古畑 任次郎事務所・日誌。

東北関東大地震で被災された方々にお見舞い申し上げます。古畑は元気です。

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                 高遠城・太鼓(時鼓)櫓 (kazeさん提供) 

 7年ほど前、桜の名所と喧伝される信州・高遠(現在は伊那市)を訪れた。桜はともかく、交通の不便な山裾の田舎町でしかないこの町に、心の核が惹かれてしまった。それから数年、取り憑かれでもしたかのように、信州とこの町について勉強した。
 
 旧時代、三万三千石の城下町であった。このささやかな町から、保科正之が出る。そのことは別項で、おいおい書いていくことにする。
 
 さて、この町の段丘上に、中世の古城に武田信玄の配下、山本勘助が縄張りしたと伝う高遠城がある。天守とよべるほどのものはない。ただ、中世以来の深い空堀、掻き揚げ土塁、梯郭式の曲輪配置が、ほぼ荒されないまま今日に遺る。武田氏、保科氏(正光、正之)、鳥居氏を経て、内藤氏の治世に近代を迎えた。

 戊辰戦争後は、廃城となり、僅かの期間ながら高遠県庁舎が置かれた。明治4年、筑摩県合併で、城郭は兵部省に引き渡される。翌年、破脚決定され、城下の三商人が払下げを受け、構造物は建築資材として近在に散っていった。

 ただ、搦手門脇にあった「太鼓(時鼓)櫓」(櫓とは云いながら、二階部分が六畳程度の空間で、四方に矩形の素通しの窓が切り開かれてあるだけのささやかなものである)だけは、対岸の白山に移設され、その地で櫓内の太鼓が近在に時を告げていた。

 町は明治10年、これを再び、城址公園(現在地)に移し、旧制どおり朝6時から夕8時まで偶数時に時報した。太鼓楼から打響く音は、西は、天神山(美篶)、南は河南、東は月蔵山まで届いたという。これは時計が普及する以前の野良仕事には重宝したと云われる。第二次大戦の末期は敵機の攻撃を恐れ、太鼓による時報は廃止されたという。

 牧歌的な逸話ながら、戦後、三の丸に新制高校が設立された時、太鼓は学校に移され、構内で始業・終業を告げたという。太鼓の響きは若い生徒たちを一喜一憂させたことであろう。その後、太鼓は現在も旧二の丸の「高遠閣」で、なお余命を保っていると聞く。
 
 太鼓櫓そのものは、これまで何度かの修理が行われ(一階部分は板張りから漆喰塗りに化粧直しされ)、現在でも本丸の西南隅にひっそりと、唯一の建物として佇立している。

 簡素で自己主張の少ない建物である。
 しかし、この身にとってはおさまりがつかぬほど、来し方への妄想が刺激される、櫓なのである。

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ママチャリ

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 自宅の周囲数キロ近辺の移動には、ママチャリを足として使っている。最近は電動アシスト式の自転車も出ているようであるが、人力で多少の荷も積め、体力の続く限り移動出来るこの輸送器機は完成の極致にあるのではないかと思う。

 中国産らしき廉価版で輸送機器の生命ともいうべきセンターが狂っているらしく、タイヤの回転が微妙にブレている。また剛性にも欠ける感もあるが、長年愛用しているのですっかり慣れてしまって、機能に対してかんしゃくを起こすこともない。故障らしきものは、パンクが一度、チェーンの調整数回のみで、稼働率はきわめて高い。
 
 NOxも吐き出さず、カーボンも出さずで、社会に対して負荷を欠けることもなく、駐車場を探す煩わしさもなく経済的負担も軽い。雨が降る日は厄介ではあるが、それを除けばこれほどけっこうな輸送機器はない。

 これを使いはじめて5年ほどになるが、当初、乗って戻ってくるたびに「現代の馬だナ、便利だ、便利だ‥」と愚妻「壇ふ」に口走っていた。最初のうちは「よかったですね」と付合ってくれたものの、そのうち受け流されるようになった。が、今でもその気持ちは変わらない。

 このローテクであるが、極めて効率の良い輸送機器から何の脈絡もなく思いが走る。

 
 効率の良い輸送手段といえば(その側面からの評価は少ないが)13世紀ユーラシアを震撼させたジンギスカンの騎馬軍団を夢想する。彼の軍団は機動の中心の馬と、動く食料庫、羊群とで編成されていた。馬、羊の飼料は草、それによって労働力再生産された馬にまたがり、肉をつけた羊を屠って軍団の食料とする、世界史で希有な自給自足の軍団なのである。

 草原そのものが世界史のページを開いた。

 また飛躍する。我が国で言えば、水運がそれにあたるだろうか。歴史時代からの経済の再生産構造を考える時、耕地空間と労働集約に目を奪われがちであるが、量の物流は水運が支えた。沿海は海流と風、河川は高低(戻りの場合は人力に頼ったにせよ)と、浮力によって。それも木っ端のような舟艇であった。近世になって北前船が規模の象徴になった。労働生産性の高い、効率のよい輸送手段であった。

 水の国の知恵であろう。

 スピードと大量輸送と確実性を飛躍的に追求した近代は、皮肉なことに非効率極まりないものとなる。ジンギスカンほどの大軍団を移動させる、あるいは欲しい物を欲しい時、欲しいだけ必要とする民需を賄うとなると(輸送、流通の側面と限定しても)夥しい資材、非鉄金属、化石燃料が必要になる。それを支えるための気が遠くなるほどの付帯施設、生産財生産、装置産業を擁しなければならない。

 M・ウエーバーの「合理性を突き詰めれば不合理に陥る」が実感される。このアンビバレントに人類はどこの段階で歯止めをかけるものか。そもそも、唯物的な側面で、豊かになりたい、楽をしたい、自由になりたいという人類の希求の総和が現代の社会システムを支えていることだけは間違いのないことだから‥。現代の馬にまたがりながら、以上のようなつまらぬことをことをつらつら思うのである。
 
 
 相変わらず風を切るたびに先人の知恵と研鑽の集積に感謝している。


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タバコ

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「喫ってみるか?」悪友に薦められて口にしたのが最初。高校生だった。それ以降、現在に至るまで、煙草とは長い付き合いである。

 つくづく妙な嗜好だと思う。食べる、噛む、飲む、そして排泄する、は人間の生理にかなっているが、煙草は煙を吸ってさらに吐き出すのである。吸収と排泄が同じ器官、それも瞬時である。人類がいつぞや社会的学習によって体得したものであろうが、どこにこの不自然な嗜好の根源があるのか、興味があった。

 煙草は15世紀コロンブスの新大陸との接触によってヨーロッパにもたらされたとは衆知のことだが、当時は医薬品の一つとして紹介されたということになっている。喫煙の風習はさらに時代が下るらしい。
 
 それはよいとして、煙を喫することである。アメリカの古代文明において、煙草は当初神への供物であり、やがて、葉を燃やし、紫煙の登り具合で吉凶を占った祭祀植物であったということを知る。古代からこの葉は燃やすことから発したようである。さらに、病気は人の肉体に宿る悪魔がもたらすもの、それを癒す「すべ」(呪術師による悪魔払い)として、神聖な紫煙を使う、体内に煙を送り込む、吸う、と繋がったということらしい。

 なるほど、精神文化からきた嗜好か、ということでこの妙な習慣を納得した。皮肉なことに神饌、悪魔払い、医薬品であった煙草が、現在では蛇蝎のごとく嫌われ、商品としてのタバコのパッケージにすら喫煙の有害性がプリントされる時代になった。喫煙者は大変肩身の狭い思いをしなければならなくなった。

 若い頃、受験勉強の緊張や、アルバイトの締切り原稿のプレッシャー緩和にも大いに役立った。子供が出来て、台所の換気扇の下でこそこそくゆらす煙草(ホタル族なるマスコミ造語もあったが)もそれなりにうまかった。思考が煮詰まった時の一服は気分転換に大きく寄与する。スモーキングタイムはなにしろメリットが多かったのである。

 かつて、海外に出た時、あるいは海外土産として頂戴するなどで多くの国の煙草を吸った。馬ふんのようにぱさぱさしたもの、松葉を燃やしたようなもの、辛いもの‥。日本でも物資困窮時代はイタドリの葉を使ったこともあると知る。一部の国の特定銘柄を除いては、日本産が品質と味覚が安定している。国民性の象徴を見るようでもある。

「肺がんは辛いよ〜」煙草も酒も飲まない品行方正?な(そのくせ酒場の付合いは辞さない)僚友・安濃スクラ氏はまるで肺がん経験者のようにさりげなく、彼らしい方法で禁煙を奨める。だけど、止めようと思ったことは一度もない。
 
 外出する時は煙草とライターは必ずポケットに入っている。
 そうか、そうか、かつては体内の悪魔払いの特効薬であったか‥



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形見

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 スーツというよりこの場合、背広といった方が似つかわしいか。
「壇ふ」と所帯をもって四半世紀。得難い収穫の一つに「壇ふ」の父、つまり岳父と出会えたことがある。古武士を思わす寡黙で謹厳な人であった。地方自治体の公務員を勤め上げ、定年で退職した。雪深い時期、それを待っていたように末娘である「壇ふ」を貰い受けに実家を訪れた。

 一族の中では怖くて近寄り難い煙たい人であったようだが、この不肖の娘婿は大切にしてもらった。頭脳明せきで、深い所に優しさのある、畏敬する人であった。もとより社会的に高い地位や知名度があった訳ではないが、人間の「生きざまの偉大さ」はそうしたこととは無縁ものであるということを、存在を通じて教えてくれた人であった。

 最晩年の数年は病床にあった。深い縁であったのか「末期の水」は古畑がとった。婿・岳父として(短いような)十五年の内容の濃い交誼であったと思っている。
 
 仏事の後、義母から岳父が生前使っていたものの形見分けがあった。その中に何着かの背広がある。役所勤めの後半は管理職にもなり、背広を着る機会も多かったものであろう。当時の背広は誂えで仕立ても上質で、生来几帳面な人であったので保存も良かった。加えて(後ほど裾丈は伸ばしはしたものの)体型も似通っていたので、有り難く頂戴した。

 
 この四半世紀余経った形見の背広を「ハレの場所」に赴く時、着用していくことにしている。わが唯一のダブル仕立ての背広である。トラッドな背広のよいところは、流行の影響が少ないことである。形は別にして最近のスーツの生地は軽くてしなやかである。が、この古い背広生地は重い。生地と色とがネオクラシックのようで却って新鮮に思えたりする。

 この重さは岳父の分と思って身に着けるが、なにやら豊かさに包まれるようでもあり、また神妙な気分になれるのである。


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 書棚の一角、大封筒の中に会津歴史地図が4種類収まっている。
○ 会津若松城郭復原図(会津文化財調査研究会)四六全判(1091×788)
○ 保科氏時代(保科正之会津入部時)の若松城下郭内地図
○ 加藤氏時代の若松城下郭内地図
○幕末若松郭内地図
 (これらの地図は会津から恵贈されたものです)
 時折、取り出して眺めている。
 
 加藤・保科時代の「郭内地図」は、文字で識っている氏族を、実際の町並みの中に発見する。それだけで、彼等の息遣いや生活の騒音までが届いてきそうである。

 徳川幕藩体制は身分制が固定化された社会といいながら、保科正之入部時と、幕末のそれとを見比べると、この二百年は重臣、軽格を問わずその「家」に於ても、緩やかな消長があったようである。
 
 公私の不始末によって断絶、減石、また血脈の途絶えなどによる廃籍などもあったろう。地図から一個の家の盛衰が見えてくる。それぞれの家に知られざるミニドラマがあったのである。

 「北原」「小原」「田中」「保科(のち西郷)」「赤羽」などの重臣はいうまでもなく「笠原」「藤沢」「鋤柄」「小笠原」「黒河内」などの苗字を発見すると、まるで遠縁と、町中で出会ったような気分になる。
 
 肉親に縁の薄い保科正之は母に生涯「畏敬」の気持ちを持ち続けたが、高遠の最晩期母を亡くし菩提を「浄光寺」に弔う。ほどなく山形への転封。山形でも、そして会津でも「浄光寺」を母の菩提寺とした。だが、会津入部時本丸内に見られる「浄光寺」は、幕末地図では消えている。

「浄光寺」はどこに移されたのだろうか?(浄光寺通りの浄光寺とは別のようである)

 その母の実家・係累の「神尾(かんのお)家」の屋敷は、正之入部時、甲賀町筋にある。別家が大町通りにもある。「高遠」以来の臣である。ただし、幕末の地図では「神尾家」の存在は薄くなってしまっている。篤実のみでケレンのなかった系譜であったのかもしれない。
 というように、この地図を眺めていると、様々な想いが地図上の甲賀町筋で、本一ノ丁で交差する。
ふと我に返って「今、時代は何時なんだ?」と思ったりする。
 
 時刻表フリークが列車ダイヤで空想旅行をするように、これら地図は時空を越えて、古き会津城下の隅々まで魂をさまよわせてくれるのである。

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古畑 任次郎
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