ヘ短調作品34

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スティーヴンソンは若い頃に結核にかかった。普通なら養生して一日でも長く生きようとするが、彼は友人とカヌーで船旅をしたり、恋をして結婚し、航海の旅を楽しみ、少なくとも精神的には病を克服した。「宝島」の作者は44歳で南洋の島できわめて積極的な人生を終えた。「今日の詩」の由来は知らないが、彼の最愛の妻に捧げた最後の詩かもしれない。


Dedication

My first gift and my last, to you
I dedicate this fascicle of songs -
The only wealth I have:
Just as they are, to you.

I speak the truth in soberness, and say
I had rather bring a light to your clear eyes,
Had rather hear you praise
This bosomful of songs

Than that the whole, hard world with one consent,
In one continuous chorus of applause
Poured forth for me and mine
The homage of ripe praise.

I write the finis here against my love,
This is my love's last epitaph and tomb.
Here the road forks, and I
Go my way, far from yours.

Robert Louis Stevenson



献呈

最初で最後の僕の君への贈り物
僕はこの詩集を献呈する ―
僕の唯一の財産
見てのとおり、もちろん君に。

僕はまじめに真実を語り、告白する
僕が望むのは、君の澄んだ瞳が輝き
この胸一杯の詩を称賛する
君の声を聞くことだ。

全世界が一致して
いつまでも熱烈な拍手が続き
賞賛の言葉が僕と僕の詩集に
浴びせられることではない。

僕の愛着に反して、最後の詩を書き終え
これが僕の愛の墓碑銘で墓なのだ。
ここで路が分かれている
僕は君とは遠い所に行く。

スティーヴンソン



上の写真は彼の終焉の地サモア島である。

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ヨハネス・ブラームス

ヘルツォーゲンベルク書簡集

序 ― III

ヘルツォーゲンベルクは1864年にデソッフの下での修行を終え、二、三年の期待と憧れの日々を送った後にエリーザベトに求婚した。1868年11月26日 にこの果報者は花嫁を連れて帰郷した。若い夫婦はグラーツに引っ越し、芸術により高められ、固められた愛の生活を送ったが、子供がないのが夫婦の大きな嘆きであった。

フラウ・エリーザベトは、どんなに卑しい女でも与かることのできるこの幸せ、そしてきわめて貧しい人がしばしば呪って嘆くこの幸せが、彼女に は与えられなかったことを生涯克服できなかった。一部の女性解放を求める高慢な女達は、男性を嫉妬しては憎み、科学、芸術、生活のあらゆる分野で、男性と競争して勝利を収めたいと願うのであるが、彼女はこの連中とは異なり、夫婦と母親の愛を女性の天職と考えていた。彼女はブラームスに書いている。「親愛なる彼女(フラウ・エンゲルマン・ブランデス、彼女は結婚前に有名なピアニストであった)によろしくお伝えください。彼女は白くて可愛らしい手でピアノが弾 け、小鳩のように笑い、すべての人を魅了します。――そして子供たちをこの世につれてきます。これこそ女がこの地上でできる、最も本質的ですばらしいこと です」

彼女の自然な感性からすれば、豊かな肉体と精神に恵まれた女が、その性を否定することなく、自分に宿る力量の均整の取れた発展を通して、純粋な人 生の調和に到達しようとしたが故に、エンマこそが従うべき手本であった。彼女のハーモニーには基音が欠けていたという、完全には抑え切れない苦しみは、彼 女の感受性をヒロイックなものにした。彼女には、最愛の子を亡くした母、もう一人のニオベすらねたましいと思えた。その女には子がいたし、その子を胸に抱 きしめたではないか。ブラームスはアンセルム・フォイエルバッハの死去にさいしてきわめて高貴な哀悼曲(シラーのネーニー)の作曲に励んだが、彼女は叫んだ「このお母さんは幸せです。嘆けばあなたが哀悼の歌を捧げるのだから」と。そしてフリードリッヒ・クリサンダーが大いに期待をかけ、彼の生涯の仕事の後 継者で完成者と決めていた息子を霊柩車で病院から運び出したとき、苦しくつらい言葉が出た。「この悲しみを見るにつけ、つい ― つい ― 思慮分別のない人 たちが言うのは正しいのではと思います。子供を亡くすくらいなら最初からいない方がいい」

フラウ・エリーザベトは彼女が持てなかったものの代わりに、彼女と夫の芸術で、人生の行路をほんの束の間横切り、良い思い出を残してくれた偉大な音楽家や人物との友情で埋め合わせるべく努力した。ライプツィッヒで彼女はブラームスと再会する。若い夫婦は1872年にこの地に移り住んだのである。グラーツには親密な人間関係があり、ムーレ川沿いにあるこの年金生活者の町は、他所から来た人にはかなりくつろげる所である。ブラームスが1867年の11月 にヨアヒムと演奏会を開いたとき、その印象が非常に魅力的であったので、ぜひとも滞在したくなった所である。のどかさに加えて、ヘルツォーゲンベルクが交 響詩と劇的カンタータ(「オデュッセウス」と「コロンブス」)で勝ち取った成功が地域的であるという感じや一身上の問題もあり、あれやこれやで、あまりに地方的な状況を断固変えることが望ましいと思われたのである。

昔からドイツの中心に位置するこのプライセ川沿いの音楽都市は、出版社、演奏団体、音楽協会 が多く、知的かつ社交的交流で知られ、あらゆる面で刺激と挑戦が約束されていた。この新参の夫妻は、最初の用心深い隠遁生活から次第に陽気に自信に満ち溢れて登場し、ライプツィッヒが彼らの期待以上であったことを悟ったのである。エンゲルマン家、フレーゲ家、フォン・ホルシュタイン家、ヴァッハ家。――誠 実かつ高潔、ミューズにより、楽しく、上品になった交流の家庭的な憩いの場――が彼らの前に現れ、この愛すべき、誰からも感心をもたれる素敵な芸術 家夫婦は、その自由で束縛されない南ドイツ固有の人柄、控えめで感受性豊かな北ドイツ的人柄を隠す、感じのいいウィーン口調の話し振りで、まもなく大きな サークルの中心に立っていたのである。エドムント・アストールは、義父のリーター・ビーダーマンの後継者と目されていたが、彼がヘルツォーゲンベルクの成 熟した作品の献身的で誠実な出版者となる。ハインリッヒは1876年のアストールの義父の死後ライ プツィッヒに拠点をおいた会社と再び関係を結ぶことになった。彼の義父は、ニ短調協奏曲、ヘ短調五重奏曲、ドイツ・レクイエムその他、当初は決して利潤を 約束するはずのないブラームスの作品の出版者であったが、傑作の赤字で動揺することはなかった。

アストールもヘルツォーゲンベルクを断固信頼し、長年の忍 耐を要したものの、この信頼は損なわれなかった。相互の思いやりは偉大であり、一度は危うく壊れかけたが、誤解にいたらなかった。ヘルツォーゲンベルクに してみれば、売れそうにない大規模な合唱曲をアストールに危険を冒して出版してくれと頼めた義理ではなかったが、アストールは以下の「現実的」提案に怒ったのである。すなわち、ピアノ編曲版に限定し、総譜と声部は入れないで、そこは作曲者の負担でコピーさせ、この曲が売れだすまでは、フェラインに貸与するというものである。この戦術は実によく考えられたものであるが、そこに信頼の欠如をかぎつけた実業家には合点がいかなかった。誤解が解けると、 ヘルツォーゲンベルクが驚いたことに、アストールは出版すると主張して、こう答えたのである。「あなたの提案がどれほど嬉しかったか信じられるかい。高貴さと揺るがぬ信頼であなたに匹敵する人がいるとは思えないよ。自らの不明をさらけ出したように、こと信頼に関しては、私もあなたには敵わないよ」

これらの実りある交友関係あるいは仕事の上での関係以外に、夫婦の芸術的発展とくに夫にとって重要な意義があった。すなわち、セバスティアン・バッハの実践的研究とその成果としてのプロテスタント教会音楽との関係である。ライプツィッヒにおける10年(1875−1885) は、ウィーンやグラーツでのヘルツォーゲンベルクの修行時代の後に、巨匠に成長した遍歴の時代というべきであり、その間に彼は学んでは教え、受け取っては 与え、偉大なトマス・カントールの広大な芸術領域をあまねく遍歴したのである。ライプツィッヒにおいて、ブラームスもその音楽的直感の深さと清らかさに感 謝したこの泉の水を、彼は直接手ですくって飲んだのである。すなわち、バッハの受難曲、モテット、カンタータは彼の精神の中で、彼の手によって生き返った のである。さらにバッハの教会カンタータの楽団があらたに登場し、常に驚くべき音楽的驚異を明らかにし、すべての真面目な芸術家の想像力を強く刺激したの である。

うわべだけの純粋に感覚的効果を計算しただけの曲の劇場効果で、ブラームスへの取り組みをいつまでも損ない続けたなら、巨匠の様式を技巧ゆがめ、亜流の運命であるが、彼から離れらない模倣者の一人になったはずである。バッハは、時間を超越して実現した彼の非個人性によって、ヘルツォーゲンベル クを自己に連れ戻し、自分の足で立たせ、その足で最後の人生において彼の目標に向かうことになる。最初に提案したアルフレッド・フォルクラント、それに フィリップ・シュピッタとフランツ・フォン・ホルシュタインの多面的教養と理想主義的な思想を持った3人の純粋な音楽家とともに、ハインリッヒは1875年1月31日にライプツィッヒ・バッハ・フェラインを設立し、フォルクラントがまもなくバーゼルの音楽監督に招聘されると、彼の芸術指導を引き継いだのである。フェラインが設立される前の1月23日には、81人の団員がアマリエ・ヨアヒムの参加を得て、トマス教会で教会カンタータを公演し、彼らの能力の最初の証を示したのである。そしてヘルツォーゲンベルクが指導した34回 の公式公演のうち、プログラムに合唱作品以外にも合奏・室内楽も含まれていたのは、できる限り完全な演奏を通してバッハの知識を一般化するのが彼の目的で あったからである。

公式の芸術的使命以外にライプツィッヒ・バッハ・フェラインは慰めと希望を楽の音で広めるという私的な使命も果たした。喜べる者とともに祝い、苦しめる者とともに嘆いたのである。フランツ・フォン・ホルシュタインの死の家では彼らの哀悼の歌が響きわたった。「神のより偉大なる栄光にお いて(in majorem dei gloriam)」行われ たことであり、団員にも指導者にも慈善行為を認めてもらいたいという意図はいささかもなかったのである。フェラインの歴史を記した人がユーモラスに報告し ている。「指揮者殿の金庫は大変逼迫していた。毎年秋の総会では彼の報酬は倍額になった。しかし最後の年には最初の年とほぼ同額を受け取っていた。計算の得意な人に計算してもらいたい。でも分厚いオルガン・パートで謝礼したり、ソリストには言い逃れをしたり、オペラの合奏団から人集めする等々の 許可を彼は得ていた」

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