古畑 任次郎事務所・日誌。

東北関東大地震で被災された方々にお見舞い申し上げます。古畑は元気です。

全体表示

[ リスト ]

西郷邸の目撃者

イメージ 1

  .
慶応4(1868)年8月23日(新暦10月8日)。この驟雨の早朝、新政府軍は予想をはるかに超える速度で会津若松城下に突入してきた。それによって郭内外にさまざまな会津悲劇・悲話が生まれる。

北出丸の正面、家老職・西郷邸でも婦女子を中心として21人が自刃した。その直後に新政府軍が同邸に踏み込み、その凄惨な情景が彼等の心胆寒からしめた逸話がある。

ある日の「会津武家屋敷」

写真の情景説明書には、
「−会津落城と藩士一族の散華−‥‥刻々と報ずる早鐘は身辺に危機が迫るを知らせました。閉門中の家老西郷頼母は犯して登城する。足元に戦火の及んだ頼母邸ではもはやこれ迄と婦女子全員自決を遂げたのでした。

図は弾雨を避けて邸内に入った土佐藩士(後の中島信行)が息も絶え絶えの少女から介錯を求められ涙ながらにこれに応じた悲劇の場を再現したものであります。」とある。


♥助手アベナ:敵軍が侵攻してきたから自刃した?他に方法がなかったの?あたしだったらメチャメチャ抵抗するけどなぁ。ン?恐くて一目散で逃げちゃうかもナァ。でも、死なないわよぉ、ぜったァい!

♠安濃スクラ氏:町民なら逃げたんだべのぉ、現に西南の大川では戦争難民の惨事が起こってら。だたって、この人どは士族、そいも上級の。城に入っても食料ば費消するだけだし、まんだ当主、西郷頼母の政治的立ち場も微妙だったがらな。

♣田圃青年:同じ時期、婦女子の自刃は西郷邸だけでなく、郭内の他の士族屋敷でもかなりあったみたいですよね。非常時の会津の武家の心得。武家倫理がそうとう弛んできている幕末でさえ、それが行動に出るというのがいかにも会津人らしいですね。江戸が戦場だったらそんなことなかったでしょうね、きっと。

♠安濃スクラ氏:そりゃ、まちがいなぐそだな。

♥助手アベナ:それにしても悲惨!悲しすぎるゥ。なんで、なんで、自刃しなければならないのよぉ。

♤喜寿美堂:この西郷邸の婦女子自刃の現場に踏み込んだのは、新政府軍の、会津では西軍と言うんでしょうが「土佐藩士・中島信行」であるという説明書きは、私としては少し引っ掛かるものがあります。

♠安濃スクラ氏:中島信行じゃねぇっていうの?

◇古畑任次郎:中島信行?後の土佐・自由民権運動のサブ・リーダー格だった中島信行と同一人物?

♤喜寿美堂:どうも、記述を読むとそのようですね。

◇古畑任次郎:その中島なら戊辰戦争のこの時期、会津にはいないはずなんだけどな。

♤喜寿美堂:そう思うでしょう。

♥助手アベナ:この表記の出典はなんなの?

♤喜寿美堂:ここだけでなく、多くの二次史料、小説、読物などで西郷邸に登場するのは土佐藩士「中島信行」、これ定説なんです。この場面の原典は、明治29年西郷頼母の私家版の『栖雲記』のようなんですが、これには実は「土佐藩士」でなく「薩摩国人・中島信行」と書かれてあります。

ところが、この西郷の死後10数年後の大正2年に『栖雲記』は公刊されますが、その時に編者註に「土佐の人(故人、男爵)中島信行」という訂正が入ります。これが、のちのち尾を引くことになります。

♥助手アベナ:私も読んだ、っていうより見たことあるよ、『栖雲記』。

♤喜寿美堂:明治29年の私家版『栖雲記』に続くものとして、明治32年、村井弦斉『西郷隆盛一代記』でも「薩摩藩士・川島信行」とあります。信ぴょう性が高そうなのは、この川島の維新後のプロフィールまで記述しているということなのです。川島は維新後、青森県で警部として奉職したという。

♣田圃青年:なんだか紛らわしいですね。中島に川島か、筆記の際、間違いやすそうですしね。でも、薩摩、土佐の間違いはどうなるんでしょう?維新後の足取りがはっきりしている川島さんがもっともらしい感じですよね。このままだと、薩摩藩士説有利、土佐藩士説根拠薄弱ですけど。

♤喜寿美堂:大正に入ってからは会津の歴史資料が続々と発表され、賊軍・会津側からの史書・史料の刊行が相次ぐようになります。大正6年、平石の『会津戊辰戦争』もその一つですが、ここで「土佐藩士・中島信行」が登場してきます。

そればかりでなく本人のコメントも載せるという具合で「土佐藩士・中島信行」が強く印象されて、定説化されていったようです。
 
 昭和8年、山川健次郎が監修した会津戦史の聖典ともいうべき『会津戊辰戦史』では『栖雲記』からの引用と断わって「土州藩・中島信行」と記されます。こういうことが影響して、たとえば人名辞典の一部には「(中島信行は)明治元年戊辰戦争で東征し、会津攻撃に参加」などと記載されているようです。

♠安濃スクラ氏:ってへるごどは生存者、証言者のがはっきりしぢぇあった明治の辺りだな。

♣田圃青年:薩摩、土佐との関係性はどうなるんでしょう?

◇古畑任次郎:中島信行は当時、中島作太郎。土佐側の藩兵出征資料には「中島作太郎」は当然見当たらないようだが、該当条件に近いのに「中島茶太郎」というのがいるらしい。一方、薩摩側からの出征資料には「川島信行」はなく、川島姓は「川島正八郎」「川島嘉太郎」のみ。

もっとも幕末から明治の初期は、板垣、坂本などに顕著なように改名・変名が盛んで中島信行(作太郎)同様、川島信行も短期間だけの姓名であったかもしれない。また、従軍時と別姓を名乗ったケースもあるかもしれない。

資料だけからは薩摩・川島信行が近い位置にありそうだ。だが、新政府軍が会津城下を急襲したのは8月23日の早朝。市中では大混乱を極める。西郷邸では早朝の新政府軍侵攻までのきわめて短時間のうちに自刃が行われる。

その土佐藩・将校が同邸に踏み込んだ時には自決者の血糊も乾いていない、そればかりか、絶命できず苦悶している者も居た。そんな状況だった。

そのような時間帯の西郷邸に、つまり甲賀町郭門から甲賀町通りを北出丸付近まで一瀉千里で向かうことのできた可能性が高いのは「土佐の藩兵」。逆に同時刻に薩摩の藩兵がこの現場に踏み込めた可能性は極めて低いと思っている。

♣田圃青年:それはどういうことからですか?

◇古畑任次郎:多国籍軍の場合、時代、東西を問わず守備範囲、攻撃の範囲・順序は大きな問題なんだ。論功行賞、戦後の政治的立場に大きく関わるから。この時の薩長土軍もそのことでは変わらない。

本宮でも、母成峠でも猪苗代、十六橋戦でも、新政府軍首脳の間で各藩に不公平がでないようにその都度、先攻の順・持ち場・時間などを合議し調整している。

 8月23日の先鋒は土佐藩のはずなんだ。だから、戦史上に23日早朝からの滝沢峠、甲賀町通りでの土佐藩兵の記録は大変多い。逸話もたくさん残すことになる。甲賀町郭門抵抗戦で会津の少年の首を肴に祝宴をあげる逸話、孫と老人の戦闘のてん末、北出丸正面での土佐指揮官・牧野群馬、小笠原唯八の戦死‥。

 これらはこの日のこの時間帯が、土佐軍の専管部署であったからこそ起こりえたこと。そして、早朝から戦闘詰めの土佐藩兵はこのあと、規定のとおり専管部署を薩軍と交代することになる。つまり、あの時間帯、あの場所での薩摩藩兵の出番はないはず。

♥助手アベナ:じゃあ、薩摩に川島某は存在したけれど、彼があの時に西郷邸に居合わせた可能性はレアっていうことになるのね。

◇古畑任次郎:もっとも、戦場のような集団発狂空間では混乱もあり、不測のことも起こり得る。今となっては確かめようがないがね。

♤喜寿美堂:薩摩藩士説が陰が薄くなったとしても、惨劇直後の西郷邸に踏み込んだのは土佐藩将校「中島信行(作太郎)」でなかったことだけはハッキリしてますね。

♥助手アベナ:なにか中島信行現場不在説(アリバイ)を証拠だてるものがあるわけね。

♤喜寿美堂:『中島信行(作太郎)伝』にこんな記述があります。「明治改元をまたず、徴士にとりたてられ五月十九日外国官権判事を仰せ付けられる。その四日後の二十三日には開港問題のくすぶり続ける兵庫の県判事として‥‥」と。 

♠安濃スクラ氏:そうだべか、後の自由民権運動の闘志は同時期、戦士としてではなぐ、行政官として新政府御用の真っ最中だったっていうごどなんだな。

♣田圃青年:じゃあ、中島信行じゃないとしても土佐藩将校の誰かということなんですね。先の中島茶太郎さんとか。

◇古畑任次郎:高知県の維新史研究家「平尾道雄氏」は「中島茶太郎説」を採られているようだ。ただ、現場を西郷邸と特定しなければ、類例は他の邸でもあったに違いない。だから、薩摩藩士でも他藩士でも似た状況に遭遇したことは十分考えられる、婦女子の戦前自決は西郷邸に限ったことではなかったのだから‥。

.

閉じる コメント(23)

顔アイコン

馬太郎さんは薩摩でありましたか。敬礼(笑)!薩兵の「生肝抜き」(ヒエモントリだったかな?)は戌辰戦争が嚆矢ではなく、戦国時代でも、後の西南戦争でも多く見られる現象です。根源は南方族の習俗でもあったようで、薩摩では兵の、文字どおり「胆試し」あるいは尚武の転移として行われているようで、残虐さとはまた別の文化論テーブルで論じる事象ではないかと考えます。戦場における(単なる)残虐行為は薩摩に偏することではなく、会津軍も領外で相当行っている訳だし、西南戦争では戌辰の仇とばかりに旧会津士族が、半死半生の薩軍に目にあまる残虐行為の記録は枚挙に暇がない‥。人と人が殺し合う現場とは悲しいかなそんなものだと思います。机上の上で、心情論だけで正邪の論評をすべきものではないとも思います。生体と魂と臓物は、太古以来広義の日本人の死生観を考える「キーワード」であると思います。残虐行為という感情論とは別に薩摩人の馬太郎さんのお知恵を拝借しつつ考えてみたいと思います。思わぬ示唆をうけました。有難うございます。今後ともよろしく!!

2007/1/27(土) 午後 10:12 古畑 任次郎

顔アイコン

こちらこそ恐れ入れ射ます。御指摘のように、この薩摩の蛮行には色々な歴史的考察のヒントが隠されていると思います。私の出発点は日露戦争での第四軍の司令官野津道貫がやたらと「肝、肝」とやって周囲の参謀や幹部指揮官を困らせたエピソードからでした。そして、会津の蛮行はインディアンが敵の勇士を認める儀式的なものがベースかとも考えようとしていたでしょうか。戦争と残虐、風土慣習と文化、「心情論」では決して本質は見いだせないと感じています。

2007/1/28(日) 午前 7:25 寮長

顔アイコン

続き)昨今の残虐な殺人事件と照らあわせて余計にみんなに提示してみたいテーマでした。みなリアリティーがなく本当の恐ろしさや現実が理解できていないのでは?とかストレス社会といわれる、そのストレスや閉塞感とは自分で自分の首を絞めてる自虐行為なのではとか。そのすべての答えのヒントが歴史からの考察にあると考えています。今後ともよろしくお願い致します。

2007/1/28(日) 午前 7:29 寮長

顔アイコン

おっしゃるとおりだと思います。人は特攻隊の記念館の陳列物を見て、原爆史料館を、白虎隊の悲劇を追体験し涙します。けれど、涙した次に必要なのが「歴史を学ぶ」と「歴史を当代・次代に活かす」という事ではないかと考えます。人の頭(イデオロギーや声の大きいオピニオン・リーダー)でなく貧しくても「自分の頭で考える」ことが大切とも思います。馬太郎さん(似たような体験もあることだし〔笑〕)今後ともどうぞよろしく。切磋琢磨して歴史の視座を高めていきましょう。

2007/1/28(日) 午前 9:42 古畑 任次郎

顔アイコン

まさに、この場面です。当時、中3。修学旅行で訪れたもののバス酔いしていて、体調不良だった私でさえ、ガイドさんの話のここだけは、印象に残りました。そしてその年の暮れ「白虎隊」放送を見て、この場面であることを思い出し、涙があふれてきたのを今でも覚えています。

2007/3/14(水) 午前 6:08 kaihouku7

顔アイコン

当方も同じでしたね。武家屋敷の陳列のコンセプトが正史への「対決姿勢」で貫かれていましたしね。驚きました、刮目しました。歴史には敗者の歴史もあったんだと。会津訪問が度重なるのもそれでしたね。

2007/3/26(月) 午前 1:07 古畑 任次郎

顔アイコン

西郷頼母低の婦女子の自害について言えば、戦いに敗れた側の名ある武士の才女は自害がとうぜんでした。戦国時代は破れた側の婦女子は陵辱された上、売られるのが常だったからでもあります。 大東亜戦争でも、兵はともかく将校などは、出征時、あるいは戦死の公報がいったとき、人前で涙を見せないのが通常で、映画のように人前で泣きでもしたら、あざけられたでしょう。時代相の違いです。(兵隊の妻でも国防婦人会などあって、自然にそういう空気になじんでいたとおもいます。終戦時旧中1でした。)

2007/5/21(月) 午後 4:11 [ 日隈玄斎 ]

顔アイコン

いつも訪問ありがとうございます。 構造は鉄骨のようです。 見た目以上に大きい構造物です。

2007/5/21(月) 午後 10:52 [ h69**3 ]

顔アイコン

hinokumagensaiさん、戦時の貴重な見聞の御教示ありがとうございました。

2007/5/21(月) 午後 11:22 古畑 任次郎

顔アイコン

h69003さん、コメントありがとうございました。そうですね、素人判断でも丸太だけでは強度不足のように思います。しかし、つくずくオブジェとしては面白いですね。

2007/5/21(月) 午後 11:25 古畑 任次郎

顔アイコン

5月の連休に「武家屋敷」に行って、写真の展示を見ました。大勢の観光客がいたけど、皆、声はなかったですね。それだけ衝撃的なシーンなのでしょう。これについての考察、さすがです。こんな背景があったとは、勉強になりました。それにしても悲惨の極み!

2007/5/26(土) 午後 11:41 [ あおれんじゃあ ]

顔アイコン

コメント有難うございました。会津のために弁護しておくと、会津の展示物(武家屋敷・日新館など)は、例え小さなもの、態勢に影響のない部分についても極めて丁寧な、考証が行き届いていると思います。ただ、それとは別に、この前の白虎隊ではないですが、光りの当たらない部分についても、積極的に紹介していくべきだとも思います。

2007/5/27(日) 午前 1:42 古畑 任次郎

顔アイコン

はじめまして。興味深くブログを拝見させてもらっています。
私は長野上伊那出身で地元の歴史を調べているのですが、先日、2回ほど会津に行きました。西郷邸も見てきました。
私の苗字は柴といいますが、会津には400年ほど前の本家筋が保科正之に従って移住しています。先日はその墓参りに家族全員で行ってまいりました。蒲生氏が建てたお寺の、裏山に何十という墓石が立ち並んでいて、感慨深いものがありました。我が家の古文書には武田勝頼に攻められ木曽に一時逃げていたなど、戦国時代のエピソードや、保科との主従関係のエピソードがいろいろと書かれていて、これから要研究といった状態です。会津の遠い本家筋もやはり、母親子供たちが何人も自刃したようで、そのお寺では全員の名前を読み上げて供養のためお経をあげてもらいました。
古畑さんのブログ、面白いですね!
また読ませてもらいます!

2007/11/6(火) 午前 0:03 [ aja*or*ja*or ]

顔アイコン

幕末の柴佐多蔵家の(四朗・五郎を輩出した)縁戚なのでしょうね。御交誼を得たく是非、「
内緒」でメルアドなど御連絡方法を賜りたいと存じます。よろしくお願い致します。

2008/3/14(金) 午後 11:37 古畑 任次郎

顔アイコン

ここも涼しい。

2008/7/30(水) 午後 2:51 留守番タロ子

顔アイコン

mayumi kanedaさん、御訪問有難うございます。御ブログも覗かせて頂きます。今後とも宜しく。

2008/8/2(土) 午後 0:33 古畑 任次郎

顔アイコン

武家屋敷は、会津ガスの高木さんだと思いますが、保科正之の遺言で

うんぬんの高木孫四郎と、高木社長のつながりはあるんでしょうか。

西郷頼母は、むろん、反藤木一派の西郷頼母の子孫ですが。

私の祖父芳賀平三は、日露戦争の傷痍軍人で特務曹長、天鬼将軍の義

弟なので、張作霖軍事顧問町野武馬が、パプチャツプ遠征で失脚した

柴四朗のあとを受けて衆議院議員選挙に立候補した時、天鬼将軍が満

州から送った多額の選挙資金を喜多方周辺にバラまき選挙違反で投獄

されました。町野主水が帝政党を組織して喜多方に起きた自由民権運

動を弾圧したからという説が大半ですが。長州閥山県有朋、田中義一

と繋がったためという説もあります。

2008/8/13(水) 午後 1:55 留守番タロ子

顔アイコン

電通本社に行ったとき、まっさきに、猪瀬の「ペルソナ」の話になり

水戸藩士の子孫だという人に、柴四朗というのは、ある明治人の・・

と同じ人物かと問われました。広沢安任や野村機兵衛などのこともあ

り、柴家の縁者の方であれば、ぜひ、お会いしたいものですね。

2008/8/13(水) 午後 2:01 留守番タロ子

顔アイコン

北日本印刷が倒産したという噂を聞きましたが、阿部社長は、お元気

なのでしょうか。

2008/8/13(水) 午後 2:04 留守番タロ子

顔アイコン

御教示ありがとうございました。古畑は財界については不案内です。上記御質問についての回答資格も知識もありません。悪しからずご了承下さい。石光真人編の『ある明治人の記録−柴五郎大将の遺書』は柴五郎の遺書を編んだものですから、五郎のすぐ上の実兄が四朗です(「同じ人物」というのはどういう文脈からくるものか不明ですが)。いずれも柴佐多蔵氏の子息であるということですね。広沢安任‥などもあり、とはどのようなことを指しているのでしょうか?差し支えなければ御教示下さい。

2008/8/13(水) 午後 5:55 古畑 任次郎

開く トラックバック(1)


.
古畑 任次郎
古畑 任次郎
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

過去の記事一覧

ブログバナー

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事