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今年のザルツブルクは雨が多いそうである。雨の日、トマシーニ記者はモーツアルト一族の墓をもうでることにした。
モーツアルト一族の墓所
アンソニー・トマシーニ
ニューヨーク・タイムス 8月5日 ザルツブルク
ザルツブルクでは雨の日が多く、がっかりである。ザルツブルクではカフェや広場や戸外の市場で過ごすことが多いからである。雨がやむと肌寒い。はい、はい。暑さで悩むニューヨーク人には肌寒いという言葉も気持ちよく響くものね。
昨日は雨の日の理想的な過ごし方を思いついた。二カ所の教会墓地を訪れてモーツアルト一族の行方を調べることである。誰と誰が最終的に皮肉な組み合わせで一緒になるのは、ある意味では妥当なことなのである。
モーツアルトの父レオポルドは音楽家としては幅が広く、先生としては優れた人物であったが、威張り散らす頑固な家長であった。ヴォルフガングが成人してヨーロッパの音楽都市でちゃんとしたポストを確保すべき年頃になったが、レオポルドが息子に厳禁したことがある。ウィーンでフリーランサーとして運を試すこと、マンハイム出身の歌手で写譜職人である人物の四人の娘のいずれとも結婚することである。父に背いてヴォルフガングは二つともやってしまった。
レオポルドは齢とともに多少丸くなったが、モーツアルトの妻の選択だけは断固許せなかった。彼は1787年に死亡して、リンツェルガッセの大通りの右にあるきれいなバロック教会、聖セバスティアン教会の墓地に葬られた。レオポルドはしゅうとめと一緒になった。
そして55年後になるが、この一族の墓所でレオポルドと永遠に一緒になったのは誰だと思う。コンスタンツェである。彼女の墓碑は、金の文字が彫り込んだ粗い大理石であるが、簡素なものである。それでも墓所では立派なものであり、レオポルドの墓石よりはるかに高い石である。
コンスタンツェはデンマークで生涯を終える可能性もあった。ヴォルフガングが1791年に死んだとき、彼女には養育すべき二人の男の子がいた。最終的に彼女はデンマークの外交官で大変上品なゲオルク・ニッセンと再婚した。彼は母と子供二人を1810年にコペンハーゲンに連れていった。10年後に退職して、モーツアルトの伝記を書き始め、家族はザルツブルクに移住した。こうしてコンスタンツェは結婚に反対したお舅さんと隣り合わせで葬られたわけである。
16歳で死んだときコンスタンツェの姪のイエネットの墓も混ざっている。イエネットの母親はモーツアルトの姉ナンネルである。それに結婚により二歳年下だが彼女の叔母にあたるゲノヴェーヴァ・ウェーバーも一緒である。墓碑銘に書かれたところによれば、ゲノヴェーヴァは作曲家カール・マリア・フォン・ウェーバーの母親である。世間は狭いですね?
旧市街の左手、音楽祭会場にきわめて近いところに、見事なバロック教会聖ペーター教会があり、その印象的な墓地は市と接してそそり立つ山メンクスベルクにすり寄っている。ここでナンネルが手の込んだ墓に眠っている。ナンネルが一族の中で一番印象的な安息の場を持つことになったのは、思いやりのあることである。
彼女も素晴らしい天才少女であったが、成人に達する前にレオポルドが音楽の道に進むのを断念させた。33歳の時、やもめの父と暮らすのに疲れ果て、彼女はデンマークの外交官と結婚した。彼は彼女をコペンハーゲンに連れて行き、そこで5人の気難しい子供の継母になり、二人の子供を産んだ。旦那さんが死んだ後、彼女はザルツブルクに戻った。彼女は、兄ヨーゼフの陰に隠れてはいるが、素晴らしい音楽家ミハエル・ハイドンと同じ墓地に眠ることになった。これは幸せというものだった。
気の毒にモーツアルトの母、マリア・アンナの遺体はパリの墓地でおそらく見つけられた。彼女はヴォルフガングが21歳のとき演奏旅行の途中でパリで死んだ。われわれの知るところでは、ヴォルフガングはウィーン郊外の聖マルクスの共同墓地のどこかに眠っているものと思われる。彼が貧民同様に葬られたというのは作り話である。彼の葬儀は大聖堂でしかるべき儀式にのっとり行われたが、皇帝ヨゼフ二世の葬儀にかんする奇妙な勅令により、棺なしで市外に葬られたのである。
ヴォルフガングは子供の頃の音楽仲間の姉が一番すてきな場所に埋められているのを喜んでいると私は思う。
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