ヘ短調作品34

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ルブランの回想録

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第3章 制作と楽しみ(4)

ある夜のことです。詩人ルブラン(Ponce Denis ??couchard Lebrun , 1729 –1807 )の朗読を聞くために十数人の友人を招待しました。私たちが友人を待っている間に弟が「アナカルシス(Anacharsis)」の数ページを読んでいましたが、ギリシャの晩餐の記述にさしかかりました。ソースの作り方が解説されていました。「今晩、これをやってみたら」と弟は言い出しました。私はすぐに調理人を呼んで適切な指示を与えました。鶏にはあるソースを、ウナギには別のソースを作らせることにしました。きれいな女性たちが来る予定でしたので、私はギリシャの服装を考え付きました。ムッシュー・ド・ヴォドレイ(de Vaudreuil, 1740–1817)とムッシュー・ブタン(M. Boutin )は十時までは来られないことがわかっていましたので、二人を驚かせてやろうと思いついたのです。私のアトリエにはモデルに着せる布地がいっぱいありましたので、仮装着の材料には事欠きませんでした。さらにド・パロア伯爵(Count de Parois)はド・クレリュ通りの私たちのマンションに住んでいましたが、彼は見事なエトルリアの壺の収集家でした。たまたまその晩、彼が私に会いに来ました。私は計画を彼に打ち明けました。彼はたくさんの杯や壺を持参してくれ、私はその中から選びました。私はこれらの品を自分で綺麗にして、テーブルクロスを取りマホガニーの食卓に並べました。次に私はそのうしろに、大きなスクリーンを置きました。一定の間隔の壁掛けでそのスクリーンを隠すためです。これはプッサン(Nicolas Poussin, 1594 - 1665)の絵にあるようにするためです。ランプはテーブルを照らしました。すべて準備は整いました。あとは私の衣装です。その時ジョゼフ・ヴェルネのお嬢さんである、魅力的なマダム・シャルグランが最初に到着しました。私は彼女の手を取り、彼女の髪を整え、彼女の着付けをしました。次に非常な美人のマダム・ド・ボヌイル(Mme de Bonneuil, 1748–1829)が現れました。私の義理の妹であるマダム・ヴィジー、彼女は美人ではありませんが、この上なく美しい眼の持ち主です。これで三人です。三人とも紛れもないアテネの女に仮装しました。ルブランが入ってきました。私たちは彼のパウダーをふき取り、彼のカールを直し月桂樹の冠をかぶせました。ド・クビエーレ侯爵(marquis de Cubi??res, 1747 - 1821)が到着しました。みなが黄金の竪琴にするためにギターを取り寄せに行っていいる合間に、私は彼の衣装を担当しました。同じようにマダム・ド・リヴィエールと有名な彫刻家ショーデ(Chaudet , 1763–1810) の衣装も替えました。

時間は過ぎていきます。私自身のことをかまう時間はほとんどなかったのですが、私はいつもチュニック風のガウンを着ていましたので ― 今ではブラウスと言いますが ― ヴェイルと花輪を頭にかぶればいいのです。私の娘はかわいい女の子でしたが、彼女の衣装には困りました。マダモアゼル・ド・ボヌーイ(Mlle. De Bonneuil)、現在ではマダム・ルニョー・ダンジェリ(Mme. Regnault d'Ang??ly)ですが、彼女は天使のように愛らしかったのです。二人ともうっとりするほど美しく、古代の軽い壺を持ち、いつでも飲み物を注ぎます。

9時半には準備は終わりました。10時にはド・ヴォドレイ伯爵とムッシュー・ブタンの馬車の音が聞こえました。二人の紳士がダイニング・ルームの扉の前に着いたとき、私はドアを開きました。私たちはグルックの合唱曲「パフォスの神(Le Dieu De Paphos)」を歌って二人を迎えました。ムッシュー・ド・クビエールが竪琴で伴奏しました。私の生涯でムッシュー・ド・ヴォドレイとお友達ほど驚いた顔を見たことがありません。二人は驚きかつ喜び、しばらく立ったままでとっておいた席に座るのに時間がかかりました。

ルブランの「回想録」は不出来ですが、試訳はあります。ゲスト・ブックを御覧下さい。




* アナカルシスは古代スキタイの哲人、ギリシャに旅している。18世紀のギリシャ・ブームで再び脚光をあびた。
* 「パフォスの神(Le Dieu De Paphos)」はグルックの歌劇「オルフェオ」

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第3章 制作と楽しみ(3)

この中でも夕食会にご招待した最も聡明な方々は、アッベ・デリーユ(Abb?? Delille)、詩人ルブラン(Ponce Denis ??couchard Lebrun , 1729 –1807)、シュヴァリエ・ド・ブフレール(chevalier de Boufflers, 1738 –1815) 、セギール子爵(Viscount de S??gur)およびその他の方々が、この集いをパリで最も楽しい夕食会にしてくださいました。1日の仕事から解放されて、15人ばかりの人たちがホステスの家に集まり、楽しい夜を過ごした時代をご存知ない方は、どんな社交界がフランスにあったかお分かりにならないと思います。このような軽い夜の食事のくつろぎと楽しさ、これはどんな豪華な晩さん会にもないものです。お客さんの間には信頼と親密があったものです。パリの良き社交界が全ヨーロッパの社交界に勝るのは、このような夕食会なのです。わが家では、例えば9時ごろに集まります。政治の話をする人は誰もいません。文学を語り、その時々のエピソードを話しました。時にはシャレード(Charades)で気晴らしをしました。アッベ・デリーユや詩人ルブランが詩を朗読することもありました。10時すぎにはテーブルにつきました。わが家の夕食はいたって質素なものでした。メニューは鳥、魚、野菜、サラダでした。時はあっという間に過ぎ、深夜には解散でした。

自宅で夕食会をするだけではなく、私は時々外の夕食会にもまいりました。ダンスになることもありました。今日のように人出でむせ返るようなことはありませんでした。8人でスクエア・ダンスをしました。ダンスをしない女性は見物していました。男性はそのうしろに立っていました。私はザクセン大使ムッシュー・ド・リヴィエール(M. de Rivier)のお宅で夜を過ごすことがありました。ユーモアと品位では傑出した人物でした。

ここで喜劇か軽いオペラを演じたことがありました。ムッシュー・ド・リヴィエールのお嬢さんは歌がお上手でした。女優としても通用したでしょう。ムッシュー・ド・リヴィエールのご長男は、喜劇役に向いておられました。オペラや演劇の本職の方にも出ていただきました。マダム・ラルエット(Mme. Laruette)は舞台から引退して数年になりますが、われら劇団員を軽蔑したりはしませんでした。彼女は私たちのオペラに出てくださいました。彼女の声は依然として若々しいものでした。私の弟ヴィジーは主役を演じ、好評でした。ようするに、われら全員はいい俳優でした。タルマ(Fran??ois-Joseph Talma,1763- 1826)はまるでダメでした。こういうと読者はきっと笑わらわれるでしょう。タルマは恋人役を演じましたが、非常にぎこちなくて内気で、彼が偉大な俳優になろうとは誰も思いませんでした。ですから、われらの主役がラリヴ(Larive)をしのぎ、あのルケン(Lekain ,1728 - 1778))にとってかわったのにはビックリしました。他の分野に比べて演劇的才能を完成させるには時間が必要なのだと私は思いました。

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第3章 制作と楽しみ(2)

私は必死になって描き続けました、1日に三人の肖像画を描いたこともありました。食後も肖像画を書き続け、疲れ果て胃の調子がおかしくなりました。私は何も消化できず、やせ細ってしまいました。友人たちの勧めで医師に診てもらいました。医者は食後毎日寝るように云いました。この言いつけに従うのは大変ですだが、ブラインドをおろして部屋に閉じこもりました。そのうちに慣れ、この習慣のおかげでこれまで生きてこられたと思っています。休息を強制されて残念だったのは、外で食事をするという楽しみを奪われたことです。私は昼のあいだ描き続けましたので、夜までお友達に会えませんでした。確かに社交界の楽しみは私には無縁でした。私は夜には洗練され、教養ある人たちと過ごしました。

結婚後はクレリュー通りに住んでいました。ムッシュー・ルブランは豪華な家具をそろえた部屋を借り、大画家の絵画を持っていました。私はといえば、小さな控えの間と寝室があるだけです。それすらも私のアトリエになっていました。この部屋にわずかな調度品があり、質素な壁紙が張ってあるだけでした。この部屋でお友達や宮廷からのお客様をお迎えしたのです。誰もが私の夜のパーティーに来たがりました。人数が多すぎて椅子が足りなくなり、フランスの元帥が床に座ったこともあります。覚えておりますが、ド・ノアイユ元帥(de Noailles 1713–1793)は高齢の方で、大変太っていましたので、立ち上がるのが大変でした。

もちろんこんな偉大な方々が、私目当てにいらっしゃるといいたいところですが、パーティーのとき他の方に会いたくて来られる方もみえました。ほとんどの方はパリで最高の音楽がお目当てでした。グレトリ、サッチーニ(Antonio Sacchini, 1730 –1786)、マルティーニ (Jean Paul Egide Martini, 1741 – 1816)のような有名な作曲家がオペラの初演前にわが家で曲を披露したものです。常連の歌手はガラー(Pierre-Jean Garat, 1764 –1823 )、アスヴェード、リシェール、マダム・トーディでした。私の義理の妹は声がよくて、どんな曲でも初見で歌えましたので、大変重宝でした。私が歌うこともありましたが、正直ちゃんとしたものではありませんでした。ガラーはとびきりの名人といって差し支えないでしょう。彼のような弾力性のある喉の持ち主には難曲というものはありませんでしたし、表現力に関しては彼に匹敵する歌手はいませんでした。グルックを彼ほど見事に歌った人はいないと思います。

バイオリニストのヴィオッティ(Giovanni Battista Viotti 1755 – 1824) も来てくれました。優雅で、力強く、表現力があり、うっとりしてしまいます。ヤルノヴィック、マエストリーノ、アマチュアですがとてもお上手なプロシアのハインリッヒ公もいらっしゃいました。ザレンティンはオーボエを、フルマンデルとクラメールはピアノを演奏しました。マダム・ド・モンジェルーも結婚後一度みえました。彼女は当時、非常に若かったのですが、見事な演奏特に表現力で気難しい私の友達も仰天してしまいました。彼女は正に楽器を歌わせました。マダム・ド・モンジェルーはその後一流のピアニストになり、作曲家としても有名になりました。私がコンサートを催していた頃は、趣味と余裕を持って楽しみました。その後何年かして、音楽が一般的になると、グルック派とかピッチーニ派とか呼ばれる人たちの間で深刻な論争が起こりました。愛好家は二派に分れました。戦場となるのはいつもパレ・ロイヤルの庭園でした。グルック派とピッチーニ派が互いに暴力的になり、一度ならず決闘沙汰になりました。

常連の女性としては、ド・グロリエール侯爵夫人(Marquise de Grollier, 1742-1828)、マダム・ド・ヴェルダン、ド・サブラン侯爵令嬢(Marquise de Sabran)、彼女は後にシュヴァリエ・ド・ブフレール(Chevalier de Boufflers)と結婚しました。それに、マダム・ル・クトー・ド・モレ(Mme. le Couteux du Molay) ― この四人とも私の親友でした。ド・ルージュ侯爵夫人(Marquise de Roug??,)と友人のマダム・ド・ペゼ(Mme. de Pez??)ー、私はこの二人を一枚の絵に描きました。それに、私の部屋は狭いものですから、いつもと言うわけにはいきませんでしたが、フランスや外国の貴婦人方に来ていただきました。男性に関しては、ここに書き切れません。

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第三章 制作と楽しみ(1)

フランドルへの旅

1782年ムッシュー・ルブランは、私と一緒にフランドルに行きました。彼は仕事のことでこの地に呼ばれたのです。シャルル公のすばらしいコレクションの売却がブリュッセルであったからです。二人でそれを見に行きました。私を優しく迎えてくれた女官に会いました。ダランベール王女もみえましたが、私は彼女とパリでお会いしました。ここでお知り合いになれて嬉しかったのはド・リーニュ王女でした。この方とはまだお知りあいではありませんでしたが、ユーモアと暖かい人柄で有名でした。私たち二人を彼の部屋に案内してくださいました。ここでいろんな傑作を鑑賞しました。とくにヴァン・ダイクの肖像画とルーベンスの胸像が素敵でした。でもイタリアの絵画はほんの数点でした。彼はご丁寧にも、彼の壮大な邸宅に私たちを招待してくださいました。私が記憶していますのは、彼が私たちを見晴らしのいい展望台に連れてって下さったことです。丘の頂上にあって、彼の領地とその周辺を見渡すことができました。私たちが吸った最高に気分の良い空気と見事な眺めは、それは魅力的なものでした。この素敵な領地で、一番すばらしかったのは、この邸宅の主のご挨拶でしょう。この方の上品な心遣いと、作法は他の人には真似ができないものでした。ブリュッセルの町は繁栄していて活気がありました。上流階級の人たちは人生を楽しむことが大好きで、ド・リーニュ公のお友達は正午にはブリュッセルを出発して、ちょうどカーテンが上がるときにパリのオペラ座に到着し、公演が終わると一晩でブリュッセルに戻ります。オペラ好きとはこういうものです。

私たちはブリュッセルを発ちオランダに行きました。私はサールダムとマースリヒトが気に入りました。この二つの小都市は大変きれいで、手入れが行き届いていますので、誰もが住民をうらやみます。街は非常に狭く、運河が張り巡らされていますので、馬車には乗りませんが、馬や小舟が商品の輸送に利用されます。家は低く、扉が二つあります。誕生の扉と死の扉です。人は棺に入ったときだけ死の扉を通るものです。家の屋根はピカピカに磨かれた鋼鉄の様に光り、輝いています。何もかもが念入りに手入れされています。私は覚えていますが、鍛冶屋の店の外に、ランプのようなものが吊してありました。金メッキされ、磨かれていて、まるで貴婦人の個室用のランプでした。この地方の女の人は非常に美しく見えました。でも内気で、外国人を見かけると、すぐに走り去りました。しかしながら、この国にフランス人がいたら、この人たちも外国人に慣れていたのにと思いました。

私たちは最後にアムステルダムを訪問しました。私は市庁舎でヴァン・ルーが描いた議員の集会の壮大な絵を見ました。信じがたいことですが、この大画面の中に、すべてが細かく、自然に描かれておりました。議員たちは黒い衣装を着ておりました。顔、手、衣装すべてが真似のできない巧みさで仕上げられていました。議員たちは生き生きとして、まるで彼らが私たちと一緒にいるみたいでした。この絵はこの種のものでは完璧なものであると信じました。私はこの絵から離れがたく、この絵の印象は今でも残っています。

私たちはフランドルに戻り、ルーベンス(Peter Paul Rubens 1577 – 1640)の傑作を見ました。パリよりも、はるかに効果的に展示されていました。フランドルの教会ではすばらしい効果がありました。ルーベンスの作品は個人の部屋に飾ってありました。その一つがアントワープにありました。有名な「麦わら帽子」(*)ですが、最近イギリス人に高額で売却されました。この見事な絵はルーベンスが描いた女の肖像画です。私は嬉しくなり、非常に感銘を受けましたので、同じような効果を出そうと努力し、自画像をブリュッセルで描き上げました。私は、羽と花輪で飾った麦わら帽子をかぶりパレットを手にした自画像(**)を描きました。この自画像はサロンに展示されました。遠慮なく言わせていただきますが、この作品は私の評判を相当高めることになりました。有名なミューラーがこの銅版画を製作しました。銅版画の暗い影がこのような絵の全体的効果を損なっていることはご理解いただけると思います。フランドルから帰って早々に、今申し上げた自画像と他の作品をみて、ジョゼフ・ヴェルネは私を王立美術アカデミーの会員に推挙することにしました。国王の主席画家であるムッシュー・ピエール(***)は強く反対しました。花を美しく描くマダム・バライェール・コステル(Anne Vallayer-Coster , 1744 –1818) )はすでに会員であるが、女を会員にするのは望ましくないといいました。マダム・ヴィアンもすでに会員だったと思います。ムッシュー・ピエールは凡庸な画家でしたが、世才にたけた人でした。それに彼はお金持で、絵描きさんたちを豪華にもてなすことはできました。絵描きは今日ほど裕福ではありませんでした。もし、すべての真の美術愛好家がアカデミーに無関係でしたら、もしムッシュー・ピエールに対立して私を守ってくれなかったら、彼の反対意見は決定的だったでしょう。とうとう私は会員になることを認められ、寓意画を提出しました。



* ルーベンスの「麦わら帽子」




*** ルブランがマリー・アントワネットの圧力にもかかわらず、ロイヤル・アカデミー会員への推挙が難航したのは、夫が「芸術」を商売の具にしているからであった。ワインを商うなら許せるというのである。

それにロイヤル・アカデミーの「改革」の主導者は、女性の排除にこだわったのである。フランスの美術の栄光を維持するためには、若い時期の画学生が女で気が散ってはならない。女子学生の入学は論外であるが、学校の周囲に女性を立ち寄らせないようにできないものかと真面目に考えていた。

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第二章 名声への階段(6)

この絵はヴェルサイユの一室に置かれました。王妃はこの部屋を通ってミサに出かけ戻りました。1789年の始めに皇太子が亡くなられましたが、この絵を見るたびに彼女の辛い出来事を想い出しては部屋を通るたびに涙を流されました。彼女はムッシュー・ダンジュヴィリエにこの絵を運び出すように命じられました。いつものようなご配慮で、彼女は私にこの絵を外した動機を言われました。私の絵がまだ残っているのは実に王妃の感受性のおかげです。うるさい女どもがヴェルサイユに両陛下を捕まえにきたのはそのすぐ後です。女たちは王妃のベッドを無惨に引きちぎったようにこの絵を壊したことは間違いありません。

ヴェルサイユでの最後の舞踏会以後マリー・アントワネットにお目にかかる栄に浴したことはありません。舞踏会は劇場で行われました。私が座ったボックスは王妃がおっしゃることは聞こえる所にありました。王妃ははしゃいで、宮廷の男性に踊りましょうと言いました。それもムッシュー・ラムト(M.Lameth;軍人ラムト兄弟の一人?)のような人にです。彼の家族は王妃の思いやりにたまげました。他の男性はみな遠慮してしまい王妃は舞踏をあきらめました。私はこれらの男性の振る舞いは非常に失礼だと思いました。この遠慮は反乱のように思われました。もっと深刻な反乱の前触れです。革命は近づいていました。事実、まもなく起こったのです。

例外としてアルトア伯の肖像画を私は描いておりませんが、王室の方々を次々に描いております。王家のお子様方、王弟君、後のルイ18世(Louis XVIII 1755 – 1824)、マダム・ルヴァイヤル(Madame Royele 1778–1851)、アルトア伯夫人(Countess d'Artois.)、マダム・エリザベス(Madame Elisabeth 1764-94)を描きました。最後に名前を上げた奥方ですが、顔立ちこそ整ってはいませんが、優しくて親しみのある表情の方でした。新鮮な肌はすばらしく、かわいいらしい羊飼いの娘のような魅力がありました。彼女は善の天使でした。貧しい人達への慈善行為を見かけたことは幾度となくあります。全ての徳を備えた方でした。大革命のとき彼女は英雄的な勇気を示されました。王妃を殺しに来た人食いどもに「王妃を私と間違えるでしょう!」と言われ、進んで会いに行かれました。

王弟様を描いた肖像画のおかげで、ある高貴の方とお知り合いになる機会を得ましたが、彼のユーモアと学識はお世辞抜きで賞賛されるべきものです。ルイ18世と会話する楽しさったらありません。陛下は全ての臣下に同じような趣味と理解力をもって話しかけられます。しかし明らかに話題を変えるためでしょう。ポーズを取りながら、彼は私に向かって歌いかけました。庶民的な歌をうたわれるものですから、宮廷内にどうやってこんな歌が入り込むのか理解に苦しみました。彼よりも音程のはずれた歌をうたう方はいないでしょう。「わしの歌をどう思うかね?」とある日たずねられました。「殿下王者の歌でございます」というのが私の答えでした。王弟の侍従長、ド・モンテスキュー侯爵は六頭立ての見事な馬車を仕立てて、ヴェルサイユに送りむかいしました。私の要請で母も一緒でした。行く途中、窓際に立って私が通るのを見ました。全ての人々が帽子を取りました。六頭立ての馬車と騎馬従者に対する敬意は楽しいものでした。私がパリに戻ったとき、辻馬車に乗りましたが、誰も私に気づく人はありませんでした。

このときド・ランバル公夫人(Princesse de Lamballe, 1749 - 1792)を描きました。美人ではなく、すこし離れると事実美人ではありませんでした。彼女は顔に特徴がなかったのですが、肌は実にまばゆいほど若々しく、金髪の巻き毛はすばらしく、人柄が上品でした。この不運な王女の不幸な最後はよく知られているところです。彼女の忠実さもよく知られていますが、この忠実が仇となりました。1793年に、彼女は全く安全なトリノにいましたが、王妃の危機を知り、フランスに戻ってこられたのです。

* ド・ランバル公夫人の亡命先と没年のウィキペディアの記述は一致しない。

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