ヘ短調作品34

ルブランの回想録の link 先はゲストブックを御覧ください。

美術

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印象派とドレフュス7

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さてバジールの群像画で残るのはルノアールとされている。ルノアールは経済的にも、アトリエの空間でもバジールに頼っており、絵に出てこないはずはない。私もメートル、バジール、マネ、モネはたしかに印象派の絵の解説書にでてくる通りだと思う。階段から話しかける人物と見上げて話しているのはどちらかは分からないが、ゾラとルノアールであることは間違いないと思う。

さて二人は楽しげに話しており、仲が良さそうであり、事実仲は良かったのだろうと思われる。ルノアールがゾラと仲が悪くなる理由は特にない。ではゾラが『オーロール』紙で『私は弾劾する』を発表したときは彼を支持したかというとそうではない。彼は反ドレフュス派である。そもそも彼は公言してはばからない保守主義者である。

私が仕入れた知識はアメリカのフェミニストであり、ニューヨークに拠点を置く女性の美術史家である。左翼というものがすっかりだらしくなり、左翼と言う言葉が死語になりつつある昨今である。

若い人にきいても右翼は街宣カーに乗って日の丸を振っているから、右翼という言葉は死語ではない。では左翼という言葉は具体的イメージが伴わない。しいていえば最後の左翼は女性闘士フェミニストであろう。

彼女によれば、ルノアールは「極右反動分子」である。だいたい女を描きたがる画家、それも理想化して実物よりも美しく描く画家は反動的であると言わんばかりである。そもそも印象派はリアリズムから出発している。現実をありのままに描くことを基本的理念にしている。それでこそ前衛であった。

ルノアールは現実には絶対に目にすることのない川で水浴びする裸の女を描いている。これはリアリズムの理念に反している。彼は18世紀のブルボン王朝の堕落した宮廷画家の末裔である。そういえば上の絵のモデルは労働者階級である。そのモデル達は絹の衣装を身にまとっていないかもしれないが、ルイ王の愛人然とした貴婦人になっている。これをロートレックが描いたムーラン・ド・ギャレットの絵と比べてみよう。

http://cgfa.sunsite.dk/lautrec/p-lautrec3.htm

もちろんルノアールはこんな批判を気にもとめない。女に教育は必要はないと公言してはばからなかった。教育を受けた女はかわいげはないといっている。しかしルノアールは美術学校に入学しようとして女であるがゆえに断られたベルテ・モリゾにも親切であった。19世紀ではこんな発言は許されたし、女から非難されることもなかった。

もちろんユダヤ人を中傷し、フランスという国を滅ぼす民であると言っても非難されなかった。ニューヨークの人達がユダヤ人の悪口を言う場合、あたりを見回し、声をひそめるのとはちがう。ユダヤ人に毅然たる態度を持つ自分をフランスの愛国者であると信じていた。

彼は自分の絵が18世紀のもっともフランス的な伝統の後継者であることを誇りにしていた。たしかにルノアールの絵はリアリズムの教条にのっとってはいない。そこにフランスの画家ルノアール独特の魅力がある。かくしてはじめてゾラと親交があった人から反ゾラ派が登場した。

前回のべたようにほかの印象派で態度を鮮明にした人達の解説はしばらく休ませて頂きます。

印象派とドレフュス6

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さてまた順番がバジールの絵と一致しないが、マネの後ろで絵を見つめているモネである。彼はカフェ・ゲルボアの常連ではあったが、論争に加わることはなく、聴いていることが多かったという。彼は雄弁ではなかったのだろう。また彼も手紙を書いているが、ゴッホとかピサロのように芸術を語った書簡は知らない。政治の議論にも加わったことはないだろう。

彼の書簡といえば金の無心である。たとえば、糟糠の妻カミーユが長く患い死ぬ前の友人あての手紙である。「カミーユの命はもう長くない。カミーユが大好きでいつも身につけていたブローチは質屋に入っている。なんとかしてこのブローチを請けだしたいのだが、金がない。お願いだから金を貸してくれないか。あの世でもこのブローチを身につけさせたいのだ。」

質屋はユダヤ人とは限らないが、かなりの質屋はユダヤ人である。聖トマス・アクイナスによれば、羊や麦は妊娠して子孫を増やし、羊飼いや農民は豊かになる。彼らの仕事は自然であり、神の摂理に敵っている。金貨は妊娠しない。にもかかわらず金貨を増やしていく仕事は自然ではない。キリスト教徒のすべきことではない。そこで土地を持つことを許されなかった賤民ユダヤ人がこの仕事をすることになる。

質屋とは縁のあったモネがユダヤ人に対してどう思っていたかの証言はない。多分多くのフランス人同様良くは思ってはいなかったろう。一人のユダヤ人の人生は、彼にはどうでもいいことであったろう。彼は反共和派ではない。まあ無党派層といったところか。

そこでゾラとの関係である。ゾラは印象派の人達との交流はあったし、体制に反抗的な人達に同情的な人物である。ゾラは印象派の絵画が傑作だとは思っていなかったみたいである。例外的に小学校以来の親友セザンヌとモネは評価してきた。

彼は『制作』という小説を書いた。主人公は娼婦になったナナの異父兄にあたるクロード・ランティェである。彼は画家を志し、大傑作を描こうとした。彼は結局それに失敗して自殺し、家庭も崩壊するという話である。

この小説のモデルは小説家ゾラ自身であり、セザンヌではないといわれているが、モデル問題で長年続いたセザンヌとの友情は終わり、回復することはなかった。モネも画家であるし、主人公がモネと同名のクロードであったことが影響したかどうかはしらないが、ゾラとの関係は冷えていた。

ゾラが『私は弾劾する』を発表したのは『オーロール』紙である。この新聞の編集者は政治的野心のあるクレマンソーである。クレマンソーはモネを高く評価していた。この人間関係はモネの態度に影響したことは間違いない。

そして冷えていたゾラとの友人関係であるが、この記事を書いたゾラの勇気に感動した。そしてその勇気を褒め称える手紙を書いている。たしかに勇気のいることである。彼は何の得にもならず、ただ危険なだけである、ユダヤ人擁護論を展開したのである。ゾラはもとより裁判で弁護人になるのも身の危険を覚悟しなければいけなかった。

要するに非政治的なモネはゾラの勇気に感銘し、ドレフュス擁護派になったのである。

今日は肖像画がわりにモネの庭園の絵を掲載した。彼のトレードマークであり、自画像のようなものである。クレマンソーもよくここにきて昼食をともにした。

印象派とドレフュス5

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さてバジールのアトリエの右半分はすべて1894年までに死亡している。残る左半分、モネ、ルノアール、ゾラは生きておりその態度はわかっている。

なによりも一番左端に腰を下ろしている人物は分かりにくいがゾラとされる。ゾラはそもそもユダヤ人に対する冤罪事件を大々的に取り上げて国論を二分する大論争に比をつけた人物である。

事件の背景としては普仏戦争で敗北し、重要な地方であるアルサス・ロレーヌ地方をドイツに取られ、莫大な賠償金を課せられたフランスは経済的に疲弊していた。軍部は国民にドイツ報復をあおっていた。一方ユダヤ人はフランス金融界を支配していた。国民の零細な金を集めて海外投資を行っていたが、金融恐慌で、多くの人が金を失った。庶民の恨みはドイツとユダヤ人に向けられていた。

そこで起きたのがユダヤ人ドレフュス大尉がドイツ大使館に軍事情報を漏らしたとされる事件が起きた。これをかぎつけた反ユダヤ主義を売り物にする新聞が大々的に取り上げ、あることないことユダヤ人を中傷する記事で売り上げを伸ばした。

軍部はドレフュス大尉を反逆罪で終身刑にして悪名高いフランス領ギニアの通称「悪魔島」に送った。

この頃すでにゾラは文学者として成功していたが、危険を冒して、この軍部のいい加減な裁判にたいして「私は弾劾する」と題する新聞記事を書いた。その後色々あって最終的にドレフュス大尉が無罪になって名誉を回復し、軍籍に復帰したのは1906年のことである。すでにゾラは事故死した後のことであった。

この問題について要領の良い記事はウェッブにいくつもあり、本格的には大仏次郎「ドレフュス事件」がある。なぞが多いがはっきりしているのはドレフュス大尉が無実であったことである。

ゾラはマネの擁護者であるが、印象派の画家たちの新しい試みを応援していた。彼の行動は前衛画家である印象派の人達に完全に支持されたと思いたいが、必ずしもそうではなかった。


上の絵はマネが描いたゾラの肖像

印象派とドレフュス4

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マネの自画像があるが、もう一度バジールの絵を見よう。

バジールのアトリエの群像画で右から三番目に出てくるのはマネである。彼はいわゆる印象派の画家ではない。

印象派と呼ばれるにはいくつかの要件がある。まずこのバジールのアトリエの近くにある「カフェ・ゲルボ」で芸術を語っていた連中である。マネはこの店の常連であり、中心人物であった。ほかの常連はマネ、ルノアール、バジール、シスレーであった。

もう一つの要件は「印象派展」への出品である。印象派の画家は画壇から認められず、物笑いの種になり、独自に「印象派展」を開いていたのである。マネは決してこの展覧会には出品していなかった。彼は彼らと行動をともにしたが、画風も違うし、一線を画していた。

またマネは無名の画家ではなかった。彼は前衛画家である。前衛とは世間から非難されなければいけない。展覧会にきた紳士からはののしりを受け、淑女は目をそむける絵を描いた人物である。その前衛性が印象派の画家に与えた影響はおおきい。マネとは違い、印象派の画家は無視され続けたのである。

19世紀フランスでは節目節目で非難ごうごうの絵が登場し、後世に影響を与えた。ドラクロアは1827年から28年にかけて「サルダナパールの死」で殺される裸の女を描いた。この人は印象派の画家達に感動を与えたが、直接の交流はなかった。

http://www.abcgallery.com/D/delacroix/delacroix39.html

クールベは1849年から50年にかけて故郷「オルナンの埋葬」を描いた。埋葬されるのは高貴な人物でもなければ、キリスト教の信仰のために殉教した聖人でもない。画壇に受け入れられるはずはない。クールベは印象派の画家に影響を与え、交流もあった。

http://cgfa.floridaimaging.com/courbet/p-courbet6.htm

さてマネは「オランピア」を描いて非難を受けた。今から見ればなんということはない裸の女であるが、裸の女が許されるのは、遠い昔の女、できれば神話に登場する女神である。もう一つは異教の国の女奴隷の裸である。オランピアは現実にパリにいる女、それも高級娼婦を描いている。これは許し難いテーマである。黒人のメイドが彼女の客からの花束を受け取っている。さらに許しがちのはこの絵はルネッサンスの画家ティツィアーノのパロディである。これは絵画における二重の冒涜行為である。

http://www.abcgallery.com/M/manet/manet7.html

ティツィアーノの絵はここにある。

http://www.abcgallery.com/T/titian/titian82.html

この三人はいずれも1894年のユダヤ人問題が起きる前に死んでいる。

マネは生きていれば1984年で64歳である。生きていてもおかしくはない年齢である。おそらくゾラとの関係や反体制的な態度から、ドレフュス事件には親ドレフュスであったろう。

彼は学校の成績にとくに優れたところがなく、高級官僚の父が船舶関係の職業につかせようとした。16歳のときアルゼンチンに初航海に出た。この選択は間違いだった。親もこんこんと言って聞かせたとおもうが、船乗り文化の通過儀礼であろうか、彼は梅毒になって帰ってきた。クラブの一気飲みである。しかも不治の病にかかる確率は一気飲みの比ではない。マネの死因は梅毒の進行によるものであり、壊疽で片足を切断した後死亡している。

印象派とドレフュス3

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さてバジールのアトリエ群像の2番目がひときわ背の高いバジールであり、この群像画の作者である。彼自身の肖像に関しては彼の筆にあるものではないという話がある。ゴッホの肖像画に関連して書いたが、人間は自分自身を見ることができない。したがって鏡に映った自分か写真に写った自分しか見ることが出来ない。

上の絵は彼の自画像である。ゴッホの場合と同様鏡像である。これで見る限り彼は右手でパレットを持ち、左手で絵筆をもっているようにみえるが、彼が右利きであることはルノアールが描いたバジールの肖像画が証言してくれている。

http://www.abcgallery.com/R/renoir/renoir7.html

彼の代表作になった「一族の再会」について私は7月20日「バジールという画家」と題して投稿した。

http://blogs.yahoo.co.jp/fminorop34/39435611.html

この絵は八ヶ月かけて丹念にスケッチして描き上げたものだが、写真屋を呼んで撮影されたという説は、一般に受け入れられている。たしかに記念写真的である。

一方バジールのアトリエの群像写真であるが、これは写真屋を呼んだものではない。だがバジール自身がいる。画家が群像に入っているのは19世紀以前の大家たちの絵にはよくあることだが、本来自分の眼で見たものしか描かないという印象派のリアリズムの理念には反する。実は彼の死後マネが描き込んだものということになっている。マネは女流画家ベルテ・モリソの絵に修正をしてずいぶん恨まれた前科のある人物である。

1870年11月28日ボーヌ・ド・ラ・ローラン(オルレアンの近く)の両軍にとってたいして意味のない戦闘でバジールは戦死した。父親はとんでいき、8日間探し回ったあげく、すでに埋められていた息子の遺体を見つけた。身長のせいで彼が戦死した可能性は大いにあるが、その身長のせいで遺体も特定しやすかったのかもしれない。父親は御者を雇い南フランスのモンペリエまで遺体を運んだ。彼が無言の帰郷をしたのは12月14日であり、彼のアトリエの群像写真を描き終わってから約一年後のことである。

したがってユダヤ人ドレフュスが敵国ドイツ人に軍事情報を漏らしたとされる事件にたいして、バジールが自分の意見を表明する機会はなかった訳である。もし彼が無事生還していたらという歴史シミュレーションはナンセンスである。

それを承知の上で憶測してみるのだが、彼の人柄と戦争体験、宗教的信条からするとドレフュスを擁護したのではないかと思われる。あるいは私自身がそう思いたいのかもしれない。

そもそもユダヤ人の冤罪事件の背景には、貴族出身の将校からなる軍部とフランス人の日常生活全般を支配していたカトリック教会がある。両者はともに反ユダヤ的である。バジールは戦闘に軍部に対して不信感をつのらせてきた。また彼の家はフランスでは少数派のプロテスタントである。なによりもドレフュス擁護派のリーダーであるゾラと非常に近い関係にある。

ただ簡単に人柄や環境だけでは判断できないのがユダヤ人問題である。


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