ヘ短調作品34

ルブランの回想録の link 先はゲストブックを御覧ください。

音楽

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ニューヨーク・タイムスのクラシック音楽担当のトマシーニ記者のザルツブルク市中での見聞録。初日はヨーロッパの広場でよく見かける権威とはほど遠い辻音楽師との出会い。ザルツブルクともなると辻音楽師の水準も高くなるのだろうか。以下は彼のリラックスした報告である。

モーツアルトを弾く辻音楽師

トマシーニ記者

ニューヨーク・タイムス 8月4日

ザルツブルク ― バイロイトから鉄道で、ザルツブルクには水曜日の夕方に到着した。爽やかな天気だったので、夕食を取るために私の好きなカフェK&Kまで歩くことにした。モーツアルトが生まれた家を通り過ぎ、ダニエル・ステンウェイという究極の辻音楽師に出くわした。

他の辻音楽師はギター、アンプ、チェロ、コントラバス、キーボードなどを広場や公園に運び込む。笑ってしまう。ステンウェイ氏はヤマハの中型ピアノをヴァンで運ぶ。ヴァンには水圧リフトがついており、ローラーにのせたピアノを、モーツアルトが17歳まで住んでいたゲトライドガッセ9番地の中庭の場所まで運ぶ。水曜日には熱心な群れがモーツアルトのメドレー ― ソナタの数楽章、「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」や人気のある「トルコ行進曲」―すべて軽快なテクニックで演奏してのけ、装飾楽句を即興で付け足した。

マケドニア生まれ25歳のステンウェイ氏は魅力的な若者で、体格が良く、きちんと手入れしたあごひげをはやし、ポニーテイルを束ねている。彼が言うには、マケドニアでは民族音楽が盛んなので、クラシック音楽をする機会を求めて二年前にザルツブルクにやってきた。しかし彼はピアノが達者である。彼はマケドニアの首都、スコピエのオーケストラの伴奏で、あのすごいラフマニノフのピアノ協奏曲の三番を演奏したそうである。ダニエル・ステンウェイはご想像のように本名ではなく、街での名前である。

土地の法令では彼がやっていることは禁じられている。「いつも用心しなければいけない」と彼はいった。「警察が時々やってきては、止めさせるし、罰金が科せられるし、ぶち込まれたこともある」という。ガールフレンドのカタリナに手伝ってもらってピアノを据え付ける。私は今晩の店じまいを観ていた。彼は胴体の真ん中にプロの運送屋のバンドを締め、ピアノの脚を一つずつ持ち上げ、カタリナが輪を滑り込ませる。二人は敷石の中庭からピアノをヴァンが駐車してある街角まで運ぶ。

彼はモーツアルト・ハウスでモーツアルトを弾くだけではない。他のメドレーでは、激しいブラームスのハンガリアン・ダンスからリストのハンガリアン・ラプソディ、ショパンのワルツまでつづけて強めに演奏する。群衆は賞賛している。男の子が興奮してピアノの後部に寄りかかり、ステンウェイ氏が演奏している間ハンマーやダンパーを見つめていた。

休憩のとき、ステンウェイ氏と話をしたいけど待たなければいけなかった。自分で制作したCDにサインをせがむ人がたくさんいたからであある。曲目は、「クマンバチが飛ぶ」、ベートーベンの「悲愴」ソナタ、ショパン作品集、これで15ユーロである。彼に参ってしまった日本の女性の一団が一緒に写真を撮るからはいってくれとせがまれた。カタリナはCDを売り、カンパを集めて歩く。私は2006年の一番献身的なガールフレンドに一票を投じることにした。

ステンウェイ氏は本名を明かしたが、書かないでくれとたのんだ。彼は街の仕事はうまくいっており、バーでジャズを演奏することもあるが、合法的なクラシックのキャリアを希望しているので、本名がこの商売と結びつくことがいやだったのである。私は、そんなことはないよ、街で音楽を演奏して恥ずかしいことはないよといった。だが彼の要望を尊重することを約束した。彼のファースト・ネイムはイヴォ(Ivo)とだけ言っておこう。彼に関心のあるプロモーターのために彼のメイル・アドレスを紹介しておこう。

daniel_stenway@yahoo.com

彼を励ましたい方々に言いたい。モーツアルト、モーツアルトは民俗音楽、ダンス音楽(彼はダンスが非常に得意だった)、辻音楽師が好きだった。私は、モーツアルトがステンウェイ氏と楽しそうにデュエットしている姿を想像できる。ヴォルフガングはザルツブルク音楽祭の堅苦しいお歴々より、イヴォと時間を過ごした方が愉快だったはずである。

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チーフは忙しい。トマシーニ記者はバイロイトで5日ぶっ通しで楽劇を聴き、記事を書いた後、どこにいたか知らないが、エリザベート・シュワルツコプの追悼記事を書き、ザルツブルクに飛びモーツアルトの「コシ・ファン・トゥッテ」の記事を書く。


アンソニー・トマシーニ

ザルツブルク、オーストリア、8月5日

権威あるザルツブルク音楽祭が始まった今、町中に張り出されたスローガンが二種類ある。一つは「モーツァルト250」であり、もちろんモーツァルトの生誕250周年を知らせるものである。もう一つはちょっと分かりにくいスローガン「モーツァルト22」である。これは今年の音楽祭のたまげるような野心的なプロジェクト、モーツァルトの22曲(音楽祭の数え方では)のオペラ作品を全部上演するというものである。その中には彼が12歳の時に書いた作品もあり、未完成のものもある。私はここに滞在中、4作品を見る予定である。第一曲は20番目の「コシ・ファン・トゥッテ」であり、木曜日の夜に始まる。

モーツァルトはこんな大騒ぎを思いもしなかっただろう。やんちゃな青年時代、彼はザルツブルクなんか田舎町だと思い、早々に脱出した。彼の死後、50年経って、この町は彼を顕彰する銅像を立てた。

しかし、それ以来ザルツブルクは歴史的な黙殺をつぐなってきた。今年の夏の音楽祭は格別重要である。ウィーン・フィルハーモニックとその他有名な管弦楽団と合奏団が、モーツァルトの作品と15人の作曲家の新曲、さらには現代音楽を並べて演奏する。

ここ20年、ザルツブルクは新機軸の温床であり、アメリカのヨーロッパ旅行者の聖域であった。現代服を着た「コシ・ファン・トゥッテ」はウルセルとカール・エルンスト・ヘルマンの演出である。二人は、結婚しており、開幕の夜聴衆から喝采を浴びた。コンセプトの中心要素に疑問を抱いたが、私も熱狂した。

プラスの側面としては、ヘルマン氏の舞台と衣装の演出は素晴らしいかった。舞台は簡素で、かなり抽象的であり、必要最小限のもの ― テーブル、傘、木 ― があるのみであり、色彩が変化し、広い眺望の背景に対応している。現代的衣装はハイカラで、奇抜である。メイドのデスピーナは茶色のドレスを着ているが、腰から突き出たプラットフォームがあり、お盆のようである。

配役は、4人の容姿端麗で、声が素晴らしい、魅力的な若手歌手が2組の婚約者を演じている。さらに、二人の有名なベテランたちが脇役を演じている。すなわち、ヘレン・ドナトがデスピーナ、トマス・アレンがドン・アルフォンソである。ピットにはウィーン・フィルハーモニック、これ以上の楽団は望めない。指揮者マンフレット・ホネックは、生き生きとして、率直で、優雅な演奏を引き出した。

では何が問題か?モーツァルト・オペラのファンなら知っての通り、物語はある賭に絡んでいる。年老いた独身男ドン・アルフォンソが若い二人の親友、フェルナンドとグリエルモが互いに婚約者が美徳の鑑であると自慢しているのを聞いて、それでは賭けてみようと提案した。二人は同意し、婚約者に、自分たちは戦争に召集され、すぐに出発しなければいけないと告げた。二人はやがて風変わりなアルバニア人に変装して戻ってきた。そして二人は友人の恋人を誘惑した。なんとうまくいった。

この演出では、二人の女友だち、フィオルディリギとトラベラは姉妹であり、仕組まれた賭を聞いてしまう。そこで彼女たちは求愛者におしであるふりをし、どうなるかを見て、教訓を与えようとした。

モーツァルトと脚本家ロレンツォ・ダ・ポンテのこのオペラ、正直いって、下品な無言劇である。現代服を着た演出で、ギャルたちが馬鹿げた変装をした野郎どもを見破れないというのは信じがたい。しかし、モーツァルトの自分のしていることはわかっていたと思う。音楽を通して、彼はOKといっている。この物語は馬鹿げているかもしれない。登場人物の意識下の感情に潜り込んで観て聴いてみよう。

第一幕の複雑な五重唱を例に取ろう。あの二人の若者が婚約者に戦争に行くと告げるときである。口ごもりながら悲しみを表す歌をうたうところから始まる。女達は非常に悲しく、リリカルなフレーズで応える。ここには偽りはない。一方では後ろのアルフォンソは目の前の茶番劇で一人笑っている。最初の20秒間彼と一緒に笑うがよろしい。この浅はかに見える女たちは本当に恋をしているのである。どう考えたらいいのかわからなくなる。

この演出では、姉妹は五重唱できれいに歌う。実際には聴衆にウインクして、本当のことを知っていることを伝えている。恋をする純情な乙女は決して馬鹿ではなく、ちゃんと承知している娘になる。このねじ曲げは面白いが、機敏で洞察力のある音楽で私が聴いたものではない。

この演出ではかくして進行する。このオペラは二組のカップルが相手を交換しあうという危険なゲームに参加する物語になる。モーツアルトはこのオペラで性的空想とパートナー交換のテーマに笑劇の文脈においてではあるが、おおまじめにふれている。一方で薄気味悪いぐらいに厳粛なものに高めている。

この演出の考え抜かれた、緻密な作業に敬意を表するものである。演出家は優れた配役から力強い描写を引き出している。イオルディリギ役のアナ・マリア・マルティネスの豊かで、真のソプラノ・ヴォイスがドラベラ役のソフィー・コッホの暗くて、暖かいメゾソプラノ・トーンがデュエットで完璧にブレンドされる。威勢のいいバリトンのステファン・デグーが男らしくて品のいい声でグリエルモ役に挑戦している。情熱的なフェランド役を演ずるリリック・テノールのショーン・マシーは、恋人によせる賛歌「ウノーラ・アモローサ」ではことのほか魅力的である。

しかしやはり、この演出の背景にある辛辣なコンセプトは理解できない。「コシ・ファン・トゥッテ」は「性交」ではない。

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バイロイト音楽祭の歌手に不満を持っていたトマシーニ記者だがイゾルデ役のニーナ・シュテンメの歌唱に欲求不満が解消されたみたいである。目下バイロイトのビッグ・ニュースとしてとり上げている。


バイロイトの「トリスタン」:現代服を着たふるき情熱

アンソニー・トマシーニ

ニュウヨーク・タイムス 8月3日

バイロイト、8月2日 ― 新演出のワグナーの叙事詩「ニーベルゲンの指輪」は月曜日の夜に終了した。バイロイト音楽祭の理事会は疲労回復のための一日の休みをくれるとお思いかもしれないが、ここではそうではない。火曜日にはクリストフ・マルターレル演出の現代服を着た「トリスタンとイゾルデ」がある。この演出は昨年の夏に紹介され、未だに強い反応が続いている。

ロバート・ディーン・スミスとニーナ・シュテンメがバイロイト音楽祭では「トリスタンとイゾルデ」の主役である。

ビッグ・ニュースは、スエーデンのソプラノ、ニーナ・シュテンメのイゾルデの燃える、哀切きわまりない声楽的表現である。カンサス生まれのロバート・ディーン・スミスも大変消耗するトリスタン役の立派な歌唱で感謝のオベーションを受けた。しかし、この愛らしい女性できゃしゃな女優であるミズ・シュテンメは大変素晴らしかった。声にかんしては、私はバイロイトでまる一週間過ごしてはじめて感激した。この音楽祭の伝説的地位からすれば、歌唱の全般水準が高くないのに驚いていた。

ミズ・シュテンメの歌唱は、北欧的色彩と激しい感情を結合させたもので、きわめて珍しい。彼女は力強く、胸の高鳴るトップ・ノートで劇場を響かせた。それでいて彼女はイゾルデの物思いにふけるフレーズを感動的な優しさで高め、構成することができる。私は少々彼女の将来を心配した。彼女は声をワグナーレベルにつり上げたソプラノとお見受けした。頑張ったとき、彼女の声がきつくなりすぎた。だがそのほとんどの場合は、彼女の演奏へのすざまじいまでの献身性の結果であったので、聴衆はバイロイトで最大級の熱狂的オベーションで応えた。

スミス氏は背の高い、頑健で、健全そのもののカンサス人という風貌である。彼はこの資質をトリスタン役にうまく活かしきっていた。彼の声は大きくはないがつながりがよい。彼の声はなめらかとは言い難いが、力強くて、豊かな歌唱は魅惑的である。第三幕の始まり、どの歌手もひるむ、あのシーン。傷ついたトリスタンが高揚して最愛のイゾルデを待ちわびるシーンである。スミス氏は恐るべきスタミナと役へのドラマティックな献身を披露した。


脚本の第一幕はの船の甲板上で始まる。トリスタンがアイルランドの王女イゾルデを彼の伯父マルケ王の妃にすべくコーンウォールに連れて行く。この演出の舞台と衣装はアンナ・ヴィーブロックのデザインである。この演出では、さえない現代の定期客船の狭い甲板上にこのシーンを設定した。椅子が散らかり、はがれた壁紙から羽目板が偽物であることが察せられる。円形状の蛍光灯が上につるされている。これは第二幕の抑制のきかなくなった二人が消してしまいたいと願った昼の世界を表現している。全般的に、比喩的表現は内容と共鳴し、かつ印象的である。イゾルデとともにいるブランゲーネを見るのも感動的である。ブランゲーネは、激しい気性の、陰鬱な声のメゾソプラノ、ペトラ・ラングが姉のような友人の役をよく演じている。

この演出に対する私の疑問はマルターレル氏の歌手達の演出にある。ときとして歌手達を不細工な象徴主義に追い込むことになる。たとえば最後のシーン、イゾルデが「愛の死(Liebestod)」を血まみれのトリスタンの死体に重なるようにして歌うとき、他の配役は引き下がり、周囲の壁に顔を向け、動かずにじっと立っている。このイメージはよくて大げさというものであり、わるくすると泥臭くなる。

粗っぽい部分やほえる場面があるにもかかわらず、バリトンのヴェテラン、ヘルムート・ウェルカーはトリスタンの忠実で父親のような従者クルヴェナールの役を感動的に演じている。バスのクアンシュル・ヨウンは声量のあるマルケ王である。ピーター・シュナイダーはスコアの光り輝く、広大な内容を指揮し、感受性に富み、説明的な操作からは解放されている。私が当分忘れそうにないのは、音響的に驚くべきこの劇場での弦の豊かな音、それにもちろん、ミズ・シュテンメの傑出したイゾルデである。

バイロイト音楽祭は8月28日まで開催され、「トリスタンとイゾルデ」の公演さらに5回ある。

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バイロイトの「指輪」新しさの中に輝く美しさ

アンソニー・トマシーニ記者

ニュウヨーク・タイムス 8月2日

バイロイトの8月1日 ― バイロイト音楽祭の新演出作品のカーテン・コールでは、聴衆が制作者たちをブーイングとブラヴォで競い合うのが伝統になっている。月曜日祝祭劇場の聴衆は「神々の黄昏」がおわるや、この伝統を尊重した。この「神々の黄昏」で音楽祭の4部作、ワグナーの叙事詩「ニーベルンクの指輪」の演奏は終わった。

「指輪」を引き受ける以前、タンクレド・ドルストは80歳になるドイツの傑出した脚本家、監督、映画製作者、物語作家、俳優であり、劇場でなしうるすべての仕事を成し遂げてきた。唯一の例外がオペラの演出である。

彼の任命が発表されたとき、「私にとって有利な点は、オペラの演出の経験がないことだ」と彼は述べた。聴衆の反応とオペラ界の最初のざわめきから判断して、彼のデビューは今後数ヶ月は大議論を巻き起こすことであろう。私には彼の演出は新鮮、刺激的、効果的であった。今後ますますそう思うだろう。

今回のバイロイトの「指輪」の真のヒーローはジークフリートでもブリュンヒルデでもなく、指揮者クリスティアン・ティーレマンである。バイロイト音楽祭が今なお世界一のワグナー劇場かどうかは久しく議論されてきたところである。ティーレマン氏は献身的な楽器奏者(ドイツの一級のオーケストラから抜擢された)、それに合唱、声楽的にはムラがあるとしても配役からも、徹底した、光り輝く、晴れやかな演奏を引き出した。

ティーレマン氏の話はわかりやすいとはいえず、ドイツ文化の国民的伝統を語るときにごたごたを巻き起こす。彼の最近のコメントを読んでみるに、彼が言いたいのは、20世紀前半のドイツのオーケストラは、本来の情念と伝統との繋がりをワグナー演奏に持ち込んだ。このときの質を取り戻すべく努力において、演奏家は焦ってきた。この努力は実を結んだようにみえる。47歳の指揮者ティーレマン氏は現代的感性の持ち主であり、さらに鋭い、最新の演奏を望む人物である。

これはバランスを取るのが難しい行為である。しかし彼は「指輪」でそれをなし遂げたのである。「ワルキューレ」第一幕の嵐のような出だしの音楽のテンポはゆっくり始まった。なぜか重複する楽節に彼が持ち込んだ明瞭性で緊張した。この激しくぞっとするような挿入部の複雑さを明瞭にすることにより、この音楽を暗示的でありながら面白いものにした。

いつものように、音楽的レトリックと呼ぶべきもの、フレーズの始まり方、終わり方、重なり合い方に、彼はその鋭い洞察力を示した。「神々の黄昏」の冒頭の三ノルンの音楽は、はっきりせず、けだるいが、悲しげではない。ティーレマン氏は絡み合った対位法的旋律を非常に明晰に配置したからである。さらに私が当分忘れそうにないのは、「ワルキューレ」の最後のシーンの豊かで広がりのある彩色と悲劇的気品である。すなわち、神ウォータンが反抗的な娘ブリュンヒルデに眠りのまじないをかける、おそらく音楽史上悲しみをもっとも荘厳に表現した場面である。ここでティーレマン氏は情念に明快さを混じりあわせたが、そのとらえどこのない混ざり合いがすばらしい。

演出に戻ろう。ドルスト氏は、音楽祭の最初に選考された高名な映画監督ラース・フォン・トリエールが手を引いてからこの仕事に選ばれたのである。ドルスト氏には容易な状況ではなかったはずである。しかし彼は非常に面白い芸術家である。彼の制作のコンセプトは「指輪」狂たちがしつこく問うていた問題意識で展開されていく。すなわち、結局神々の黄昏でどうなるの?私の解釈は腐敗と行き過ぎで神々は自らを滅ぼすというものであった。最後の「生け贄」の場面で、神々は滅んでしまう。良かれ悪しかれ、人類は神々なしで生きて行かなくてはならない。

ドルスト氏はちがう。彼は孤独ではない。彼には、神々はつねにわれらとともにある。しかしわれら凡俗はしょせん神々を見ることはない。この演出では、神々はいたましくも現代的な仮設の場所に登場する。この一貫して目立つ舞台はフランク・フィリップ・シュレスマンの設計による。多くのシーンでは、見えざる神々に気づかずに人々は自分の仕事をしている。例外は長いブロンドの若い男である。彼はアディダスのTシャツを着て、スケートボードに乗っているが、周りの神々の振る舞いを感じている。


もちろん場面を現代の観察者で埋め尽くすこと自体、陳腐な劇場的手段であろうが、バイロイトではちがう。部外者はなにも見ていない、このコンセプトは神々に起こる事柄の魅力的な問題にかかわっている。これにより、ドルスト氏が明らかに配役との作業を楽にし、沈黙を守る役の微妙にニュアンスの違う、あるいは強く訴えかける肖像を描きやすくしている。

「ラインの黄金」では、われわれはウォータンと彼の家族に出会うが、ある公園の荒廃したビルのような所に住んでいる。そこからは、落書きされた薄汚い石の壁がみえる。ウォータンとローゲは魔法の指輪の持つ権力を求めて、マニアックなこびとアルベリヒが運営している鉱山に降りてくるが、この場所は現代のエネルギー・プラントである。発電所ですよ、わかります?計器監視員があるところに現れ、計器をみるが、ウォータンとアルベリヒが知恵をしぼって闘っているのには気が付かない。

粗野な部族のフンディングと虐待されている妻、とらわれの身の半神ジークリンデの住む家は、かっては大邸宅であったが、電線の垂れ下がった電柱に壁を破られ台無しになっている。好奇心の強い人達がうろつき回っている。そして山の上を歩き回るウォータンの周りの雲が晴れるとき、その場所はバイクに乗った人達が目指す、眺めの良い丘の上の公園である。

抜け目のないこびとミーメが若きジークフリートを育てるのに見つけた最善の場所は今や廃墟となった教室である。私はこの発想が気に入った。ミーメが薬を調合する科学実験机、黒板、かって幼児ジークフリートが眠った散らかった隅にあるベビー・ベッドがある。さらにすごいのはヴァルハラを表す石切場ではヴァルキューレ達は戦場で倒れた英雄に仕えるという立派な仕事をしていないし、男達は青白くて、きゃしゃな若造で、レースのような衣装を身にまといぐっすり熟睡しているかのようである。

ベルント・スコドチクのデザインした衣装はこの制作の最大の失敗のように私には思える。ドルスト氏は神々が人間ではなく、エイリアンのように見せたかったのである。エイリアンとお馬鹿とは別物である。「ラインの黄金」では、神々の衣装一式は「スタートレック」のコスチューム・ショップの不良品のように見えた。

主な配役のうち、声楽的に一番良かったのはウォータン役のバス・バリトンのファルク・シュトルックマンであった。逞しいトーンとパワーで歌った。無常と尊大になやむ神を十分に伝えてくれた。アメリカのソプラノ、リンダ・ワトソンはブリュンヒルデ役でかなり一貫して賞賛を受けた。私はつとめて彼女を好きになろうとした。彼女は、物思いにふける一節やが楽句によっては、声をふるわせ、オーケストラを突き抜ける声で歌った。彼女の声はかん高すぎ、不安定であるように思えた。

ジークフリート役のアメリカのステファン・グールドは生来のヘルデン・テノールとは言い難い。彼の声には英雄的な重みと澄んだ高い調子にかける。しかし彼は元気衰えることなく歌い、軽快に演技し、やり遂げた。真の競争相手が登場するまで彼は続くであろう。多くの共演場面で、彼の歌唱は、見事に子鬼的なミーメ役を演じた、鼻声のテノールであるゲルハルト・ジーゲルに圧倒されることが多かった。

アンドリュー・ショアは陰謀家アルベリヒをよく演じた。他に見事だったのはジークリンデのアドリアンネ・ピエツォンカ、ぞっとするようなハーゲンのハンス・ピーター・ケーヒッヒ、エルダとワルトラウネ(神々の黄昏)の暗い調子のミホコ・フジムラであった。

バイロイトのユニークなピットのせいで、オーケストラの演奏家は見えない。月曜日の最終オベーションでは感動の場面があった。演奏者が楽器を手にして快適な服装で舞台に上がったのである。大きな当然のオベーションがあった。カラフルなTシャツやジーンズ、ショートパンツ、夏服は舞台衣装よりはるかによく見えた。

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アンソニー・トマシーニ記者のバイロイト便りその2が今日届いた。まだ「指輪」全体の評価の記事は彼が今タイプしているのだろうが、バイロイトのティケットからバイロイトの最高権力者の座をめぐる人間どもの争いについての報告である。

人間たちのワグナーのヴァルハラ城での相克

バイロイト、7月30日 ― 先日当地のワグナー音楽祭の記事で、これはnytimes.comでまだ読めるが、この最も排他的な国際音楽祭のティケットの需要について書いた。7年間の待ちはざらである。

私は読者のエヴェリン・ロネルから直接聞いた。彼女は元歌手であり、ニューヨーク・ワグナー協会の熱心な会員である。彼女は11年待ってほとんどあきらめていた。10年連続申し込んだのち、彼女はバイロイトの市顧問になんとかならぬかと懇願した。この人は彼女の次回の購入申し込みはうまくいくだろうと保証してくれた。ミズ・ロネルによれば、またも何の知らせもないとのことである。バイロイトの旅行券を購入した。それでも彼女は、「今では、ワグナーの神殿に一度も行かずに墓場に行きそうですよ。」

ミズ・ロネルがこの祝祭劇場を神殿と呼ぶのは当を得ている。ここ何年もワグナーのオペラはほかのオペラ劇場で上演されているし、できばえもずっといい場合もある。でも各地のワグナー愛好者は少なくとも一度はバイロイトに行くのが与えられた使命であると思っている。

土曜日の「ジークフリート」の休憩時間中に、私は8歳のときからワグナー派だったというイギリスの女性とお話をした。バイロイトでオペラを見るのに7年待っていたのでは齢を取りすぎてしまうと思ったそうである。そこでドイツの業者と契約したが、その業者は「指輪」の中価格の席を一枚売ってくれたそうであるが、ティケット価格の十倍だった。彼女は7500ドル払ったのである。

この謎ははしょることにして、バイロイトのワグナーを聴く究極の場所という評判は二つの遺産によっている。一つは祝祭劇場そのものである。この建物はワグナーの革新的作品を上演するための理想的環境を提供すべくワグナー自身が設計している。セールス・ポイントのもう一つの要素は、この音楽祭は同族による企画である。この点は、1883年のワグナー死後、音楽祭の管理は彼のすざまじい未亡人コジマの手に渡って以来、ずっと議論されてきた。

しかし、ワグナーのオペラ劇場、「緑の丘の劇場」と呼ばれてきたが、オペラの世界ではたしかに見事なものである。席の数は1900であるが、それ以上にくつろいだ雰囲気がある。通路はなく、硬材でできた、肘掛けのない席がギリシャの円形劇場のように並んでいる。各席から舞台の全景が眺められる。さらにワグナーの思い切った革新は一部が覆われたオーケストラ・ピットである。オーケストラの音が舞台に戻し、舞台でこの音が声と混ざり合い、劇場に鳴りひびくのである。

このピットはややこしい。演奏者は巨大な階段のような6つの段で演奏する。ブラスや打楽器は最下段で、弦は最上段である。いつも息苦しく、音量は演奏者には大きく響くが、指揮者は自分に聴こえる音は無視し、彼の直感で音量が聴衆席にどう響いているかを判断し、バランスをとらなくてはいけない。

しかしホールの音楽は驚くべきものである。バイロイトのワグナー管弦楽ほどすばらしいものはない。フォルティシモを鳴らすのは逆効果である。音が自然に拡散し、暖かみがあり、浸みわたる。

ワグナーは歌手が管弦楽にむけて発声しやすいように設計したのである。そこで演奏されてはじめて、オペラは彼が呼ぶところの楽劇になる。

「ワルキューレ」の第二幕のウォータンの「語り」を例にとろう。静かに、ゆっくりと、苦しみのフレーズで、この苦悩する神が最愛の娘ブリュンヒルデに、指輪の強奪と破滅的な野望の悲しいすべての物語を語る場面である。ウォータンの「語り」は「指輪」全体では空白の部分に思えるときがある。この劇場ではそうではない。ファルク・シュトルックマンが、クリスチャン・ティーレマン指揮の管弦楽に支持されて ― 励まされてというべきかもしれないが ― 歌った。みなが一語一語にしがみついた。

その他の名声の根拠、すなわち音楽祭がワグナー家でまもられているという点についてはどうだろうか。同族が発行している新聞の従業員がいうような利点は確かにあるであろう。どの分野においても、このような企業には、相続者の周囲には新しい視点と政策全般を問い直す強い人物がいなければいけない。

第二次大戦後、ワグナーの孫ウィーラント・ワグナーは、音楽祭から彼の母であるウィニフレットの結びつきを断ち切ろうと努力した。ウィニフレットは、ワグナーの義理の娘であり、ヒトラー支持を頑として反省しなかった。そのためワグナーの作品を急進的な概念再構成の温床にしようとした。ウィーラントは先見性のある音楽監督であり、彼の抽象的な演出は世界中の舞台に影響を与えた。

彼が1966年に死んだ後、音楽祭の全権は彼の弟、ヴォルフガンク・ワグナーに移行した。彼は8月30日で87歳になるが、依然その重責にある。彼の良いところは、自身の音楽監督としての限界を認めたことである。彼は多くの前衛的音楽監督をバイロイトに招いた。

彼の選択は厳しい批判にさらされたこともあったが、他は賞賛された。すなわち、1976年には、パトリス・シェローの「指輪」100周年の演出、ピエール・ブーレーズ指揮はDVDになったもので最もいいできだと思う。

しかし最近では、音楽祭はお家騒動の温床になっている。ワグナー氏は二度目の結婚で1978年に生まれた娘カタリナに跡を継がせたいと思っている。これはワグナー財団の決定事項であるが、財団には一族が一杯いる。

ワグナー氏在職中のもっとも不可思議な側面は彼の配役の選択である。私が聴いた「タンホイザー」ではダイナミックなティールマン氏がピットにいたが、並以下の歌手が何人か舞台上にいた。

ワグナー家が本当に音楽祭を新しい観点から揺り動かそうという気があるならば、私には一つ提案がある。時々は、他の作曲家の作品を演奏してみてはどうか。ワグナーを感動させた作品、たとえばベートーベンの「フィデリオ」とか彼がいなくては生まれえなかった作品、たとえばシェーンベルクの「モーゼスとアーロン」とかを彼が建てた劇場で演奏するもである。

バイロイトのアコースティックを念頭に置いた新しい楽劇の作曲を依頼するとか。冒涜行為であることはわかっている。現状破壊主義者ワグナーを顕彰するに他に方法があろうか。


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