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さて私はピープスの日記にはいまだに出てこないが、その他の本で出ていることを紹介することにしよう。
ロンドン大火の火元は現在では、王室御用達のプッディングを作っていた家であるということになっている。不注意から火を完全に落とさずに寝てしまった。不注意であっても大事に至らなかったことは誰もが体験していることだが、1666年9月2日はこの火の不始末から周りに可燃性のものに燃え移ってしまった。
これまでのピープスの日記にはこのプッディング職人の家のことは出てこないが、どの本にも書いてあることである。その後のこの職人の責任はどう問われたのかは私は知らない。
当時この火事がオランダ人、フランス人、あるいはカトリック教徒の放火ではないかといわれたが、このあたりの様子はこの一週間のピープスの日記にある。
当局は一応この事件をこのような雰囲気のなかで、公式的責任者はちょっと頭の弱いフランス人であるという政治的判断で納めた。フランス人であったことがこの人物の運命を決めたのだと思う。このフランス人は拷問された結果であろうが、放火を白状し、絞首台に上った。ところがこの男がロンドンに来たのは大火の後であった。
被害者は彼だけではない。他の本で読んだのだが、これら外国人や宗教的異端者が虐殺され、肉体をバラバラにされたという目撃証言がある。この混乱時に顔かたちだけでは分かりにくいフランス人やオランダ人を自警団はどう識別したのであろう。
ロンドンの大火はローマの大火と並んで世界史に有名である。大火はその後の歴史にどう影響したかだが、ロンドンはあきらかに様相を一変させた。大火当時の家は中世以来の町並みで道幅は狭く、建物は木造であり、木の防腐のためにピッチが塗ってあるという念の入ったものである。マッチ箱のように燃えやすかった。
この火事以来ロンドンの都市再建計画が提案された。道幅を広くし、木造の家は禁止された。大火のショックからであろうか、それほど強力であったとは思えない王権のもとでこれは実現された。
現在のロンドンを象徴するセント・ポール寺院も大火後にできあがったものであり、われわれが目にするロンドンはこの大火後のものである。
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