|
第二章 名声への階段(5) 女王が肖像画のモデルになる約束をくださいましたのに、私がその面会の約束を守れなかったことがあります。突然気分が悪くなったからです。次の日お詫びにヴェルサイユに参上しました。王妃は私が来るとは思ってみえなかったようです。馬車に乗って外出されるところです。宮殿のお庭に入ったとき、私が最初に拝見したのは彼女の馬車でした。しかしその日の当番の侍従たちに話をするために上の階に行きました。侍従の一人ムッシュー・カンパン(M. Campan, Madame Campan (1752-1822)の夫)がよそよそしく横柄な態度で私に応対しました。そして大きな声で怒鳴りました。「マダム、王妃様はお待ちしていたのは昨日ですよ。陛下は外にお出かけだと思います。本日あなたのためにモデルになるとは思えません!」私が王妃様の他日のご命令をお受けするために来ましたと答えると、彼は王妃のもとに行き、直ちに私を彼女の部屋に案内しました。彼女は化粧を終えられ、本を手にされ、王女が暗唱されるのを聴いておられました。悪いのは私ですから、私の心臓は早鐘のように打ちました。しかし王妃は私を見上げ優しくいわれました。「私は昨日の朝あなたを待っていました。なにかあったのですか?」「陛下まことに申し訳ありません」と私は答えました。「私は昨日患っており、陛下のご命令に添えませんでした。さらにご命令を頂きに参りました。私はそれ次第ただちに退出させていただきます」「いいえ行かないで」と王妃はいわれました。「何もしないであなたを返すわけにはいけません!」彼女は外出の命令を取り消され、肖像画のモデルになってくださいました。この優しいお言葉に私が動揺して慌てたものですからうまく対応できず、絵の道具を開けた時に絵筆を床に落としてしまったことを記憶しています。私はかがんで拾い上げようとしました。「かまいませんよ」と王妃は言われ、私がいくら言っても、王妃ご自身で全部拾うと言われました。 王妃が最後にフォンテンブローに行かれた時のことです。盛装であるのが慣行になっていました。私はここに参上してこの光景をみました。私は王妃が大礼服を着ておられるのを拝見しました。全身ダイヤモンドで飾られ、太陽の陽がさすとまばゆいばかりでした。彼女はギリシャ風の首筋をまっすぐにされ、女王の威厳を持って歩かれると、まるでニンフに取り囲まれた女神のようでした。このあとで私が王妃にポーズを取っていただいたとき、私は彼女の印象を述べさせて頂きました。さらに頭を真っ直ぐにされたため、高貴な振る舞いが一段とさえましたと申し上げました。彼女はおどけて「でも私が王妃でなかったら、傲慢だといわれるでしょうね」と言われました。王妃は丁寧で上品な態度でまわりの人々に慕われていましたが、この態度をお子様たちにも必ず教えられました。6歳の王女が農民の娘と食事をさせていましたが、女の子のほしいものを聞きました。王妃はお客さんをまずもてなすように気を配り、「お客様に礼儀正しくなさい」と王女に言いました。 最後にポーズを取って頂いたのはトリアノンでした。ここで私は彼女がお子様と一緒にいる大きな絵を描きました。彼女の髪を整えました。髪と、皇太子、マダム・ルヴァイヤル[Madame Royelle, 1778 – 1851)、ノルマンディー公(duc de Normandie,(1785–1795)の習作をそれぞれ描いた後、非常に重要と考えていた絵に没頭しました。1788年のサロンに出品するためです。この絵は特別の部屋に一つだけ飾られましたが、悪意のある批評が一杯出てきました。「どこから金が出たのだ」と言われました。私には辛い意見が山ほどありました。ついに私は絵を送りました。その後とこの絵の運命を追いかける元気がありませんでした。大衆にまでこのように悪く言われるのは恐かったからです。事実、この驚きで病気になりました。私は部屋に閉じこもり、私の「王の家族」の成功を神に祈りました。そこへ弟とお友達がどっとやってきて絵は大評判だよと言いに来ました。サロン終了後、王はこの絵をヴェルサイユに送りました。王室の美術大臣で、王室の長官であるムッシュー・ダンジュヴィリエ(M. d'Angevilliers)が私を陛下に紹介しました。ルイ16世からお言葉を賜りました。王は喜んでおると話されました。さらに私の絵を見ながら、「私は絵のことは分からないが、君のおかげで好きになったよ」と言われました。
|
ルブランの回想録
[ リスト | 詳細 ]
|
第二章 名声への階段(4) 私が王妃を始めて描いたのは1779年のことです。王妃が若さと美貌の絶頂にあった頃です。マリー・アントワネット王妃は背が高く、体つきがすばらしい方でした。少し太ってみえましたが、太りすぎではありませんでした。腕はすばらしく、手は小さくて、形は完璧でした。魅力的な足をしておられました。王妃の歩き方は完璧でフランスの女性の中でも最高でした。頭をまっすぐに上げて、威厳があり、宮廷の王妃の風格がありました。それでいてこの威厳で彼女の顔の愛らしさを損なわれることは決してありませんでした。王妃に会っていない人には、彼女の人柄の優雅さと高貴さを結びつけることが出来ないでしょう。彼女の顔立ちはちょっと変わっていました。オーストリア人の特徴である長くて細い卵形の顔立ちを受け継いでいました。目は大きくありません。目の色はほぼ青でした。鼻はすっきりしており、愛らしく、口は大きすぎませんでしたが、唇はちょっと太い方でした。彼女の顔で特筆すべきは、肌の色の素晴らしさでした。こんなにすばらしい肌は見たことがありません。彼女の肌は透明で絵に茶色はいりません。この肌の効果を思うようには描けませんでした。こんな新鮮さ、繊細な色を描く絵の具がなかったのです。これは彼女にしかないものですし、他の女性で見たことはありません。 はじめてモデルになって頂いたときは王妃の堂々たる態度に私は怖じ気づきました。しかし王妃は優しく話しかけられましたので、私の恐怖心も消えました。この時でした。私は大きなバスケットを持ち、サティンのドレスを着て、手にバラを一輪持っておられる絵を描きました。この肖像画は王妃の兄の皇帝ヨゼフ2世陛下のために描かれたものです。王妃はそれ以外に2枚の模写を注文されました。一つはロシアの女帝に、もう一つはヴェルサイユかフォンテンブローのご自身のお部屋に飾るためでした。 私は王妃の肖像をいくつか描きました。腰から上の肖像を描きました。私は彼女がうすいオレンジ・レッドのドレスを着て、テーブルの前に立ち、花瓶に花を活けている所を描きました。幅の広いフープスカートを着ないで、普段着の彼女を描きたかったのですが、想像して頂けるでしょう。この肖像画をお友達や外国の公使たちにプレゼントしていました。一枚の絵はわらの帽子をかぶって、白のモスリンを着ていました。そではきちんとですが、まくれていました。この作品がサロンに展示されたとき、悪意のある人たちは王妃がシュミーズを着ているところを描いたと評しました。その頃は1786年ですから、彼女に対する中傷が激しかった頃です。それでもこれらの肖像画はたいへん好評でした。 展覧会の最後の頃にボードヴィル劇場で小作品が上演されました。「絵の集会」とかいうタイトルだったかと思います。建築家のブロンニアール(Alexandre-Théodore Brongniart 1739 – 1813)と夫人が一階のボックス席をとり、劇の最初の公演で私を呼んでくれました。脚本家は二人には劇の筋を内緒にしていました。私をびっくりさせようという魂胆があるとは思いもよらず、絵を描いている場面が登場し、王妃の肖像を描いている私を女優が演じました。そのときの私の気持ちを察してください。同時に普通席やボックス席の全員が私の方を向き、拍手喝采をしたのです。あの晩の私ほど感謝の念を抱いた人がこの世にいるとは思えませんでした。 私はありがたいことに王妃に親しくしていただきました。王妃は私の声がちょっと良いことを耳にされてからは、肖像画を描かせていただくときは、私はグレトリーと一緒に二重唱を歌ったものです。彼女自身、歌はお上手ではありませんでしたが、音楽が大好きだったからです。彼女の魅力や愛想の良さをここでお伝えするのは困難です。マリー・アントワネット王妃が彼女に拝謁の栄に浴した方には、気持ちのいいお言葉を必ずおかけになったと記憶しています。そしていつも私に下さったご親切は、私のもっともすばらしい想い出です。
|
|
第二章 名声への階段(3) ド・マザラン公爵夫人――インドのフランス大使 出産前のことですが、私はド・マザラン公爵夫人(Duchess de Mazarin 1759−1826)を描いていました。彼女はもう若くはなかったのですが、まだまだおきれいでした。ド・マザラン公爵夫人は誕生の時に富、義務、不幸の三妖精に授かったと言われていました。なにをしても、お友達を持ってもかならずや不運に見舞われるという気の毒な方でした。あらゆる種類の不運の話が広まっていました。ほとんど知られていないことがあります。ある夜のことです。彼女は食卓に巨大なパイを置く計画を立てました。中には小さな鳥が百羽入っていました。公爵夫人の合図でパイが開かれました。鳥が全部羽ばたいて客の顔に当たり、念入りに仕上げた型の髪に止まりました。大騒ぎなったことはご想像がつくでしょう。この鳥たちをどけるわけにはいかず、ついにこのいたずらを感謝しながら食卓を離れなければ行けませんでした。 ド・マザラン公爵夫人は太った方でしたのでコルセットを締めるのに大変時間がかかりました。ある日、彼女はコルセットを締めていたとき、訪問客の到来が告げられました。「あの方のお肉を整えるまでお入りにはなれません」とメイドが叫びました。この太りすぎがトルコの大使たちの賞賛の的になったことを想い出します。オペラ座でボックス席にお呼びしたいのはどなたかと聞かれたとき、彼らはためらうことなくド・マザラン公爵夫人を指さしました。彼女が一番太っていたからです。 大使といえば、そうそう記憶していることがあります。私は外交官を二人描いています。二人とも赤銅色の肌をしていましたが、顔立ちがすばらしかったのです。1788年のことですが、マイソールのサルタン・ティプー・サヒーブ(Sultan Tippoo Sahib 1749-1799)がパリに特使を派遣してきました。オペラ劇場でこの人たちを見ましたが、絵になると思い、肖像を描きたくなりました。しかし通訳と話をしていましたが、主君からの要請状がこない以上、描いてもらうわけにはいけないといいました。私はなんとか陛下のお許しを得ました。私は二人の外国人が泊まっているホテルに行きました。彼らは気楽にしているのを描いて欲しかったからです。私が到着するや一人がバラ水のジャーを持って来て、私の手に振りかけました。一番背の高い人、ダヴィッチ・カーンといいましたが、私に着席を勧めてくれました。彼には短剣を手にして立ってもらいました。彼はすぐに自分の自然なポーズを取りましたが、私はあえて直しませんでした。別室で油を乾かし、年配の大使の肖像に取りかかりました。彼がむすこと一緒に座っているところを描きました。父親は威厳のある顔つきでした。金の花のついた白のモスリンのゆったりした服を着ていました。白い服は、広い折り返した袖の長いチュニックですが、豪華なベルトで止めてありました。 マダム・ド・ボヌーイ(Mme. de Bonneuil 1748- 1829)に私がこの肖像画について話したところ、彼女は大使たちに会いたがりました。私たちは大使に晩餐に呼ばれ、好奇心からお受けしました。部屋にはいると驚いたことに、食事は床に置いてありました。そこで私たちもオリエントのホストにならって横になるような格好をしなければいけませんでした。お皿の中身を手でつまみもてなしてくれました。ある皿には羊の足のフリカッセに白いソースが添えてあり、スパイスがきいていました。もう一皿には何ともいいようのない混ぜた料理がありました。食事は必ずしも楽しいものではありませんでした。スプーンの代わりに茶色い手が使われるのはショックでした。大使たちは少しばかりフランス語を話す若い男を中に入れました。私が座っている間に、マダム・ド・ボヌーイは歌謡曲を教えました。おいとまするときにはこの若者は習いたての歌をうたい、さらに「ああ、わが心はなんと悲しいことか!」といいました。大変オリエント的で、この場にぴったりでした。
|
|
第2章 名声への階段(2) 私の継父は引退していましたので、クレリ街にある、ルベールの邸宅に住むことになりました。ムッシュー・ルブランJean Baptiste Pierre Le Brun (1748-1813)がこの家を買ったばかりで、独りで住んでいました。私たちがそこに住み始めてから、彼の部屋を埋め尽くしていたあらゆる流派の見事な傑作をつぶさに見ました。大家の作品に直接ふれることが出来る機会に恵まれて大喜びしました。ムッシュー・ルブランは親切にも私の模写のために、最上級の絵を貸してくれました。こうして彼のおかげでひょっとすると今までで一番勉強になったと思われ、私は非常に感謝しました。6ヶ月経って彼は私に結婚を申し込みました。彼は体格がよくて愛想のいい顔をしていましたが、彼の妻になりたいとは思ってもみませんでした。私は当時20歳で将来に関しては不安を感じたことはありませんでした。私はすでに大金を稼いでいましたから、結婚したいなどと思ってもいませんでした。しかしお母さんは彼が大変裕福だと信じていましたから、何かとこの縁談を受けるように言いました。とうとう私はこの縁談を受けることになりました。継父と同居する苦しみから逃れたいという願望もありました。引退してから彼ますます不機嫌になったからです。これでホットしました。私は教会に行く途中でも「受けようか、断ろうか」と言い続けていましたから。ああ私は結婚を承諾してしまったのです。このために現在の問題と引き替えに新しい問題を抱えることになりました。ムッシュー・ルブランがひどい人であった訳ではありません。彼は誰にも親切でした。一言で言えば、気持ちのいい人でした。彼は物凄い賭博狂で自分と私を破産寸前に追い込んだのです。彼は私の財産を自由にしていました。1789年に私がフランスを出国するとき20フランも無い有様でした。これまで私は少なくとも百万フラン稼いだのですが。彼は全部使い果たしたのです。 結婚はしばらく秘密にしてありました。ムッシュー・ルブランは絵の大きな取引をしていたオランダ人の娘と結婚すると思われていたのですが、この縁談にケリをつけるまで結婚を秘密にしてくれと言いました。この話には喜んで同意しました。私は旧姓を捨てたくなかったからです。私はこの旧姓で知られていましたから。秘密はいつまでも守られませんでしたが、このことが将来大変なことになりました。私がムッシュー・ルブランとの結婚を考えていると信じていた人が数多くやってきました。そんな愚かなことをするなと忠告しに来ました。王冠職人のオーベルが親身になって忠告してくれました。「ムッシュー・ルブランと結婚するぐらいなら、首に石をつけて川に身投げした方がいいよ。」ダランベルク公爵夫人が(Duchess d'Aremberg)、マダム・ド・カニージャス(Mme. de Canillas)、ポルトガルの大使夫人マダム・ド・ソウザ(Mme. de Souza)と連れだって忠告しに来ました。夫婦の絆が結ばれて2週間後のことです。「お願いだから、ムッシュー・ルブランとは絶対に結婚しないでね」と伯爵夫人は叫びました。「結婚したら悲惨よ!」とも言いました。幸せいっぱいの私が信じるわけがない事をさんざん言いました。後に真実だったことをいやと言うほど知らされました。結婚を宣言してこの警告もなくなりました。でも好きな絵のおかげで警告はいつもの元気には影響がありませんでした。各方面からやってくる注文に応じ切れませんでした。ムッシュー・ルブランは私が受け取った謝礼を着服するようになりました。さらに収入を増やす方法を思いつきました。私は彼の目論見にすぐに同意しましたのです。 私が当時描き上げた肖像画の数は桁外れでした。私は当時流行の女性の服装スタイルが嫌いでしたので、この流行を絵のように美しくさせるように努力しました。私はモデルの信頼を勝ち取り、私の好みにあった服装を着せては喜んだものです。皆さんはショールを身につけてはいませんでした。幅の広いスカーフを体や腕のまわりに絡ませました。これはラファエロやドメニキーノ(Domenico Zampieri,1581 - 1641)の美しい衣装をまねたものでした。ギターを弾く私の娘の肖像画がその例です。それにパウダーが我慢できませんでした。私は美しいド・グラモン・カドゥルース公爵夫人(Duchess de Grammont-Caderousse)にパウダーをつけないように説得しました。彼女の髪は真っ黒でした。私は彼女の前髪を分けて乱れ髪にしました。晩餐の時間になり、モデルをしおえても、彼女はその髪型を変えず、劇場にそのまま向かいました。これほどの美人ならもちろん流行に影響します。実際このヘア・モードを真似する女性がまもなく現れ、これが普通になりました。想い出されるのは私が王妃の肖像を描いていたときです。パウダーをつけず、前髪を分けてくれるようにお願いしました。王妃は笑いながら「私が流行の最後を行くことになるわね」と言われました。「広い額を隠したかったとは言われたくないけど」 私が述べましたように、私は注文で追われていましたし、人気も大変ありました。結婚してまもなく、私はフランス・アカデミーの会議に出席しました。ラールプが女の才能につて講演をしました。私が始めて聞くような大げさなほめ言葉を話し始め、私の絵を褒め称え、また私の微笑をヴィーナスの微笑みにたとえ、「ウォーウィック」の著者は私に視線を向けました。この式典に参列されたシャルトル公爵夫人( duchesse de Chartres (1769-1785)とスエーデン王(Gustav III ,1746 – 1792)をはじめ満場が立ち上がり、私の方を向き、熱狂的な拍手をくださいました。私はどきどきし卒倒しそうでした。 このような名誉ある喜びも母になることを知った喜びに比べれば比較になりません。わが子の最初の産声を聞いた喜びを書くつもりはありません。母親になられた方ならだれしもご存じの感情です。
|
|
第2章 名声への階段(1) 皆が私のお母さんを尊敬するものだから大嫌いな継父も当惑したのでしょう。外へ出て散歩してもいいと言うようになり、田舎に土地を持つと言い出しました。この話を聞いて私は大喜びしました。私は田舎が大好きだったからです。私はお母さんのベッドの脚のそばで寝ていました。暗いところで日の光が全然入らない所です。毎朝、天気にはかまわず、窓を広く開けました。新鮮な空気に飢えていたからです。継父は宮殿のあるシャイヨ(Chaillot)の土地に小さな別荘を手に入れました。土曜日にはそこへ出かけ、日曜日をそこで過ごし、月曜の朝にはパリに戻りました。おやまあ!なんという所でしょう。小さくてつまらない庭、木が一本もなくて、熱い太陽を遮るものもなく、木陰があるだけです。彼は豆とキンレンカを植えましたが、育ちませんでした。私たちが使えるのはちゃんとした庭の四分の一だったのです。残りの四分の三は店の売り子に貸してあり、鳥を撃って楽しんでいました。絶え間ない雑音で私はすっかり参ってしまいました。それにこの射撃で殺されるのではないかと思いました。狙いは不正確でしたから。こんな退屈で不細工で、うんざりする所がなぜ「田園」なのか理解できませんでした。とうとうよき天使が私を助けに来てくれました。お母さんの友人です。彼女はご主人と一緒にシャイヨに食事に来ました。こんなところに流された私を不憫に思い、時々馬車に乗せてくれました。 私たちはマルリ・ル・ロア(Marly-le-Roi)にでかけました。これまでに見たこともない美しい場所がありました。すばらしい宮殿には夏の家が六つあり、ジャスミンやスイカズラで覆われた小径があり、行き来出来るようになっていました。お城の後ろにある丘からは水が滝になって流れていました。水は大きな流れになり白鳥がたくさんいました。美しい樹々、緑の絨毯、花、噴水、一つは水が見えなくなるほど高く舞い上がっていました。それは見事で壮麗でした。すべてルイ14世の偉業を物語るものです。ある朝、私はマリー・アントワネット王妃と出会いました。王妃は女官とご一緒でした。みなさまは白の衣装を身にまとい、若くて美しく夢を見ているようでした。私は母と一緒でした。私が退出しようとしたとき、王妃はご親切にも、私に好きな方に行ってもよいと申されました。ああなんと!1802年私がフランスに戻った時、この気高く和やかなマルリー城(Château de Marly)に急ぎました。宮殿、樹々、滝、噴水はすべて無くなり、わずかに石が一つ残っていました。この素敵な庭を後にして不愉快なシャイヨに戻るのはつらいことでした。結局パリに戻り、冬を過ごしました。制作以外の時間を快適に過ごしました。15歳で私は最高の社交界に出かけました。私は有名な芸術家とはすべてお知りあいでしたから、あらゆる所から招待を受けました。彫刻家のル・モアン(Le Moine)と街で始めて食事をした時のことはよく覚えております。彼は大変評判お高い人でした。有名な俳優ルケンに会ったのもここです。野蛮で薄気味悪い容姿で私は本当に恐くなりました。眉毛が大きくていっそう表情が恐いのです。彼はほとんど口をきかず、ひたすら食べていました。 ル・モアヌ邸では著名なゲルビエールと令嬢のマドモアゼル・ド・ロワシーと知りあいました。彼女は大変きれいで、私が早い時期に肖像画を描いた女性の一人です。 グレトリ(André-Ernest-Modeste Grétry, 1741 - 1813)と優れたパステル画家のラトゥールはル・モアン邸の晩餐に来ていました。この晩餐は大変楽しい宴会でした。デザートが出てくるときに歌うことになっていました。若い女性の番が回ってきました。このしきたりはたしかに苦痛でした。女性たちは顔色が悪くなり、どきどきしていました。ですから音程を外して歌うことがありました。不調和でしたが、晩餐は楽しく終わり、立ち上がるのが残念でした。現在のように馬車がすぐに来るわけではありませんでしたが。 昨今の晩餐会については風聞以外に語ることは出来ません。今申しました時以降街で食事をするのはきっぱり止めたからです。ちょっとした出来事で夜しか出かけなくなったのです。私はロアン・ロシュフォール公女にお食事の招待を受けました。盛装して馬車に乗りこもうとして、朝取りかかった肖像画を見直そうとしました。私は始めてのサティンのドレスを着ていました。私は椅子の上のパレット気づかずにイーゼルの前の椅子に腰掛けてしまいました。ガウンの状態がこんなひどい状態になり、外出できなくなりました。これ以来私は、夜のお食事以外には招待をお断りしています。 ロアン・ロシュフォール公女のお食事の会は楽しいものでした。この社交界の中心になったのは、お美しいブリオンヌ伯爵婦人と令嬢のロレーヌ公女、ド・ショアズール公爵(Étienne-François de Choiseul,1719 – 1785)ド・ローハン枢機卿、「論争」の著者ムッシュウ・ド・ルュリエール(Claude-Carloman de Rulhière , 1735 –1791)です。最高に感じの良い客はなんと言ってもド・ロザン公爵(Armand Louis de Gontaut, Duc de Lauzun, , 1747 – 1793))でした。彼より賢くて楽しい人物はいませんでした。彼は皆を魅了しました。夜には演奏や歌がたっぷりありました。私もギターを演奏しながら歌いました。食事は10時半でした。10時とか12時に食卓にいることはありませんでした。みな社交性とユーモアで競い合っていました。私はといえば、ただ話を黙って聞いているだけでした。彼らの会話を充分楽しむには若すぎましたが、普通の話は面白いと思いました。 私の若い頃の人生は珍しいと思います。偉大な画家を思い浮かべるとまだまだでしたが、才能のせいだけで、引っ張りだこになり、世間から歓迎されただけではなく、私は一般の注目の的になることがありました。率直に言ってこれは誇りに思っていました。たとえば、ずっと以前の銅版画を模写して、フルーリ枢機(André Hercule de Fleury, 1653 - 1743)やラ・ブルイェール(Jean de La Bruyère , 1645 – 1696)の肖像画を制作しました。二つともフランス・アカデミーに寄贈しました。ダランベールの秘書を通じて賞賛の手紙が届きました。そしてこの寄贈のおかげで光栄にもダランベールの訪問を受けることになりました。非常に洗練されたマナーの見本のような人でした。彼は長時間わが家にいましたがその間、彼は私を絶賛しました。彼が帰った直後にある貴婦人が私を訪問しました。彼女はラ・ブルイェールとフルーリの絵は実物を見て描いたのかと訊ねました。私は笑いをこらえて「私はそんなに歳をとっていません」と答えました。こんなおかしな質問をしたのは、ダランベールが帰った後でしたから、彼女にとってはさいわいでした。
|

桜と日本人ですね。なぜか、三島由紀夫を思...



