ヘ短調作品34

ルブランの回想録の link 先はゲストブックを御覧ください。

美術

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印象派とドレフュス2

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さて前回バジールのアトリエに集まった友人達を紹介した。この記事を思い立ったのは、もっとも非政治的である画家でも巻き込まれたダヤ人の問題であるが、やはり私には難しい記事である。時間稼ぎみたいで恐縮だが、調子が出るまで前回の絵に登場する人物の簡単な紹介を試みることにしよう。

この人物像の特定だけでも論文があるそうであるから。日本の素人が特定することはできない。私でも納得がいくのは、パリという物価の高いところにしては広いスペースの部屋であり、背景にいくつかバジールの絵があることから、この部屋がお金持ちの坊ちゃんバジールのアトリエである。そしてひときわ背の高い男がバジールであることである。

まず前回とは逆に右から解説していこう。解説書によれば、右側のピアノを弾いているのがメートル(Maitre) である。この人物は私にはよくわかっていない。彼は絵描きグループと親交があったが、彼自身絵描きはないし、ピアノを弾いているがプロの音楽家でもない。アマチュアのピアニストとしては相当なものであり、ベルリオーズとワグナーの崇拝者で、不遇であったベルリオーズを擁護する論文を書いている。

彼は高級官僚になった人物である。官僚だから、パリ政治学院から、フランス国立行政学院をでた人物だろうか。この人は秀才にありがちなタイプで、官僚として出世しないように気をつけて趣味に生きた人物である。バジールと一緒に音楽会に出かけ、詩の朗読会に出かけた人である。であるから後世に名を残した人物ではない。彼よりは鈍才であったろうバジールのお友達として知られている。

またバジールの肖像画のモデルとして名を残している。上の絵はある評論家から、ハンス・ホルバインの「エラスムス」の肖像画を思わせると評されたメートルの肖像画である。現在はメロン財閥のポール・メロンに買われ、ワシントンのナショナル・ギャラリーに寄贈されている。

この評論家によれば「エラスムス」の肖像画は「パリで見られる三大肖像画」の一つである。

第一はいうまでもなくダヴィンチの「モナリザ」

http://www.abcgallery.com/L/leonardo/leonardo7.html


第二はダヴィドの「レカミエ夫人」

http://www.abcgallery.com/D/david/david8.html


第三はハンス・ホルバインの「エラスムス」

http://www.abcgallery.com/H/holbein/holbein11.html


である。相当なほめようであるが、ほめられた画家バジールはうれしかったろうが、モデルのメートルもエラスムスなみになったようで悪い気はしなかったはずである。

最後に彼が親友バジールの死を知った後、父親に送った手紙の一部を紹介しよう。

「友人の死の知らせで僕が耐えてきた苦しみは言葉ではあらわせません。僕は自分自身の半分を失いました。僕の親友はこの上なく知的でした。僕のバジールは僕が知りあった友人のなかでも、あらゆる意味でもっとも才能に恵まれ、愛すべき人物でした。私の心に空いた穴を埋め合わせてくれる人は永久に現れないでしょう。僕は悲しみのどん底です。」

さてこのメートルという人物はバジールの友達であり、バジールの死とともに印象派の歴史から消えた人物であるから、彼がドレフュスの冤罪事件でどのような態度をとったかはわかっていない。

印象派とドレフュス1

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私は1970年7月19日にナポレオン三世がプロシアに宣戦布告し、やがて私の好きなバジールという初期印象派の画家が義勇兵として参加し、印象派の画家としては唯一の犠牲者になったことを書いた。印象派の勝利を見届けることなく、29歳の若さで戦死した。

http://blogs.yahoo.co.jp/fminorop34/39435611.html

普仏戦争はナポレオン三世自身が捕虜になるというセダンの屈辱的大敗で、戦争の帰趨はけっしていた。ここで講和となれば、「僕は絶対に死ぬものか、僕にはしなければいけないことがいっぱいある」とメモしていたバジールも捕虜になり、帰還できたはずである。だがナポレオン三世のあとに登場した政権は、徹底抗戦を主張して戦いは継続された。その結果「ロバに率いられた獅子達」の一人バジールは戦死した。

その後パリ・コミューンを印象派の画家たちは体験する。ムッシュー・ルノアールMonsieur Renoirは市民ルノアールle citoyen Renoirとなった。やがてパリ・コミューンは崩壊し、市民ルノアールはムッシュー・ルノアールにもどった。事実印象派の人達で一番に貧困から抜け出したのは貧乏人の小せがれで、陶器の絵付け工から画家を目指したルノアールであった。次ぎにモネであろうか。

本来印象派というのは、共産党宣言のようなマニフェストを掲げた未来派とか超現実主義者とはちがう。仲良しグループである。それも差別と貧困を共有することにより成立していた友情である。抜け駆けして裕福になる連中がいるとたちまちこのグループは危機にさらされる。ましてバジールというきわめて善良な人物を失ったのである。

決定的なのは1894年のドレフュース事件であった。フランス人はユダヤ人ドレフュスの冤罪事件で完全に二派にわかれた。この事件で、印象派の人達がどう動いたかは事件の推移にはマイナーなことである。芸術と思想は本来無関係である。たんなる好奇心で詮索するのは良くないように思われる。ただフランスのユダヤ人問題は、エリザベト・シュワルツコップの死亡記事で取り上げたナチ党員問題と共通する。私達には分かりにくいユダヤ人問題であるが、私達も同様のことをし、されているのかもしれない。

くだらないことばかり知っていると思われるかもしれあいが、ウェッブではのっていない。1894年に生きていた画家で私がいずれの派に属していたか記憶しているのは、ルノアール、モネ、ドガ、ピサロ、メアリー・カサットそれに印象派ではないがロダンである。


今日は戦死してドレフュス事件を体験しなかったバジールが描いた彼のアトリエ風景から初期印象派の人達を紹介することにしよう。バジールが戦死する一年前に取り組んだ絵である。オルセー美術館所蔵である。

左手に腰を下ろしているのは、小説家ゾラ、階段の上から彼に話しかけているのはルノアール、キャンバスを後ろから見ているのはモネ、キャンバスに直接向かっているのはマネ、次ぎにひときわ長身の男がバジール、右でピアノを弾いているのはバジールの親友であるメートルである。これは印象派の人達の群像としてはピサロもシスレーもいないと言うことで不完全ではあるが、私が好きなバジールが描いた、彼の好きな人たちの肖像である。

もう少しリアルな群像をみたい方にはファンタン・ラトゥールの絵がある。


http://www.abcgallery.com/F/fantin-latour/fantin-latour4.html


こちらの方がリアルで人数も多いが、絵を描いているのがモネであり、背の高い男がバジールである。あとはいずれ紹介する。

ゴッホの自画像

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上の絵はゴッホの自画像である。右手にパレットを持っているとみえる。うっかりすると、彼が左利きのような気がする。ところが下の方の絵は、ゴーギャンがヒマワリを制作しているところを描いたものである。彼が右利きであったことをゴーギャンが証言してくれている。

これで上の絵は彼が鏡を見て描いたものであることがわかる。人間は自分自身を見つめることができない。鏡にある自分を見つめるだけである。写真が素人でも手軽に日常を写せるようになったのは19世紀末期であり、金持ちで新しいものが好きの人に限定されており、ゴッホには縁がなかった。

右利きであること知っていたとしても、「包帯をまいた自画像」のように、絵筆とパレットを持たないゴッホの絵を鏡像であるかどうかを判定する方法はある。画家の服装で判断される。男性服のボタンは着用者の右にあり、ボタン穴は左にある。男性の服は右手で左の内ポケットに手が入るように出来ている。

19世紀以降の多くの画家の肖像画をみても今日のわれわれの紳士服と同じである。ゴッホの場合、タンギー、ルーラン、ガッシュ等の絵を見てもそうなっている。

前回紹介した「包帯をまいた自画像」ではゴッホの左側にボタンがあり、右側にボタン穴がある。したがって「包帯をまいた自画像」は鏡に写ったままの自身をみて描いたものであると結論される。右利きの彼は左の耳たぶをきったのである。それを鏡で映したのものを描いたものである。

こう結論したが、ただ困った例がゴッホ自身の絵から一例だけだが出てきてしまった。今回調べていて発見したのだが、ゴッホがサン・レミの病院で世話になった先生の服はそうなっていない。ゴッホの自画像のようにボタンは先生の左側についており、ボタン穴は右側にある。

http://www.abcgallery.com/V/vangogh/vangogh93.html

いそがしい先生はモデルをしている暇はない。先生の顔だけをスケッチして、鏡像を描きすぎたゴッホが、服の部分はうっかりしていつものように描いてしまったのであろうか。


後記:こう書いてきてまたまた困った例が出てきた。ボタンの付いている位置が1番目と3番目ではちがうのである。

後記:7月29日はゴッホが死亡した日である。今から116年前のことである。ゴッホが死亡した宿屋の娘で、ゴッホの最後か最後から2番目のモデルになったアデリーヌ・ラブーの証言を一年前に私は翻訳し、このブログに投稿した。平均的に(昔の)女性の記憶は(昔の)男性の記憶より正確であるとされている。女性の生活は男の人生より単調であったので、記憶が保存されやすいとされているが、彼女の証言が正確であるかどうかは、あの世のゴッホのみが知っている。長文なので3回に分けた。ブログでは3部、2部、一部という順番になるが、あとで順番を1部、2部、3部という順番に入れ替えた。今では良くなかったと思っている。関心を持っておられる方、お読み頂ければ光栄である。

http://blogs.yahoo.co.jp/fminorop34/8257291.html

ゴッホが切った耳

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7月17日に「バジール・コードの説明」という馬鹿げた記事を投稿した。何のことかわからぬ方で、読んでみてやってもいいという方は左にあるカレンダーで7月17日のところが赤くなっている。そこをクリックしていただければ私の記事が出てくる。

7月17日の投稿では、私が今後怪我をした場合のコードを決めておいた。ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの「包帯をした自画像」は私が転んだりして頭部を怪我したときに、ヴィンセント・コードとして使わしてもらうことにしておいた。上にある有名なゴッホの自画像である。

この絵、さっそく10日後に登場した。期待されていた方には申し訳ないが、私はまだ頭部の怪我はしていない。このゴッホの絵にまつわる面白くもないお話が今日のテーマである。

私はアメリカのヤフー・クラブに籍を置いたことがある。絵のクラブで断然多いのはゴッホのクラブである。日本人だから、日本の美術館にあるゴッホの絵について語ったりするしかない。ヤスダの「ヒマワリ」、広島の「ドービニーの庭」等は話題に出来たが、日本には、ゴッホのコレクションが少ないから投稿ネタが尽きて、今はご無沙汰している。

それとインターネットのクラブでの人間関係は結構難しいものである。いったんこじれると収拾がつかない。ホストの対抗馬が登場して主導権争いが始まったりする。なんの利権が絡んでいるわけでもないのに、頂点に立たないと気の済まない人がかならずいるものである。もめたすえに消滅していくことが多い。それでもヴァン・ゴッホにかぎりクラブはまだあるはずである。

私はゴッホ関係で三つばかり入会と脱会を繰り返したが、日本のクラブよりレベルが低いものが多かったような気がする。ゴッホの耳を切ったのはゴッホ自身ではなくてゴーギャンだという新説も飛び出してきたりする。そういえばゴッホの負傷事件後ゴーギャンはさっさとアルルを出て行った。犯人でないとは言い切れない。ばかばかしいが、私にはこんな説をまことしやかに語りかける語学力はないので、英語の勉強にはなった。


それはともかく、こんな投稿を別のクラブでだが、二度見かけたことがある。「ゴッホが耳をきったのは右か左か、どなたかご存じの方は教えてくれないか。またそれを証明する絵があったら、教えてほしい」という趣旨である。

この質問者は正解を知っていて質問しているのである。一度引っかかれば二度と引っかからないが、さっそく引っかかる人もいる。たとえば上の絵を証拠にして、「ゴッホは右の耳を切ったのだ」という投稿をする人がいる。

正解はもちろん左の耳である。

バジールという画家

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1日ずれたが、昨日7月19日は、普仏戦争が始まって136年目になる。昨日中に投稿とおもったが、時差もあるので大目にみていただきたい。ビスマルクの巧みな挑発にのらされたというか、のらざるをえなかったナポレオン三世はプロシァに宣戦布告した。

この日はゾラの小説の主人公高級娼婦ナナが天然痘にかかって死に、醜悪な死体を残した日でもある。ナナのかっての金髪だけが燦然と光り輝いていた。ナポレオン帝政の終わりと残された建物の金箔の空しいきらめきを示唆するように。街では「ベルリンへ、ベルリンへ、ベルリンへ」という勇ましいかけ声が響いていた。この小説読みかけて止めてしまい、この最後の場面しか記憶がない。映画も見ていない。

この年はフランスにとって大きな転換期であったが、印象派の人達にも大きな影響を与えた。ピサロとモネはイギリスに逃亡した。ルノアールは無難な場所で兵役に付いた。

さて前回ご紹介したバジールであるが、このお金持ちの坊ちゃんは、半日絵の教室に通い、ほどほどにしておけばいい絵の勉強を夢中でやったものであるから、今ほど難関ではないものの、医学部で落ちこぼれても何の不思議ではない。結局親に無理をいって絵描きの道を歩むことにした。気のいいバジールはモネやルノアールに金を貸したり、絵を買い上げたりした。自分がパリにアトリエをもったときには二人を住まわせたりした。もちろん彼らのモデルにもなった。

父親は風雲ただならぬ情勢を考えて、息子の徴兵を免れるべく金を払っていた。金を払えぬ貧乏人が彼のかわりに徴兵されることになる。したがって戦争になっても召集令状はこなかった。ところが、親にはかわいくて仕方のないこの息子、彼は医学部で親の期待を裏切っただけではなく、今回もまた親の期待を裏切ったのである。すなわち、徴兵されなかったものだから志願して義勇兵になってしまった。この志願の文書はまだ残っている。

それもよりによって、アフリカ等では勇名をはせたかもしれないが、時代錯誤も甚だしい、男の中の男といえばいえるが、ズアブ兵になったのである。彼の戦争に出かけたときの制服は残っているが、モノクロなのでゴッホのズアブ兵の絵を参考にしていただきたい。

http://www.abcgallery.com/V/vangogh/vangogh27.html

この服装1888年にゴッホがアルルで出会ったズアブ兵を描いたものである。この服装は飲み屋のおねえさんたちの気を引くために着ていったものではない。実際にこの服装をして植民地等で戦ってきたのである。この派手な格好をしてバジールは近代化された戦争に「パリを守れ」と出かけたのである。

親に心配をかけたバジールだが、基本的には家族との結びつきを大事にして、一族が過ごす夏の別荘地にかならずもどっていた。上の絵は彼の代表作になったものである。彼はこの絵を8ヶ月かけて描き上げ、1868年のサロンに印象派の先輩を出し抜いて当選し、なんとかこれまでの親不孝の借りを返せたと喜んだところであった。最初に1870年という年とゾラとの結びつきは私の個人的な連想であるが、じつはバジールはゾラにこの作品でほめられたのである。いよいよ絵描きとしてこれからという時期であった。

ここで左隅にいる目立って背の高い男がバジールである。派手な服装とひときわ目立つのっぽであり、医学部で落ちこぼれたとはいっても、教育を受けていた人であったから、すぐに下士官にになってしまった。狙撃兵には撃ってくれといわんばかりの彼は、腹部に2発打ち込まれ死亡した。1870年11月28日である。

この人が生きていたらどんな画家になっていただろうかという質問はしてもしょうがないが、つい考えてしまう。

いずれにしても財政的・人格的にモネとルノアールを大画家にしたことはたしかであり、数枚の絵は印象派を代表する傑作であることは間違いない。


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