ヘ短調作品34

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ウェンロックの斜面

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今日紹介するのはイギリスの詩人ハウスマンの「ウェンロックの斜面」である。詩人はイギリスに今も残るローマ帝国支配時代の遺跡を訪れて、感慨にふけった詩である。ここまでは正しいとしよう。

さらに、この詩は4詩節からなり、1詩節4行である。全行8音節で弱強格を厳格に維持し、脚韻も完璧である。この形式から主語とか動詞を割り出す努力をした。

語学力がないといろんな解釈が成立するものであるが、先入観が出来上がった。吹き荒れる強風はイギリス原住民の抵抗精神である。

ウェッブをブラウズしてみたが、ネイティヴにはまったく問題がなく、いまだに人気があるようである。ウェンロックという固有名詞はハウスマンのこの詩で記憶されているそうである。でも私の解釈が正しいかどうかは、ウェンロックを詣でてこの詩を朗読する必要がある。ああ英吉利に行きたし、されど英吉利はあまりに遠し!


On Wenlock Edge

On Wenlock Edge the wood's in trouble;
His forest fleece the Wrekin heaves;
The gale, it plies the saplings double,
And thick on Severn snow the leaves.

'Twould blow like this through holt and hangar
When Uricon the city stood;
'Tis the old wind in the old anger,
But then it threshed another wood.

Then, 'twas before my time, the Roman
At yonder heaving hill would stare;
The blood that warms an English yeoman,
The thoughts that hurt him, they were there.

There, like the wind through woods in riot,
Through him the gale of life blew high;
The tree of man was never quiet--
Then 'twas the Roman, now 'tis I.

The gale, it plies the saplings double;
It blows so hard, 'twill soon be gone.
Today the Roman and his trouble
Are ashes under Uricon.

A.E. Housman (1859-1936)



ウェンロックの斜面

森が騒めくウェンロックの斜面。
レキンの丘の樹々は短く。
風は若木を強く揺すり
セヴァー[ン川に降りそそぐ木の葉。

ユリコンの町の昔には
斜面の雑木林を吹き抜けた。
遠い昔の怒りの風、だが昔は吹き抜け
さらに一つの森をおそった。

昔のことだが、ローマ兵が
あの小高い丘で監視していた。
イギリスの農民の燃える血と
不穏な考えを。あそこだ。

森を吹き抜ける風のごとく
命の強風が空高く吹き上げた。
人も木も穏やかだったことはない ―
昔はローマ兵、今は私。

風は若木を強く揺するが
風もやがて治まるはず。
ローマ兵も謀反も
今やユリコンの灰。

ハウスマン



上の写真はレキンの丘である。

注1:ユリコンはローマ軍が駐屯していた町である。


詩の人気もさることながら、この形式美で作曲家ボーン・ウィリアムスが飛びついた。イギリスの音楽はイギリス人のみが理解できる。少なくとも納得するには、イギリスの田園地帯を訪問する必要があろう.
たしか気前のよくない試聴ができるサイトがあったはずである。

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ヨハネス・ブラームス

ヘルツォーゲンベルク書簡集

序 ― IV

ハインリッヒ・フォン・ヘルツォーゲンベルクがフェラインの考えて、配慮する頭脳であるとすれば、フラウ・エリーザベトは血の循環をつかさどる心臓と名付けてよいであろう。ぐずぐずする団員を激励し、機嫌の悪い団員の気分を和らげ、元気のない団員を奮い立たせたのは彼女である。彼女は組織を一体化さ せ、疲れを知らぬ鉄の活力には限界がないようであった。彼女は全員によき手本を示した。彼女は各声部を諳んじており、コーラスのポリホニーを正確に 把握し、彼女の並外れた声でソプラノの主役をつとめるだけでなく、あるときはテノールを、あるときはアルトを助ける副指揮者であり、バスに意見することも あった。それでも合唱団がいつもうまくいくと限らなかったが、ときには「歌手全員が『霊感』という言葉では片付けられない何ものかに反応し、われを忘れ る」――フラウ・フォン・エリーザベトはブラームスに書いている「この瞬間には各々が三人分の力を発揮し、一握りの弱いわたしたちがなにか賞賛に値することを産み出します。わたしはいつもハインツには感謝しています。彼は難しい音程をすべて彼らの頭に叩き込んでいます。」そして、彼女は1881年1月14日ブラームスに誇らしげに書き送っている。「今回で35回目のカンタータになり、わたしたちはまだ若いのです。――貴族試験の数を三つも多く超えたのです」

ヘルツォーゲンベルク夫妻がライプツィッヒで確固たる地位を固めてから、ハインリッヒは、彼が熱烈に尊敬しているものの、これまで小パリのコンサート・ホー ルで特別扱いされていなかったブラームスを正式に顕彰することを考えた。ブラームスをしかるべく認知させるために彼の作品を演奏したかった。1873年5月に催されたマチネーで、彼はヘ短調ピアノ五重奏曲の演奏会――ピアノは夫人が演奏し――を催し、さらにブラームスを紹介すべく、さらに一大行動に取りかかった。ブラームスは久しくライプツィッヒには来ていなかったし、後の作曲で第五楽章を加えたドイツ・レクイエムの公演は1869年2月にライネケに指揮を任せたのである。ゲバントハウスの聴衆の大方は彼の才能のこの偉大な発露を冷淡に受けとめ、主導的な評論家 J. シュフトに暗黙の同意をしたのである。シュフトはなにくわぬ様子でブラームスを哀れんでいる。ワーグナーやベルリオーズ、とくにリストが画期的に改革し前進させた自由な作曲、なかんずくリズミカルにして雄弁な作曲に到達しようとする勇気が彼にはないと断定した。リーデルの協会が、1873年3月14日にレクイエムを公演し、11月21日の予告をしたが、― ゲバントハウスは13日の再演で彼の機先を制した ― これらのことがライプツィッヒの聴衆にこの作品へのよい評価を吹き込むことになった。この頃、クララ・シューマンがゲバントハウスでニ短調ピアノ協奏曲を演奏したが、この時は1859年1月27日に野次られたときと異なり、この女流演奏家がとりわけ尊敬されていたせいもあり、喝采を受けた。次第にライプツィッヒでは、ブラームスにたいする 過ちを償うべきだという考えが浸透し始めた。さらに彼がレクイエムでドイツの至るとこで勝ち取った成功で、彼を支持する声が高まり、聞き流すには いかなくなった。さらにヘルマン・クレッチマーが、1870年以来続いている週間音楽新聞(Musikalische Wochenblatt)の連載の記事で、彼の作品に立ち入った、専門的かつ好意的な見解で褒めたし、カール・ライネッケはゲバントハウスの管弦楽団の年金基金の理事にブラームスを大音楽会に招待するようにうながした。

ブラームスは躊躇せずにこの招待を受け、1874年1月29日ライプツィッヒにやってきた。1月30日から2月5日までの一週間、「音楽新聞」が書いたように、彼は完全にこの地を征服した。客は全ドイツ音楽協会の支部の夜の演奏会で歓迎を受け、そこでホルン・トリオ作品40、ピアノのための4つのバラード、シューマンの主題による変奏曲作品23、独唱曲以外に混声のためのマリアの歌作品22がクレッチマー指揮の下で演奏された。続いて2月1日ゲバントハウスで室内楽のマチネーが催され、そこでブラームスはヘンデルの主題による変奏曲とト短調四重奏曲作品24のピアノ部を演奏した。パウロ教会演奏会では「リナルド」作品50を指揮し、2月5日のゲバントハウスの臨時演奏会でハイドンの主題による管弦楽変奏曲作品56、アルト独唱のためのラプソディー(フラウ・ヨアヒム)、男声合唱と管弦楽作品53――二つは新曲であった――さらに彼自身の編曲による3曲のハンガリー舞曲を指揮した。さらにライネケと一緒に4手のピアノ曲に作曲された「愛の歌」作品52を 演奏した。これに稀な美しさと芸術的構成を兼ね備えた四声、ペスチャ・ロイトナー、ヨアヒム、エルンスト、オイラが加わった。当然ながら、この日のヒー ローであるブラームスは社交界でもてはやされた。フレーゲ家、フォン・ホルシュタイン家等々は競い合ってこの著名人をもてなしたのである。ブラームスの栄 誉をたたえる昼食会や晩餐会では、彼は期待通りの、もてなしがいのある美食家であり、2月7日には好ましい思い出を残し旅立ったのである。

こ の機会にヘルツォーゲンベルク夫妻は彼といっそう親近感を抱くようになり、この体験を伝えたかったフラウ・エリーザベトは、一番関心のありそうなウィーン の友人のベルタ・ファーベルに報告している。「急いで申し上げます。あなたのブラームスは当地滞在中わたしたちに大変好ましい印象を与えてくれました。わ たしたちは以前のブラームスとは見違えるようで、今回は人間ブラームスに非常な喜びを感じました。『柔弱な感じ』という風評がありましたが、たくましさを 証明したブラームスにはそれもかえって好都合でした。有名になるということは岩礁のようなもので、多くの人はそこで難破しますが、それは彼にとって好意 的、穏健で、親切な(少なくとも一般的な印象も同様でした)ものでした。彼の名声にはリヒアルト・ワーグナーを包んでいる近寄りがたい不謬性の雰囲気のようなものではありませんし、目標を達成した人、いい意味で自由に生きている人の健全で穏やかな雰囲気があります。彼がわたしたちと過ごした時間は、私たち ライプツィッヒ人にはとても楽しいものでした。此処では、中途半端やお上品な凡庸が幅を利かせています。多かれ少なかれ何処でもですが、わたしたちには、 健全で力量のある天才の羽ばたきが時には必要なのです。ブラームスが来たときにはわたしたちはそれを痛感しました。『草は再び立ち上がり、荒野が彼を呑み 込んでしまうのだ。』あなたが近々彼に会われたら、ヘルツォーゲンベルク家とフォルクラント家からよろしくとお伝えください。それにわたしたち全員が作品60を待ち焦がれていると言っていることもね」

この作品60は1873年から1874年の冬に完成されたアンダンテとフィナーレが付いたハ短調ピアノ四重奏曲であり、その第一楽章はデュッセルドルフ時代(1855年) にさかのぼる。これはブラームスのウェルテルの時代の記念であり、クララ・シューマンへの愛情が看取される。ブラームスはその一部をライプツィッヒ滞在中 にピアノで新しくできた友人に聞かせたようである。フラウ・フォン・ヘルツォーゲンベルクはこの深く心の琴線に触れるアンダンテがことのほか気に入り、ブ ラームスは後にこの楽章の自筆原稿を贈り物として彼女に進呈している。



写真は新しいゲヴァントハウスである。

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