ヘ短調作品34

ルブランの回想録の link 先はゲストブックを御覧ください。

音楽

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音楽の歴史で20世紀はいつから始まったのだろう。1894年のドビッシーの「牧神」からか、1913年の「春の祭典」だろうか。日本での20世紀はいつからだろう。プロコフィエフがシベリア鉄道と日本を経由したときに横浜でピアノ演奏会を開いたときに聴きに行った人はたしかにいる。しかし多くの日本人にとって20世紀は1945年に始まったのではないだろうか。私の20世紀は1960年ぐらいからである。

NHKでは「現代音楽の時間」という放送があって、私もありがたがって聴いていたものである。その中に戦後の音楽に多大な影響を与えたウェーベルンの名前があったことははっきり記憶している。

昨年の九月に投稿すればきりがよかったのだが、本日9月15日は(フォン)ウェーベルンの61年目の命日である。昨年九月は死後60年で国際学会があったようである。タイミングを失したようである。

(フォン)と括弧してあるのは、第一次大戦後貴族の家系であることを示すフォンという名前の一部というか、身分を表すタイトルが禁止からという話を聞いた。ウェーベルンはこのフォンに格別の愛着と誇りを持っていたから、人々は彼の気持ちを思いやってフォンに括弧をつけて呼んであげたという話がある。

また彼はシャイな人でフォンをつけて呼ばれるのをいやがっていたから、フォンに括弧をつけてあげたという話もある。

どちらが正しいのか、オーストリア・ハンガリー帝国の崩壊後の民主化の流れには無知な私である。おそらくどちらも正しいのかも知れない。だれでもそうだが、ウェーベルンも誇りと羞恥心を併せ持っていただろう。

新ウィーン楽派のシェーンベルク、ベルク、ウェーベルンの三人の運命。伝記作家にはいくらでもネタがある。ユダヤ人シェーンベルクのアメリカへの亡命とその後の活躍、ベルクの複雑な女性関係は作者も読者もあきさせないだろう。

ウェーベルンの人生を書くのは、伝記作家には気が重い作業であったろう。何一つ順調に人生が運んでいない。まず従妹との結婚は教会がすんなり認めなかった。ようやく結婚し、指揮者の仕事にありついたと思ったら、ヒトラーの台頭で職を失い、どん底の生活を送る。

終戦間近の1945年初頭には、最愛の息子を兵隊にとられ、東部戦線に送られる。飛行機の機銃掃射を受け、列車の中であえなく戦死する。

終戦をむかえるが、映画の「第三の男」に出てくるような混乱のウィーンをさり、ザルツブルク州の田舎の町ミッタージルに住む娘の家に行く。

あいにく娘の婿さんは親衛隊くずれの男であった。彼はヤミ市で家族を養っていた。たんに徴兵された一兵士ならともかく、親衛隊だった男のヤミ市商売には占領軍の追求が厳しかったのかもしれない。彼は投獄された。

そんな失意の中、彼は婿さんがヤミ市で仕入れたタバコであろうか、ちょっと外に出てマッチで火をつけてタバコを吸おうとした。それをヤミ市の取引の合図と勘違いしたアメリカ兵が銃撃して彼は死亡した。

昨年タイミングを失したといったが、BBCの Radio 3のアーカイブがあった。彼はBBC交響楽団の指揮者をしたこともあって、この追悼プログラムが組まれたのであろう。英語のおしゃべりも含めて3時間ぐらいの番組である。昨年9月15日にBBCの Webern Dayのプログラムを聞くことが出来る。

下のサイトを開くとシェーンベルク作かどうか定かではないが、彼の肖像画が出てくる。その左に Listen again to Webern Day ‘s evening broadcast というメッセージがある。そこの音声マークを押してもらうと放送が聞ける。他の音声マークもあるから注意していただきたい。それを押すと2006年9月15日の放送になる。

http://www.bbc.co.uk/radio3/classical/webernday.shtml

ウェーベルンの曲は短いので全集をCDで買ってもしれているが、この放送も悪くはない。


写真はウェーベルンが悲劇的な死をとげた地である。こんなのどかな田舎町にアメリカ兵が追跡にきたのかと思うが、ここは本来マーケットの町である。ここにねらいをつけたのは当然かもしれない。ウェーベルンは危険な都市ウィーンから危険な田舎町に引っ越したのである。

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バイロイト音楽祭やザルツブルク音楽祭の報告でおなじみのニューヨーク・タイムス紙のクラシック音楽部門の編集主任アンソニー・トマシーニがバイロイトでも活躍したソプラノのアストリッド・ヴァルナイの追悼記事を書いている。遅れない内にと思って訳したが、私自身あまり彼女のことをしらない。ニューヨークに縁の深い彼女、トマシーニ記者によれば、ヴァルナイはフラグスタート、ニルソンとならぶ三大ワグナー・ソプラノである。皆さんはどう思われるだろう。カイルベルト指揮の「指輪」のライブ録音は、テンスタメント・レーベルからすでに二部CDで出ているが、今年中に全部でそろうとのことである。彼女のブリュンヒルデを聴いてみたい気がする。


ドラマティック・ソプラノのアストリッド・ヴァルナイ死去 88歳

アンソニー・トマシーニ記者

ニューヨーク・タイムス 9月6日

ドラマティック・ソプラノのカリスマであったアストリッド・ヴァルナイが月曜日ミュンヘンで死亡した。その輝かしい55年のキャリアは22歳でメトロポリタン・オペラでデビューしたに時に始まる。彼女はワグナーの「ワルキューレ」のジークリンデ役をいや気がさしたロッテ・レーマンに土壇場になって代わったのである。

死因は長期の病気の末の心膜感染であると彼女の自伝“Fifty-Five Years in Five Acts: My Life in Opera” (2000, Northeastern University Press)の協力者である作家ドナルド・アーサーが述べた。

ワグナー・ソプラノとしては、彼女の崇拝する恩師キルステン・フラグスタートや彼女の親友であり、彼女と同じスエーデンでしかも彼女と同じ生年の1918年に生まれたビルギット・ニルソンほど広範囲な評価は得られなかった。しかしオペラ・マニアや通の間ではミズ・ヴァルナイは二人に匹敵する歌手であった。

彼女の声は、クライマックスの鋼のような光沢からリリカルなフレーズの暗い甘さまで音色の幅が広かった。彼女は悲劇的な威厳と激しさをともに伝えることのできる魅惑的な女性であると同時にナチュラルな演技者であった。

彼女の歌唱は、テスタメント・レーベルがワグナーの「指輪」全曲のうち最初の二曲分を発売したことでふたたび注目を浴びるようになった。この「指輪」は1955年のバイロイト音楽祭のライブ録音である。ミズ・ヴァルナイは「ワルキューレ」と「ジークフリート」でブリュンヒルデ役である。彼女はきらめくような激しさと鋭い劇的洞察力で歌いきっている。昨日の電話インタビューでジェイムス・レヴァインはミズ・ヴァルナイを真に個性的な歌手の一人であると言った。1979年に一緒に仕事をした時のことを回想している。そのとき彼女は61歳で、ワイル・ブレヒトのオペラ「マハゴニー市の興亡」の不屈の後家ビグビックを演じた。ジョン・デキスターが大胆な演出をしている。

「全体的に見て、彼女が見せた理解力を持ちあわせる人はちょっと思いつかないね」とレヴァイン氏は言っている。さらに「彼女は内にあるものから歌っている」とも言った。「曲全体を彼女は理解しており、臨場感、劇がつねに音楽とバラスがとれていた。」

オペラ一家に生まれたが、ミズ・ヴァルナイが歌いはじめるのは早い方ではなかった。イボリカ・アストリド・ヴァルナイ1918年4月25日にストックホルムに生まれた。両親はハンガリー人だった。当時母親のマリア・ヤボールは有名なコロラチュラ・ソプラノであり、父親のアレクサンダー・ヴァルナイはテノールであり、後にストックホルムの王立スエーデン・オペラの演出・監督であった。

晩年ミズ・ヴァルナイが好んで語った話しでは、ヴェルディの『仮面舞踏会』の公演中、母親は鏡台の下の引き出しを赤ん坊の仮のベビー・ベッドにしていた。この鏡台はオペラ団のプリマ・ドンナであるフラグスタートのものであり、フラグスタートが赤ちゃんをみていた。

アストリドが4歳の時、見込みのある仕事を求めてブエノス・アイレスそれからニューヨークへと移住した。父親はマンハッタン・オペラ・ハウスの演出の仕事をしていたが、1924年突然死亡した。母親はイタリア人のテノール歌手と結婚してジャージー市に落ち着き、ミズ・ヴァルナイはそこで育った。

彼女ははじめピアニストになるつもりだった。しかし声楽の才能が優っていたので、20歳で本格的なトレイニングに入った。メッツの指導者で副指揮者であったハーマン・ウィーガートの個人指導を受けた。彼女がメッツの総支配人のエドワード・ジョンソンのオーディションを受けたとき、22歳のミズ・ヴァルナイがすざまじいソプラノ役を13も習得したとは信じられなかった。

1941年12月6日の土曜日、マティネー放送がはじまる寸前になって、「ワルキューレ」のジークリンデが必要になって、ミズ・ヴァルナイにふった。彼女は舞台稽古すら一度もしたことがなかった。かかる芸術的ニュースは翌日のパール・ハーバー攻撃のニュースで吹っ飛んでしまった。それでもオペラ界は注目した。

ニューヨーク・タイムスの論評で「きわめて魅力的なスエーデン生まれのアメリカ人が品位と技量で演じた。この品位と技量は生まれつきの才能を持った人物のみにあるものである。」

6日後ヘレン・トローベルは「ワルキューレ」でブリュンヒルデを歌う予定であったが、病気になり、もういちど最後の十分間の代役でこの役をやり、ニューヨークの聴衆と批評家を熱狂させた。

1944年彼女の指導係ウィーガート氏と結婚した。彼は1955年に死亡したので、ミズ・ヴァルナイには直接の遺族はいない。1940年代にイタリアのレパートリーも手がけたけれど、メッツではワグナーの役で知られている。メッツのオペラ団で約200回歌っている。

だが彼女は、1950年にメッツの総支配人になったルドルフ・リングと意見が合わず、ヨーロッパでキャリアを積むことになる。ベルリン、ミュンヘン、ウィーンの歌劇団を支えたのは彼女である。彼女はリヒアルト・ワグナーの孫にあたるヴィーラント・ワグナーに気に入られた。彼はバイロイト音楽祭を取り仕切り、彼の過激な抽象的かつ簡素な演出でミズ・ヴァルナイを演技させた。

1960年代後半になり、彼女の重いドラマティック・ソプラノのレパートリーを断念した。たとえば、シュトラウスのエレクトラのようなぞっとするような役である。そして彼女が言うところの第二のキャリアに入った。メゾソプラノ役か個性派の脇役を受けもつようになった。レバイン氏によれば、ミズ・ヴァルナイに彼女の歌手生活最後の時期に彼女に尋ねたそうである。マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」のマンマ・リチアのような脇役をなぜやるのかと。彼女は「私は舞台に立ちたいだけ。若い人達の演技を間近にみていたいのよ」と答えた。


写真はニューヨークのメトロポリタン歌劇場である。

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しかし党に加入でベルリン・スタート・オパーでのキャリアを高めようと考えていたとしたら、当てはずれだった。「カルメン」、「コウモリ」その他他愛もないオペレッタのちょい役がまわって来るだけだった。

彼女の大躍進は「ナクソスのアリアドネ」のゼルビネッタのおそろしく難しいコロラチュラ役で始まった。これを1940年にはじめて歌った。彼女はこの歌唱で、この役の手本とされたマリア・イヴォグンの注目を引いた。ミス・イヴォグンは強い印象を受け、ミス・シュワルツコップの個人指導をし、高いソプラノのレパートリを指導し、彼女をリーダー歌手として訓練した。ミス・シュワルツコップはやがてウィーン・シュタート・オパーと契約した。

彼女は自分の将来はリリック・ソプラノにあると悟った。1947年に戦後最初のザルツブルク音楽祭で契約が続いた。この年は指揮者ウィルヘルム・フルトヴェングラーと仕事をしたが、それ以降の夏は指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンと緊密な協力関係ができた。さらに彼女は1947年ウィーン・シュタート・オパーの演奏旅行に出かけロンドンのコヴェント・ガーデンでは「ドン・ジョヴァンニ」と「フィデリオ」で歌った。

ロンドンの公演は大成功で、新しく結成されたコヴェント・ガーデン歌劇団に招待された。彼女は5年間この歌劇団で歌うことになる。ドイツのレパートリだけでなく、ヴィオレッタ、ミミ、マスネーのマノンまでもすべて英語で歌った。

彼女のキャリアとレパートリを決めたのは、音楽関係の責任者であり、評論家であったウォールター・レッグである。1906年にロンドンで生まれ、正規の音楽教育を受けてはいなかったが、音楽にはいい勘をもっていた。サー・トマス・ビーチャムを補佐し、フィルハーモノア・オーケストラとコーラスの創設に貢献している。

戦後レッジは主としてレコード会社に勤務していた。レッグがオーヂションでミス・シュワルツコップをはじめて聴いたのは、EMIの新しい人材のスカウトにウィーンに出かけた時であった。かくして芸術的なパートナーシップはやがて人生のパートナーシップへと発展し、当時最初の妻メゾ・ソプアノのナンシー・エヴァンズと離婚していたレッグは1953年にミス・シュワルツコップと結婚した。

レッジが芸術家ミス・シュワルツコップに与えた影響には賛否両論がある。彼はややもすると彼女を音楽的にも知的にも劣っているかのように扱った。彼女の歌唱が彼の気に入らないときには、みんなの前でしかりかねなかった。

しかし彼は彼女に貴重なレパートリ、とくにフーゴー・ヴォルフの歌曲を紹介し、彼は彼女のレコーディングを監督し、細部にわたって彼女を指導し、技師たちが彼女の声を最上の状態でとらえるようにした。ミス・シュワルツコップのナチとの関係から、アメリカでの演奏活動を開始するには若干危惧の念があった。合衆国でのデビューは1953年の10月まで遅れた。ニューヨークのタウン・ホールのリサイタルでの歌唱で評論家を虜にした。

これに続いて1954年の後半にはアメリカ公演があり、タウン・ホールで終えることになった。「ミュージカル・アメリカ」のある評論家は、ミス・シュワルツコップのタウン・ホールでの歌唱は「昨シーズンのデビュー・リサイタルで見せた、称賛に値する仕上げ、技術的熟練、適切な解釈をふたたび示してくれた」と書いた。

1956年の秋彼女はカーネギー・ホールで歌った。ホールの入場券がドイツ・リードで売り切れたのは始めてであった。

ミス・シュワルツコップのアメリカでのオペラ・デビュウはサン・フランシスコ・オペラの「元帥夫人」で始まった。「サタデイ・レビュー」の評論家ミルドレッド・ノートンが報じるには、満場の聴衆は「長く記憶に残る新しいプリンセス・ヴェルデンベルク」に歓声の声を上げた。彼女は、ミス・シュワルツコップには「落ち着いた、感動的な人間的魅力と輝きのある声と上品な人柄が備わっている。」

メトロポリタン・オペラのデビュウは1964年の10月まで持ち越された。やはり元帥夫人であった。ニューヨーク・タイムスの評論家レイモンド・エリクソンはミス・シュワルツコップの声に新鮮さと輝きがなくなってきたことを記しながらも、彼女は「聴衆を征服し、彼女がおじぎをしたときの会場の歓声は、実力の伴わないプリマ・ドンナがぜひとも願うたぐいのすごいものであった。」

メトロポリタン・オペラ・ハウスの外では、彼女の戦時中の経歴に対する抗議がちらほらあった。ミス・シュワルツコップはメッツの総監督ルドルフ・ビングとの関係は冷えていた。彼はオーストリア生まれのユダヤ人であった。シーズンの幕をきる元帥夫人の6回の公演以外に、彼女はメッツでもう一度歌っている。1966年のドンナ・エルヴィラである。

リサイタル、オーケストラとの共演で彼女はニューヨークを訪れ、世界中で崇拝者を獲得していった。EMIの録音はたちまちクラシックになった。その中には、ピアニストのワルター・ギーゼキングとともにモーツアルトの歌曲のアルバム、エドウィン・フィッシャーとのシューベルトの歌曲のアルバム、どちらも1952年に録音されている。1957年カラヤン指揮の「バラの騎士」、彼女の最高の功績の一つである、1959年ヴォルフガンク・サヴァリッシュ指揮の「カプリッチオ」がある。

彼女のキャリアが盛りを過ぎてからは、通常はレッグと組んでマスター・クラスを受け持つようになった。その評判は、深い洞察力があるものの、途方もなく厳格であったという。彼女は「白鳥の歌」演奏旅行を始めた。伴奏はジョフリー・パーソンズであり、彼は1979年の3月19日のチューリッヒの正式なさよなら公演のパートナーであった。2日後、レッグは、レコード会社からいらないとされて憤慨していたが、心臓麻痺で死去した。72歳であった。

ミス・シュワルツコップには直接の遺族がいない。一度子供がなくて寂しくはないかと聞かれて、彼女は「私には子供が500人いるわ。私が歌った曲の数だけ」と応えている。

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<<最初の部分が欠けております。私のこの部分はかならずブログに拒否されます。音楽学校の先生の一人娘であったシュワルツコップの生まれた土地と生年月日が書かれています。>>

フリードリヒ・シュワルツコップは教師であったので家族は何度か引っ越している。エリザベートが13歳のとき、ドイツのマグデブルクに一時住み、ピアノ、ギター、ヴィオラ、オルガンを習い、高くて明るい声を身につけた。この発声は学校でのコンサートや地元のアマチュア演奏会での要請があったからである。

家族はヒトラーが権力を掌握した1933年ベルリンに引っ越した。ミス・シュワルツコップはベルリン王立アウグスタ学校に通い、後に音楽院の入学を許可された。彼女の本格的なトレイニングが始まる前の1934年「国家社会主義学生同盟」からの資金援助で、サイクリングとキャンピングの旅にイギリスに行ったことがある。彼女はこの国に愛着を持ち続け、イギリスは戦後彼女を芸術家としてやさしく受け入れ、1992年には大英帝国のデイムの称号を授与している。

この音楽院では、学生はヒトラーの国家社会主義運動の授業を受けなければいけなかった。1935年、彼女が二十歳の頃であるが、ナチの学生支部のメンバーになった。シュワルツコップの伝記を書いたアラン・ジェファーソンによれば、この学生組織のリーダー(フューラーリン)になり、彼女のイデオロギー上の任務は「他の学生を監視する」ことであった。

音楽院の教官ルーラ・ミスツ・グマイナーは彼女の専門分野では傑出していたが、なぜかシュワルツコップはコントラルトになるべきだと信じていた。ミス・シュワルツコップがようやく彼女の声を出すようになったのは、1938年にトレイニングが終了して、ベルリン・シュタート・オーパーと共演した時からだった。

彼女はこの時期に歌手としての評価を勝ち取り、新人に与えられる小さな役から本格的な役へと飛躍した。歌劇団の団長であるウィルヘルム・ローデはナチ宣伝相のヨゼフ・ゲッペルスの見込が良かった。ミス・シュワルツコップがナチと協力するようになった理由の一つは、歌劇団の野心的な歌手が党を支持するのは義務だったのである。

しかし彼女は1980年代まではナチに正式に入党してはいなかったと主張してきた。彼女は1845年の連合国の調査に三度そういっている。占領下の時代、正式の党員はドイツでの公演が許されなかった。

しかし1982年に、ウィーン大学の音楽史専攻のオリヴァー・ラトコルブが博士論文を公刊し、その中で彼女が党員であったことを詳細に明らかにした。この情報の出所は、ウィーンの連合国の非ナチ化局で発見され、後にワシントンのナショナル・アーカイブに移された文書である。

この記録によれば、ミス・シュワルツコップは1940年1月26日に入党を申請し、同年3月1日に受理されている。ナチの党員番号は7548960である。学者と著者は彼女の入党申請はもっと早かったと考えている。

ニューヨーク・タイムスとの1983年のインタビューで、ミス・シュワルツコップは党員であったことを否定した。タイムスにこの文書のことを指摘されたときには、党員であったことを認めた。「別段たいしたこととも思っていませんでした」と彼女は述べた。「たいしたこととは。」タイムス当ての書簡でさらに説明を加えた。「組合に入るようなものでした。仕事をもらうために組合に入るのと同じ理由でした。」

ほかのインタビューでは、トスカの有名なアリア「ヴィッシ・ダルテ」、訳せば「歌に生き」を引用して自己弁護している。

彼女のナチの過去についての議論は彼女の80歳の誕生日での賛辞に関連して一時浮上したことがある。ジェファーソン氏の伝記「エリザベート・シュワルツコップ」がこの当時出版されたが、戦争中の彼女の役割について議論しているが、彼女はキャリアを高めたい一心の野心家であったとしている。

ナチとして、ミス・シュワルツコップは党の式典や前線の武装親衛隊のために歌っている。彼女はゲッペルスの帝国劇場局(Reichstheaterkammer)の一員であり、宣伝省で働き、映画にも出たことがある と信じる研究者もある。ニューヨーク・タイムスとの1983年のインタビューで、ミス・シュワルツコップは党員であったことを否定した。タイムスにこの文書のことを指摘されたときには、党員であったことを認めた。「別段たいしたこととも思っていませんでした」と彼女は述べた。「たいしたこととは。」タイムス当ての書簡でさらに説明を加えた。「組合に入るようなものでした。仕事をもらうために組合に入るのと同じ理由でした。」

ほかのインタビューでは、トスカの有名なアリア「ヴィッシ・ダルテ」、訳せば「歌にに生き」を引用して自己弁護している。

彼女のナチの過去についての議論は彼女の80歳の誕生日での賛辞に関連して一時浮上したことがある。ジェファーソン氏の伝記「エリザベート・シュワルツコップ」がこの当時出版されたが、戦争中の彼女の役割について議論しているが、彼女はキャリアを高めたい一心の野心家であったとしている。

ナチとして、ミス・シュワルツコップは党の式典や前線の武装親衛隊のために歌っている。彼女はゲッペルスの帝国劇場局(Reichstheaterkammer)の一員であり、宣伝省で働き、映画にも出たことがある と信じる研究者もある。

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タフなトマシーニ記者まだバイロイトにいた頃にシュワルツコップ死去の報を聞き、早速(私には)長い記事をものにした。本社から資料を取り寄せて書いたのであろうが、急なことでもあり、早い版では、彼の署名記事としては間違いがあったみたいである。シュワルツコップの写真をローテンベルガーの写真と取り違えたそうである。

それに死んだ人をむち打つみたいだけれど、彼女はナチ党員であったことを隠していたという話である。私自身は気が進まなかったし、彼女には同情的ではある。ただ終戦記念日にあたり最近の日本の「毅然たる」態度を取る人が人気が出るという風潮を考え、あえて取り上げるべきかと思った。

見た目には華やかな存在でもこの時代を生き抜くためには色々苦労もあったのであろう。長い記事なので、ソフトの制約と私の体調も考慮して3回に分けて紹介する。トマシーニ記者は早速ニューヨークで記事をかいているが、マイナーな演奏会である。これを訳し終わると、私のトマシーニ記者との長い夏のおつきあいはすべて終わることになる。



オペラ歌手エリザベート・シュワルツコップ死去、90歳

アンソニー・トマシーニ記者

ニューヨーク・タイムス 8月4日


ドイツ生まれのソプラノであるエリザベート・シュワルツコップ、シュトラウスやモーツアルトの演技で全盛期には一世を風靡した芸術家であったが、オーストリアの自宅で死亡した。90歳。

彼女の死去はオーストリアの国営テレビが報じた。葬儀委員長の話を引用し、ORFのアナウンサーはミス・シュワルツコップはオーストリアの西のはずれにあるフォラルベルク州のシュルンズで死去した。死因は明らかにされていない。

多くの崇拝者によれば、ミス・シュワルツコップはシュトラウスの元帥夫人、モーツアルトのドンナ・エルヴィアラ、その他のオペラの役の演技は比類のないものであった。しかしながら、第二次大戦中のナチとの関係の程度に彼女が嘘をついていたことで、彼女のイメージは傷つけられていた。

ナチのために演技したことは分かっていたが、彼女はナチ党員でもあったのである。仕事が欲しい芸術家にとって、党の一員になることは「組合に入る」ようなものだったと彼女は弁明している。

このように素晴らしい名声のある歌手として、ミス・シュワルツコップの演奏は賛否両論があった。全盛期の彼女の声は光り輝くソプラノであり、歌唱は機敏で印象的であり、様式の解釈も比類ないものであった。1950年代から70年代にかけてリーダーのリサイタルに登場している。彼女は、テキストのニュアンス、微妙な解釈、歌手としての優雅さを歌唱に加えたすばらしい芸術家であったというのが大方の聴衆の意見である。

一方で、彼女の歌唱は計算され尽くして、マンネリで、器用すぎる(ある批評家は「プロイセン的完璧主義者」といった)と思う人もいた。テキストに持続力を持たせようとして、ミス・シュワルツコップは声を低くしたり、劇的効果をねらってなかば語り調にしたと不満を漏らす人もいた。

音楽通と批評家の意見は彼女の基本的な声楽的才能について分かれていた。ウィル・クラッチフィールドはミス・シュワルツコップのリサイタルのライブ録音を論評して1990年のニューヨーク・タイムスに書いている。「明らかに彼女の声はすばらしい(なめらかで魅力的なリリック・ソプラノ)であり、技巧もすばらしい。だがピーター・G・デイビスは1981年のタイムスに彼女のキャリアを「基本的には平凡な声を知性と意志の力で乗り切ってきた」と評している。

しかし一致しているのは、元帥夫人やその他のシュトラウスの役(「ナクソスのアリアドネ」や「カプリッチオ」の伯爵夫人)とかモーツアルトのフィオルディリジ、アルマヴィーヴァ伯爵夫人、ワグナーのエヴァとエルザ等では、彼女の歌唱は比類がなく、きらめくトーンと豊かさそれにカリスマティックな演技力があったことである。

彼女は稀な美貌の持ち主であった。二本の前歯には隙間があったが、彼女は直そうとはしなかった。髪は明るく、目はくぼみ灰色であった。彼女は若い頃映画女優になろうとしていたし、そうしていたら、成功していたかもしれない。

勤勉で挑戦的な歌手であった彼女は、53曲のオペラで74の役を演じた。その中には1951年の「放蕩息子」のヴェニスでの世界初演のアンネ・トルローヴェもある。彼女のリーダーのレパートリはシューベルト、シューマン、モーツアルト、シュトラウスの数百の歌がある。彼女はさらにフーゴー・ヴォルフの歌曲を早い時期から擁護した一人である。彼女はヴォルフの歌曲を深い洞察力と感動的な美しさで歌った。




写真は「フィガロの結婚」のシュワルツコップとあるが、伯爵夫人にしては簡素な服装かと思う。もう少し調べてみよう。


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