|
第3章 制作と楽しみ(2) 私は必死になって描き続けました、1日に三人の肖像画を描いたこともありました。食後も肖像画を書き続け、疲れ果て胃の調子がおかしくなりました。私は何も消化できず、やせ細ってしまいました。友人たちの勧めで医師に診てもらいました。医者は食後毎日寝るように云いました。この言いつけに従うのは大変ですだが、ブラインドをおろして部屋に閉じこもりました。そのうちに慣れ、この習慣のおかげでこれまで生きてこられたと思っています。休息を強制されて残念だったのは、外で食事をするという楽しみを奪われたことです。私は昼のあいだ描き続けましたので、夜までお友達に会えませんでした。確かに社交界の楽しみは私には無縁でした。私は夜には洗練され、教養ある人たちと過ごしました。 結婚後はクレリュー通りに住んでいました。ムッシュー・ルブランは豪華な家具をそろえた部屋を借り、大画家の絵画を持っていました。私はといえば、小さな控えの間と寝室があるだけです。それすらも私のアトリエになっていました。この部屋にわずかな調度品があり、質素な壁紙が張ってあるだけでした。この部屋でお友達や宮廷からのお客様をお迎えしたのです。誰もが私の夜のパーティーに来たがりました。人数が多すぎて椅子が足りなくなり、フランスの元帥が床に座ったこともあります。覚えておりますが、ド・ノアイユ元帥(de Noailles 1713–1793)は高齢の方で、大変太っていましたので、立ち上がるのが大変でした。 もちろんこんな偉大な方々が、私目当てにいらっしゃるといいたいところですが、パーティーのとき他の方に会いたくて来られる方もみえました。ほとんどの方はパリで最高の音楽がお目当てでした。グレトリ、サッチーニ(Antonio Sacchini, 1730 –1786)、マルティーニ (Jean Paul Egide Martini, 1741 – 1816)のような有名な作曲家がオペラの初演前にわが家で曲を披露したものです。常連の歌手はガラー(Pierre-Jean Garat, 1764 –1823 )、アスヴェード、リシェール、マダム・トーディでした。私の義理の妹は声がよくて、どんな曲でも初見で歌えましたので、大変重宝でした。私が歌うこともありましたが、正直ちゃんとしたものではありませんでした。ガラーはとびきりの名人といって差し支えないでしょう。彼のような弾力性のある喉の持ち主には難曲というものはありませんでしたし、表現力に関しては彼に匹敵する歌手はいませんでした。グルックを彼ほど見事に歌った人はいないと思います。 バイオリニストのヴィオッティ(Giovanni Battista Viotti 1755 – 1824) も来てくれました。優雅で、力強く、表現力があり、うっとりしてしまいます。ヤルノヴィック、マエストリーノ、アマチュアですがとてもお上手なプロシアのハインリッヒ公もいらっしゃいました。ザレンティンはオーボエを、フルマンデルとクラメールはピアノを演奏しました。マダム・ド・モンジェルーも結婚後一度みえました。彼女は当時、非常に若かったのですが、見事な演奏特に表現力で気難しい私の友達も仰天してしまいました。彼女は正に楽器を歌わせました。マダム・ド・モンジェルーはその後一流のピアニストになり、作曲家としても有名になりました。私がコンサートを催していた頃は、趣味と余裕を持って楽しみました。その後何年かして、音楽が一般的になると、グルック派とかピッチーニ派とか呼ばれる人たちの間で深刻な論争が起こりました。愛好家は二派に分れました。戦場となるのはいつもパレ・ロイヤルの庭園でした。グルック派とピッチーニ派が互いに暴力的になり、一度ならず決闘沙汰になりました。 常連の女性としては、ド・グロリエール侯爵夫人(Marquise de Grollier, 1742-1828)、マダム・ド・ヴェルダン、ド・サブラン侯爵令嬢(Marquise de Sabran)、彼女は後にシュヴァリエ・ド・ブフレール(Chevalier de Boufflers)と結婚しました。それに、マダム・ル・クトー・ド・モレ(Mme. le Couteux du Molay) ― この四人とも私の親友でした。ド・ルージュ侯爵夫人(Marquise de Roug??,)と友人のマダム・ド・ペゼ(Mme. de Pez??)ー、私はこの二人を一枚の絵に描きました。それに、私の部屋は狭いものですから、いつもと言うわけにはいきませんでしたが、フランスや外国の貴婦人方に来ていただきました。男性に関しては、ここに書き切れません。
|
過去の投稿日別表示
[ リスト | 詳細 ]
2011年03月09日
全1ページ
[1]
全1ページ
[1]

桜と日本人ですね。なぜか、三島由紀夫を思...



