ヘ短調作品34

ルブランの回想録の link 先はゲストブックを御覧ください。

ピープスの日記

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 次のページ ]

ロンドン大火9

イメージ 1

さて私はピープスの日記にはいまだに出てこないが、その他の本で出ていることを紹介することにしよう。

ロンドン大火の火元は現在では、王室御用達のプッディングを作っていた家であるということになっている。不注意から火を完全に落とさずに寝てしまった。不注意であっても大事に至らなかったことは誰もが体験していることだが、1666年9月2日はこの火の不始末から周りに可燃性のものに燃え移ってしまった。

これまでのピープスの日記にはこのプッディング職人の家のことは出てこないが、どの本にも書いてあることである。その後のこの職人の責任はどう問われたのかは私は知らない。

当時この火事がオランダ人、フランス人、あるいはカトリック教徒の放火ではないかといわれたが、このあたりの様子はこの一週間のピープスの日記にある。

当局は一応この事件をこのような雰囲気のなかで、公式的責任者はちょっと頭の弱いフランス人であるという政治的判断で納めた。フランス人であったことがこの人物の運命を決めたのだと思う。このフランス人は拷問された結果であろうが、放火を白状し、絞首台に上った。ところがこの男がロンドンに来たのは大火の後であった。

被害者は彼だけではない。他の本で読んだのだが、これら外国人や宗教的異端者が虐殺され、肉体をバラバラにされたという目撃証言がある。この混乱時に顔かたちだけでは分かりにくいフランス人やオランダ人を自警団はどう識別したのであろう。

ロンドンの大火はローマの大火と並んで世界史に有名である。大火はその後の歴史にどう影響したかだが、ロンドンはあきらかに様相を一変させた。大火当時の家は中世以来の町並みで道幅は狭く、建物は木造であり、木の防腐のためにピッチが塗ってあるという念の入ったものである。マッチ箱のように燃えやすかった。

この火事以来ロンドンの都市再建計画が提案された。道幅を広くし、木造の家は禁止された。大火のショックからであろうか、それほど強力であったとは思えない王権のもとでこれは実現された。

現在のロンドンを象徴するセント・ポール寺院も大火後にできあがったものであり、われわれが目にするロンドンはこの大火後のものである。

ロンドン大火8

イメージ 1

1666年9月9日(主の日)   サムエル・ピープスの日記


起床、気分良好。妻と食事をとるよう弟をウールウィッチにやる。私は教会に行く。教区の牧師さんは暗いがいい説教をした。大勢の人、ほとんどの人が泣いた。とくに女たちが泣いた。教会は超満員であったが、上流階級の人は少なくほとんだ顔見知りの人はいなかった。

ベドノール・グリーンまで歩き、そこで食事をしたが、サー・W・ライダー邸の鹿肉のパスティはまずかった。いい人ばかりで、話も楽しかった。お嬢さんのミドルトンは上品で控えめな女性である。

家に戻り、ふたたび教会に行く。説教は主任司祭のハーディングであった。私にはお粗末な説教に思えた。シティの大半が壊滅したこの時期に話が上手ともいえなかった。

その後役所にもどり、日記を書き、弟と別れる。弟は午後戻っていった。雨が降っていた。しばらく雨がなかった。しかしわが家を元通りにするまで弟の部屋もなかった。私は弟の帰りのことも配慮し、40シリングポケットに入れた。弟は帰っていった。現在雨が降っている。火事のためには雨は幸いだが、弟のことが心配になった。すぐにサー・W・ペン邸に行き、寝た。寝付くま部下のトムに本を読ませた。


<日曜日(主の日)ぬ始まり、今日は8日目になった。ようやく教会にも行きはじめた。この頃の人は現在のイスラム教徒がモスクに出かけるよう、教会に行ったものである。彼はいつも説教がまずいとこぼしているのによく出かける。この日の最初の教会の説教は彼には雌らしく合格だが、後の説教のまずさを書きつづるなど、ようやくピープス節がが戻ってきたようだ。一応これで日記を基にした連載を打ち切るようにしよう。あすもう一回この火事について私が仕入れた話を投稿することにしよう。>

なおくれぐれも注意して頂きたいのは、ピープスの日記、後世の人に読まれることを意識した日記ではない。この日記大変難しかった。固有名詞も分からずに訳したものである。主語がどれだろう。動詞はなんだろう、と言う場合ばかりであった。誤訳があることは間違いない。私の連載で信用できるのは年月日だけである。興味を持たれた方には、大都市きっての大図書館にいかれれば、この本の訳があるのでコピーされることを強くお勧めする。日付は1666年九月二日である。

ロンドン大火7

イメージ 1

1666年9月8日  サムエル・ピープスの日記


起床し、サー・W・バッテンとサー・W・ペンで船でホワイト・ホールに行き、サー・ジェイムス邸に向かう。途中サー・G・カーターレット邸に立ち寄り、同行して現金をさがすよう要請した。彼にはこの肝心の事をする余裕がなく、他のものはほとんどその暇がないか、ただ言うだけだった「いつになるのでしょうか、どうしたらいいのか?」というばかりである。

彼は事後処理でシティと王の連絡に毎日忙殺されているようであった。困難を極めているようで、どうなるかと思った。そこを出てセント・ジェイムスに行き、サー・W・コヴェントリーの執務室で一同が会して、われわれが出来ることを帳簿なしでやった。話は混乱していた。

艦隊はプリモスにあり、そこに停泊してダウンズかブレン方への風を待っていた。この方面にオランダ艦隊は行ったのである。最後に個人的なことを少々の間だだけ話したが、とにかくわれわれの所にくる人達の金がなかった。テームズでウナギを2匹買ったが、6シリングした。

サー・W・バッテンとコック・ピットに向かった、アルベマール公がやってきた。王はこの時期彼をぜひともそばに置いておきたいようだった。王は彼を呼び出し、ここに留め置くつもりだった。彼のシティを知りつくしており、事態収拾の仕方等を考えれば、彼は非常に役に立つ人物である。

われわれ一同彼の所に行った。彼は見たところ皆からちやほやされているようであった。彼は艦隊のことは目下さておいて、シティのことを気にし、これからグレシャム・カレジに急ぎ、議員達と話をする予定であった。サー・W・バッテンと私は家に戻ったが、そこで弟のジョンが来ていた。われわれがどうなっているのか見に来たのである。

弟は私とグレシャム・カレジに行った。そこには何か変わったことはないか、場所がどうなったかを知りに、一杯人々が押しかけていた。互いにどうなったか見たり、聞いたりしていた。私はみすぼらしい人達にたくさん出会った。さらに多くの人は大損害をこうむっていた。

火元とシティの再建についていろんな話をしていた。それからサー・W・バッテン邸に行き、弟を連れ出し、そこで近所の人大勢と食事をした。色々話をした。

とくに話題になったのは、シティの金持ちたちのケチのはなしである。とりわけ議員のスターリング氏は大金持ちだったが、子供もなく、火が隣までやってきた。部下が家を守ったが、後でそのうちの30人に2シリングと6ディナールを報酬とし、がらくたを火のないところに運び出そうとしたら、盗みに来たと言っては喧嘩になった話をした。

今朝サー・W・コヴェントリはヘルボーンに王を案内したのだが、ここで彼が私に話したところでは、もう一つの話があった。家の近くの火事を止めた報酬は2シリングと6ディナールだったが、たった18ディナールだった人もいたそうだ。

それからベンドール・グリーンに馬車で向かった。弟が同行し、すべて順調であることを見届け、日記を持ってきた。過去五日間のことを書くためである。

その後役所に戻ったら、バグウェルと妻が家に戻っていた。明日夫婦の家に行くことを約束し、今日は船まで彼を送った。役所に戻り、遅くまで手紙を書き、サー・W・ペンのところに行った。弟は私と一緒に寝た。サー・W・ペンはウールウィッチで寝るために出ていった。

しかし大きな音がしばらく階下でしてびっくりして目をさました。ノックしても若い者がこなかった。保管してある近所の人のワインが盗んだ男が見つかったのである。それから眠りについて一晩ぐっすり寝られた。

ロンドン大火6

イメージ 1

1666年9月7日   サムエル・ピープスの日記

5時頃起きたが、ああ神さま、すべてうまくいっている。船でポール埠頭に向かい、そこからは歩いた。そこで目にしたものは、町全体が焼け落ちていた。悲惨なのはセント・ポール寺院である。屋根はすべて落ち、合唱隊席あたりの建物がセント・フェイスに落ちていた。ポール寺院の神学院も同様である。ラドゲイト、フリート街、父の家、教会、テンプル地区の大部分も同様である。

それからニュー・エクスチェンジ近くにあるクリードが寝泊まりしている所に行った。彼はベッドで横になっていた。家には家財道具が一切なかった。火が近づくことをおそれたからである。彼のシャツを借り洗った。

セント・ジェイムス街のサー・W・コヴェントリーの家に行った。カーテンは一切なく、家財は運び出していた。ホワイト・ホールの王もすべての人がそうしていた。サー・W・コヴェントリーはこの火事で一般大衆が狂気に陥らないことを願っていた。皆はこれをおそれていた。フランス人が火をつけたという話があるからである。

これは不平不満分子には絶好の時だからである。すべての人が自分と財産を守ろうと気をつけていた。夜警団がいたるところで武器を所持していた。

彼が言うには、わが艦隊は今まで互いに艦船を確認できた。だが最悪の場合、天気が悪くなり、艦船がバラバラになると、大変なことになる。この推論は正しい。オランダ艦隊は国民を喜ばせるために、見せびらかしのためにきているが、最悪の状態では貯蔵品、食料や人間までも。

連中はブレンにいる。わが艦隊はセント・エレンに来ている。わが海軍は戦果を上げていないが、一隻失っている。彼はどの船かを確認していなかった。

その後スワンに出かけてそこで水を飲んだ。家に戻ったが、何事もなかった。サー・W・バッテンの家で上司のブランカー卿がいたが、総司令官が呼ばれ、この際の執務について王に助言し、すべて平穏であると告げたそうである。これは大変名誉なことであるが、私は一部隠していると確信した。それから家に向かい、家を掃除するように言い付けた。その後ウールウィッチに降りたが、何事もなかった。

食事をしていたら、マーカム夫人が妻に会いに来た。そこで私は立ち上がり、デプトフォードでW・ヒュワードにたのんだ。彼は私に同行した。それから家に戻り、夜をサー・W・バッテン宅でサー・R・フォード、ナイトリー氏、サー・W・ペンと一緒にすごした。

今日グレシャム・カレジで顔見知りの商人にはじめて出会った。布告により、ここが取引所になるという。こんなひどい家にいくらの値が付くのか首をかしげてしまう。サー・W・ライダーの友人だが、年20ポンドで借りていた物件を150ポンドで手にいれたという。

シティの再発展を見こして税関をどこにおくべきか大いに議論があった。大蔵大臣、その他一同、町のはずれになるだろうということであった。

夜遅くにサー・W・ペンの家に戻った。彼はベッドを貸してくれた。カーテン類は全部外されていた。私ははじめて布団も何もないベッドにねた。ズボン下一枚で。かなりよく寝られたほうであるが、火のことが心配になってときどき目を覚ました。あまり休まらなかった。

そこら中の人々が市長の無能をなじっていた。とくに火事に関連した職務にかんして非難は彼に集中した。市場がリーデンホール、マイリーングリーンその他におかれる旨の布告が出された。タウンヒルとすべての教会が被災者に開かれることになった。

<<編集者注:9月5日の布告では、「今般のおぞましき火事で一切を失った人々に毎日大きなパンを支給するを命ずる。この支給は以前からの市場のみならず、最近認可された市場でも行われるものとする。すべての教会、小礼拝堂、学校、その他すべての公共の建物は置き場に困っている家財を預かるものとする。」また9月6日の布告では、「市場の消失につき、市場はビショップス・ゲイト、タワー・ヒル、スミスフィールド、チーデンホールに設置するものとする。」

.

ロンドン大火5

イメージ 1

1666年9月6日   サムエル・ピープスの日記

5時頃に役所の門でゴーデン氏にあった。いつものように今日も時折火災の様子を見に外に出た。部下をビショップ門に呼び出した。まだ火は近づいてはいないが、現在また火事が発生した。一般の人達、それに私もなにか陰謀のせいではないかと考えたが、この火はその考えにさらに根拠を与えることになった。多くの人がそう思っており、見慣れぬ人や外国人が街を歩くのは危険であった。私は部下と出かけたが、それには時間がかからなかった。それゆえうまくいった。

<<編集者注:ロンドンをおそったこの惨害を住民は不屈の精神で耐え抜いた。しかし外国人やカトリック教徒には大変な時であった。火事の発生の原因が追及されずに、一般に火事は陰謀であるという声が上がった。トマス・ワーデのウィリアムスン宛の手紙では、「ロンドンの火事による破壊は、報じられている所によれば、フランス人、オランダ人、過激分子による悪魔のたくらみであるとされる。」>>

<訳者注:当時オランダやイギリスとは海の派遣、植民地の争奪戦で敵対関係にあった。説明がおくれたが、ピープスは海軍省の有能な文官である。彼の時代にイギリス海軍はオランダ海軍を破り、オランダの黄金時代は終わった。さらに海軍の増強に力をそそぎ、この火事から130年後にはネルソン提督がフランスに大勝利したが、ピープスの功績は「日記」を残しただけではなく、七つの海を支配した大英帝国の成立にも一官僚として貢献しているのである。>

女たちが水くみ場で水を運んでいるのは見て気持ちが良かったが、女たちは水のことで下品な口をきき、水を飲むときは不作法であった。

残り物の砂糖が街に散っていたが、皆が行って一握りずつもちさり、ビールにまぜて飲んでいた。現在はかなり状況が改善されてきたので、私は船に乗り、サウスウォークにまで行き、さらにウェストミンスターまで行った。私は全身汚れていたので、服を着替えることを考えていたのである。シャツや手袋を買うところがなかった。ウェストミンスター・ホールには日常雑貨が一杯あったからである。ウェストミンスターの商人達は品物を移動させ、金は船でノンサッチまで運んでいた。そこでスワンに行ったが、そこもなかった。その後ホワイト・ホールに出かけたが、誰にも会えず、家に向かった。

惨めな光景はテームス河である。火事が収まったテンプルにいたるまであたりには家屋も教会もなかった。家に戻り、サー・W・バッテンと隣人であるナイトリーと一緒にサー・R・フォードの所に行き、陶器の皿で食事をした。このナイトリーともう一人だけが、ここに家財をおいており、この近所ではきちんとした服装をしていた。他の連中はすべて家財を移動させて、家だけは火の成り行きに任せていた。食事は羊の胸肉を揚げたものであった。一同大いにはしゃいだ。実際楽しい食事だった。たしかに私の人生でこれほど見苦しいのは食べたことはないが。

それからデプトフォードに下り、安心して私の家財すべてをサー・G・カーテレットの倉庫においてきた。なくなっているのものも、傷が付いているのもなかった。

大いに満足して家路についた。その後サー・W・ブラッテンの所に行き、そこでサー・R・フォード、ナイトリー氏、ウィザーズと称する男、紛れのない嘘つきで詐欺師と一緒になった。簡単な食事をとり、大いにはしゃぎ、憂さを晴らした。

そこから役所に向かい、作業員で一杯の役所でねむった。作業員は一晩中そこで話をしたり、寝たり、歩いたりしていた。炎上中のクロースワーカー・ホールの光景はすごかった。三日三晩火焔に包まれていた。貯蔵庫に油がついていたのである。

全4ページ

[1] [2] [3] [4]

[ 次のページ ]


.
fminorop34
fminorop34
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

過去の記事一覧

検索 検索

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト≪さとふる≫
実質2000円で好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!
数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事