ヘ短調作品34

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Ode to Venice

III


Glory and Empire! once upon these towers
With Freedom - godlike Triad! how ye sate!
The league of mightiest nations, in those hours
When Venice was an envy, might abate,
But did not quench, her spirit; in her fate
All were enwrapp'd: the feasted monarchs knew
And loved their hostess, nor could learn to hate,
Although they humbled - with the kingly few
The many felt, for from all days and climes
She was the voyager's worship; - even her crimes
Were of the softer order - born of Love,
She drank no blood, nor fatten'd on the dead,
But gladden'd where her harmless conquests spread;
For these restore the Cross, that from above
Hallow'd her sheltering banners, which incessant
Flew between earth and the unholy Crescent,
Which, if it waned and dwindled, Earth may thank
The city it has clothed in chains, which clank
Now, creaking in the ears of those who owe
The name of Freedom to her glorious struggles;
Yet she but shares with them a common woe,
And call'd the "kingdom" of a conquering foe, -
But knows what all - and, most of all, we know -
With what set gilded terms a tyrant juggles!

Byron



ヴェニス頌歌

III

栄光と帝国!この二つの塔の上に
自由があった ― 神性の三位!汝ら如何に座す!
大強国の同盟も、ヴェニスが羨望の的
である時代には緩んでいたろうが
ヴェニスの精神は衰えなかった。全世界は
ヴェニスの運命に心を奪われた。宴席の君主たちは
謙虚であり ― 尊大なる者は僅かであったが
宴の主催者を理解し、愛し、憎まなかった。
どの時代においても、どこの国の人々からも
ヴェニスは旅行者の聖地と思われた ― 犯罪すらも
穏やかなものであり ― 色恋沙汰であった。
ヴェニスは血を飲まず、死者で太ることなく
喜ぶときは無害な征服が拡大したときである。
「十字架」を復活し、「十字架」は
ヴェニスのお守りの旗を聖別した。旗は
絶え間なく、大地と「三日月」の合間で翻り
「三日月」が欠けて小さくなると、大地はこの
鎖で繋がれた都市に感謝し、鎖はガチャと鳴り
ヴェニスの栄光ある闘争のおかげで
名ばかりの自由を得た人々に耳障りになる。
だがヴェニスには彼らと共通の敵があり
「王国」と名乗る拡張を続ける敵であるが ―
ヴェニスは知っている ― 我らすらも知っている ―
独裁者に偽の金の言葉を封ずる方法も!

バイロン



下手な訳を多少補うために私なりの解釈

「十字架」→ キリスト教
「三日月」→ イスラム教一般をさすが、ヴェニスはトルコ軍と戦いトルコ軍の進出を阻止している。その後のトルコの衰退の一因になったことは確かである。
「王国」→ バイロンが憎んでいた母国イギリスであろう。

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ヨハネス・ブラームス

ヘルツォーゲンベルク書簡集

序 ― I

「頌歌に歌われないまま影のところへ行かせないでください。
ただミューズのみが死にいくらかの生命を与えてくれます」

ゲーテ 

" La?? nicht unger??hmt mich zu den Schatten hinabgehn!
Nur die Muse gew??hrt einziges Leben Tod.“

Goethe    


前世紀の60年代の中頃、印象的で可愛いい金髪の少女二人がウィーン社交界の注目を集めた。劇場や音楽会場ではいつも、ケルンテンの劇場やウィーン市内でもしばしば彼女たちを見かけるようになった。普通は気品のある両親と一緒であったが、両親の貴族的な雰囲気は姉妹の高貴な家柄をおのずと物語っていた。彼女たちが大使席を占めるやいなや、満場の注目は二人の若い貴婦人に集中した。一人はフリードリヒ・シラーを想わせる横顔で、女の美しさの盛りを誇示し、もう一人はまだずっと繊細で淑やかな体つきで、まだようやく花も蕾の年頃であった。すなわち、ハノーファーの侍従長、枢密顧問官、臨時特使で、オーストリアの宮廷での全権大臣であったボド・フォン・シュトックハウゼン男爵の令嬢たちであった。

レーベンハーゲン、インブセン、ニーデムイェファ、スターネの領主であり、1861年には、ヘルマンスローデの初代限定相続者になったボド・フォン・シュトックハウゼンは、その姓と爵位が示すように、古文書によれば、1070年にはオットー・フォン・バイエルン公に仕えたニーダーザクセン・ヘッセンの旧くからの貴族の子孫であり、彼が1853年にパリの公使からウィーンの公使に転勤したのは43才の時である。

彼は1837年に伯爵令嬢クロティルダ・アンネット・ボーディッシンと結婚し、三人の子供に恵まれた。息子のエルンストは1838年5月11日にベルリンで、二人の娘のうち、ユーリエは1842年2月25日にパリで、エリーザベトは1847年4月13日 に同所で誕生している。この公務により、芸術に捧げる時間的余裕が与えられ、彼はこの時間をまずなによりも音楽にあてたのである。彼はパリでの長年の滞在を利用して、彼と同年のショパンと後には弟子のモルハンゲからピアノの演奏を習っていた。知性と機知あふれる夫人は文学に惹かれていた。しかしながら、二人は互いに深く結びつける趣味を共有し、補い合ったのである。家庭の平安を世俗の雑音で失うことなく、公使としてのやむをえない義務を除いては、もっぱら子供の教育に専念し、できる限りつつましい生活を送ったのである。

いかに両親と子供たちの関係が内面的であり、雰囲気が良かったかは、エリーザベトが1888年11月 にリーター・ビーダーマン出版社の所有者であるエドムント・アストールにあてた二通の手紙が明らかにしてくれる。彼女が病気で寝込んでいたとき、子供のい る女性たちに贈るために、彼女はドイツ童謡集(一部は非常に古く、彼女が見つけ出した)の一部を編曲したが、そのときは彼女の自筆であった。予備は無くなってしまったが、なにせ価値があり、大部分は一般に知られていない旋律である。もう一度自分で書くよりは、クリスマスの時期でもあり、ひょっとして出版者は、快く印刷してはくれないであろうかと思ったのである。だが彼女は、この程度のことで作曲家の仲間入りするのは気がひけた。フラウ・ヘルツォーゲンベ ルクとして表紙にのるのも滑稽なので、そのかわりにもっとも陽気なペンネームを選んだのである。そして彼女は次のように述べて決定を撤回した。 「わたしが提案したいペンネームは私にとってはすごく楽しいものです。だって、わたしたち(両親と兄弟姉妹)は昔々、グリムの美しきカトリネリエに求婚するピッフ・ポッフ・ポルトリエのお話で呼び合っていたのです。癖になっていたものですから、他人の前であだ名を使わないのに苦労しました。父はホレンデ父 さん、母はマルコ母さんというわけです。それで一番年下のわたしは美しきカトリネリエになりました。花嫁探しの童謡の登場人物は同じですから、自然に思い 浮かび、わたしはすぐにこのカトリネリエの名前を取ることにしました。その後で、カトリネリエに『可愛く、おしゃべりで、元気な』をつけることにしまし た。そうすれば、誰もがすぐにペンネームに気づくでしょうから。ファニー・マイアーのようにすぐに名前を決めました。ですから、お願いします。いろんな名 前をはずしてください。簡単に、『ソロとピアノに編曲した24の童謡』としてください。その上に、音楽好きの子供たちに捧げる、とします。これで、ありきたりの『童謡集』とかいう題を避けたいのです」

シュトックハウゼン家の子供たちでとくに抜きん出ていたのは末っ子のエリーザベトである。彼女の童謡の「美しきカトリネリエ」で謡われたように「可愛く、 おしゃべりで、元気がいい」だけではなく、卓越した芸術的才能を持ち合わせたが故に、両親が老年になるまで、喜びと誇りであった。母親からは魅惑的な美貌のみならず、才気煥発であり、瞬時にして理解し、正確かつ信頼しうる判断を下す能力を、父親からは卓越した音楽的才能を譲り受け、エリーザベトは歌手として、ピアニストとして、それどころか作曲家としても光り輝いていたのである。両親には彼女を職業的芸術家にする気はなかったものの、 音楽的教養に適切かつ有用なことはすべて試みている。男爵は、信心深いプロテスタントであり、教会に行くことを地位に相応しい当然の義務と考えていただけ ではなく、ウィーンのアウグスブルク派の福音教会の誠実な牧師で、熱烈な音楽愛好者であるグスタフ・ポルブスキーと交友関係を結び、令嬢の音楽理論の教育 をオルガニストのディルツカに託したのである。

エリーザベトはピアノ演奏の初歩をディルツカから学び、1861年 にはその初等教師から、当時ウィーンで卓越したピアニストであり、有名な音楽教師のユリウス・エプシュタインにつき、その指導の下で非常に進歩し、父親との四手の演奏で次第に音楽の知識を広く身につけていった。後にエリーザベトは彼女の音楽の修行過程を要約している。「ディルツカからは音楽を教わり、エプシュタインから初めてピアノ演奏を学びました」彼女の恩師は今なお、自分の弟子を思い出しては熱弁をふるう。「彼女の才能にはもう夢中になり、その進歩に は驚嘆しました。彼女のタッチは柔らかで、技巧にはまったくよどみがなく、すばやい理解力、類まれな記憶力、心のこもった表現力 ―― 一言で言えば、彼女は天才です。その上、彼女は大変な美貌に恵まれ、聡明で、教養があり、上品で親切ですから、うっとりしてしまいました。彼女こそは忘れえぬ女性です」

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