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第三章 制作と楽しみ(1) フランドルへの旅 1782年ムッシュー・ルブランは、私と一緒にフランドルに行きました。彼は仕事のことでこの地に呼ばれたのです。シャルル公のすばらしいコレクションの売却がブリュッセルであったからです。二人でそれを見に行きました。私を優しく迎えてくれた女官に会いました。ダランベール王女もみえましたが、私は彼女とパリでお会いしました。ここでお知り合いになれて嬉しかったのはド・リーニュ王女でした。この方とはまだお知りあいではありませんでしたが、ユーモアと暖かい人柄で有名でした。私たち二人を彼の部屋に案内してくださいました。ここでいろんな傑作を鑑賞しました。とくにヴァン・ダイクの肖像画とルーベンスの胸像が素敵でした。でもイタリアの絵画はほんの数点でした。彼はご丁寧にも、彼の壮大な邸宅に私たちを招待してくださいました。私が記憶していますのは、彼が私たちを見晴らしのいい展望台に連れてって下さったことです。丘の頂上にあって、彼の領地とその周辺を見渡すことができました。私たちが吸った最高に気分の良い空気と見事な眺めは、それは魅力的なものでした。この素敵な領地で、一番すばらしかったのは、この邸宅の主のご挨拶でしょう。この方の上品な心遣いと、作法は他の人には真似ができないものでした。ブリュッセルの町は繁栄していて活気がありました。上流階級の人たちは人生を楽しむことが大好きで、ド・リーニュ公のお友達は正午にはブリュッセルを出発して、ちょうどカーテンが上がるときにパリのオペラ座に到着し、公演が終わると一晩でブリュッセルに戻ります。オペラ好きとはこういうものです。 私たちはブリュッセルを発ちオランダに行きました。私はサールダムとマースリヒトが気に入りました。この二つの小都市は大変きれいで、手入れが行き届いていますので、誰もが住民をうらやみます。街は非常に狭く、運河が張り巡らされていますので、馬車には乗りませんが、馬や小舟が商品の輸送に利用されます。家は低く、扉が二つあります。誕生の扉と死の扉です。人は棺に入ったときだけ死の扉を通るものです。家の屋根はピカピカに磨かれた鋼鉄の様に光り、輝いています。何もかもが念入りに手入れされています。私は覚えていますが、鍛冶屋の店の外に、ランプのようなものが吊してありました。金メッキされ、磨かれていて、まるで貴婦人の個室用のランプでした。この地方の女の人は非常に美しく見えました。でも内気で、外国人を見かけると、すぐに走り去りました。しかしながら、この国にフランス人がいたら、この人たちも外国人に慣れていたのにと思いました。 私たちは最後にアムステルダムを訪問しました。私は市庁舎でヴァン・ルーが描いた議員の集会の壮大な絵を見ました。信じがたいことですが、この大画面の中に、すべてが細かく、自然に描かれておりました。議員たちは黒い衣装を着ておりました。顔、手、衣装すべてが真似のできない巧みさで仕上げられていました。議員たちは生き生きとして、まるで彼らが私たちと一緒にいるみたいでした。この絵はこの種のものでは完璧なものであると信じました。私はこの絵から離れがたく、この絵の印象は今でも残っています。 私たちはフランドルに戻り、ルーベンス(Peter Paul Rubens 1577 – 1640)の傑作を見ました。パリよりも、はるかに効果的に展示されていました。フランドルの教会ではすばらしい効果がありました。ルーベンスの作品は個人の部屋に飾ってありました。その一つがアントワープにありました。有名な「麦わら帽子」(*)ですが、最近イギリス人に高額で売却されました。この見事な絵はルーベンスが描いた女の肖像画です。私は嬉しくなり、非常に感銘を受けましたので、同じような効果を出そうと努力し、自画像をブリュッセルで描き上げました。私は、羽と花輪で飾った麦わら帽子をかぶりパレットを手にした自画像(**)を描きました。この自画像はサロンに展示されました。遠慮なく言わせていただきますが、この作品は私の評判を相当高めることになりました。有名なミューラーがこの銅版画を製作しました。銅版画の暗い影がこのような絵の全体的効果を損なっていることはご理解いただけると思います。フランドルから帰って早々に、今申し上げた自画像と他の作品をみて、ジョゼフ・ヴェルネは私を王立美術アカデミーの会員に推挙することにしました。国王の主席画家であるムッシュー・ピエール(***)は強く反対しました。花を美しく描くマダム・バライェール・コステル(Anne Vallayer-Coster , 1744 –1818) )はすでに会員であるが、女を会員にするのは望ましくないといいました。マダム・ヴィアンもすでに会員だったと思います。ムッシュー・ピエールは凡庸な画家でしたが、世才にたけた人でした。それに彼はお金持で、絵描きさんたちを豪華にもてなすことはできました。絵描きは今日ほど裕福ではありませんでした。もし、すべての真の美術愛好家がアカデミーに無関係でしたら、もしムッシュー・ピエールに対立して私を守ってくれなかったら、彼の反対意見は決定的だったでしょう。とうとう私は会員になることを認められ、寓意画を提出しました。 注 * ルーベンスの「麦わら帽子」 ** ルブランの「自画像」 http://en.wikipedia.org/wiki/File:Self-portrait_in_a_Straw_Hat_by_Elisabeth-Louise_Vig%C3%A9e-Lebrun.jpg *** ルブランがマリー・アントワネットの圧力にもかかわらず、ロイヤル・アカデミー会員への推挙が難航したのは、夫が「芸術」を商売の具にしているからであった。ワインを商うなら許せるというのである。 それにロイヤル・アカデミーの「改革」の主導者は、女性の排除にこだわったのである。フランスの美術の栄光を維持するためには、若い時期の画学生が女で気が散ってはならない。女子学生の入学は論外であるが、学校の周囲に女性を立ち寄らせないようにできないものかと真面目に考えていた。
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