ヘ短調作品34

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第2章 名声への階段(1)

皆が私のお母さんを尊敬するものだから大嫌いな継父も当惑したのでしょう。外へ出て散歩してもいいと言うようになり、田舎に土地を持つと言い出しました。この話を聞いて私は大喜びしました。私は田舎が大好きだったからです。私はお母さんのベッドの脚のそばで寝ていました。暗いところで日の光が全然入らない所です。毎朝、天気にはかまわず、窓を広く開けました。新鮮な空気に飢えていたからです。継父は宮殿のあるシャイヨ(Chaillot)の土地に小さな別荘を手に入れました。土曜日にはそこへ出かけ、日曜日をそこで過ごし、月曜の朝にはパリに戻りました。おやまあ!なんという所でしょう。小さくてつまらない庭、木が一本もなくて、熱い太陽を遮るものもなく、木陰があるだけです。彼は豆とキンレンカを植えましたが、育ちませんでした。私たちが使えるのはちゃんとした庭の四分の一だったのです。残りの四分の三は店の売り子に貸してあり、鳥を撃って楽しんでいました。絶え間ない雑音で私はすっかり参ってしまいました。それにこの射撃で殺されるのではないかと思いました。狙いは不正確でしたから。こんな退屈で不細工で、うんざりする所がなぜ「田園」なのか理解できませんでした。とうとうよき天使が私を助けに来てくれました。お母さんの友人です。彼女はご主人と一緒にシャイヨに食事に来ました。こんなところに流された私を不憫に思い、時々馬車に乗せてくれました。

私たちはマルリ・ル・ロア(Marly-le-Roi)にでかけました。これまでに見たこともない美しい場所がありました。すばらしい宮殿には夏の家が六つあり、ジャスミンやスイカズラで覆われた小径があり、行き来出来るようになっていました。お城の後ろにある丘からは水が滝になって流れていました。水は大きな流れになり白鳥がたくさんいました。美しい樹々、緑の絨毯、花、噴水、一つは水が見えなくなるほど高く舞い上がっていました。それは見事で壮麗でした。すべてルイ14世の偉業を物語るものです。ある朝、私はマリー・アントワネット王妃と出会いました。王妃は女官とご一緒でした。みなさまは白の衣装を身にまとい、若くて美しく夢を見ているようでした。私は母と一緒でした。私が退出しようとしたとき、王妃はご親切にも、私に好きな方に行ってもよいと申されました。ああなんと!1802年私がフランスに戻った時、この気高く和やかなマルリー城(Château de Marly)に急ぎました。宮殿、樹々、滝、噴水はすべて無くなり、わずかに石が一つ残っていました。この素敵な庭を後にして不愉快なシャイヨに戻るのはつらいことでした。結局パリに戻り、冬を過ごしました。制作以外の時間を快適に過ごしました。15歳で私は最高の社交界に出かけました。私は有名な芸術家とはすべてお知りあいでしたから、あらゆる所から招待を受けました。彫刻家のル・モアン(Le Moine)と街で始めて食事をした時のことはよく覚えております。彼は大変評判お高い人でした。有名な俳優ルケンに会ったのもここです。野蛮で薄気味悪い容姿で私は本当に恐くなりました。眉毛が大きくていっそう表情が恐いのです。彼はほとんど口をきかず、ひたすら食べていました。

ル・モアヌ邸では著名なゲルビエールと令嬢のマドモアゼル・ド・ロワシーと知りあいました。彼女は大変きれいで、私が早い時期に肖像画を描いた女性の一人です。 グレトリ(André-Ernest-Modeste Grétry, 1741 - 1813)と優れたパステル画家のラトゥールはル・モアン邸の晩餐に来ていました。この晩餐は大変楽しい宴会でした。デザートが出てくるときに歌うことになっていました。若い女性の番が回ってきました。このしきたりはたしかに苦痛でした。女性たちは顔色が悪くなり、どきどきしていました。ですから音程を外して歌うことがありました。不調和でしたが、晩餐は楽しく終わり、立ち上がるのが残念でした。現在のように馬車がすぐに来るわけではありませんでしたが。

昨今の晩餐会については風聞以外に語ることは出来ません。今申しました時以降街で食事をするのはきっぱり止めたからです。ちょっとした出来事で夜しか出かけなくなったのです。私はロアン・ロシュフォール公女にお食事の招待を受けました。盛装して馬車に乗りこもうとして、朝取りかかった肖像画を見直そうとしました。私は始めてのサティンのドレスを着ていました。私は椅子の上のパレット気づかずにイーゼルの前の椅子に腰掛けてしまいました。ガウンの状態がこんなひどい状態になり、外出できなくなりました。これ以来私は、夜のお食事以外には招待をお断りしています。

ロアン・ロシュフォール公女のお食事の会は楽しいものでした。この社交界の中心になったのは、お美しいブリオンヌ伯爵婦人と令嬢のロレーヌ公女、ド・ショアズール公爵(Étienne-François de Choiseul,1719 – 1785)ド・ローハン枢機卿、「論争」の著者ムッシュウ・ド・ルュリエール(Claude-Carloman de Rulhière , 1735 –1791)です。最高に感じの良い客はなんと言ってもド・ロザン公爵(Armand Louis de Gontaut, Duc de Lauzun, , 1747 – 1793))でした。彼より賢くて楽しい人物はいませんでした。彼は皆を魅了しました。夜には演奏や歌がたっぷりありました。私もギターを演奏しながら歌いました。食事は10時半でした。10時とか12時に食卓にいることはありませんでした。みな社交性とユーモアで競い合っていました。私はといえば、ただ話を黙って聞いているだけでした。彼らの会話を充分楽しむには若すぎましたが、普通の話は面白いと思いました。

私の若い頃の人生は珍しいと思います。偉大な画家を思い浮かべるとまだまだでしたが、才能のせいだけで、引っ張りだこになり、世間から歓迎されただけではなく、私は一般の注目の的になることがありました。率直に言ってこれは誇りに思っていました。たとえば、ずっと以前の銅版画を模写して、フルーリ枢機(André Hercule de Fleury, 1653 - 1743)やラ・ブルイェール(Jean de La Bruyère , 1645 – 1696)の肖像画を制作しました。二つともフランス・アカデミーに寄贈しました。ダランベールの秘書を通じて賞賛の手紙が届きました。そしてこの寄贈のおかげで光栄にもダランベールの訪問を受けることになりました。非常に洗練されたマナーの見本のような人でした。彼は長時間わが家にいましたがその間、彼は私を絶賛しました。彼が帰った直後にある貴婦人が私を訪問しました。彼女はラ・ブルイェールとフルーリの絵は実物を見て描いたのかと訊ねました。私は笑いをこらえて「私はそんなに歳をとっていません」と答えました。こんなおかしな質問をしたのは、ダランベールが帰った後でしたから、彼女にとってはさいわいでした。

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