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There came a Day at Summer's full,
There came a Day at Summer's full,
Entirely for me —
I thought that such were for the Saints,
Where Resurrections — be —
The Sun, as common, went abroad,
The flowers, accustomed, blew,
As if no soul the solstice passed
That maketh all things new —
The time was scarce profaned, by speech —
The symbol of a word
Was needless, as at Sacrament,
The Wardrobe — of our Lord —
Each was to each The Sealed Church,
Permitted to commune this — time —
Lest we too awkward show
At Supper of the Lamb.
The Hours slid fast — as Hours will,
Clutched tight, by greedy hands —
So faces on two Decks, look back,
Bound to opposing lands —
And so when all the time had leaked,
Without external sound
Each bound the Other's Crucifix —
We gave no other Bond —
Sufficient troth, that we shall rise —
Deposed — at length, the Grave —
To that new Marriage,
Justified — through Calvaries of Love —
Emily Dickinson
夏の盛りのある日のこと、
夏の盛りのある日のこと、
私のための一日みたい――
こんな日は聖なる人々の、
復活があるやも知れぬ――
太陽はいつもの様に出張中、
花も普段と同様に揺れ、
夏至を過ごして何ら新しい
現象を体験しなかった――
時間中の話は冒涜行為でなく――
聖餐の秘跡は我らの主の
衣装の様に言葉を象徴で表す、
必要はまったく無かった――
全ての教会は互いに認可教会、
天に於ける仔羊の晩餐で
不器用な様をさらけ出さぬ様
時間中は会話が許された。
振り返るに時間は速く経過し、
手を求め、しっかり握り――
こうして、二教会の顔と顔は
相手側の座席を向いた――
外部の騒音に妨げられずに
時間は滞りなく経過した、
互に十字架像を交換しあい――
己は他を束縛しなかった――
我らが入ろうとする新たな
結婚、最後に墓地への
適切なる約束の宣誓証言は、
愛の受難で承認された――
エミリー・ディキンソン
「夏の盛りのある日のこと」で始まるエミリーの詩は彼女の好きな夏の日の賛美ではない。「ある日」とは夏至祭である。この日はヨーロッパのキリスト教徒がボンファイアで太陽に感謝する日である。夏至の日は本来、太陽崇拝の異教の祭りである。ルカ伝を根拠に、キリストが冬至に生まれたとすると洗礼者ヨハネが誕生したのは夏至の日だとして、キリスト教会が、ボンファイアを黙認する形で夏至の祭りを聖ヨハネの祝祭日と名称を変えた。
これがプロテスタントの中でも最も進歩的な会衆派教会革派の教会となると、聖ヨハネの日すら認めない。夏至以前と以後で何らの違いはない。この日に聖ヨハネとは縁もない催しがあってもおかしくない。
この書き出しから始まり、ディキンソン家も所属する会衆派教会の特徴が積極的に綴られる。典礼を重視するカトリック教会やその他のプロテスタント教会と違い、「時間中の話は冒涜行為でなく」。階層組織を絶対視するカトリック教会に対し、「全ての教会は互いに認可教会」。
今日は教会と教会が自主性を最大限認め合う、新たなる「結婚生活」に入る日なのである。
教会に行かなくなったエミリーの教会組織に関する珍しい詩である。
注記:「天に於ける仔羊の晩餐」とはヨハネの福音書の「黙示録」に記述されている。花婿であるキリストと花嫁である教会との結婚を祝う晩餐である。
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2018年01月28日
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