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京都の友人からルーブル展を見に来ないかというメイルが入った。私自身もちろん行く気である。ダヴィッド、ドラクロア、アングルという19世紀フランスの美術界を支配した大御所が見られるのである。いずれも懐かしい名前である。ルーブルに行っていない私には、今回初めてお目にかかるものものばかりである。

前回のエルミタージュ展ではゴヤが評判が良かったが、今回は誰であろうか。

今回はダヴィッドの「マラーの死」を取り上げた。流行の先端を行きたい、つねにモダニストの擁護者でありたいという願望が強い人には、この絵が一番お奨めなのだが、どうであろうか。 私は京都での話題にしたいと思っている。


http://www.ytv.co.jp/event/art/louvre.html

Adeline Ravoux Carrie の証言

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先日エルミタージュ展で集まった仲間は、地球博開催記念で今日から名古屋で開催されている「ゴッホ展」での再会を約束して解散した。

オランダ以外の国で開催される「ゴッホ展」での入場待ち時間は、平日でも最低一時間以上、忍耐強く待って入場しても、押し合いへしあいしての「鑑賞」後、一時間以内で押し出されのがおちである。しかしヴァンサン様がご来名とあれば、ファンとしては意地でも熱狂的にお迎えしなければ気が済まない。

さらに7月29日はゴッホの115回忌である。今日は彼の最後の肖像画のモデルとなり、二つの大戦を生き延び、彼の終焉にかんしては、最後の生き証人となった Adeline Ravoux(1877-1965) について書くことにする。

記憶では、私が20代半ばのころに「芸術新潮」で Adeline Ravoux が記者とインタビューに応じている記事を読んだ。この記憶が正しければ、最後の生き証人の Adeline が死亡した1965年に、昔のフランスの記事を「芸術新潮」が急きょ翻訳したのかもしれない。

私の記憶する記事の内容は、今回読んだ文献からどうも、1953年4月16日の Nouvelle Litteraires の記事ではないかと思われる。日本人のジャーナリストが現在のようにおいそれとフランスまで出かけインタビュウできる時代ではなかったからである。懐かしい記事であるが、私には「芸術新潮」のバックナンバーをめくる気力と体力は残されていない。


Adeline Ravoux は Auvers sur Oise に auberge(木賃宿:19世紀末期では、宿を提供するだけではなく、レストラン、カフェの経営、ワインの販売もするのが一般的だった)を経営する Arthur Gustav Ravoux の娘であり、ゴッホが当地に逗留したときは13歳であり、1890年の5月末から7月までの2ヶ月間、ゴッホを観察することになる。

Adeline Ravoux は、 Irving Stone 原作で、Kirk Douglous 主演、Anthony Quinn 競演の Lust for Life (邦題:炎の人ゴッホ)にも登場しているらしいが、私の記憶には残っていない。原作にも出ていただろうか。そのほかのゴッホ映画にも端役で登場しているようであるが、最近のあるドラマ( Self-Portrait With Bandaged Ear)では彼女はなんとゴッホの相手役である。こうなると Adeline はゴッホ伝説のもう立派なヒロインである。

ただ一番安いという理由でゴッホが選んだ宿は今や、ゴッホを目標にする絵描きや愛好家の聖地 Auvers sur Oise の神殿となり、拝観料を払えば彼の死んだ部屋を見ることが出きる。一階のレストランでは、ゴッホが食べたかもしれない郷土料理も出てくるそうである。ゴッホの絵ほどではないにしても、ランチでも結構いいお値段を請求されるようになった。Adeline もジャーナリストから追いかけられる有名人になり、大戦後ようやく落ち着いたフランスでたびたび証言しているようだ。

彼女の証言で興味深いのは、Auvers でのゴッホの行状である。彼はきわめて穏和で、問題を起こさず、酒も飲まず、宿賃もきちんと払った。アルル時代に住民から精神病院に入院させるよう嘆願が提出された人物とは思えないようないい客であった。

さらに興味深いのは、Dr. Gachet の息子 Paul Gachet の証言に強く反発していることである。Ravoux 家の人々は2ヶ月ゴッホをお世話してきた。ゴッホが自殺をはかってから、たまたまほかの医者が休診だから呼んだのが Dr. Gachet である。Adeline Ravoux にすれば、急に登場した Dr. Gachet と息子がさも一番信頼できる証言者であるかのようにしゃしゃり出て来た。彼女の記憶と違う「真実」を主張する回顧録を息子の Paul Gachet が執筆して、世間もこれを信用しているのが我慢ならない。

すでに翻訳されているのかもしれないが、115回忌とゴッホ展開催記念の意味で彼女の1956年の証言を明日から紹介することにしよう。このとき彼女は76歳、意気軒昂たる Adeline Ravoux Carrie さんである。

Adeline Ravoux で検索すると、青をバックに、青い服を着た、青い瞳の Adeline Ravoux が出てくる。みな彼女の肖像画の複製印刷の広告である。たとえば:

http://www.vincent.nl/?/gallery/paintings/jh2035.htm
http://www.vggallery.com/painting/p_0786.htm
http://www.art.com/asp/sp-asp/_/pd--10273643/Adeline_Ravoux.htm


今日は比較的見つけにくい Adeline Ravoux の写真を紹介することにした。ゴッホ死後数年経って、もう売り出し中であろうか、年頃の娘になっている。お父さんに買ってもらった新調の服を着て写真館で撮ったのであろう。

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<Souvenir de Vincent van Gogh はジャーナリストとの対談をまとめたもので Adeline が書いたものではない。1956年とあるが、対談の日時は明記されていない。ゴッホに関する証言や批評をまとめた Van Gogh --A Retrospective, edited by Susan Alyson Stein に収録されている。なおソフトの制約のため彼女の証言をブログでは3分割した。>



ヴァンサン・ヴァン・ゴーグがわが家にやってきたのは1890年の5月の末頃です。それ以上詳しくは記憶していません。オーヴェール(Auvers)に到着当初はしばらくオテル・サン・トバン(Hotel Saint Aubin)に宿泊していたという話がありますが、私は今まで聞いたことはありませんでした。

<註:ガッシェ医師(Dr. Gachet)はヴァン・ゴーグを他の宿に連れて行ったが、高かったので、アルチュール・ギュスターブ・ラブー(Arthur Gustav Ravoux)の宿に移った。宿屋の娘アデリーヌ( Adeline。1877-1965)が13歳のときに、ヴァン・ゴーグの6月の肖像画「青い服を着た女」のモデルになった。>

二階へ階段を上ってすぐ前に、小部屋がありますが、ここに彼は寝泊まりしていました。昨年五月7日にオーヴェールに出かけたときに、今の経営者に言って、一階の部屋に関する例の間違いを正して来ました。ここはヴァンサンの部屋ではありません。この部屋は(ここで彼は絵を描いていたので、わが家では「アトリエ」と言っていました)通路を広げるために小さくなっていましたが、まだありました。私のオーヴェール紀行は1954年8月12日の Les Nouvelle Litteraires に出ています。

<註:これは様々な証言の不一致の一つである。ガッシェ医師の息子の証言((Paul Gachet, Souvenirs de Cezannes et de Van Gogh--Auvers, 1873-1910, 1953)によれば、ヴァン・ゴーグ は一階の部屋に泊まっていた。しかしながら、Anton Hirschig は二階の部屋にいたこと確認している。>

彼は体格がいいほうでした。肩は怪我をした耳の方に下がっていました。彼は明るく 柔和で、物静かで、人付き合いの悪い人には見えませんでした。フランス語を正確に話し、言葉に詰まることは滅多にありませんでした。彼はお酒をけっして飲みませんでした。私はこの点を強調しておきたいと思います。自殺の日、他の人も同意していますが、一滴も飲んではいませんでした。ずっと後になって、彼が南フランスの精神病院に収容されていたことを知りびっくりしました。オーヴェールでは物静かだったからです。わたしたちは「ムッシュー・ヴァンサン」と親しく呼びかけていました。彼はカフェの常連客と交わることはありませんでした。

彼は宿泊客と一緒に食事をしました。トミー・ヒルシク(Tommy Hirshig:私たちはトムと呼んでいました)とマルティネス・デバルディビエルセ(Martinez de Valdivielse)です。トミー・ヒルシクはオランダの画家、年齢は23か4に見えました。ヒルシクはヴァンサンより少し後にうちの宿にやってきました。彼はフランス語をほとんど知らず、下手なフランス語をしゃべり、言葉の間違いのせいで、みながこらえきれずに爆笑しました。彼は軽い人で、真面目な人ではなく、絵よりもかわいい女の子に熱心でした。ヴァンサンとの関係も上辺だけだったように見受けました。それにオランダ語で会話しますから、理解は出来ませんでした。ヴァンサンは彼とそれほど真面目に付き合っているようには見受けられませんでした。トミー・ヒルシクはヴァンサンの死後まもなくオーヴェールの宿を出て行きました。私としては、ヴァン・ゴーグに魅力的だったのは、宿泊代が3フラン50サンティームと安かったからにちがいありません。いずれにしても、彼を連れてきた来たのがガッシェ先生(Dr. Gachet)でないことは確かです。わたしたちはこのお医者さんとは面識がなく、ヴァンサンの死ぬ前までわが家で一度も会ったことはありません。

<訳注:アデリーヌのいう Tommy Hirschig は Anton Hirschig のことである。なぜアデリーヌがトムと呼んだか分からないが、ここではアデリーヌにしたがうことにする。彼はラブーの宿で自殺を図ったゴーグの目撃者である。1934年の日付の手紙でゴーグを一度も笑ったことのない暗い男と証言している。>

マルティネス・デバルディビエルセはスペインの銅版画家で、カルロス主義者でフランスに亡命してきたのです。家族から多額の送金を受け取り、オーヴェールに家を持っており、食事をしにうちに来ていました。彼は大柄で、ハンサムで、灰色がかった茶色のひげを長くのばしており、貨幣の肖像にしてもよい風采でした。彼は神経質そうに宿の隅々まで調べてまわりました。彼はフランス語を自由にしゃべることが出来、彼が買っているお父さんとは楽しそうに話していました。彼がヴァンサン・ゴーグのキャンバスを初めて見たとき、いつもの激しい口調で叫びました。「いったいどこの馬の骨がこんなことをしてるんだ?」ヴァンサンはイーゼルから立ち上がり、いつものように冷静に「私です」と答えました。こうして二人は知り合いになりました。

二人は仲良くなり、長い時間議論していました。話題はほとんどは絵と二人の知り合いの画家のことであり、一人は熱烈に、もう一人は冷静に話していました。私はマルティネス・デバルディビエルセがヴァンサン・ヴァン・ゴーグの絵をそれほど評価していたとは思えません。それに、ヴァンサンは手紙で、少なくとも最近出版されたヴァンサン・ヴァン・ゴーグの書簡では、彼のことにはふれていません。ヴァンサン・ヴァン・ゴーグの書簡で交友関係について述べてあるのは、ガッシェ先生だけです。でも私は、ヴァンサンが毎週日曜日と月曜日にはガッシェ先生のお宅でご飯を食べていたと言っている「お話」はおそらく間違っていると確信しています。あるいは誇張していると思います。ムッシュー・ヴァンサンはいつもわが家で食事をとり、度々食事を取らなかったという記憶はありません。

<註:テオへの手紙(書簡638)では、ヴァンサンは「毎週日曜と月曜」に、ガッシェ医師の家に食事によばれていたが、彼には苦痛であった。ガッシェと食事をしたのがたまにであるとしても、彼が週にニ、三日は彼の家にいたことは確かである。>

お医者さんとヴァンサンの関係は親密ではなかったと信じています。これは学者さんに研究してほしい問題です。

<註:ガッシェ医師のヴァン・ゴーグとの親身の友情がぎくしゃくしたのは最後のほんの数週間である。>

メニューは当時のレストランで出てくる一般的なもので、肉、野菜、サラダ、デザートでした。ムッシュー・ヴァンサンの好きな食事を覚えていませんが、お皿を突っ返したことはありません。むつかしいお客さんではありませんでした。

信仰上の問題はわが家では起こりませんでした。ヴァンサン・ヴァン・ゴーグを教会でも、神父さんと一緒にいるのも一度も見かけたことはありません。オーヴェールにはたしてプロテスタントがいたかどうかも知りませんが。それに、私が知る限り、村の誰の家にも出かけたことはありません。わたしたちと会話を交わしたこともありません。お父さんはヴァンサンがやってくる数ヶ月前にようやくオーヴェールに根を下ろしたばかりで、当時43歳で、彼と芸術論をかわす人ではありませんでした。もっぱら、現実的な話をしました。でもヴァンサンは、私の妹のジェルメーヌ(Germaine、Madame Gouilloux、現在は私と同居しています) が大好きでした。彼女はまだ二歳の赤ちゃんでした。彼は夜食事が終わると彼女を膝にのせて、石板に馬車に乗った「砂男(marchand de sable)」が砂をひとつかみ投げる絵を描きました。そうすると、彼女はみなとキスをして二階にねんねしに行きました。

<訳注:砂男は夜いつまでも目を開けている子供の目に砂をまいて子供を眠らせるというおとぎ話の人物>

ヴァンサンは私の肖像を描くまで、私とは日常の挨拶をする程度で話をしたことはありませんでした。ある日、「君の絵を描きたいんだけれど、いやかい」とたずねました。彼は大まじめで言っているようでした。私はいいですと答えると、両親の許可を求めました。私は13歳でしたが、16歳ぐらいに見られていました。彼はある日の午後、私の肖像を描きましたが、ポーズをとったのは一回だけでした。ポーズをとっているとき、彼はなにも話しかけませんでした。彼はずっとパイプをくゆらしていたからです。

私がお行儀よく、よくじっとしていたねと褒めてくれました。私は疲れなかったし、彼の絵を描くのながめているのは楽しく、得意になってポーズを取っていました。私は青い服を着て椅子にすわりました。髪の毛を青いリボンで結び、青い目でしたから、彼は背景を青にしたので、青のシンフォニーになりました。ムッシュー・ヴァンサンは四角いキャンバスにもう一枚描いて、弟さんに送ったようです。手紙でそういっていますから。この絵を仕上げるのを見たことはありません。3枚目の肖像画もあるようですが、この最後の絵については何も知りません。はっきり断定できるのは、私がポーズを取ったのは一枚だけです。

<http://www.vincent.nl/?/gallery/paintings/jh2035.htm>

<註:52cm×52cmのレプリカは The Cleveland Museum of Art に、三枚目の肖像画は個人蔵である。>
<http://www.vggallery.com/painting/p_0786.htm>
<http://www.art.com/asp/sp-asp/_/pd--10273643/Adeline_Ravoux.htm>

正直いって、私にはまずまずの満足というところでした。というか、実物に似ていないように見えて、ちょっとばかりがっかりでした。でも昨年、ヴァンサン・ヴァン・ゴーグ のことでインタビューにある人がやってきました。この人は私に会うのは初めてですが、ヴァンサンの絵からすぐに、私と分かりました。彼が言うには、「ヴァンサンは若いときの女の子を描くというよりは、将来のあなたを予言して描いたのですよ。」両親もまったく感心しませんでしたし、これを見た人でほめる人はいませんでした。当時ヴァンサン・ヴァン・ゴーグの絵を理解する人はほとんどいなかったのです。

<註:マクシミリアン・ゴーチェ(Maximilien Gauthier)の1953年4月16日の Les Nouvelle Litteraires の記事のことである。彼はこの絵の複製を見て、長い年月を経た実物の彼女にそっくりだと述べている。>


この絵とお父さんがヴァンサンからもらった、オーヴェールの町役場を描いた絵は、確か1905年まで家にありました。話はもどりますが、私は、カフェの前の通りで ヴァンサンが町役場の絵を描いているのを見ております。7月14日のことでした。役場は旗で飾られ、木には花飾りの提灯がつるしてありました。

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15年後には、絵の具がはげ落ちてきました。そのころわたしたちはムーラン(Meulan)にいました。カフェの向かい側に Hotel Pichon があり、絵描きが宿泊していました。アメリカ人が二人いました。一人はハリー・ハリソン(Harry Harronson) という名前で、パリのマルシェ・ド・ブール通の2(2, rue du Marche-au-Beurre)に住んでいたと思います。もう一人はムーランではサムおじちゃん(le petit pere Sam)と呼ばれていました。またドイツ人とヴァン・ゴーグ家の者だと称するオランダ人もいました。彼らはお父さんがヴァン・ゴーグの絵を二枚持っていることを知っていました。彼らは見せてくれといい、お父さんに絵をゆずるようにいいました。「絵が傷んできており、修復しなければいけない」からと言うのです。最後にはひどい状態になると言われて、お父さんは言いました。「それじゃ、お一人10フランずつ頂きましょうか。」こうして ヴァン・ゴーグの「青い服を着た女」と「革命記念日のオーヴェールの町役場」は40フランでゆずられたのです。

ヴァン・ゴーグはいつも同じように生活していました。朝食をとり、9時頃にはイーゼルと絵の具箱をもって、パイプ(片時も手放しませんでした)をくわえ、絵を描きに野原にでかけました。彼は正確に正午には昼食のために戻ってきました。午後は、描きかけの絵を「アトリエ」で仕上げることもありました。彼は夕食の時間まで仕事をしていることもありましたし、4時頃から夕食の時間まで外に出かけることもありました。夕食後は妹と遊び、「砂男」を妹に描いた後はすぐに2階の部屋に行きました。カフェで書き物をしているところは見たことがありません。夜に部屋で書いていたのだ思います。

さて彼の死について私が知っていることをお話しましょう。

あの日曜日,彼は昼食をすますとすぐに外出しましたが、これは普段とは違っていました。夕暮れになっても戻ってはきませんでしたのでみな驚きました。彼はいつもきちんとして、食事の時間を守っていたからです。わたしたちはカフェのテラスで腰掛けていました。日曜の混雑は平日より大変だったからです。夜になってヴァンサンが戻ってきたときには9時にはなっていたと思います。ヴァンサンは腰を曲げて、おなかを押さえていました。片方の肩を上げる癖がありましたが、その日は極端でした。お母さんが「ムッシュー・ヴァンサン!心配してましたよ。お帰りでみなほっとしていますよ。なにかあったんですの?」と訊きました。

彼は苦しげな声で、「いや、私は・・・」と言いかけて、食堂を通り、階段ををはい上って寝室に行きました。私はこの場面を目撃しています。ヴァンサンの様子があまりに変なので、お父さんは立ち上がり、物音を確かめに階段に行きました。

お父さんはうめき声を聞いたように思われたので、階段を急いで駆け上ると、ヴァンサンは膝をあごにつけて、腰を曲げて寝台に横たわり、大きなうめき声を上げていました。「どうしたの?」とお父さんは言いました。「病気かい?」ヴァンサンはシャツをまくり上げ心臓のへんの傷を見せました。お父さんは叫びました。「なんてことだ、一体何があったのかね?」

「死にたかったんだ」と ヴァン・ゴーグは答えました。

この言葉は正確です。お父さんは私や妹に繰り返し話したことです。家族にはヴァンサン・ヴァン・ゴーグの悲しい死は、わたしたちの人生を通して最大の出来事の一つでした。高齢になってから、お父さんは目が見えなくなり、記憶していることをよく話しましたが、ヴァンサンの自殺の話はよく出てくる話で、非常に詳しく話しました。

ちなみに、お父さんの記憶が信頼できるのか疑う人がいますが、この疑問を晴らしたいと思います。お父さんの記憶力はそれは大したものでした。お父さんは1870年の戦争の記憶をカフェの常連客によく話していました。Les petit parisien の歴史の専門家、サン・ティーブ(Saint -Yves(という人だった思いますが、彼の耳に入り、お父さんの話をたしかめました。お父さんの話はすべて正確であることが確認されました。間違いは一つも指摘されませんでした。

<註:ガッシェ一家の話との食い違いにたいして、一貫してラブー家の話を正当化しようとの趣旨である。>

これでお父さんの証言が価値あると信じていただけるとおもいますので、この偉大な画家の死に関する彼の記憶についてお話を続けることにしましょう。ただ私は、伝記作家がお父さんについて話すときの態度にはあきれました。彼が正直であることはもう評判でしたし、軽々しくラブー小父さん( Le pere Raboux )などとは呼ばれてはいませんでしたよ。彼は尊敬されていたのです。

ヴァンサン・ヴァン・ゴーグ がお父さんと過ごした日曜日の夜から月曜日までに、彼が打ち明けた話を続けてお話しましょう。

ヴァンサンは以前に描いたシャトウ・オーベール(Le chateau Auvers )の向こう側の麦畑に行きました。シャトウはパリのメッシン通り(rue de Messine)に住んでいるムッシュー・ゴセラン( M. Gosselin )のものです。シャトウはうちから500m以上あります。シャトウからどのくらいの所まで行ったかは分かりません。お父さんが考えるには、午後のある時間に、シャトウを下る道で拳銃を発射し、気を失いました。夜の冷気で意識を取り戻しました。四つんばいで拳銃を探し、死のうと思いましたが、見つかりませんでした(次の日にもみつかりませんでした)。ヴァンサンは探すのをあきらめ、道を下り、家に戻ってきたのです。

私はヴァン・ゴーグの苦しんでいるそばにいたわけではありませんが、事件のほとんどを目撃しています。これからお話いたします。

心臓のあたりの傷を見るや、お父さんはヴァンサンがうめいている寝室から駆け下りて来てトム・ヒルシクに医者を呼んできてくれと頼みました。オーベールにはポントワーズ(Pontoise)の医者の診療所がありましたが、お医者さんはいませんでした。お父さんはそこでトムにオーベールの開業医ではないが、町の山手に家のある医師のガッシェ先生(Dr.Gachet)を呼びに行かせました。

<註:ガッシェはオーベールで開業していないが、オーベールの友人や貧しい人を診ていた。>

ガッシェ先生とヴァン・ゴーグの関係はどうだったのでしょうか?お父さんは、ガッシェ先生を知りませんでした。このお医者さんがわが家に来たことはありません。お父さんが手伝っていた時の様子からは、二人に交友関係があるとはうかがい知る余地がありませんでした。でも事実はそうではなかったのですね。

お医者さんが来た後、お父さんは言いました。「ガッシェ先生はムッシュー・ヴァンサンを診察して、持ってきた包帯で傷口を巻いたよ(みなが大けがだのにといいいました)」。彼はもう見込みがない容態だと判断し、すぐに立ち去ったのです。確信していますが、彼は戻ってきませんでした。その夜も翌日もです。お父さんは「診察の時も包帯しているときも、ムッシュー・ヴァンサンには一言も口をきかなかなかったよ。」

お医者さんの家まで一緒に行った後、ムッシュー・ヴァンサンの部屋にあがり、一晩中そこにいました。Tom Hirschig もそばにいました。

お医者さんが来る前に、ヴァンサンはパイプを下さいといい、お父さんは火を付けてあげました。お医者さんが出て行った後タバコを吸い始め、夜時々吸いました。大変苦しそうで時々うめきました。彼はお父さんに胸に耳を当てて、出血の音が聞いてくれないかと頼みました。彼は一晩中しゃべらず、時々眠りました。

<註:ガッシュ側の話では、医師はヴァンサンのパイプに火をつけ、テオに知らせるために家を出たが(7月27日の手紙でテオ知らせている)、その間息子は徹夜で宿にいた。>

次の日の朝、メリー(Mery)署の警察官二人が、噂を聞きつけたのでしょう、家に現れました。リゴーモン(Rigaumon)という警官がお父さんに感じの悪い声で質問しました。「自殺はここであったんか?」お父さんは、お願いですから、もっと優しく言ってください、と言いながら、彼を二階に連れてあがりました。お父さんは警官より先に部屋に入り、こういった場合には、フランスの法律では、尋問することになっているので警官が来たのだよ、とヴァンサンに説明しました。警官は部屋に入り、同じ調子で、ヴァンサンに尋問しました。「お前が自殺を図った男か?」

ヴァンサンはいつもの優しい調子で、そうですと答えました。

「そんなことをしてはいかんことは分かっているだろうが?」

ヴァン・ゴーグは終始同じように答えました。「お巡りさん、この体は私のものです。この体をどうしようと自由です。誰も責めないで下さい。自殺を図ったのは私なんです。」

お父さんは警察官にもう何も言わないでくれとちょっと強い調子で頼みました。

明け方からお父さんは、ヴァンサンの弟テオへの連絡で大忙しでした。体の弱ったけが人からは正確な話を聞けませんでした(彼は警官の訪問中にエネルギーをどっと使って疲れた果てたのです)。しかし、ヴァンサンの弟がパリのモンマルトル大通り(boulevard Montmartre)にあるブッソ・ヴァラドン商会(Boussod Valadon et cie)のディーラーであることを知っていましたので、お父さんは郵便局が開くとここ宛に電報を打ちました。テオは午後の半ばに汽車でやってきました。宿は駅のすぐそばにあり、彼が走ってくるのを覚えています。彼はヴァンサンより少し小柄でやせて、感じのいい顔立ちで、品のいい人でした。でも悲しそうな表情でした。彼はすぐにお兄さんのところに駆け上がり、キスをして、お国の言葉で話しかけました。お父さんは引き下がり、そっとしていました。弟に会えて感激した後、彼は昏睡状態になりました。テオとお父さんはこのけが人の死まで見届けました。彼の死は朝の9時でした。

朝テオと一緒に町役場に死亡の通知に出かけたのはお父さんでした。

わが家はまるで家族の死のように喪に服しました。カフェの入り口は開いていましたが、窓のシャッターは閉めました。棺台が備えられ、遺体は「アトリエ」に下ろされました。

トムは緑の小枝を集め、部屋を飾りました。テオはそこにすべてを置きました。「オーベールの教会」、「ドービニーの庭」、「オレンジを持った子供」等々。ご近所の大工さんのムッシュー・ルヴェール(M. Levert)が架台を貸してくれました。この人の子供は二歳で、ヴァン・ゴーグはこの子の絵を「オレンジを持った子供」で描いたのです。

<http://www.vincent.nl/?/gallery/paintings/jh2057.htm>

棺を作ったのもムッシュー・ルヴェールです。

Les Nouvelles litteraires はオーベールのわが家の写真を載せました。お父さんと妹のジェルメーヌ、ルヴェールの子供と私です。

<訳注:左が父親のラブーとアデリーヌの妹、中央の女の子がアデリーヌで、小さい子がルヴェールの子供である。>

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埋葬は死の二日後の午後に行われました。20人ばかりの絵描さんたちが棺の後を墓地まで歩みました。お父さも、トムとマルティネスそれにムッシュー・ヴァンサンが毎日絵を描きに出かけるのを見ていた近所の人たちも参加しました。

<註:実際は、翌日7月30日の午後に埋葬された。>

戻るときは、お父さんの後に、テオ、トム、ガッシェ先生と彼の息子ポールが続きました。キャンバスが陳列してある、出棺の「アトリエ」にみなが入りました。テオは死去した兄への生前の親切を感謝し、逝去した画家の思い出にキャンバスを受け取ってくれるように申し出ました。お父さんは私の肖像と生前ムッシュー・ヴァンサンからもらった「オーベールの町役場」で満足でした。ガッシェ先生はどうぞと言われると、彼はキャンバスをたくさん選び、息子のポールに渡しました。「坊や、巻きなさい」といって包ませました。そして、テオは妹のジェルメーヌにおもちゃを選ばせました。これは鉄の台所用品の入ったかごでした。最後にテオはお兄さんの持ち物をとりました。彼とは二度と会うことはありませんでした。

<註:これらの絵を含めて、ガッシェの息子は生誕100年を記念して1954年にルーブルに寄贈している。>

後ほど知ったのですが、テオはお兄さんの死後まもなく重病になり、数ヶ月後に死亡したということでした。彼の遺骸はオーベールに戻され、お兄さんの隣に埋葬されました。 ヴァンサンの自殺の動機は何だったのでしょうか?

お父さんの考えを紹介しましょう: テオには男の子が生まれました。ヴァンサンは甥が大好きでした。弟は結婚していましたが、さらにお金が要るようになり、今までのように援助できないとヴァンサンは思ったのです。これがテオがお父さんに打ち明けた動機です。ヴァンサンの最後の手紙はこういう意味だと話しました。この手紙はヴァンサンからテオへの手紙 No.652として出版されています。この手紙はそっくり公表されているのでしょうか?自殺の動機はこの手紙でははっきりしません。

ヴァンサンがお金に困っていたことをテオがお父さんに打ち明けたましたが、そんなことは手紙にはまったく書いてありません。出版された手紙にはテオの話と食い違いがあるとしか思えてなりません。ヴァンサン・ヴァン・ゴーグの手紙には、誰かが避けたい問題が出てきたのではないでしょうか?

<註:食い違いがあるように見えるが、テオの金銭上の逼迫(それに息子の病気や仕事の問題)は、ヴァンサンに心配させないように気遣いながら6月と7月の手紙に書かれている。>

彼の失恋、絵が全く売れなかったことや認められなかったことなど、全く知りませんでした。看病しているときに テオがお父さんに話さなかったら、お金に困っているとは思いませんでした。だって彼は宿賃をきちんと払っていたのですから。

これで私はお話を終わりたいと思います。私の話を残らず、修正しないで出版していただきたいと思います。最近記者の方々とインタビューしましたが、私の言葉を不正確に記録したり、私の主張をご自分の意見、時には不愉快な意見を混じえることがありますし、私の言ったことをねじ曲げたり、その目的のために私の思い出を利用する人たちがいます。それが分かっていたらインタビューをお断りしてましたが。

私は明らかにオーベールのヴァンサン・ヴァン・ゴーグを個人的に知っている最後の人間ですし、彼の最後の日々の生き証人であることは間違いありません。

私の証言には、文学的であろうとする気は毛頭ないために、オーベールのヴァンサン・ヴァン・ゴーグの日々を知るためにきわめて価値あるものと思います。そして昨今広がっている空想物語、誰かは知りませんし、何の目的か知りませんが、そんなのと混同しないでいただきたいのです。オーベールのヴァンサン・ヴァン・ゴーグの日々を書くとき、そんな風に私の証言を利用していただきたくはありません。内容を充分に尊重するという条件のもとで利用していただきたいのです。この真実の目撃者の証言は現在信じられている伝説とは矛盾することはありうることです。

<註:ポール・ガッシェの話は V.Doiteau et E.Leroy の Le Folie de Van Gogh (1928)の出版以来かなりヴァン・ゴーグ文献に影響を与えてきた。>

しかしヴァンサン・ヴァン・ゴーグの生涯を書いた人々(そして彼らの著作を参照する人たち)は目下、新聞社が夢中になっているこの大芸術家の生誕100周年の1953年になってようやく「青い服を着た女」と呼ばれた女を発見したのです。ですから、60年の間、彼の人生の証言者、私のオーベール・シュル・オワーズでのヴァンサンの日々の想い出は研究されなかったのです。彼らはいい加減な根拠に基づいて、オーベール・シュル・オワーズのヴァンサンの伝説をつくりあげたのです。

私の良心にかんがみて、私は見たとおりをお話ししました。そして1890年7月27日のあの悲劇の夜を一人ヴァンサンと過ごしたお父さんから聞いたことをお話ししました。私の話は文書として保存さるべきであり、オーベール・シュル・オワーズのヴァンサン・ヴァン・ゴーグの滞在の真実の物語を書きたい人には参考になると信じます。

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