ヘ短調作品34

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女と酒と嗅ぎタバコ

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「今日の詩」はキーツの「女と酒と嗅ぎタバコ」である。ヨーロッパで紹介されたペルシャの詩は「酒と女と歌」の三大快楽を禁欲して退屈な人生を送るのは馬鹿だという内容だった。

この詩を意識してキーツが作ったのだろうが、女と酒の順番逆であり、最後が嗅ぎタバコになっている。脚韻はまず守られている。だが酒と女の順序を変えた理由は押韻の制約かなとも考えたが、判然としなかった。彼の選好順位を表しているのだろうか。いささか酩酊状態なのだろうか。


Give Me Women, Wine, And Snuff

Give me women, wine, and snuff
Untill I cry out "hold, enough!"
You may do so sans objection
Till the day of resurrection:
For, bless my beard, they aye shall be
My beloved Trinity.

John Keats


女と酒と嗅ぎタバコ

女と酒と嗅ぎタバコをくれるね
僕が「もう結構!」と叫ぶまで。
君は快く未来永劫
聞いてくれるね。
だってさ、この三位一体
僕の大好物なんだから。

キーツ


上の絵はレンブラントの「居酒屋の放蕩息子」である。愛妻のサスキアさんが居酒屋の女のモデルになっているが、憮然とした感じで面白い。

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ヨハネス・ブラームス

ヘルツォーゲンベルク書簡集

序 ― V


ブラームスは、愛と芸術に捧げられた快適な共同生活のくつろいだ魅力で彼を虜にした幸せな友人の住居を後にして、孤独で侘しい、独身者の空虚な部屋に帰ってきた。迎えたのは、卑屈で悲しげな笑みを浮かべた、やつれて顔色の悪い年老いた家政婦であったが、このとき「青いビロードと金髪の女性の姿」は彼の目の 前に浮かんでいたのである。

以後3年間、ブラームスはライプツィッヒにやって来て、ヘルツォーゲンベルク家に泊まった。彼は新しい角度からエリーザベトを知り、彼女は彼にいっそう良い印象を与えた。音楽の夕べで客を迎え、精神と芸術で社交界を魅了したこの優雅な女性は、すばらしい女主人に、買い物も料理も同時にやってのける、気配り のきく有能な主婦になっていたのである。ブラームスはいたずらに、「不器用に駝鳥狩をして」招待に抵抗し、彼女を無視しようとした。この誘惑に耐えられずに、「災いよ、われらに降りかかれ」と陽気な調子で叫んだ。

「災い」はやってきたが、フンボルト・シュトラーセの家にとっても、以前は拒絶に慣れ、たまたま手にした幸運で手と心をひそかに暖めていた、この客人にとっても「幸い」となった。彼がライプツィッヒで第一交響曲を公演した1887年 の1月に始まり、死に至るまで続いたエリーザベトとハインリッヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルクの友情をこの後に続く書簡が証明してくれる。書簡はますます強い関心で読まれ、何度も読まれるであろう。彼の芸術でしか、優しくて奥深い熱狂的興奮がわからない、ブラームスのしっかりとして、真に男らしく、時と して近寄りがたくて頑なな性格は、畏敬の念を持って読まれるだろう。


また読者はハインリッヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルクにたいしては、彼の無私の誠実 さには、感動と尊敬の念を抱くであろう。いかなることがあれ、己を超えた天才の偉大さに対する信念が揺るぐことがなかったのである。また、夫人は、才気あふれ、優しく、謙虚であり、威厳があり、控えめであるが、批評の刀を身にまとった女神であり、こと芸術の問題においては、道徳の基本に根ざした確実な美 意識にのみ訴えることなく、知識と経験による豊かで純粋な判断で専門家の判断を補った女性である。この夫人にたいするヘルツォーゲンベルクのうれしい驚き と愛情とが混じりあった共感にたいしても読者は同様の念を抱くはずである。精神性、深い感受性、高貴な信念、高い教養において同等のこの三者を結びつけた ものは純粋に理想主義的な関心であり、それゆえ、物質的目的や配慮に根ざした結びつきよりも長続きし、実りあるものであった。

天国的であり、地上の粉塵に まみれない女神であり、運命が彼らから奪い取ったものすべてに対する償いであった音楽、この音楽に対する熱烈な愛情で一致していたのである。ブラームスはこの女神を最愛の者として抱きしめ、エリーザベトはこの友人と夫の作品をわが子として愛し、ハインリッヒは肉体的・精神的苦しみの中で力づけ、活気を与え てくれる慰めを音楽に見出したのである。

1888年 ハインリッヒが運動能力をひどく損なわれながらも一年半の病床から立ち上がったが、半ば回復した健康も喜んでいるわけにはいかなかった。今度は、自身病弱であった夫人が夫の介護で、絶え間ない混乱のなかで過労になり、遺伝性の心臓疾患の憂慮すべき症状を見せ、病の床に伏せったのである。こよなく愛した美しい世界との別れは、1885年フォン・クンバーランド公爵のグムンデンの山荘ミュールヴァンクで休 養中に卒中で倒れた、高齢の父親のように楽なものではなかった。エリーザベトはサン・レモで死によって解放されるまで、1ヶ月と1週間もの苦しい期間を耐 えなければならなかった。それでも彼女の最後の人生の喜びは音楽的であった。すなわち、ブラームスのト長調の弦楽五重奏曲作品111との知遇とヘルツォーゲンベルクのレクイエム作品72の公演であった。彼女はいよいよ深刻になる病気をおして夫とともにベルリンからライプツィッヒへの旅をしたのである。

1892年の1月17日には、死者を称える追悼式が、生前の彼女が友人たちと芸術家のパーティーに参加したヘドウィック・フォン・ホルシュタインの家で行われた。フラウ・フォン・ホルシュタインは、悲しみにくれ、フィエンツェに滞在しているハインリッヒに ― エリーザベトの母親は1891年12月29日 娘に先立って死んでいる ―「あの場所に」と書き送っている。

「彼女があなたの花冠の歌、あなたのセルビアの乙女の歌を歌ったあの場所にヴァッハが立って います。そして彼女のすばらしく美しい姿をよみがえらせてくれました。苦しみよりも彼女に会えた、ええ、理想的な女性に出会えた、という喜びに変わりまし た。彼女とご一緒したという感覚は消えてはおりません。彼女にお出ましいただき、感謝しておりますし、心から楽しませていただきました。私は改めて感謝いたします。あなたは彼女がこの会に出席することをお許しになりました。あなたも孤独ではありません。あなたはお分かりになりと思います。私の心の中、私の 人生で、彼女とお付き合いをさせていただきます。彼女は決して埋葬されてはいません。彼女は毎日私の前に現れ、私のよき思い出とよき決断の中で生き続け、 愛らしい言葉をかけてくれますでしょう。あなたには聞こえますか。みながどれほど彼女のことを語ったことでしょう。ヴァッハの朗読の後でも全員が賞賛しすぎることはないと思いました。みなが口々に彼女を祝福しました」

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