古畑 任次郎事務所・日誌。

東北関東大地震で被災された方々にお見舞い申し上げます。古畑は元気です。

全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全21ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

アルバイト

イメージ 1

 
 入学したばかりのまだ有髪の中学生(http://blogs.yahoo.co.jp/fnj8823/37823591.html) は、部活は剣道をと思った。大昔の運動部、特に剣道部では特有のしごきやら不条理やらを経験させられた。若いうちに不条理を経験するというのはあながち悪いことではない、人生を学ぶひとつであろう。馬齢を重ねるとそう思う。

 さて、剣道。今時のスポーツのように用具が整った時代ではない。新米はトレパンと体操着でひたすら竹刀の素振りと摺り足の毎日。先輩相手の打ちこみをさせてもらえるようになるまで多少の期間を要した。これでは面白い訳がない。一緒に入った仲間がだんだん抜けていく。

 学校の備え付けの古く臭い防具の着装が許される頃にはトレパンと体操着から胴着・袴姿になり、みかけだけでも剣道少年らしくなってくる。

 夏も近くなる頃、新人戦や対抗試合も経験し、勝ったり負けたりするうちに多少の自信もついていく。防具(昨今の言い方だとMY防具か)も欲しいと思うようになる。他の競技に比べ、剣道は用具への初期投資が大きい。この負担を中学生のあるかなしかの小遣いで賄うのは荷が勝ちすぎる。さりとて親にねだるのも気が引ける。生来、親にモノをねだるということが少なかった。親に遠慮をする、これは天性の癖である。

 故郷の実家近く古往還に沿って商店街があった。現在は寂しくなったようであるが、当時は鍛冶屋、饅頭屋、電気屋、衣料品店、床屋、銭湯、煙草屋、家具屋などが軒を接し活気があった。

 その一角に店構えそのものが商品のような骨董屋が店を構えていた。軒に大小のヒョウタンをぶら下げていた。ガラス張りの陳列に書画、骨董、古道具が脈絡なく置かれてあった。建てつけの悪そうなガラス戸の奥、店の内では干物のような老店主が、店番していた。きまっていつも居眠りしていた。

 ある学校帰りに何気なく陳列をのぞくと、使い古された剣道防具一式が吊るされていた。胴は竹胴。「おおっ‥」思わぬ出物に足を止め、仔細に眺めた。胸当ては相当疲れているし、つづり皮のところどころはほつれていた。が、実用に十分耐えるものと思われた。

 黒胴を着装するのは有段者。初心者は胴に薄い生地皮を張った生地胴、または竹胴をつけるというような時代の雰囲気があった。黒胴は先の話としても、竹胴はさすがに貧相に思えた。せめて生地胴であればいいのにと思う。が、当時の自分の技量に似つかわしいとも思った。

「ほしいナ‥」しばらく吊るしの防具に見入っていた。
 それから下校時には骨董屋に足を止めるようになった。

 早上がりのある時、例によってガラスに身を寄せて、防具を眺めていた。店先で水打ちしていた老店主が「よっぽど欲しいんじゃネヤ‥」かすれた金属音で声をかけてきた。深くかぶりを振る。「安うしといたげるが」と売値を提示したが、むろん及ぶところではない。また、金策の宛てもない。返事に困っていると店主は「アルバイトせんかナ?」と瞳を向けてきた。

 店主のいうアルバイト、とは古新聞・雑誌などの回収である。回収した古紙は店で引き取る、ついては防具代に相当するまで店に届けよ、というようなことであった。その程度のことなら中学生でも出来そうである。なんとも有難い申し出であった。

 シャイで人付き合いが不得意科目。できるだけ対人接触は避けたい口だが、こういう場合は別人なのである。さっそく、隣近所、近隣の顔見知りの家に古紙の取り置きを依頼して廻った。ころあいを見計らって自転車で集荷して、古道具屋まで運ぶ。いくたび古道具屋の裏口に古紙を積み上げたか、そのあたりの記憶は抜け落ちている。

 ある日曜日、自転車に山積みの新聞を届けに行くと主人が手招きした。

 店の奥に入ると真新しい唐草紋様の袋に包みこまれた防具が置かれてあった。

「防具袋は新品。サービスしちゃらい」
「持って帰ってええん?」
 皺だらけの顔が笑いながら頷いた。

 ずしりと重い防具袋を両手で抱いた。「自分のモノ」の喜びが伝わる。相好崩すことの少ない少年がこの時ばかりは頬が緩んだと思える。店主に謝辞を述べたかどうか、その知恵があったかどうかも疑わしいが、ともかく浮き立って店を出た。

「明日からこれで練習出来ライ」。肩に背負った防具が重い。それが嬉しかった。

遠い日のアルバイト事始めであった。

    .

コーヒー

イメージ 1

 コーヒーとは自身のセピア色の歴史以来の付き合いである。長い。

 学齢前であった。焦茶地にシロヌキで「ブラジル コーヒー」と記された缶が、食器棚にあった。食後の一時、父母が飲んでいたであろう。自分も飲んでみたいとねだったか。日頃要求することの少ない子の求めに「子供には刺激が強すぎるが‥」言い訳しながらミルクと砂糖たっぷりで与えられた。カップからたゆたう特有の香が鼻を擽る。甘さの中の苦味を舌が記憶している。我がコーヒー事始めだった。


 従姉妹に手を引かれ乳児の弟を抱いた母の導きで、陽の落ちた往還をとろとろ歩く。心もとない外灯の往還の先の商店街に不夜の光の世界が現れる。夏の夜店、娯楽の少ない時代の心ときめきの一瞬である。

 浴衣の人々がそぞろに行き交う。間のびした喧騒が辺りを包む。ざわめきの間を縫って風鈴の音、ラムネ玉の響き、客引きの胴間声が届く。くしの歯のように居並ぶ、射的、ラムネ、アイスキャンディ、金魚すくい、カラフルなカザグルマ、そして、お面売りの屋台。それぞれに小さな人の群れがある。ほのかに焦げたソース、イカの焼けた匂いが鼻をくすぐる。幼い身には刺激の連続であった。
 
 母親が大店で用を済ます間、従姉妹と店先の縁台に腰を休めていた。斜向かいに、氷を浮かせたガラス槽に濃褐色の液体を張った出店があった。従姉妹に「あれは、何か」と尋ねたものであろう。世話好きの従姉妹が「冷やしコーヒー。飲みたい?」と気を利かせた。「コーヒー?!」覚えたばかりのそれに強く頷いたことだったであろう。

 従姉妹はツルツルと人の波を泳いで屋台に迫った。店主が次々と手際よく杓で水槽の液をグラスに注いでいく。従姉妹はその列に並んだ。

 店主の側に人形のような童女がいた。石炭箱にチンマリ腰かけていた。ほぼ同じ年頃であった。出店の縁故者であったのであろうか。みなりは幼い目にも粗末なものに映った。ややうつ向き加減で、時おり目をしばたたかせる以外の動きはしなかった。客が離れたり、近寄ったりする間も塑像のように動かなかった。ときおり浴衣から出た小さな足をぷらんぷらんさせた。

 アイスコーヒーを手に従姉妹が戻ってきた。甘くほのかに苦い冷やしコーヒーをちびりちびり喉に送る。目は行き交う人のシルエット越しに、相変わらず身じろぎもしないその童女を追っていた。

 淡いが記憶の奥底に残る映像である。

 
 冷やしコーヒーはともかく、コーヒーは現在でも嗜好している。麻薬性に憑りつかれているのかも知れない。健康に悪いといわれている煙草と相性が良い。これだけはこれからも止められそうにもない。

.

お静地蔵

イメージ 1

《 「お静地蔵尊 由来」 東京・目黒 成就院境内在 》
 
 この石仏像は徳川二代将軍秀忠の側室お静の方の発願で奉納されたものです。お静は江戸城大奥にあがり将軍の寵愛を受け「お腹さま」となることを願い、三体の観音像を納め奉りその素願叶い慶長一六年(一六一一年)に男子「幸松麿」を授かります。

 その後、秀忠公正室浅井常源院の威勢を畏れながらもそのつつがない成育を祈り三体の地蔵を刻み納められます。そして再び願い叶い、また家康公の側室見性院(武田信玄公の娘)の庇護もあり、保科正光公の養子となり元服後保科正之公となります。

 元和年間三代将軍の家光公は目黒で鷹狩の際当寺に参拝され舜興和尚(中興第十五世)とのご法談の折、正之公との浅からぬ縁を知り寛永八年、正之公は信州高遠城主となります。お静は大願成就のお礼として阿弥陀如来像をおさめ奉りました。

 正之は後に山形城主、さらに正保元年会津二三万石の城主となり会津松平家の祖となります。また、家光公の命により四代将軍家綱の後見人として幕政に力を注ぎ善政を施されました。お静地蔵はその由来により、古くから縁結び・子宝・子育て・出世・福徳・開運を願う人々の信仰を集めてこられました。
           
   平成一五年癸未年 道文之記 
                        [*古畑注:見性院は家康の側室であった訳ではない]


 久しぶりにデイパックを背負い、スニーカー穿きの小さな旅をする。都内ではあるが、旅は旅なのである。JR目黒駅。日頃は縁がない。この駅頭に降り立つのも数十年ぶりか。当時はこの駅から目蒲線が走っていた。雑踏を抜け下目黒方面に向かう。

 天台宗・成就院。古くから「蛸薬師」の別称で親しまれているという。開山が慈覚大師と伝う。 
慈覚と云えば、栃木・壬生で触れた彼の事跡のことがよみがえる。良きにつけ悪しきにつけ、関東の時間はキメが荒い。関東平野といっても旧江戸域は、複雑な起伏を持つ。無数の坂が高低を繋ぐ。むろん目黒も坂の街。

 権之助坂を上り、長い下り勾配をトロトロと下る。下り切った角、大鳥神社を左折する。しばらく歩く路地の先に徳川葵をふった提灯の山門を見つける。

成就院、ささやかな寺である。

 四百年ほど前、北条浪人・神尾(かんのお)栄加(嘉)の娘、静もこの境内に足を運んだ。中肉中背で、しかし、下腹部がやや目立つ程度に身重であった。言葉数の少ない娘であったろう。侍女代りの小女の一人くらいは共をしていたか。静がなぜ成就院を発願の場所としたか、判然としない。ともかく徳川秀忠家と多少の縁故があったことを知ってのことだけは疑いがない。

 この時より、十数年後、家光が鷹狩りの際、同寺に立ち寄って義弟、正之の存在を知ることになる。縁に縁が重なる。見えぬ縁に導かれるように、静は板橋の外れから目黒まで足を運んだ。厳冬の隙の小春日の一日であったであろうか。

 乳幼児の生存率の低い当時、権門勢家にあって血統を連綿させることは重大事である。ゆえに正室は、側室という第二夫人以下を差し出した(名目的にでも)といわれる。正室に継子がない場合、第二、第三夫人の子を家系継承者とする。それはまた、継承紊乱の予防装置−正室公認の外の素姓のしれない女子の生んだ子は継承者としない−血の囲い込みでもあった。

 秀忠の正室・お江与は秀忠に側室を供しなかった。であるから、静は側室ではない。静が望んだことでないが、秀忠の私的なかりそめの恋人であった。この時代の権門勢家の正室は、現代市民社会における庶民のベターハーフというようなものでなく、家政に対し強い政治力を有している。

 正室・お江与が、静の存在と懐妊を知った時、彼女らを物理的に抹殺しようと試みたのは、現代夫婦の嫉妬とは政治性において異なる。お江与のしうちを妻としての「嫉妬」にのみ求めるのは、気の毒であろう。お江与は徳川二代家において、本人が望むと望まざると、家譜正系の隠然たる家政機関長であらなければならなかった。「嫉妬」とは別の政治論の範疇にある。

 むろん静も時代の常識として、そのことは知悉している。静の懐妊は家系正統維持の埒外にある。まかり間違えば子の存在は、徳川家家系紊乱の萌芽になりかねない。胎児ながら濃厚な政治性を帯びていた。ゆえに、最初の胎児は静自らの意志で闇に葬った、私生児であったゆえにそれも可能であった、とも言える。

 境内の六体の石像の前に、上掲の碑文がある。「お静地蔵由来」。碑文を目にする。『‥「お腹さま」となることを願い‥』とある。しかし、前述のようこれは誤りであろう。静が城内に奉公したのは「お腹さま」を望んでのことではない。先立つ懐妊では、城下がりをし、里で堕胎している。この二度目の妊娠においても同様に考えていたはずである。「お腹さま」の立場でないこと自明である。

 二度目の懐妊に当たって神尾家で一族会議が開かれた。弟の「二度にわたり貴種の種を闇に葬るのは畏れ多いこと」とする主張に一族会議がなびいた。次第によっては神尾家の災禍になりかねない。勇気の要る決定であった。胎児の持つ強い意志のゆえんであろうか。この決議で静の出産に対する心も固まった。漠とした尋常でない将来不安は大きく横たわるが、母になる決定は静を強いものにしたであろう。
 
 成就院への参詣と三体の観音像の奉納は、その決意の一つの表れであった。

 このときの胎児、後の保科正之はこの自身の有史以前を生命に刻みこんでいたのかもしれない。奉納した三体の石像観音は何れも、静の心境を映した如く穏やかな表情をしている。生命を胚胎する性のみが到達することの出来る精神域なのであろう。

 苦境とは別に「母子ともに生きること」を心決めしたこの瞬間から、薄幸の母子の意志は陰に陽に周囲の庇護を呼び込むことになる。城内勤めの間、知遇をえたであろう武田信玄の娘、見性院が、母子生命の防波堤となった。
 
 胎児は無事この世の光を浴び(武田の名跡を襲うという)望外の進境に静は感謝し、さらに三体の石地蔵を成就院に奉納する。

 これがお静地蔵と呼ばれている。

 昨年、信州・高遠町歴史博物館前に建立された地蔵は、これを模刻したものである。母子の生存と安心を保障した見性院は、この時から数年後に世を去る。母子にとってまことに時宜に適った存在であった。物言わぬ胎児は天与の強運の持ち主であった。幸松丸、のち保科正之は母の胎内にあるうちにその人生の方向を感得したのではないか、そんなふうに想ったりした。
 
 四百年前の薄倖の女性の心象を映した形だけが時空を超越して厳然と残り続けている。不可思議を思う。

 とりとめのない感覚の世界を漂いながら小振りの山門を抜ける。
 つかの束の間であるが妄想を掻き立てる小さな旅であった。

 同じ東京ながら馴染みのない街をさまようのも、また楽しからずやである。


                                                .

イメージ 1

                  高遠町歴史博物館前の保科正之、母・志津石像
                     (kazeさん提供写真に古畑加工)


うやまって申祈願の事

南無氷川大明神、当国の鎮守として跡を此の国に垂れ給い、衆生普く助け給ふ。
ここにそれがしいやしき身として太守〔将軍・秀忠〕の御思ひものとなり、御胤を宿して当四五月頃臨月たり。

しかれども御台〔秀忠夫人・達子また於江、於江与〕嫉妬の御心深く営中〔江戸城内〕に居ることを得ず。
今信松禅尼〔信玄遺娘・松姫〕のいたわりによって身をこのほとり〔武蔵・足立郡の大牧村=見性院知行地〕に忍ぶ。それがし全くいやしき身にして有難き御寵愛を蒙る。

神罰としてかかる御胤をみごもりながら住所にさまよう。
神明まことあらばそれがし胎内の御胤男子にして、安産守護し給い、二人とも生を全ふし、御運を開くことを得大願成就なさしめたまはば、心願のこと必ずたがひたてまつるまじく候なり

慶長十六年二月 志津             
                                   (『会津若松市史』〔 〕注は古畑)

 
 志津の悲劇は(秀忠による寵愛と妊娠は)彼女が、徳川家正当の血統維持機構の埒外の女性であった、ということによる。秀忠の父、家康のような一ダースを超える側室との間がらのことであれば、慶事である。この時代稀なことに秀忠は、側室を置かなかった。いや、置けなかった。正夫人の達子(於江与、於江)は嫉妬深い恐妻であったが、夫婦にはなにより子宝に恵まれた。いかなる達子でも子をなさなければ、むろん、血統維持のために側室は用意されたであろう。

 その、側室を持たない秀忠が、現代で云えば総務課の若い女子職員に恋心を抱いた、という方がわかりやすいであろうか。志津にとっては迷惑な話であったかもしれない。ことの果て自然の摂理として懐妊する。それも二度。一度目は堕胎するが、二度目の懐妊の時、里帰りした志津は身内のアドバイスにしたがって、出産を決意する。

 しかし、志津懐妊のうわさを聞きつけた達子は、激しく嫉妬の炎を燃やす。燃やしただけではない。里下りした志津の周辺に探索の目を当て、刺客を差し向けようともする。武田の遺娘(見性院、信松尼)がこの盾となる。以後、志津は彼女らの息の掛かった隠れ家を転々とする。上述の武蔵国・足立郡大牧村もその一つであった。(上記の願文はその時のものである)

 やがて、生を受けた正之(幸松)と志津は、見性院の養子名目で、城中、田安門内の比丘尼屋敷内に移り、七歳まで撫育される(この後のことは http://blogs.yahoo.co.jp/fnj8823/37736530.html を参照されたい)。正之は、こうした自身の誕生秘話を母あるいは、見性院から物語として聞いたに違いない。

 女性に関してもう一つ、達子同様正之の魂を動揺させる出来事があった。

 成年後の正之には正室菊姫があった。菊は夭折する。側近の於万を継室とする。この於万、ファナチックな部分において達子に共通するのはどうしたことであろう。正之の側室の娘が自分(於万)の娘より格上の加賀家に嫁ぐ事に嫉妬し、毒殺しようとする。が、手違いから皮肉なことに、実の娘に毒の入った食事が回り、娘は中毒死する。

 正之は嫉妬による殺害行動を再び身近で経験する。家綱の政治後見に寧日ない中、毒殺事件関係者を厳に処断しながら、つくづく女性の妬心、怨の強さを再認識したことであろう。(於万は正之死後も会津家中で女謁を行い、藩政を混乱させる)

 ただ、聡明な正之はそうした女性の美質と醜悪とをパーソナリティーで仕訳するにとどまらなかったであろう。ことごとしい言い方をすれば、女性の宇宙原理を捉えようとしたであろう。

 女性(に限らず人一般も)には無慮の感情の陰陽、抑揚があり、時々刻々変化する。化学実験のように試薬や触媒を変えると、同じ成分が全く別の化学変化を起こすように、人において状況ときっかけは、その魂のありどころを著しく変えるもの、との結論に至ったに違いない。


 翻って為政の立場にあって、正之は、その試薬・触媒を過たず調整することで、中国の理想政治 「尭と舜」の仁政が行える、そう結論づけたのではなかったか。正之の政策視角は時代を超えたところがあり、近代人のようであると思いもしていたが、実は東アジアに太古からある、形に表し難い統治原理を知らずのうちに感得したのではないか。

 特に、その統治原理に達するに当たっては、上記のような愛と憎を両極に具有し個性の際立った、正之を取り巻く「女性たち」の存在があったと思えてならない。

 むろんこれは古畑の勝手な思いにすぎない。
 
 慈愛の母、お志津とお志津地蔵(正之のために目黒・成就院に献納したものの模刻か)の写真を眺めながら、四百年も前の、しかし、つい近くにいるような高遠出身の高邁・高潔な政治家・行政家、保科正之に、ふつふつとつまらぬ思いをはせるのである。


                                                                                                                                            ・

塩煎餅

イメージ 1

 
 おそらく悲鳴を上げたことであろう。

 学齢に達する前のことである。近くの祭礼に店を出していた同世代のテキヤさんの息子と意気投合した。夕闇迫る工事現場で二人で遊んだ。夢中で積み木代わりのレンガを積み上げる。これは面白くてたまらなかった。

 どうした弾みかテキヤさんの息子は、わが手に誤ってその一つを落とした。灼熱が走り、間をおいて激しい痛みが襲った。レンガの間から手を抜くと、見る間に黒ずんだ。

 それから先の記憶はない。

 話は飛ぶ。煎餅のこと。
 練った小麦粉に味を加え火を通した食品、この淵源は中国にあるらしいが、この国に伝わって久しい。この間、煎餅は原形が解らなくなるほどの進化を遂げてきた。本来の小麦粉原料以外に、米、穀類、根茎類、そして海産物などを原料として多くの「煎餅」が登場するようになる。

 小麦粉を常食とするユーラシア、また新大陸では小麦粉加工品はそれほど多くはない。東アジア人の、特に日本人の食に対する飽くなき貪欲さ、舌のエネルギーが煎餅の項でも進化発展を求めたのであろうか、また食材の潤沢さがそうしたのかもしれない。いずれにしても現在の我が国の煎餅の爛熟ぶりは尋常ではない。

 一時、煎餅のコレクションに凝ったことがある。それを聞き付けた仲間から、出張や旅行で各地の名産、新種、変種の煎餅をいただくことが多々あった。その度に(お礼の意も込めて)画像に取り込んだので、フォトライブラリーが膨らんだ。有り難い事である。

 が、それとは別に仲間内にする煎餅蘊蓄のレクチュアは、生活に身近過ぎるものでありすぎるのか、切り口に工夫が足りなかったものか、どうも不人気であった。そのうち煎餅趣味からも遠ざかってしまった。フォトライブラリーも未整理のままである。
 
 煎餅熱も冷め切ったつい先頃、仲間が、ビニール袋を提げて訪れた。「昔、田舎にこんな物ありましたよね‥」。商品名は別であったが、紛れもない塩煎餅である。この塩煎餅、小麦粉原料で、塩味のスカスカしただけの取り立てて美味なものではない。であるが、現在でもほそぼそと売られているらしい。

 
 話をもどす。次の日であったろうか、テキヤさんの息子はその日も工事現場で砂遊びをしていた。わが姿をみとめると、微かな中国地方訛りで、無造作に粗末な紙袋を差し出した。塩煎餅が数枚入っていた。事故の贖罪のつもりであったのであろう。

 数日を経ずテキヤさんの息子は父親の稼業にともなって、わが故郷を離れていった。その後、二度と出会う事はなかった。
 
 その時から半世紀。
 古畑の右手薬指の爪は、現在でもその時の傷痕を残している。

 塩煎餅‥、懐かしい記憶が焼き込まれていた。

                                                                                             .

全21ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


.
古畑 任次郎
古畑 任次郎
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

過去の記事一覧

ブログバナー

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

いまならもらえる!ウィスパーうすさら
薄いしモレを防ぐ尿ケアパッド
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!
コンタクトレンズで遠近両用?
「2WEEKメニコンプレミオ遠近両用」
無料モニター募集中!
ふるさと納税サイト『さとふる』
お米、お肉などの好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!
ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!
いまならもらえる!ウィスパーWガード
薄いしモレを防ぐパンティライナー
話題の新製品を10,000名様にプレゼント

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事