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上の絵は「少年を誘惑する女ケンタウロス」の連作であり、ナポリの考古学博物館に所蔵されていうケンタウロス・シリーズの一枚である。今回は男のケンタウロスが女に後ろ手に縛られている。捕らえているのはバッカスの従者であり、大酒を飲み、大声で騒ぎたてるメナードである。今回はメナード以外はありえない。生殖のシンボルである松ぼっくいの杖は彼女の持物である。今回のメナードは誘拐どころか、ケンタウロスを縛り上げて自由にのり回している。 余談ではあるが、メナード化粧品というのがある。さらにメナードのオウナーは素性のいい美術品ばかりを集めたコレクターである。だがなぜ社名を飲んだくれの正気を失った女にしたのか解せない。メナードはときに豹の毛皮をまとい、いい女であるが、高級化粧品の愛好家のレディーには相応しくない。
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美術
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「謎の絵」に講釈してきたが、絵の題材を「少年を誘惑する女ケンタウロス」と判断したのは、ナポリおよびポンペイを訪問した友人の示唆もあるが、写真は取れても製版できない十九世紀の銅板作家の絵を参考にしたからである。 この絵の写真をflickrに投稿した人の表題は、「竪琴を手にし女を乗せるケンタウロス」、「バッカスとケンタウロス」、「サティルスとケンタウロス」と多様である。
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私はパウル・クレーの崇拝者だが、彼の盟友であるワシリー・カンディンスキーのことはほとんど知らなかった。最近パリで開かれたカンディンスキーの展覧会に行かれたみつるさんのブログで詳しく報告がなされたので、興味を持ち始めた次第である。彼は画家であるのみならず、評論活動もしていたらしい。私の蔵書である van Gogh; retrospective Susan Alyson Stein 著Park Lane出版に彼の文章がないかと探したら出てきた。カンディンスキーが1909年にミュンヘンにいたときに開催された当時の前衛画家の展示会の模様をサンクト・ペテルスブルクの月刊誌「アポロ Apollo」に寄稿したものである。爆弾でも目を覚まさない「眠れるミュンヘンの美術界」を皮肉っている。ワシリー王子のキスで目を覚ますのはいつのことか? 「ミュンヘン便り」 1909年10月3日 ワシリー・カンディンスキー 一年前にミュンヘンに戻ったとき、すべてが以前と同じ場所に置かれていた。私は思った:ミュンヘンはお伽の国だ。みな眠っている。絵は壁で、見張りは隅で、観衆はカタログを手にしたまま、ミュンヘンの画家は幅広の絵筆を手にしたまま、批評家はペンを口にくわえたまま、みな眠っている。画商も以前は現金を持って精力的に画家の秘書を訪問していた。 ― 彼もまた眠りの精に負け、その場で動かなくなった。 だがある友人が言うには「連中は何かを待っている。何かを起こさねば。分かっている連中なら、こんなはずではないと思っている、・・・ 聞くところでは、二箇所で攻撃が開始され、爆弾が二つ炸裂した。だが猛烈に反撃され、撃退された。爆弾は大きな音を立て破裂したが、怪我人はいなかった」。 この二つの事件は: 最初は、最近のフランスの画家の展示会(三年ほど前に開かれた)が「ミュンヘン美術館 Kunstverein 」で開かれた。最新情報を提供すべく努力したが、失敗に終った。セザンヌ Cezanne、ゴーギャン Gauguin、ヴァン・ゴッホ van Gogh、マンギャン Manguin、マチス Matisse、等々。大部分はシュッフェンネッカー Schufennecker の蒐集である。この展示会を企画したのはパリ在住のドイツ人で名前はマイヤー Meyerとかいった。 次にヴァン・ゴッホの大展覧会(約100点)で、17ヶ月前にブラクル Brakl(ミュンヘンで一番進歩的なアート・ディーラー)の現代画廊で開かれ、関係者を「招待」したが、なかでも「ショレ die Scholle」 のグループ、すなわち、ミュンツァー Muntzer,、アイヒラー Eichler、ゲオルギ Georgi、ピュットナーPuttner、それにミュンヘンでもてはやされているフリッツ・エルラー Fritz Erler。ご存知のように、この面々は「ユーゲントDie Jugend」誌の寄稿者である。 二つの実験は明らかに失敗だった。 ヴァン・ゴッホ・コレクションで売れたのは一点だけである。ミュンヘンに在住のロシア人の画家がなけなしの金で買った。 フランスの画家たちは「真面目な」画家とはみなされず、この地方の美術界の柱ともいうべき物たちは口だけでなく、筆をとり、市民の真面目な趣味に反するとして非難した。
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昨日は復活祭だった。春分後の最初の満月から最初の日曜日が復活祭というのは定年後暇ができてようやく覚えたが、鶯に聞き惚れて桜の花弁の落下を見詰めているうちにすっかり忘れていた。 復活祭といえば、思い出す話がある。復活祭に教会に出かけたキリスト教徒の知り合いと会う機会があった。彼によれば、牧師さんは「『復活』を描いた絵の最大傑作は日本で見ることができる。キリスト者の皆さんぜひ行きましょう」と結んだ。画家の名はマティアス・グリューネヴァルト(Matthias Grünewald)。牧師さんは信者たちと四国の大塚美術館に出かけたそうである。 美術愛好家である別の友人も定年後には イーゼンハイム Issenheim の祭壇画を見にコルマール Colmar へ行きたいと言っていた。聖地は遠くにあるべきものである。辛い長旅であるから巡礼したい。コルマールは聖地なのである。私はまだ大塚には行っていない。 私はイーゼンハイムの祭壇画を解説した Grünewald: le maître d’Issenheim というフランス語の美術書を持っている。いつか苦もなく読み通すことを夢見て今日に至っている。この本を読んで謎の画家の真実が明らかにされるわけではないが、マティアス・グリューネヴァルトという画家の人となりには関心を持ち続けている。 それにしても実に偉大な表現力である。その後のドイツの表現主義の「表現」なぞは画業に行き詰まった末の苦悩の稚拙な「表現」に過ぎない。たしかに宗教画の最高傑作である。このような作品があの時代に生まれたこと自体奇跡である。 カトリック修道会の依頼でイーゼンハイムIssenheimの祭壇画は制作されている。ここまでは順調なグリューネヴァルトの後半生に関する資料がない。彼は何らかの理由で不遇になったと見るべきである。彼はドイツ農民戦争に共感を持ったという説があり、この説は否定し難いようである。彼は宗教上の選択を迫られたのであろうか。聖職者でも神学者でもない一信徒にしてみれば、誕生前に親なり領主なりが宗派を決めてくれれば幸せである。さらに職匠に安定した収入を保証する教会と自らの信条が一致すればなおさら幸せである。 いつものように不遇の芸術家はロマンティックな想像の対象になる。だが祭壇画の凄まじい迫力は単なる職人芸とは言いきれないものがある。「伝説」が主張するように、彼は宗教上の信条に殉じた芸術家だったのかも知れない。唯一の証人はイーゼンハイムの祭壇画である。
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桜と日本人ですね。なぜか、三島由紀夫を思...



