で洞察力のある音楽で私が聴いたものではない。
この演出ではかくして進行する。このオペラは二組のカップルが相手を交換しあうという危険なゲームに参加する物語になる。モーツアルトはこのオペラで性的空想とパートナー交換のテーマに笑劇の文脈においてではあるが、おおまじめにふれている。一方で薄気味悪いぐらいに厳粛なものに高めている。
この演出の考え抜かれた、緻密な作業に敬意を表するものである。演出家は優れた配役から力強い描写を引き出している。イオルディリギ役のアナ・マリア・マルティネスの豊かで、真のソプラノ・ヴォイスがドラベラ役のソフィー・コッホの暗くて、暖かいメゾソプラノ・トーンがデュエットで完璧にブレンドされる。威勢のいいバリトンのステファン・デグーが男らしくて品のいい声でグリエルモ役に挑戦している。情熱的なフェランド役を演ずるリリック・テノールのショーン・マシーは、恋人によせる賛歌「ウノーラ・アモローサ」ではことのほか魅力的である。
しかしやはり、この演出の背景にある辛辣なコンセプトは理解できない。「コシ・ファン・トゥッテ」は「性交」ではない。
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