|
書棚の一角、大封筒の中に会津歴史地図が4種類収まっている。
○ 会津若松城郭復原図(会津文化財調査研究会)四六全判(1091×788)
○ 保科氏時代(保科正之会津入部時)の若松城下郭内地図
○ 加藤氏時代の若松城下郭内地図
○幕末若松郭内地図
(これらの地図は会津から恵贈されたものです)
時折、取り出して眺めている。
加藤・保科時代の「郭内地図」は、文字で識っている氏族を、実際の町並みの中に発見する。それだけで、彼等の息遣いや生活の騒音までが届いてきそうである。
徳川幕藩体制は身分制が固定化された社会といいながら、保科正之入部時と、幕末のそれとを見比べると、この二百年は重臣、軽格を問わずその「家」に於ても、緩やかな消長があったようである。
公私の不始末によって断絶、減石、また血脈の途絶えなどによる廃籍などもあったろう。地図から一個の家の盛衰が見えてくる。それぞれの家に知られざるミニドラマがあったのである。
「北原」「小原」「田中」「保科(のち西郷)」「赤羽」などの重臣はいうまでもなく「笠原」「藤沢」「鋤柄」「小笠原」「黒河内」などの苗字を発見すると、まるで遠縁と、町中で出会ったような気分になる。
肉親に縁の薄い保科正之は母に生涯「畏敬」の気持ちを持ち続けたが、高遠の最晩期母を亡くし菩提を「浄光寺」に弔う。ほどなく山形への転封。山形でも、そして会津でも「浄光寺」を母の菩提寺とした。だが、会津入部時本丸内に見られる「浄光寺」は、幕末地図では消えている。
「浄光寺」はどこに移されたのだろうか?(浄光寺通りの浄光寺とは別のようである)
その母の実家・係累の「神尾(かんのお)家」の屋敷は、正之入部時、甲賀町筋にある。別家が大町通りにもある。「高遠」以来の臣である。ただし、幕末の地図では「神尾家」の存在は薄くなってしまっている。篤実のみでケレンのなかった系譜であったのかもしれない。
というように、この地図を眺めていると、様々な想いが地図上の甲賀町筋で、本一ノ丁で交差する。
ふと我に返って「今、時代は何時なんだ?」と思ったりする。
時刻表フリークが列車ダイヤで空想旅行をするように、これら地図は時空を越えて、古き会津城下の隅々まで魂をさまよわせてくれるのである。
|
建設業で官庁営業をしていた頃、愛知県豊橋市で住宅地図のような郭内地図を見たことがあります。市営の野点が出来る茶室建設の時でした。落札出来て、古の時からの場内を抹茶を飲みながら眺めた時を思い出しました。
2007/4/22(日) 午後 10:15
古地図を見ながら、昔を偲ぶ私も好きな時間ですよ。^^ポチ
2007/4/23(月) 午前 9:27
仕事が成功した時の一服はさぞや爽快なものだったのでしょう。
2007/4/24(火) 午後 8:54
空想旅行マニアの「時刻表」のようで「古地図」特に住居地図は、住む人の名が刻まれてあり想像を結びやすいですね。空想を逞しくするとその人の姿、歩く様子まで浮かんできそうで‥。
2007/4/24(火) 午後 8:58
会津藩の生き方こそ武士道に沿った歩みだったと思ってます。薩長の横暴さはつまり軍部独走につながったと思う最近です。
2007/4/27(金) 午後 0:57 [ 日隈玄斎 ]
会津の西郷性は保科から出ているのですか。会津のことはよく知らないのです。訪ねたことがありません。今年とか、草津をからめて家族旅行の企画として提案してみましょうかね。まさか宿帳に出身地の記載はないと思います(笑)。任次郎さんと会津の出会いはどこからなのですか?
2007/4/27(金) 午後 3:29
あの弛緩し切った武士の時代に秋霜烈日の士魂が残存していたことは、まことに不思議だとおもいますね。あれはどこから来たのかいまだに腑に落ちるところがありません。
2007/4/27(金) 午後 11:23
○会津の西郷姓というより家老家の保科民部家が(紆余曲折を省略します)諸般の都合により保科姓を憚って「西郷姓」を名乗りました。○薩人は男女の別なく旧会津領には入ることはできません(笑)。是非、罪滅ぼし(笑)に会津を訪れてみて下さい。○大昔、なにげなく、ぷらっと行ったことが、会津関心の切っ掛けでしたよ。
2007/4/27(金) 午後 11:32
大河ドラマ新撰組の時、保科正之を大河ドラマにという署名運動してました。それなら伊達騒動でしょって事で調べはじめました。今年の
大河が、篤姫対お由羅を扱ったので、つぎは、藤木万対西郷頼母だと
思うんだけど。
2008/7/30(水) 午後 3:08
TVを見るという習慣がないものですから‥。保科正之を大河ドラマ化しようと云う動きは高遠でもあったようですね、今でもあるかな‥。伊達騒動の記事の一部拝見しました。興味が尽きないといったところでしょうか。また、覗かせていただきます。
2008/8/2(土) 午後 0:30