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1666年9月7日 サムエル・ピープスの日記
5時頃起きたが、ああ神さま、すべてうまくいっている。船でポール埠頭に向かい、そこからは歩いた。そこで目にしたものは、町全体が焼け落ちていた。悲惨なのはセント・ポール寺院である。屋根はすべて落ち、合唱隊席あたりの建物がセント・フェイスに落ちていた。ポール寺院の神学院も同様である。ラドゲイト、フリート街、父の家、教会、テンプル地区の大部分も同様である。
それからニュー・エクスチェンジ近くにあるクリードが寝泊まりしている所に行った。彼はベッドで横になっていた。家には家財道具が一切なかった。火が近づくことをおそれたからである。彼のシャツを借り洗った。
セント・ジェイムス街のサー・W・コヴェントリーの家に行った。カーテンは一切なく、家財は運び出していた。ホワイト・ホールの王もすべての人がそうしていた。サー・W・コヴェントリーはこの火事で一般大衆が狂気に陥らないことを願っていた。皆はこれをおそれていた。フランス人が火をつけたという話があるからである。
これは不平不満分子には絶好の時だからである。すべての人が自分と財産を守ろうと気をつけていた。夜警団がいたるところで武器を所持していた。
彼が言うには、わが艦隊は今まで互いに艦船を確認できた。だが最悪の場合、天気が悪くなり、艦船がバラバラになると、大変なことになる。この推論は正しい。オランダ艦隊は国民を喜ばせるために、見せびらかしのためにきているが、最悪の状態では貯蔵品、食料や人間までも。
連中はブレンにいる。わが艦隊はセント・エレンに来ている。わが海軍は戦果を上げていないが、一隻失っている。彼はどの船かを確認していなかった。
その後スワンに出かけてそこで水を飲んだ。家に戻ったが、何事もなかった。サー・W・バッテンの家で上司のブランカー卿がいたが、総司令官が呼ばれ、この際の執務について王に助言し、すべて平穏であると告げたそうである。これは大変名誉なことであるが、私は一部隠していると確信した。それから家に向かい、家を掃除するように言い付けた。その後ウールウィッチに降りたが、何事もなかった。
食事をしていたら、マーカム夫人が妻に会いに来た。そこで私は立ち上がり、デプトフォードでW・ヒュワードにたのんだ。彼は私に同行した。それから家に戻り、夜をサー・W・バッテン宅でサー・R・フォード、ナイトリー氏、サー・W・ペンと一緒にすごした。
今日グレシャム・カレジで顔見知りの商人にはじめて出会った。布告により、ここが取引所になるという。こんなひどい家にいくらの値が付くのか首をかしげてしまう。サー・W・ライダーの友人だが、年20ポンドで借りていた物件を150ポンドで手にいれたという。
シティの再発展を見こして税関をどこにおくべきか大いに議論があった。大蔵大臣、その他一同、町のはずれになるだろうということであった。
夜遅くにサー・W・ペンの家に戻った。彼はベッドを貸してくれた。カーテン類は全部外されていた。私ははじめて布団も何もないベッドにねた。ズボン下一枚で。かなりよく寝られたほうであるが、火のことが心配になってときどき目を覚ました。あまり休まらなかった。
そこら中の人々が市長の無能をなじっていた。とくに火事に関連した職務にかんして非難は彼に集中した。市場がリーデンホール、マイリーングリーンその他におかれる旨の布告が出された。タウンヒルとすべての教会が被災者に開かれることになった。
<<編集者注:9月5日の布告では、「今般のおぞましき火事で一切を失った人々に毎日大きなパンを支給するを命ずる。この支給は以前からの市場のみならず、最近認可された市場でも行われるものとする。すべての教会、小礼拝堂、学校、その他すべての公共の建物は置き場に困っている家財を預かるものとする。」また9月6日の布告では、「市場の消失につき、市場はビショップス・ゲイト、タワー・ヒル、スミスフィールド、チーデンホールに設置するものとする。」
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