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第二章 名声への階段(3) ド・マザラン公爵夫人――インドのフランス大使 出産前のことですが、私はド・マザラン公爵夫人(Duchess de Mazarin 1759−1826)を描いていました。彼女はもう若くはなかったのですが、まだまだおきれいでした。ド・マザラン公爵夫人は誕生の時に富、義務、不幸の三妖精に授かったと言われていました。なにをしても、お友達を持ってもかならずや不運に見舞われるという気の毒な方でした。あらゆる種類の不運の話が広まっていました。ほとんど知られていないことがあります。ある夜のことです。彼女は食卓に巨大なパイを置く計画を立てました。中には小さな鳥が百羽入っていました。公爵夫人の合図でパイが開かれました。鳥が全部羽ばたいて客の顔に当たり、念入りに仕上げた型の髪に止まりました。大騒ぎなったことはご想像がつくでしょう。この鳥たちをどけるわけにはいかず、ついにこのいたずらを感謝しながら食卓を離れなければ行けませんでした。 ド・マザラン公爵夫人は太った方でしたのでコルセットを締めるのに大変時間がかかりました。ある日、彼女はコルセットを締めていたとき、訪問客の到来が告げられました。「あの方のお肉を整えるまでお入りにはなれません」とメイドが叫びました。この太りすぎがトルコの大使たちの賞賛の的になったことを想い出します。オペラ座でボックス席にお呼びしたいのはどなたかと聞かれたとき、彼らはためらうことなくド・マザラン公爵夫人を指さしました。彼女が一番太っていたからです。 大使といえば、そうそう記憶していることがあります。私は外交官を二人描いています。二人とも赤銅色の肌をしていましたが、顔立ちがすばらしかったのです。1788年のことですが、マイソールのサルタン・ティプー・サヒーブ(Sultan Tippoo Sahib 1749-1799)がパリに特使を派遣してきました。オペラ劇場でこの人たちを見ましたが、絵になると思い、肖像を描きたくなりました。しかし通訳と話をしていましたが、主君からの要請状がこない以上、描いてもらうわけにはいけないといいました。私はなんとか陛下のお許しを得ました。私は二人の外国人が泊まっているホテルに行きました。彼らは気楽にしているのを描いて欲しかったからです。私が到着するや一人がバラ水のジャーを持って来て、私の手に振りかけました。一番背の高い人、ダヴィッチ・カーンといいましたが、私に着席を勧めてくれました。彼には短剣を手にして立ってもらいました。彼はすぐに自分の自然なポーズを取りましたが、私はあえて直しませんでした。別室で油を乾かし、年配の大使の肖像に取りかかりました。彼がむすこと一緒に座っているところを描きました。父親は威厳のある顔つきでした。金の花のついた白のモスリンのゆったりした服を着ていました。白い服は、広い折り返した袖の長いチュニックですが、豪華なベルトで止めてありました。 マダム・ド・ボヌーイ(Mme. de Bonneuil 1748- 1829)に私がこの肖像画について話したところ、彼女は大使たちに会いたがりました。私たちは大使に晩餐に呼ばれ、好奇心からお受けしました。部屋にはいると驚いたことに、食事は床に置いてありました。そこで私たちもオリエントのホストにならって横になるような格好をしなければいけませんでした。お皿の中身を手でつまみもてなしてくれました。ある皿には羊の足のフリカッセに白いソースが添えてあり、スパイスがきいていました。もう一皿には何ともいいようのない混ぜた料理がありました。食事は必ずしも楽しいものではありませんでした。スプーンの代わりに茶色い手が使われるのはショックでした。大使たちは少しばかりフランス語を話す若い男を中に入れました。私が座っている間に、マダム・ド・ボヌーイは歌謡曲を教えました。おいとまするときにはこの若者は習いたての歌をうたい、さらに「ああ、わが心はなんと悲しいことか!」といいました。大変オリエント的で、この場にぴったりでした。
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