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*新宿新南口⇨『南アルプス号(高速バス)』⇨高遠 約3.5時間 ¥3,460(往¥6,600)
−高遠駅(バス・ターミナル)・高遠城址公園・冬−
♥助手アベナ:ウッ、寒ぶっっうっ〜〜。なになに!零下5度??あり得なぁ〜い!
♠安濃スクラ氏:下北に比べればなにこいだもん。来てから言うのもなんだけど、ここ桜の名所で有名だけど、何も冬来るこたあネエンでねえの?
♤喜寿美堂:まあまあ、ここは会津同様、古畑さんの心の中の重要な場所だから付合ってあげましょうよ。でも、寒い!。
◇古畑任次郎:アリガト。
♥助手アベナ:うぅぅ。鬼寒ヴ−ッ。冬枯れで城址公園は何ぁんにもないよ。人も居ないし‥‥。
♤喜寿美堂:古い時代のこの辺りを想っています。7世紀、五畿七道が決定されて、大規模道路が開削されましたよね。関係するのは東山道、北陸道。東山道だけでいうと「美濃国府(岐阜県垂井市)」一「馬篭宿」一「妻篭宿」一「塩尻」一「信濃国府」一「上野・国府(群馬県前橋市)」というルート。
木曽谷、中信・東信。鉄道では飯田線、上越線に近いルートですね。古代からこの地域には人の集落があった、旧石器の時代からそうだったんでしょね。
♣田圃青年:脇官道が伊那谷・高遠も走っていたようですしね。
◇古畑任次郎:古代、太平洋、日本海の両方から人が集まった痕跡がある。塩尻の地名がその結節の名残りを示しているのだろう。ちいさな町だけど、歴史は古い。
♤喜寿美堂:信州は盆地小国家の集合。伊那谷もその小国家の一つ。上伊那郡の首邑がこの高遠ですね。06年に伊那市と合併するまでは上伊那郡・高遠町。江戸時代は保科−鳥居−内藤家の支配する三万三千石の城下町ということでしたね。
♣田圃青年:これは昔のお城の門?なんでこんな所にあるんでしょうね。
◇古畑任次郎:ここは昔の三ノ丸、かつての重臣屋敷跡。戦後、高校が新設された。その際、地元の素封家が自邸の門の寄付を申し出た、これがその門。
♥助手アベナ:門を寄付?随分太っ腹なひとだね。
♤喜寿美堂:廃藩置県のあと明治6年(1873年)全国の城郭同様「廃城令」によって高遠城の構造物は破脚され、建築材として競売に付されたようですね。城郭の本などには余り出てきませんけれど、高遠城の場合だけでなく、古い時代から寺社・城郭などの建築資材はつつましいほどにリサイクルされます。
廓門、隅櫓、天守閣、倉庫、重臣屋敷、塀など構造物全てです。良材を使っていたし、貴重品だったのでしょうね。資材は別な建物に転用されたり、元の構造物のまま再築されたり。聚楽第の遺構、伏見城の遺構、会津では阿弥陀寺のお三階などがそれですね。会津・鶴が城などは建材として他に転用されたものなんでしょう。
♥助手アベナ:預かった資料には、こんな事が記録されているよ。
明治六年三月「伊那郡高遠本町 松島屋徳次郎 旧高遠城建物等落札届」
一、 御本城之内御門・土蔵・小家建物類・塀並ニ橋・石垣
一、 御殿、並ニ庭石・小石ニ至迄不残、
代金二百十円也
一、 追手・搦手御門太鼓相添並石垣・塀ニ不残、
一、 二ノ丸御門・土蔵六ヶ所・厩・小家建物類・塀・石垣・小石類迄不残、
代金二百五十円
一以下(郭内外の諸木)略
第百二十ニ区正副戸長御中
(『長野県史「近代資料編」第一巻維新』)
◇古畑任次郎:幕末から明治にかけて伊那・諏訪・岡谷は生糸・製糸業で沸き立っていたから素封家が簇生した。高遠の松島屋なる商人が城郭の遺構を落札して、そうした素封家に転売したものなんだろうね。
♤喜寿美堂:たまたま、その一つが、辛うじて 原型を保っていた。
♣田圃青年:それを、太平洋戦争後、この町の新制高校が設立にあたって校門にと寄付を申し出た、こんなことなんですね。
◇古畑任次郎:寄付はするが運送費は学校持ちだった。が、戦後のあの時期、学校にはそんな予算はない。
♥助手アベナ:‥で、どうしたの?
◇古畑任次郎:在校生が農業や林業のバイトで賄ったと校史にはある。
♣田圃青年:美談じゃないですか。
♥助手アベナ:パチ、パチ、パチ。‥でもさあぁ、この門ッて微妙に不格好じゃない?屋根が妙に大きくて、反りが甘いというか。
◇古畑任次郎:そう思うよナ、古記録によると高遠城には、本丸門・大手門・搦手門・二ノ丸門が楼門であったとされる。楼門は重層の門のこと。見たとおりこれは楼門でない。松島屋が落札したのは本丸御門、追手御門、搦手御門だから、彼の手から購入したとしたら、ここに残っている門はそのいずれということになる。
もっとも松島屋以外の別の業者が存在したケースもあろう。いずれにしろ、落札業者からの譲渡、転々売を受けた素封家が自邸の構えに合うようにダウンサイジングし、平屋にしたのだろう。それにしてもバランスの悪い門ではあるね。まんざら素人が改築したわけではあるまいが。
♥助手アベナ:昭和59年高校は移転したので、現在は更地に門だけがポツンと残っている、そういう訳なのね。
♣田圃青年:お城の門、製糸素封家の門、そして元の地に戻って高校の門として多くの青春を見守ってきて、今は、老後かなぁ。でも、終始「門」を全うしてる。波乱の人生いや、門生ですねぇ。門としては珍しいんじゃないですか、こんな永らえ方は?
♠安濃スクラ氏:ほんだナッス。して、保科正之公がここから最上・山形へ移封した時、この門を潜ったべか?
♤喜寿美堂:門の前歴が今ひとつハッキリしませんから、何とも。でも、保科正之も潜ったことにしておきましょうよ。われわれとしては。
♥助手アベナ:そろそろ何か食べに行こうよぉ。寒いよぉ〜。
♠安濃スクラ氏:ほんだ、まま食びゃし。
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3月末に高遠で絵島さんを尋ね、4月中旬には会津の広沢さん家跡を尋ねる。それから、からみそばで桜見物。今年一番の贅沢な望みです。
2007/1/15(月) 午後 6:14
高遠の赤い小彼岸桜を見てほしいものですが、3月は無理ですね。機会があったら是非、高遠桜の花見を!(お薦めです)会津若松の広沢邸(とは言えないか、足軽長屋)跡は、現在の本町7丁目にあるとのこと。私も御薬園は未見ですので、フラリと行ってみたいナア、会津。
2007/1/16(火) 午後 10:04
なるほど、高遠そして会津の話につながるわけですね。寒そうですが蕎麦の味は格別だたのではないですか。少し地理的な位置は違うのでしょうが、生糸という話で。甲州財閥というものがあります。武田氏は長篠の合戦で崩壊し徳川に吸収されますが、この甲州には脈々と風林火山スピリットが残っていたようです。江戸から士農工商の別なく多くの流民が甲州に流れたとか。幕末明治にかけて彼らが奇異との力をバックに財界に躍り出る姿は薩長とは別に誠に興味深いものがあります。
2007/1/31(水) 午後 10:21
太古から信州と会津とは文化の伝播の形でも共通するところがあるんです。異質の複数のチャネルが合流して、独自の文化熟成がなされていく。それと別な話で、凋落した勝頼の軍が崩壊する際の最後の組織的抵抗拠点だった高遠落城では、先の薩軍の話しではないですが、臓器と胆力の相関を示す逸話が出て来ます。それらはまた追々、寄り道、回り道しながら出していきますのでよろしく。コメント有難うございました。
2007/1/31(水) 午後 11:20
はじめまして。
猛暑の中、護国寺そばの弁当屋さんで弁当を買い、汗だらだらで保科
正之をうちこんでいたら、カキ氷のようなブログが出てきました。
2008/7/30(水) 午後 2:47