ヘ短調作品34

ルブランの回想録の link 先はゲストブックを御覧ください。

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ニューヨークがクリムトで沸いているとき、私の大好きなクレーの絵の展覧会がワシントンで開催中である。私がもしローダーのような成金であったら、クレーを買い集めたであろう。クレーはアメリカのマネーに色目を使わなかった。結果アメリカ人は一部の例外をのぞいてこの孤高の画家に対して冷淡であった。ただ最近クレーの絵も値上がりしているそうである。値上がりによってようやくアメリカで受け入れられるようになったのであろう。どうも美術品は収集する資格のない連中によって収集されるものであるらしい。まあ貧乏人がひがんでも仕方がないか。以下はアメリカ人のじくじたる気持ちを代弁するような、弁解めいた記事で面白いと言えば面白い。



遅ればせながらポール・クレーに注目

ジェシカ・ドーソン(ワシントン・ポスト紙 6月18日)

アメリカでポール・クレーの展覧会を開くと決まって質問が出る。ポール・クレーの絵って誰の絵に似ているの。

われわれアメリカ人はたぶんわからないだろう。スイス生まれの画家の名声はヨーロッパでは早くから上がっていた。ヨーロッパで彼の才能は皮膚硬化症で1940年に死亡するまでの数十年間にヨーロッパで開花した。大西洋を隔てて、われわれはクレーの才能とその影響を分類し、箇条書きにすることができなかったのである。

たぶんクレーがアメリカ旅行をしなかったこと、またまったく望まなかったせいもある。アメリカ人はクレーの神経質な線、不協和な色彩の構造と子供じみた超現実主義を好きにはなれなかったろう。孤高の思想家という評判もあって注目を浴びなかったのだろう。

フィリップス・コレクションで公開中の「クレーとアメリカ」は、わが国のこの風変わりな画家へのおくればせながら関心を物語っている。わが国は彼の死後の抱擁であったが、結局はこの画家を受け入れたのである。

ナチの干渉によって、彼のヨーロッパでの評判が厳しくなってきたとき、彼の画家としての人生の最後の頃に、アメリカ美術市場での彼の評価ははじめて上向きに転じたのである。1930年初期、アメリカを飛び出したアメリカ人のディーラーが彼の作品をアメリカに送ろうとし努力し、彼はこの強力な援助に助けられた。30年代の半ばには、彼の才能を認め、迫害に同情するアメリカ人が現れたのである。

20世紀後半には彼の影響力は明白であった。しかしアメリカ人が大きなクレーの展示会を見てからすでに20年経過している。一枚のクレーを思いおこそうと努力をすれば、われわれの忘れっぽさも許してもらえるかもしれない。

「クレーとアメリカ」の80点はほとんどヒューストンのメニル・コレクションのものであり、かれの生存中のわが国での作品への意識のバロメーターである。ただこれだけの絵とスケッチがアメリカに上陸し、今展示されているのである。

アメリカ人が購入した絵で、クレーと合衆国との関係を追跡するのは、学者には興味があるが、学芸員の仕事としても珍しいものである。美術館にとって緊急の課題がある。クレーの絵は誰の絵に似ているかを示すことである。

「クレーとアメリカ」は総合的な展示会ではないと言うことである。アメリカ人が所有するのはクレーの作品の10パーセントにすぎない。この展覧会はほんの一部の収集家の趣味を記録するにすぎない。ただ展覧会カタログは315ページのとてつもない本で、印刷は豪華で、展示品については徹底的に研究されており、クレーの大西洋越しの取引の話ややアメリカに持ち込んだ20世紀初頭の流行の先端を行こうとした人の詳細な話も書き込んである。

このカタログで知ったことは、カサリン・S・ドライアーについてである。彼女はマルセル・デュシャンとマン・レイと共同でソシエテ・アノニム(Societe Anonyme)を創設し、1924年にはクレーの個展を合衆国で企画した。また、それから6年後になるが、アルフレッド・バー(この人物の評価をこれ以上飾る必要はない)はヨーロッパの外で、MOMAで大規模な個展を開催したのである。クレーは生存中にMOMAで個展が開かれたヨーロッパで最初の画家である。さらにカタログによれば、クレーはこれ以後彼の作品がナチ・ドイツの手に落ちるまでアメリカでは注目されなかった。

詳細についてはカタログを開く必要があろう。フィリップ展覧会はありがたいことに学者ぶった話がない。「クレーとアメリカ」はただご覧くさいというのみである。1920−30年代のすばらしい絵を楽しめる。

クレーの作品の多くは人生の大半を過ごしたドイツで制作された。20世紀になるころにミュンヘンに移り、(彼は生涯バイオリンを弾いたが)コンサート・バイオリニストのキャリアを放棄し、絵の勉強を始めた。クレーと経歴を変えたばかりのカンディンスキーは一緒に絵の先生についた。先生は後期シンボリズムとアール・ヌーボの薄気味悪い絵をかく画家フランツ・ヴォン・シュトゥックである。

カンディンスキーとクレーは絵画の精神性と深い人間的衝動の表出であるという信念では一致していた。だが、フィリップ展にある1929年作の水彩画「変化、赤―緑(朱色)」のように抽象画を描いたものの、カンディンスキーのように派手な色彩と規模に接近することはなかった。クレーの色彩と構図の手法はカンディンスキーより内に秘められ、抑制的である。この展覧会でのクレーの作品はほとんどハガキかノートの大きさである。最晩年に大きくなったのもある。多くの場合、その分悪くなっている。

クレーはドイツに住んでいたが、彼の絵にはフランスのシュール・レアリズムの痕跡が見られる。1920年代からのクレーの作品の神経質な線と不思議な生き物は、フランス人が彼をダダの父の一人とみなすゆえんである。フィリップ展で、デュシャン風の「さえずり機械」が展示されているが、なぜかフロイド的な「少女と人形の乳母車(Girl With Doll's Pram)」も展示されている。幼い少女の胸は飛行船ヒンデンブルグなみのサイズである。

1920年代、クレーはバウハウスで教鞭をとっていたが、のちにデュッセルドルフの美術学校に移ったが、彼のドイツ時代の最後は悲劇的であった。彼の教育は個人主義を強調した。ナチは彼の授業に嫌疑を掛け、1933年デュッセルドルフの教授ポストから追放した。数年後、ドイツは子供が描いたような彼の作品を「退廃芸術家展」で展示した。クレーは晩年をスイスで亡命生活を送った。

クレーのヨーロッパでの人生にかげりが出始めたので、アメリカ人には彼を獲得する機会があったのである。「クレーとアメリカ」展で、プロブナンスの詳細をかいた壁のラベルはまるで小さな社交界の名札のようであった。「城の平面図」と呼ばれる絵が(浮かんでいる多面体の形而上的作品)が1928年から1961年までフィリップ・ジョンソンが所有していたのは、建築家フィリップの趣味からして驚きではない。ジョンソンは子供の絵のような1928年作のインキ素描画「心無きにあらず」も手に入れた。ここではクレーは無邪気な平行四辺形でダックスフントを仕上げている。これもジョンソンの性格から来ているように見える。.

クレーを入手した重要人物としてはダンカン・フィリップがいる。この「クレーとアメリカ」の入場者には特別のおもてなしがある。この美術館の建物の二回にある部屋、以前縫製室だった所で、クレーの部屋を復元している。フィリップが1948年から40年近く維持してきたものである。13点のクレーが肩を寄せ合ってつるされ、入場者を喜ばせた。ケネス・ノーランドとマーク・ロスコもその中にいた。ここの小さな画像はおそらく「クレーとアメリカ」展のもっとも魅力ある一群であり、クレーの面白さと特別な魅力を思い出させることだろう。

美術館はクレーの部屋を「クレーとアメリカ」が終わった後も、クレーの部屋を復元する予定である。この計画の時期と場所は未定である。でも当分の間、ここを訪問するチャンスはあるのである。



後記:今月の27日死後66年のクレーの作品はアメリカの著作権法ではPDに入っていない。Wikipedia にも記事はあるものの、彼の絵はのっていない。かろうじて彼の写真がある。彼の風貌は彼の絵にマッチしているので拝借した。

cjackson のウェッブ・ミュージアムからもずされた形跡があるが、なぜかオルガのミュージアムにはのっていた。私にはこの著作権とやらがどうしてもわからないが、下に紹介しておく。

http://www.abcgallery.com/K/klee/klee.html

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1億3500万のクリムトの肖像画の豪華な背景
ウィリアム・ブース記者(ワシントン・ポスト)
6月20日

ロサンジェルス、6月19日 ―― ウィーンのユダヤ系の社交界の名流夫人アデーレ・ブロッホ・バウエルの光り輝く、謎めいた金色の肖像画には長い旅路であった。この作品はナチの美術品略奪のなかでもっともセンセイショナルなものであった。  ――  現在1907年作のグスタフ・クリムトの絵はようやく安住の地を見つけた。

個人の収集家にではなく「絵が美術館に収まることになったのは、相続人と伯母アデーレ・ブロッホ・バウエルにとり意義深いことです。」とブロッホ・バウエルの姪のマリア・アルトマンはのべた。彼女は現在90歳でロサンジェルスの衣装販売員であったが、化粧品成金の億万長者ロナルド・L・ローダーたちが支払ったとされる記録破りの1億3500万ドルの相続権者の一人である。

「アデーレ・ブロッホ・バウエル I」と題されるこの作品ローダーのニューヨークにあるノイエ・ガレリエの看板になるものである。ノイエ・ガレリエは1666の作品を所蔵する小さな美術館で、1890年から1940年までのドイツ・オーストリアの美術を集めている。ノイエはドイツ語のニューを意味し、画廊は中部ヨーロッパの絵画・工芸品におけるモダニズムの足跡をたどっている。

「この作品はこの画廊を訪れる人々のお目当てになるのはまちがいありません」と美術館の館長代理のスコット・ガターマンは述べた。画廊には年間20万人の入場者があるが、「この数字はのびるものと期待しています。」

現在旅行中のローダーからはコメントが得られなかったが、エルサレム発のAPに語ったところによれば、この肖像画は「なんとしても欲しかった絵」であった。驚くべき絵で、「美しさと力強さで圧倒されてしまいますよ。」

クリムトの金箔と油彩の肖像画は世界でもっとも目立つ作品の一つで、ポスター、コーヒー・マグ、キー・ホールダー、コースター、Tシャツ、はては木靴にまで複製されている。

明らかに見る人に訴えるのは、アデーレの態度や仕草、秘密の愛人だったかもしれない、ユダヤ系の砂糖王の妻を包み込んだクリムトの作風である。黄金の幾何学模様、開いた目とアーモンドの形等のエジプト風アイコン、ノイエの伝承によれば「性的な含意」があるとされる。ノイエ・ガレリエの館長、リネー・プライスは文書で述べている。当美術館におけるクリムトの肖像画は、パリのルーブルのダヴィンチの「モナリザ」にもたとえられる。たしかにある意味で、二点の作品は謎めいた性格で共通しており、二人の女性が何を考え感じているのかを見る人に考え込ませる。

秘密の協定により、弁護士、画廊、相続人は記録的な売却値段の公表を拒んでいる。ニューヨーク・タイムスは「取引に近かった専門家」の話として、この作品は1億3500万ドルになったと報じている。ワシントン・ポストとの会談でもだれも否定はしなかった。

この数字はブロッホ・バウエル夫人の肖像画はかって売却された一枚の絵でもっとも高いものである。1905年のパブロ・ピカソ作「パイプを持った少年(若い弟子)」の2004年のサザビー・オークション価格1億410万ドルをしのぐものである。62歳になるローダーの財産はフォーブスの推定では3月現在27億ドルである。アッパー・イースト・サイドの美術館のために共同購入者もいるが、大半は彼が支払ったものである。

「これは恐るべき物語のものすごい結末だよ。相続権者は公正な価格を受け取り、絵は一般の人の目に触れるわけだ」とE.ランドル・シェーンベルクは言った。彼は7年間の法廷闘争に勝った弁護士である。彼が勝訴するとは、オーストリアがアデーレ・ブロッホ・バウエルの肖像画と4点のクリムトの絵の返還に応ずると信じる人はほとんどいなかった。

相続人の売却を交渉した弁護士スティーブン・トーマスによれば、5つの美術館と10人の収集家がかいたがっていた。ローダーとノイエ・ガレリエが、永久に一般展示されることと、オーストリア美術との脈絡において展示されるという意味で勝ちを収めたといった。トーマスによれば、「相続人の受け取り価格は公正なものだと思う。」「だが個人の収集家に売ればもっと金になったし、オークションにだせばもっと高額になっていただろう。」

クリムトは3年を掛けてアデーレ・ブロッホ・バウエルの肖像画を描き上げた。注文したのは彼女の夫フェルディナンドである。完成後は、ウィーンの二人の邸宅に飾られていた。クリムトは1918年に死亡した。アデーレが1925年に髄膜炎で死亡する前に、クリムトの絵は夫婦が死亡した後はオーストリア美術館に寄贈したいむねを述べている。しかし、アデーレはヒトラーの台頭、ナチのオーストリア併合、ホロコーストを知るよしもなかった。フェルディナンドがスイスに逃れ、1945年に死亡している。彼は遺言状を書き換えたが、そのときにはナチは二人の邸宅、製糖工場、磁器のコレクション、クリムトの絵を取り上げた。クリムトは結局ウィーンのベルヴェデーレ宮殿のオーストリア美術館にクリムトの「接吻」の近くに展示された。

ナチに盗られた美術品を返却するというオーストリアの法改正と合衆国最高裁のマリア・アルトマンおよび相続人は合衆国で訴訟をおこせるという判決の結果、この件はウィーンで審理され、調停陪審団は一月に、これらの絵は不適切な手段で獲得され、返還すべきであるという判断した。

オーストリアは5点の絵画を購入することもできたが、約3億ドルである。オーストリア文化相は国にはそれだけの財政的余裕がないと述べた。昨日、ウィーンの美術愛好家はこの絵の売却を嘆き、当局がみすみす他国にこの絵を流出させたことを非難した。当地の大きな現代美術の美術館長であるルドルフ・レオポルドは「ローダー氏の値段は高すぎる」といった。

4月以来この絵はロサンジェルス郡美術館で展示され、週平均9000人の入場者があった。美術館は寄付金で購入する団体を結成した。「五点とも購入するつもりだったのよ」と当美術館の幹部学芸員であるステファニー・バーロンは言った。バーロンはローダーに対抗できる美術館はまず無いでしょうと述べた。彼女によれば、「目のくらむような金額です。」

億万長者エリ・ブロードは現代美術を所蔵するために、このロサンジェルスの建物を5千万ドルの金を掛けて提供したが、「美術館の建物だけでそれだけかかるのよ」とバーロンは言った。さらにバーロンは、「絵がロスから出て行くのを見送るのは悲しいけど、この作品とこの当時のドイツ・オーストリアの作品を評価する、合衆国の美術館に行くのだからまあよかったわ。」

マリア・アルトマンの息子ピーターは言うには、相続人は売却の結果に完全に満足しているわけではないが、「母はいつも正しいことをしてきた。」ノイエ・ガレリエがこの絵にまつわる話を尊重してくれるでしょう ―― 喪失と帰還 ―― 旧世界から新世界への旅を。「私どもはよかったと思っている」、「よかった」と彼は言った。

相続人たちは4点のクリムトについては決めていない。4点は7月13日から9月18日まで開催される展覧会のためにノイエ・ガレリエに貸し出される予定である。


絵はアデーレ・ブロッホ・バウエル II

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ローダーがクリムトの肖像画に新記録の1億3500万ドルを払った。

キャロル・ホーゲル記者

1907年のグスタフ・クリムトの金箔まばゆい肖像画を化粧品成金のロナルド・S・ローダーがマンハッタンのノイエ・ガレリエのために1億3500万ドルを支払った。絵画に支払われた史上最高金額である。

アデーレ・ブロッホ・バウエル、ユダヤ系の製糖業者の妻であり、ウィーンの有名なサロンの女主人の肖像画は画家の傑作の一つとされている。長年、オーストリア政府とブロッホ・バウエル夫人の姪の返還請求の焦点となっていた。夫人は第二次大戦中ほかのクリムトの作品4点とともに、ナチに奪われたと主張していた。一月に5点すべてがロサンジェルスに現在住んでいる今年90歳になるマリア・アルトマンと一族のものになった。

売買にまつわる秘密協定により、ローダー氏は価格の公表は禁じられているが、取引に近い専門家は匿名を条件に述べたところでは、ローダー氏はこの作品に1億3500万ドルを払った。電話インタビューでこの絵に記録的な値段で買ったことを否定はしなかった。これはピカソの1905年作の「パイプを持った少年(若き弟子)」の2004年のサザビーのオークション価格1億410万ドルもしのぐものである。

「われらのモナリザでね」とローダー氏は言った。彼は5番街と86番通りの角にある創立後5年経過したばかりの小さなノイエ・ガレリエの創設者であり、すべてドイツ・オーストリアの美術・工芸品の展示をしている。彼によれば、クリスティーが購入の手助けをしてくれたそうである。

過去60年間、この絵はウィーンのベルヴェデレ宮殿のオーストリア美術館で、クリムトのもう一つのアール・ヌーヴォ時代の傑作、金箔画「接吻」の近くで展示されていた。曲線と細部が込み入っている「アデーレ・ブロッホ・バウエル I」はモデルの夫であるフェルディナンド・ブロッホ・バウエルが注文した。ブロッホ・バウエル夫人は髄膜炎で1923年に43歳で死亡した。彼女の遺言によれば、夫婦が所有するこの絵とクリムトの他の4点は夫の死亡によりオーストリアに残されることを要求している。しかし1938年3月にドイツがオーストリアを併合したとき、ブロッホ・バウエル氏は彼の財産すべてを残して国外に脱出した。ナチ政府は彼の財産を没収し、絵の3点をオーストリア美術館におき、残りは売却した。ブロッホ・バウエル氏は死亡する前、戦時下の生活をスイスで送り、以前の遺言を撤回し、新しい遺言を書いた。彼とアデーレには子供がなかったので、彼は全財産を弟グスタフの3人の子供、ロベルト、ルイゼ、マリアに残した。


この三人のうちマリア・アルトマンはまだ生きている。彼女と夫のフリッツはオーストリアを脱出し、1942年にロサンジェルスに住み着いた。彼女には姪が一人、甥が二人あり、ロベルトの二番目の妻の従兄弟も生きている。

金曜日の電話インタビューでは、アルトマン夫人は以前アメリカのオーストリア大使であったローダー氏に数年前会っており、彼女自身2001年にノイエ・ガレリエが開館されたときここを訪問している。

「ローダーさんはオーストリアに理解があり、クリムトが大好きでした」と彼女は言っている。さらに彼女も親戚もクリムトが描いた伯母の絵を持つ必要は感じていないと述べた。子供の時から伯母を憶えているが、九歳の時に死亡している。

アルトマン夫人と親戚がこの絵を持っているのは、不屈の忍耐の物語である。戦後、一族は盗まれた財産、絵画、磁器、邸宅、ブロッホ・バウエル氏が創設した製糖会社を取り戻そうと努力した。美術品の多くはヒトラー、ヘルマン・ゲーリンクそれにナチの幹部であるラインハルト・ハイドリヒはプラハ郊外にあるブロッホ・バウエル氏所有の夏の別宅を占拠していた。

相続人は一部作品を取り戻したが、オーストリア当局はブロッホ・バウエル夫人の遺言ではクリムトはオーストリアに譲るとしてあると裁定した。最初の文書がみられぬまま一族は訴訟をおこせなかった。

1980年代の半ばまでにジャーナリストが返還請求を調査し始めた。ボストン・グローブの訴訟を調査していたフーベルトゥス・チェルニンがブロッホ・バウエル夫人の遺言状を含む文書を見つけた。遺言状はクリムトの作品がオーストリアのものになることを希望していたが、要件とはしていなかった。

2000年にアルトマン夫人と他の相続人アメリカ合衆国でオーストリア政府に訴訟を起こした。オーストリアは訴訟の却下を求めてあらそい、最終的にはアメリカ合衆国最高裁に持ち込まれた。最高裁は2004年6月にアルトマン夫人は合衆国でオーストリア政府に訴訟できるとの判断を示した。

一月にオーストリアの調停でアルトマン夫人と他の相続人にたいして有利な決定がでた。「アデーレ・ブロッホ・バウエル I」以外にも1911年のアデーレの二枚目の肖像画、3枚の風景画、1903年作「ブナの森」、1911年頃の「リンゴの木 I」、1916年作の「アッテル湖畔のウッテラッハの家」が返還された。調停成立後、ブロッホ・バウエルの相続人の弁護士であるスティーブン・トーマスによれば、作品に対して関心のある世界中の美術館や収集家から問い合わせがあった。

アルトマン夫人はローダー氏に格別好意的であった。一族の返還請求の年月をとおして、彼は彼女と連絡を保ち、彼にできることならなんでも援助してくれた。「彼は信じられないくらい親切で、つねに支援してくれました。」

4月にアルトマン夫人と他の相続人は絵画をロサンジェルス郡美術館に貸し出し、6月30日まで展示された。その後5点の作品はノイエ・ガレリエに移動し、グスタフ・クリムト、フェルディナンドとアデーレ・ブロッホ・バウエル収集の5点は7月13日から9月18日まで展示される。

アルトマン夫人によれば、伯母の金色の肖像画がノイエ・ガレリエにおかれたら、一番ふさわしい場所と思うだろうとのことである。クリムトが3年の歳月をかけて描いた絵は、伯母の神秘的な目つきで、肉感的な赤い唇、ゆがんだ指を隠すように手を曲げ、貴族的なポーズをとっている。背景とアデーレの衣装にはふんだんに金を使っている。ウィーンの美術史家や歴史家は画家とブロッホ・バウエル夫人は恋仲だったと思っている。

アルトマン夫人は「彼女がにこりともしなかった」と金曜日のインタビューで回想している。「彼女はいつも堅い表情で、流れるような白のドレスを着、女が喫煙するのが珍しい時代に金色のシガレット・ケースを持ち歩いていました。彼女は新しい女でありたかったのです。大学に行き、政府の仕事にも関わりました。」

ブロッホ・バウエル夫人はパーティーをよく開くので有名だった。芸術家や政治家、知識人に取り囲まれていた。その一人がリヒアルト・シュトラウスだった。アルトマン夫人によれば、「私のお母さんのような貴婦人のためにお茶の集いを催すことはありませんでした。彼女の趣味ではありませんでした。」

彼女の話によれば、アデーレはアルトマン夫人の母親とは親密だったが、ときには彼女はテレーゼを憎んでいた。テレーゼには丈夫な子供がいたが、アデーレは三度も出産でみじめな体験をしていたからである(一人は三日後に死亡し、二人は数時間後に死亡している)。

彼女の記憶では、彼女は母親にクリムトと伯母との恋愛関係の噂についてきいたことがある。「母はカンカンになって怒り、『なんてことを訊くの?知的な友人関係よ』と言いました。」「でも私にはロマンスはありえたとおもう。」

クリムトは1918年に死亡しているが、当時アルトマン夫人よちよち歩きだった。彼女が聞いた記憶では、クリムトは、床に届くくらい長い上っ張りを着てその下にはなにも身につけてなかった。アデーレがクリムトの七年後に死んだあとで寝室であった場所に一種の祭壇を設けられた。「クリムトの絵はいつも寝室にありましたが、死んだ後、ベッドは撤去され、いつも花がそなえらていました」とアルトマン夫人は述べている。

他の4点にかんしては、総額1億ドルするであろう専門家は見積もっている。この4点の今後についてはきまっていないし、アルトマン夫人によれば「わたしが決めることでもありません。」「おそらくノイエ・ガレリエの展示が終わった後、クリスティーに持ち込まれるでしょう。私は美術館に行くことを希望しています。でも現在のところ、ノイエ・ガレリエにあるのでうれしいのです。ノイエ・ガレリエはこの絵の展示にふさわしいのです。これ以上の場所は望めません。」


絵はアデーレ・ブロッホ・バウエル I

カンヌ映画祭の感想

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カンヌ映画祭での「ダヴィンチ・コード」を見た感想がニューヨーク・タイムスに投稿されている。映画も結構面白そうであるが、この批評も結構いい線をいっているような気がする。要するにハリウッド映画は見てもいいし、見なくてもいいということか。


ニューヨーク・タイムスの記者

カンヌ、フランス、5月17日

昨今は映画を公開すれば、もめ事とあれば飛びつくマスコミで、多少の文化摩擦は避けられないみたいである。ー「キリストの受難」とか「ナルニア国物語」ー とりわけ宗教が絡んだ論争が起きると商売に都合がいいみたいである。ダン・ブラウン原作の「ダヴィンチ・コード」、どうすれば英語を書かないですむかの初等読本であるが、この映画化は神学的・歴史的論争からふみだしてしまった。

この映画とその原作に関する議論は数千年も続いてきたわけではないが、そう感じさせる。コロンビア映画の巧みなマーケッティング戦略により、最後の瞬間まで誰にも映画を見させずに、論争や憶測を煽ってきた。

かくしてイエスとマグダラのマリアの婚姻前の了解からオパス・デイの秘密に関する膨大な解説記事が出てくることになり、われわれを悩ませたのである。しつこい質問が投げかけられた:

キリスト教会は陰謀団体なのか?

「ダヴィンチ・コード」は危険な反キリスト教的な悪ふざけなのか?

トム・ハンクスの髪はどうなったか?

幸いにして学がないので最初の二つの質問には答えられない。第三の質問には答えられる。彼の髪は長かったし、映画も長かった。カンヌ映画祭の幕明けとなった「ダヴィンチ・コード」は、映画化された作品としては珍しく見ている時間が読む時間を上回っている。(ハワード監督は同じような芸当を「グリンチ」でやってのけた)

監督とアキヴァ・ゴールドマン(二人は「シンデレラ・マン」と「ビューティフル・マインド」で一緒に仕事をしている)がブラウンの原作を簡略化し、うーん彼独特の散文スタイルというのであろうか、それをつとめておさえているのは手柄である。「ほとんど信じられないが、彼女が見つめていた小銃は長髪の巨きな白子の血の気のない手に握られた。」たとえばこの「ほとんど」などというお上品な言葉等は本に残るのみである。

公平に見てゴールドマンは彼一流の会話にしたといっていいであろう。「あなたの神様は殺人者をお許しにはならないわ」とオドレイ・タトゥはポール・ベタニー(彼は巨人というほどではなく、長髪でもない白子役を演じている)に向かってさけぶ。「神様に焼き滅ぼされるわよ!」

神学上の問題はさておき、この所見で記憶すべきは、「ダヴィンチ・コード」はあくまでも殺人サスペンスということである。一旦進行し始めれば、ハワード監督の映画はそれなりに面白い。二人は器用に筋書きを書き換えている。(私はここで不満を言う気はない)そのままにしたものもあるし、うまくひねくってあるのもあるし、アクションをスムースにするために筋書きにない話を持ち込んだりもしている。

ハンス・ジマーのほどよく緊張した音楽は、ポップ・ロマンチックに教会の典礼音楽がミックスしてあり、うるさくて惰性にながれるシーンをうまく運んでいってくれる。映画も上手く流れていく。しかし時には加速し、途中で急発進して道路にタイヤの跡をつけたりして、登場人物を紹介し、その役や理由をはっきりさせている。

筋書きをかいつまむと、ある老人(ジャン・ピエール・マリエル)がフードをかぶった殺人者により、信じがたいことに、ルーブル閉館後に腹部を撃たれて殺される。、一方、ハーバード大学宗教シンボル学の教授、ロバート・ラングドン(トム・ハンクス)は講演し、ファンが持ってきた本にサインをしていた。フランスの警察官ベズ・ファーシュ(ジャン・レノ)は彼を殺害現場に呼び出した。警察官は不機嫌そうであった。多分彼が所属する課がシェービング・クリームの予算を削減したせいであろう。

間もなくソフィー・ヌブと警察官ベズ・ファーシュが現れる。彼女は警察の暗号解読の専門家であり、被害者の孫娘でもある。お祖父さんは何か重要な秘密を知っていたらしい。これが暴かれると、西欧のキリスト教、とくにろローマ・カソリック教会を根底から揺るがしかねない秘密である。恰幅のいいカトリック教会の司教アリンガローサ(アルフレッド・モリーナ)はこの瞬間に飛行機に乗っていた。一方、白子の修道僧、その名をシラというが、彼は映画史上始めて携帯電話でラテン語を話し、自らをむち打ち、教会の床を打ち壊し、尼僧を殺す人物である。

アメリカの警察官さながらにベズはチェイスする。パリの夜の街からついに翌朝にはロンドンにまで飛ぶ。途中フランスの田園地帯にある、ローマ時代の城郭とシャトウにも立ち寄る。道中で、映画は立ち止まっていろんなな装飾品や芸術品を鑑賞する。ぼかして回想シーンを取る場面もある。(ラングドンは井戸に落ち、ソフィーの両親は自動車事故で死亡する。シラは虐待する父を刺す)


さらに歴史上の場面もでてくる。コンスタンチン大帝の回心、テンプラー騎士団の弾圧、粉を振りかけたカツラをつけて歩く時代のロンドン。

ハンクスもタトゥも困った顔をしてただつっ立っているだけで、魅力をしまい込んだままである。ハンクスは口をゆがめるが、彼の職業からくる懐疑精神の表現であるらしい。さもなくば控えめで温厚な感じでのんびりやっている。タトゥは彼女の名前がインターネットで「お転婆」のキーワードで検索されても彼女が出てこないようにしたいのか、心配でやつれたふりをしている。

(本よりはかなり少ないが)女性神、カリス、剣、性的結合の霊的力に関するお喋りにもかかわらず、二大スターにはまったくエロティシズムが点滅することはない。多分それでいいのだろう。暗号解読者とシンボル学者がいい感じになったとしても、涙で終わるのが普通である。

しかし、イアン・マクレランを選んでくれたおかげで、「ダヴィンチ・コード」に刺激を与えてくれた。彼はリー・ティービングという裕福でエクセントリックなイギリスの学者を演じている。(原作者ブラウンをほめていい。彼はネイミングが上手い。私に双子かフレンチ・プードルが2匹いたら、ベズとティービングと呼ぶことにしよう。

二本の杖をつき、召使いレミ(ジャン・イブベルテルー)を怒鳴りながらも、ティービングはときに敏捷で、優しく、次の瞬間狂ったように吠える。サー・イアンはイタリア絵画や中世の彫像についておしゃべりしながら、人生の時を過ごしているようである。映画製作者を、もっと面白いものを制作すべきだと非難するときには非常に元気になるようである。

タンタン漫画を経由してイギリスの探偵物からやってきたティービングは恐ろしく非常識な男である。アメリカ映画で不遇だったイギリス俳優の通例どうり、サー・イアンは高い信念と高い階級とは不可分という演技をしている。もう少しこのばかばかしさがあったら、「ダヴィンチ・コード」は旧式でお上品なユーロ・スリラーになっていたろう。

もちろんこの種の映画はイエスの神性や聖盃物語を扱うことはまれである。この種の話題はモンティー・パイソンに任せられる。ハワード監督とゴルドマンは細心の注意を払ってブラウンの原作の挑発的とされる部分を扱っている。信仰と歴史に関する結論には、ありふれた金言をつけてまったく無難な結論で締めくくっている。

したがってこの騒々しく、見え見えで、人畜無害の映画のボイコットする気にも、擁護する気にも私はなれない。見に行くことをとくにお薦めはしないということである。


「ダヴィンチ・コード」は PG-13 (保護者許可指定)である。乱暴な殺人と冒神場面がある。

明日世界で公開

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ニューヨーク・タイムズに載った映画「ダヴィンチ・コード」の制作過程を取材した記事の全訳である。この小説読んだこともないし、ルーブルにも行ったことはない私が誤訳を免れることは至難の業である。映画俳優もトム・ハンクスという名前だけは聞いたことがあるが、顔は知らない。「ない、ない」づくしで申し訳ないが映画の内幕は興味をそそった。間違いを指摘いただけると幸いである。

記事は5月7日付けの "For Heaven's Sake, Don't Touch the Mona Lisa" という記事である。

厳しい条件下でルーブルで撮影した様々な話題が書かれてある。


≪ルーブルは静まりかえっていた。照明は暗く、監視カメラは作動していた。グラン・ギャラリのイタリア・ルネッサンスの傑作も暗がりの中の形にすぎなかった。隣接する サル・デ・ゼタ( Salle des États )ではレオナルド・ダ・ビンチの『モナ・リサ』が一人微笑んでいた。午後11時過ぎ間もなく、足音が聞こえ、一人の美術館の幹部が現れた。

ルーブル美術館の館長アンリ・ロワレット氏は白子のオーパス・デイの修道僧には射殺されずにちゃんと生きていた。でも他は「ダ・ヴィンチ・コード」の出だしと何もかもそっくりである。事実、昨年の七月には、ヨーロッパ最大の美術館の内部でダン・ブラウンのベストセラー小説の撮影が始まったが、裸の死体がそのあたりで寄せ木細工の床に転がっていたのである。

5月17日のカンヌ映画祭の幕開けに上映される、この待望の映画は5月19日(日本では5月20日)に全世界で一斉公開される。ルーブルがスポットライトを浴びるのは今に始まったことではない。小説の人気で、昨年のルーブル入場者数は記録的な750万人に達し、ロワレット館長は今年はさらにそれ以上の入場者数を見んでいる。

とくに美術館の機構やパリの地理にかんして、小説には間違った箇所が出てきたので、この由緒あるルーブルが、制作費1億2千5百万ドルのハリウッドの大作に賃貸しするにかんして、すべてのフランス人が適切と思っているわけではない。ルーブルのアパートで家族と一緒に住んでいるロワレット館長はへっちゃらであった。

「ここで撮影があったのは始めてではない」と、この四月のある木曜日の夜に930フィートのグラン・ギャラリを歩きながら彼は言った。警備員が二人護衛にあたっていた。「ソフィー・マルソー主演の『ルーブルのベルフェゴールの幽霊』はここで撮られている。他にもあるが、これほどの大作は未だかってなかった。筋書きが複雑で、準備が大変であったが。順調に進んでいるよ。」

ルーブルが金を受け取ったのは当然であるが、その金額については、美術館側も制作者も公表を拒否している。さらに厳格な条件が設定され、およそ20名以上の学芸員や警備員が動員され、作品が大切に扱われるよう見守った。開館時間内の機材の持ち込みは禁じられた。ということは夜を徹して撮影され、窓越しの『月明かり』は外部からの照明である。さらに注意して、作品に触ったり、直接光があたらないように、機材は絵から安全な距離を保たねばならなかった。『血』や神秘的な印が床にしるされることも、制作者のメンバーは飲食も禁止された。

レオナルドのこの小さな油彩画がヴェロネーゼの巨大な『カナの婚姻』を見つめているサル・デ・ゼタでの『モナ・リサ』の直接の撮影はもちろんありえない。

しかしハワード監督は不平をこぼしてはいない。「これらの制限は撮影にはキツイが、全体的には理解できる」とニューヨークからの電話インタビューで述べている。「ルーブルでの仕事は完了している。最初、学芸員は幾分神経質だったが、われわれが約束通りに行動していることを理解してくれたよ。口論になることは只の一度もなかったし、好意的だったよ。」

最後に、照明の禁止すら、絵画に予期しない効果をだしたと彼は述べている。理由は「極度に低い輝度に
より、非常に神秘的で、不気味で、実にぴったりの雰囲気がでたからね。」「カメラを作品に向けると、作品自ら現れたかのようだった。創造的でありがたいことだったよ。」

幻想と現実が入り混ざった小説を脚色する場合、原作の100ページ以上を、原作通りのセッティングで撮影できれば大成功である。まずは、ジャン・ピエール・マリエール演ずる、原作の学芸員ジャック・ソニエールがルーブルのデノン廊を走り回り、ポール・ブリッタニー演ずる白子の修道僧シラに射殺される。

マリエールはカラバッジオの『処女マリアの死』を引き裂いて鉄の門を下ろすはずだったが、それは許されなかった。真相は鉄の門がそもそもなかったのである。

それはそうでもよい。ポイントは、3人の映画スターがグラン・ギャラリで顔をそろえる場面である。シンボル学教授ロバート・ラングドンのトム・ハンクス、暗号解読者でソニエールの孫娘のソフィー・ヌヴーを演ずるオドレイ・トトゥ、ベズ・ファーシュ警部を演じるジャン・レノ、全員がレオナルド、ラファエロ、ティッツィアン、ティントレット、カラバッジオ、その他大芸術家と同じ会に所属している。

さらにルーブルの他の場面が使われている。まず堂々たる中庭、クール・ナポレオン、I. M. ペイの有名なガラスのピラミッド、これが美術館の入り口になっている。ストーリーの結末のために、カルーセル・ド・ルーブルのショッピング・モールの中にある逆さのグラス・ピラミッドである。

これらが一晩6時間で撮影してしまおうという場面の数々である。ハワード監督はルーブルの端から端まで走ったと述べている。そんなときでも、芸術に圧倒される瞬間があった。

「トム・ハンクスと私がたまたま『モナ・リサ』の前に立っていた」時を彼は回想している。「警備員が一人いたけど、われわれ二人だけで、他には誰もいなかった。お互い顔を見て言ったものだよ。『スプラッシュ』のために水面下の仕事、アポロ13号の無重力状態のためにすべてやったものね。大冒険だったよ。でもわれわれの人生のこの瞬間、それらの体験と今回の仕事は同じぐらい価値があったよ。素晴らしかった。」

撮影のメンバーがいなければ、四月の夜の美術館のムードはさらに静寂であったろう。館長は子供の頃足繁くルーブルに通い、ツアーの夜警に加わったことを思い出す。今、『モナ・リサ』の前に立ち止まった後、彫刻陳列館に向かった。階段の頂上に入場者のお気に入りの『サモトラケのニケ』が暗闇の中でまるで頭部のない巨大な鷲のように舞っている。

映画制作には、ルーブルでかなり残された撮影をロンドン郊外のパインウッド・スタジオでさらに2週間かけて行われた。ここではじめて、監督はソニエールが血を流してカラバッジオ(原作の小さなコピー)をひったくるシーンを見せる。またここでは、ソフィーがレオナルドの『岩窟の聖母』の背景から浮かび上がった鍵と『モナ・リサ』のガラスの秘密の文字を発見する。二つともここでの撮影のために模写されたものである。

その他の主要なパリのロケ地である、聖スルピス教会の光景は想像する他はない。この小説での『聖盃伝説』の話では、修道僧シラが手がかりを掘り当てたのはこの教会である。2年前のことであるが、この小説はフランスですでに大ヒットしていた。この教会は突然有名になったことにたいする不快の念をフランス語と英語で表明する文書を出した。そしてまだその文書は残っていた。

「最近のあるベストセラー小説の主張は事実ではありません。当教会はかって異教寺院であったことはなく、ここにそのような寺院は存在しませんでした。」

そこで映画制作者は教会の内部を撮らしてもらえずに、外部だけを撮ることにした。映画制作に協力的で
あったのは、オリバー・ス・デッカーである。彼はカリフォルニアの不動産業者であり、17世紀のシャトー・ド・ヴィレッットを所有しており、ここがイアン・マッケラン演ずるエクセントリックなイギリスの歴史学者サー・リー・ティービングの住居になった。

筋書きが進行するイギリスでは、たしかに視覚的に納得できるものでなければいけない。イギリスでは、ロンドンにある12世紀のテンプル・チャーチとスコットランドの村ロスリンにある15世紀のロスリン・チャペルで撮影できた。両方とも映画の筋書きに大事な場面である。

「だがウェストミンスター寺院は内部の撮影を断られてね」と監督は述べた。サー・アイザック・ニュートンの墓にまつわる重要なシーンがある。「そこでニュートンの墓をつくり、リンカーン大聖堂で写したよ。大聖堂は同じ頃に建てられているので、うれしいことにそっくりだった。」

高位聖職者にしてみれば、小説の前提 ― イエスがマグダラのマリアと結婚し、一子をもうけた ― がそもそも我慢ならない。案の定、この映画の上映を前にして、カンタベリー大僧正、ローワン・ウィリアムス博士は、先月のイースターの講話で、この小説は「金銭目当てのデタラメ」であると述べた。一方、ヴァティカンの高官、アンジェロ・アマート大司教は、この映画のボイコットを呼びかけ、小説を「おぞましくも反キリスト教的」と決めつけた。

ルーブルにとってみれば、そんなことは問題ではない。

ロワレット館長は「スリラーでしょう」と言った。

ソニエールが75才でなお勤務しているという話も受け流した。フランスの学芸員は65才で定年である。ルーブルに不正に進入した者は ― シラのように ― すぐに発見されると確信している。そして、重い額縁に納まった8x12フィートのカラバッジオの『処女マリアの死』の前に来たとき、小説では、老人がこれを地面にたたきつけたことになっていると言うと、非常に面白がっていたようであった。

ということは、彼は本をまだ読んでいないということであろうか?

ちょっぴり困った顔をして、彼は言った。「実は、この映画は大評判だけれども、読んだかどうか聞かれたときには、いいえと言い、それ以上言わないことにしているのでね。もし読んだといったら、感想や動機をきかれますよ。だから、いいえと言った方が楽でしょう。」

彼は立ち止まり、長いグラン・ギャラリを眺めた。

「でも映画は見に行きますよ」と微笑を浮かべて彼は言った。≫



後記:モナ・リサより映画のシーンの一部をかいま見たい方は下記をどうぞ。死体が転がっています。

http://www.nytimes.com/2006/05/07/movies/07ridi.html

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