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(高遠郊外藤沢川の上流、杖突街道) |

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(高遠郊外藤沢川の上流、杖突街道) |
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(高遠郊外藤沢川の上流、藤沢郷・御堂垣外(みどがいと)の藩政時代の本陣跡) ♥助手アベナ:高遠市街よりもっと寒ぶィ〜い。ここ標高はどのくらい? ♣田圃青年:780メートルくらいですね。高遠城址公園よりもっと高いですね。 ♥助手アベナ:両方の山にサンドイッチにされて、水田が広がる、それ以外何にもないね。日本の故郷の原風景みたい。 ♠安濃スクラ氏:この藤沢川ばさらに遡行すると標高がもっと上がって「杖突峠」に至るって事だな。「杖突峠」がらは諏訪湖の眺望がひらける。峠の向こう側は厳しい峠道になってら。「杖突き」っていうぐだいだがら。 ♣田圃青年:伊那から高遠そして「杖突峠」を抜ける街道を「杖突街道」って言うんだそうですね。 ◇古畑任次郎:この街道は実に古い。1400年の歴史を持つだろう。柳田国男に峠の「表」「裏」という説がある。この説にしたがえば、沢を伝って伸びる高遠側「表」から、諏訪側「裏」に街道が拓かれたと考えられる。古代の伊那谷は東海の側から開けていった、と想像を広げることができるんだろうな。 ♥助手アベナ:じゃあ、諏訪地方は北信、もっというと北国街道からの南下勢力によって開かれた? ♤喜寿美堂:諏訪の地にはタケミナカタを奉じる一族が大和と一時対立していた、というのですから古くは蝦夷系の勢力が伊那谷に勢力を持っていたかもしれません。気をつけているとこの辺りの地名にアイヌ語の影響を感じるところも多々あります。 たとえば杖突峠のツエはツィエ(崩壊地)の音感があるし、「芝平峠」(シビラトウゲ)は、ほぼ明らかにアイヌ語地名 shi-pira(大きい崖)もしくはshir-pira(山の崖)でしょう。辰野・赤羽はWakka(水)+Ane(細い)ではないかと思ったりしますよ。 ♥助手アベナ:なるほど、なるほど。つまりこうね、もともとの蝦夷の勢力圏に北国街道からの文化の南下、一方東海の側から別の文化が北上してきたと。どっかでぶつかる! ♣田圃青年:「塩尻」という地名が案外、キーワードかも。文化面でも、分水嶺をなしているのかもしれませんね。 ♤喜寿美堂:「杖突峠」に至るこの街道は古代官人が通り、坂上田村麻呂の東北遠征の軍勢も行軍したとも。武田信玄が伊那遠征軍を率い、子息の勝頼、仁科五郎が赴任し、織田信忠・信長が進軍し、幼少の保科正之が入高のための足跡を残した。そんな道なのです。 また、遥か後年、幕末の会津藩主松平容保が来高時、越えたとも言われています。気が遠くなるくらいの時間背景を持つ街道のようです。歴史に「足跡」を記録した峠なのでしょうね。 ♥助手アベナ:今、あたしたちがいるこの道が!それを知ると意義深く思えるね。歴史街道に今アベナ様が立っているんだ。今から五百年くらいしたら、あの腕っ利きの美人助手、アベナ嬢が通った道なんてことになるかな? ♠安濃スクラ氏:ない!ない!あるとしても、そいはオメドの未来にかかってら。 ♥助手アベナ:ほんだのぉ。そて、変哲もないこの寒村が、後々傑物・歴史に名をとどめる人たちを輩出していくことになるんだけど、それを探りましょッ。どお、上手でしよッ、下北弁。 ♤喜寿美堂:伊那谷、特にこの辺りに限定して黒河内郷・藤沢郷(高遠地区)と川下郷(美篶、伊那市街)を視野に入れると、太古のキーワードは「牧」(馬の飼育・放牧の施設、オフイス)にあると思います。信濃は多くの官牧(太政官直轄牧)があったのですが、この近辺だと「笠原牧」。 ♠安濃スクラ氏:下北でも尻屋に寒立馬で知らいる放牧場があるな。 ◇古畑任次郎:古代当時は馬の飼育と関連事業は今言う先端産業だった。現在の自動車工業に匹敵しただろうと思える。交配の術、獣医術、鐙、蹄鉄、鞍、手綱の生産のための生産技術、成馬の交易、それらを移出し、生活物資を移入する。垂直貿易なんだ。それには多くの仲介者、技能者を統率するコントロールセンターが要る。組織がいる。中心は渡来人であったろう。 逆な表現をすると官の西から東に「米生産を敷衍化」させようとする米作運動で多くの開墾民が東国へ東北へ送られたが、米生産は期待通りの実を上げなかったとも言える。 ♤喜寿美堂:美濃・三河・駿河あたりまではなんとか米作が実効を上げますが、飛騨・信濃・板東以北は所期の構想どおり行かなかったようですね。米作と併せて自然採集、馬の供給、鉱産物の生産、各種手工業などを基盤とする二元の経済構造が進んでいきます。このことが東国と西国の文化の境を分けたものにしている、と私は思います。 ♥助手アベナ:そうするとこの藤沢・黒河内郷でも先端産業である馬の放牧が盛んだった? ♤喜寿美堂:川下郷の笠原牧に隣接する藤沢郷は少なくともそうであったでしょう。五穀・蔬菜の生産と先端産業の一端を担っていた。しかし、中央政府の衰弱でそれに替わる地元勢力が扶植されていきます。当時現在の自動車にも匹敵する高収益商品としての馬と、それに関わる産業とそれを支える組織は、そうした地元勢力・伊那衆棟梁に掌握されていったのでしょう。 ♣田圃青年:見てのとおり藤沢郷は、川筋の山あいでゆるやかな勾配がありますけど、いちおう平地ですよね。けれども黒河内郷は今でも南アルプス登山の入り口になっているほどで集約的な農業を営み難い、放牧場としても広い土地がとれない山ひだの地域なんでしょう? ♤喜寿美堂:その分、森林資源に恵まれています。後の武田の番匠(建築家)と呼ばれる池上家も此所の発祥のようですしね。いずれにしても藤沢郷・黒河内郷は純農村地帯を形成していなかったのです。それらを支配する支配原理は荘園経営者と自ずと異なってくるということで。 ◇古畑任次郎:宗教とそれを渇仰とするものの関係は、鶏と卵の関係のようで判然としないが、この地域のみならず信州の特徴的な一つに曹洞宗の圧倒的な広がりがある。その影響を考えてみる必要がある。藤沢郷・黒河内郷もそうだったのだろう。いうまでもなく曹洞宗の「修証一如」「只管打坐(しかんたざ)」は伊那衆を考えていく上で二つ目のキーワードになると思う。 ♤喜寿美堂:それから戦国の武田支配もこの地域の武士団・伊那衆にとって大きな影響を与えたことでしょう。「諏訪法性」「風林火山」の旌旗の下、武田・信濃先鋒衆に加えられた伊那衆は戦いに明け暮れる。武田信玄の精妙な戦術、組織論は伊那衆にとって学ぶべきものが多かっただろうと思います。 ♥助手アベナ:そっかぁ、ここで馬が出てくるのね。武田騎馬軍団は信州馬によって支えられていた? ◇古畑任次郎:ベナッチの着眼は半分正解だ。だけど武田騎馬軍団をジンギスカンの率いるモンゴル軍、コサック騎兵、アメリカ騎兵隊のようなものであったと考えるのは誤解。映画やTVのような戦闘部隊としての武田騎馬隊は存在しなかっただろう。 信玄の生涯70数度の合戦を見てみると、その7割以上が、実は攻城戦なんだな、野戦は川中島、三方ケ原戦など数えるほどしかない。攻城戦で騎馬突撃隊が活かせるだろうか?数量経済から考えてみようか、当時は騎馬は将校クラスのみであった。ありえないことであるけれど、この際、騎馬の軍団ということで徒士、足軽も乗馬したとしよう。武田2万5千の兵力の仮に半数を騎馬兵と仮定しようか。 そうすると1万2千頭の馬が必要になる、騎兵の馬というのは消耗品と考えるから、必ず替馬が要る。それぞれが替馬を2頭ないし3頭率いたとすると、3万〜3万5千ほどの馬が必要になる。また戦闘馬以外の荷駄用の馬も必要であろう、そうすると4万の馬が必要となる。当時の馬は高額商品でもある。 自家用にそれだけの馬を飼育していたとすると、それに数倍する商品馬の供給態勢が必要だ。それは甲・信の馬匹生産能力を桁違いに超える。信州馬は武田軍団の中で活躍したことは否めない。だが、それは多く軍団のロジステックを担当していたと思えるんだな。疾如風(はやきこと風のごとく)はその騎馬輜重(輸送)隊の機動力を指すのだろうと思う。これならば数千頭もあれば十分で、供給・維持保守の上からの納得できる数字だ。 ♥助手アベナ:なるほどぉ。それにしても口重・任様にしては長セリフだね。 .
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