古畑 任次郎事務所・日誌。

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会津士魂の創成者たち

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                     (高遠郊外藤沢川の上流、杖突街道)      

 会津士魂の創成者たち(1)へはここから
 http://blogs.yahoo.co.jp/fnj8823/13429144.html


♤喜寿美堂:その武田軍団が信玄の死とともに衰弱していきます。後年家康が大きく評価する武田遺産というのは実のところ、武田信玄という1個の才とパーソナリティの上に成立したシステムであったということですね。それが武田軍団の強みでもあり限界でもあったということでしょうね。信長のシステムは近世を先取りしていたものでしたが、それを継承しませんでしたね、家康は。それより武田信玄という個を師表と仰ぎました。

♣田圃青年:武田の軍事・行政の統合システムは信玄固有の物で、実子といえど勝頼すら相続できないものだった、システムの求心力を失った組織はだから脆かったのですね。天正10年の信長・信州侵攻では戦国最強の軍団とうたわれた組織が身内から崩壊していくことになった‥。伊那谷では戦わずして瓦解していきますね。

♠安濃スクラ氏:ほの中で信玄・五男の仁科五郎信盛率いる伊那衆だけが、織田軍団に対して最期の組織的抵抗をする。多勢に寡勢、一日にして落城するけれど、武田軍団の最期の意地ば見せて玉砕するごどになったってへるごどだね。なんだか後年の幕末・会津藩の様子ば見るような気がするんだたってなあ。

♣田圃青年:武田滅亡直後の信長の横死、秀吉の天下統一、家康の信濃掌握などで藤沢・黒河内郷は混乱しますが、武田・信濃先方衆のユニットとしての伊那衆は保科正俊の下に再編成され、高遠城に依ることになるんですね。

♠安濃スクラ氏:徳川の治世が落ち着いたほで家光の異母弟、保科正之の保科家養子ってごどになるんだな。

♤喜寿美堂:肉親に縁の薄い保科正之でしたが、立派な人物のようでしたね。徳川血筋で有数の逸材でしょうね。

◇古畑任次郎:保科正之には多くのエピソードがあるが、江戸から高遠に入る時、養家の保科氏には義理の嗣子があることを耳にし「そういうことなら予は今から江戸へ帰る」と言ったと伝わる。場所は御堂外垣のこの本陣なんだそうだ。正之7歳だった。

♣田圃青年:伊那衆の末裔が会津、日本の歴史に名を記録するきっかけとなるのがこの保科正之なんですよね。

♥助手アベナ:地図だとこの藤沢郷には北原という字(あざ)があるけれど、これはもしかして、後の会津藩代々家老職の北原采女さんの出身地?

♤喜寿美堂:そうですね、北原氏の故地です。地名としての読みはキタバラらしいけれど本貫地ですね。そのほか三峰川の向こう河南地区・五郎山麓の「小原」は幕末小原砲兵隊で知られた「小原氏」の、黒河内郷は「黒河内氏」の、辰野町の「赤羽(アカハネ)」は同じく「赤羽氏」の本貫地です。

後に会津藩「家老九家」と称される重臣の多くは高遠・保科氏の家臣団です。会津藩では伊那衆を「高遠以来(の譜代の家臣)」と呼び、家臣の中でも別格な在でした。土井利勝に「天下に三人の名家老がいるが、田中はその筆頭である」と言わせた「田中正玄」も高遠譜代。

会津藩の停滞期、藩政の改革を推め藩校「日新館」を創設し、会津中興の功労者であった「田中玄宰」は「正玄」の子孫なのです。

♥助手アベナ:こんな草深い静かな田園が、会津の政治の閣僚をいっぱい産んだのね。母なる高遠の里かぁ‥。

♤喜寿美堂:高遠で雌伏すること26年、異母弟正之の人柄を知った徳川家光は、正之を出羽・山形への移封を申し渡す。時ならぬこの最上・山形への増禄転封の達しは、保科家中、伊那衆にとって火事場騒ぎという形容そのものの大事件だったのでしょうね。

♥助手アベナ:なんでぇ。喜ばしいことじゃないの?

♤喜寿美堂:江戸時代は諸事において格式の時代。その中心はもちろん軍制。格式に応じた備えをしなければならないんです。3万3千石から20石への大大名になる。取りあえずは家臣の数も単純に7倍も必要な訳でしたでしょうから。そうしたことは藩主保科正之だけではなく、家臣の方も同じでした。

保科(後の西郷)氏、北原氏、田中氏、一瀬氏は家老として大幅な加増。他にも篠田氏、小原氏が家老となり、日向氏も奉行にといった具合で重臣も「格」をあげていく。縁故を頼って直臣・陪臣の大量「召し抱え」を行ったものでしょう。高遠では百姓身分の者(もっとも厳格な兵農分離はなされていないが)も「士分」に取り立てられたといわれます。

盛時でも3万余の人口しかないこの藩は「武士のにわか採用」に沸騰したでしょうね。人・物両面の調達も大変だったことでしょう。事務方の繁忙さは想像を絶するものだったに違いありません。なにしろ短時間で行わなければならない、なにもかも。

♣田圃青年:江戸初期、所領1万石で250人の軍事動員力が求められたっていいますから、20万石では5000人を動員できなきゃなりませんね。大変なことですね。家族を含める驚くほどの人数じゃないですか。

♥助手アベナ:藩地入れ替わりの「鳥居氏」も大変だったでしょうに。石高7分の1に減っちゃウンだよ、農村の生産体制も保科家中大移動で衰弱していたのでしょうしね。後々「鳥居苛政」と悪評だったけど‥少しは同情してあげなきゃあね。

◇古畑任次郎:この地だけで完全にマンパワーの調達はできなかったろう。山形で「鳥居氏」が切り捨てざるを得なかった家臣団の一部(高士では神保・今村・三宅氏など)も採用した。このとき義兄・家光は鉄炮百挺、弓五十張、持弓二十五張等を正之に与えたといわれる。

♠安濃スクラ氏:そうか、会津藩は高録者は少なぐ、450石以下の平士が全体の9割近くば占めぢぇあったってへるが、このにわか増禄が原因してらんだな。

◇古畑任次郎:慧眼だね、さすが安濃さんだな。会津藩士の石高構成は他藩のようなピラミッド型の構成でなく、算盤玉のように高禄家臣が極めて少なく、軽格も極端に少ない構成だった。近代の軍隊でいえば初級士官と下士官中心の軍編成、これは当時としてはきわめて異色。質から量への大転換、質を上げるのが大変だったろう。

その特徴を会津藩では「上下間の隔たりを少なくして生活の標準化をはかり、しかも兵力の充実をねらった」というが、高遠から山形移封時代のマンパワーの調達事情の名残りだと思えるんだ。これが結果的に、会津藩士の質の向上、教育水準のアップ、均質性、士魂の錬磨につながった。「怪我の功名」といってよいかもしれないね。

♣田圃青年:こうして、伊那衆の寛永13年(1636年)の民族大移動が始まった。山形を経て、7年後、会津に移った正之の制定した「家訓15条」を核心に、幕末に至る厳格な会津藩風を磨き上げ鍛えていったのは、この小さな田園出身の「伊那衆」だったと言っても言い過ぎではないですよね。

♠安濃スクラ氏:なんだか底冷えがしてきたよんですな。

♥助手アベナ:下北よりましだって言ったの誰よ!我慢しなさい。なんちゃって。うッ〜、サブッ!!

◇古畑任次郎:この寒さも秋霜烈日の会津士魂を育んだ一つなんだろう‥。

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      (高遠郊外藤沢川の上流、藤沢郷・御堂垣外(みどがいと)の藩政時代の本陣跡)


♥助手アベナ:高遠市街よりもっと寒ぶィ〜い。ここ標高はどのくらい?

♣田圃青年:780メートルくらいですね。高遠城址公園よりもっと高いですね。

♥助手アベナ:両方の山にサンドイッチにされて、水田が広がる、それ以外何にもないね。日本の故郷の原風景みたい。

♠安濃スクラ氏:この藤沢川ばさらに遡行すると標高がもっと上がって「杖突峠」に至るって事だな。「杖突峠」がらは諏訪湖の眺望がひらける。峠の向こう側は厳しい峠道になってら。「杖突き」っていうぐだいだがら。

♣田圃青年:伊那から高遠そして「杖突峠」を抜ける街道を「杖突街道」って言うんだそうですね。

◇古畑任次郎:この街道は実に古い。1400年の歴史を持つだろう。柳田国男に峠の「表」「裏」という説がある。この説にしたがえば、沢を伝って伸びる高遠側「表」から、諏訪側「裏」に街道が拓かれたと考えられる。古代の伊那谷は東海の側から開けていった、と想像を広げることができるんだろうな。 

♥助手アベナ:じゃあ、諏訪地方は北信、もっというと北国街道からの南下勢力によって開かれた?

♤喜寿美堂:諏訪の地にはタケミナカタを奉じる一族が大和と一時対立していた、というのですから古くは蝦夷系の勢力が伊那谷に勢力を持っていたかもしれません。気をつけているとこの辺りの地名にアイヌ語の影響を感じるところも多々あります。

たとえば杖突峠のツエはツィエ(崩壊地)の音感があるし、「芝平峠」(シビラトウゲ)は、ほぼ明らかにアイヌ語地名 shi-pira(大きい崖)もしくはshir-pira(山の崖)でしょう。辰野・赤羽はWakka(水)+Ane(細い)ではないかと思ったりしますよ。

♥助手アベナ:なるほど、なるほど。つまりこうね、もともとの蝦夷の勢力圏に北国街道からの文化の南下、一方東海の側から別の文化が北上してきたと。どっかでぶつかる!

♣田圃青年:「塩尻」という地名が案外、キーワードかも。文化面でも、分水嶺をなしているのかもしれませんね。

♤喜寿美堂:「杖突峠」に至るこの街道は古代官人が通り、坂上田村麻呂の東北遠征の軍勢も行軍したとも。武田信玄が伊那遠征軍を率い、子息の勝頼、仁科五郎が赴任し、織田信忠・信長が進軍し、幼少の保科正之が入高のための足跡を残した。そんな道なのです。

また、遥か後年、幕末の会津藩主松平容保が来高時、越えたとも言われています。気が遠くなるくらいの時間背景を持つ街道のようです。歴史に「足跡」を記録した峠なのでしょうね。

♥助手アベナ:今、あたしたちがいるこの道が!それを知ると意義深く思えるね。歴史街道に今アベナ様が立っているんだ。今から五百年くらいしたら、あの腕っ利きの美人助手、アベナ嬢が通った道なんてことになるかな?

♠安濃スクラ氏:ない!ない!あるとしても、そいはオメドの未来にかかってら。

♥助手アベナ:ほんだのぉ。そて、変哲もないこの寒村が、後々傑物・歴史に名をとどめる人たちを輩出していくことになるんだけど、それを探りましょッ。どお、上手でしよッ、下北弁。

♤喜寿美堂:伊那谷、特にこの辺りに限定して黒河内郷・藤沢郷(高遠地区)と川下郷(美篶、伊那市街)を視野に入れると、太古のキーワードは「牧」(馬の飼育・放牧の施設、オフイス)にあると思います。信濃は多くの官牧(太政官直轄牧)があったのですが、この近辺だと「笠原牧」。

♠安濃スクラ氏:下北でも尻屋に寒立馬で知らいる放牧場があるな。

◇古畑任次郎:古代当時は馬の飼育と関連事業は今言う先端産業だった。現在の自動車工業に匹敵しただろうと思える。交配の術、獣医術、鐙、蹄鉄、鞍、手綱の生産のための生産技術、成馬の交易、それらを移出し、生活物資を移入する。垂直貿易なんだ。それには多くの仲介者、技能者を統率するコントロールセンターが要る。組織がいる。中心は渡来人であったろう。

逆な表現をすると官の西から東に「米生産を敷衍化」させようとする米作運動で多くの開墾民が東国へ東北へ送られたが、米生産は期待通りの実を上げなかったとも言える。

♤喜寿美堂:美濃・三河・駿河あたりまではなんとか米作が実効を上げますが、飛騨・信濃・板東以北は所期の構想どおり行かなかったようですね。米作と併せて自然採集、馬の供給、鉱産物の生産、各種手工業などを基盤とする二元の経済構造が進んでいきます。このことが東国と西国の文化の境を分けたものにしている、と私は思います。

♥助手アベナ:そうするとこの藤沢・黒河内郷でも先端産業である馬の放牧が盛んだった?

♤喜寿美堂:川下郷の笠原牧に隣接する藤沢郷は少なくともそうであったでしょう。五穀・蔬菜の生産と先端産業の一端を担っていた。しかし、中央政府の衰弱でそれに替わる地元勢力が扶植されていきます。当時現在の自動車にも匹敵する高収益商品としての馬と、それに関わる産業とそれを支える組織は、そうした地元勢力・伊那衆棟梁に掌握されていったのでしょう。

♣田圃青年:見てのとおり藤沢郷は、川筋の山あいでゆるやかな勾配がありますけど、いちおう平地ですよね。けれども黒河内郷は今でも南アルプス登山の入り口になっているほどで集約的な農業を営み難い、放牧場としても広い土地がとれない山ひだの地域なんでしょう?

♤喜寿美堂:その分、森林資源に恵まれています。後の武田の番匠(建築家)と呼ばれる池上家も此所の発祥のようですしね。いずれにしても藤沢郷・黒河内郷は純農村地帯を形成していなかったのです。それらを支配する支配原理は荘園経営者と自ずと異なってくるということで。

◇古畑任次郎:宗教とそれを渇仰とするものの関係は、鶏と卵の関係のようで判然としないが、この地域のみならず信州の特徴的な一つに曹洞宗の圧倒的な広がりがある。その影響を考えてみる必要がある。藤沢郷・黒河内郷もそうだったのだろう。いうまでもなく曹洞宗の「修証一如」「只管打坐(しかんたざ)」は伊那衆を考えていく上で二つ目のキーワードになると思う。

♤喜寿美堂:それから戦国の武田支配もこの地域の武士団・伊那衆にとって大きな影響を与えたことでしょう。「諏訪法性」「風林火山」の旌旗の下、武田・信濃先鋒衆に加えられた伊那衆は戦いに明け暮れる。武田信玄の精妙な戦術、組織論は伊那衆にとって学ぶべきものが多かっただろうと思います。

♥助手アベナ:そっかぁ、ここで馬が出てくるのね。武田騎馬軍団は信州馬によって支えられていた?

◇古畑任次郎:ベナッチの着眼は半分正解だ。だけど武田騎馬軍団をジンギスカンの率いるモンゴル軍、コサック騎兵、アメリカ騎兵隊のようなものであったと考えるのは誤解。映画やTVのような戦闘部隊としての武田騎馬隊は存在しなかっただろう。

信玄の生涯70数度の合戦を見てみると、その7割以上が、実は攻城戦なんだな、野戦は川中島、三方ケ原戦など数えるほどしかない。攻城戦で騎馬突撃隊が活かせるだろうか?数量経済から考えてみようか、当時は騎馬は将校クラスのみであった。ありえないことであるけれど、この際、騎馬の軍団ということで徒士、足軽も乗馬したとしよう。武田2万5千の兵力の仮に半数を騎馬兵と仮定しようか。

そうすると1万2千頭の馬が必要になる、騎兵の馬というのは消耗品と考えるから、必ず替馬が要る。それぞれが替馬を2頭ないし3頭率いたとすると、3万〜3万5千ほどの馬が必要になる。また戦闘馬以外の荷駄用の馬も必要であろう、そうすると4万の馬が必要となる。当時の馬は高額商品でもある。

自家用にそれだけの馬を飼育していたとすると、それに数倍する商品馬の供給態勢が必要だ。それは甲・信の馬匹生産能力を桁違いに超える。信州馬は武田軍団の中で活躍したことは否めない。だが、それは多く軍団のロジステックを担当していたと思えるんだな。疾如風(はやきこと風のごとく)はその騎馬輜重(輸送)隊の機動力を指すのだろうと思う。これならば数千頭もあれば十分で、供給・維持保守の上からの納得できる数字だ。

♥助手アベナ:なるほどぉ。それにしても口重・任様にしては長セリフだね。

 −会津士魂の創成者たち  http://blogs.yahoo.co.jp/fnj8823/13429252.html に続く。

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