古畑 任次郎事務所・日誌。

東北関東大地震で被災された方々にお見舞い申し上げます。古畑は元気です。

かんぴょう大名

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かんぴょう大名(3)

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♤阿久津弁護士:「鳥居元忠は雲霞のごとく押し寄せる西軍を、孤軍伏見城で受け立ち、落城と共に割腹して果てた。三成の反徳川の旗幟を明らかにさせ、身を呈して西軍の東上を遅らせた。家康天下取り戦略の忠実な推進者だった。関ヶ原戦後、家康は元忠割腹の『血畳』を江戸城・伏見櫓に運ばせ、諸大名に公開したという。家康は身を捨てて徳川の時代を開いた元忠を忘れはしなかった」

♥助手アベナ:「‥伏見城ってこの時、炎上したんじゃなかったけ?」

♤阿久津弁護士:「真偽のほどは不明だけれど、不思議なことに、元忠切腹の間だけ焼け残った−という。功臣元忠の家督を継いだのは、忠政。徳川家は特に目をかけたようだ。4万石から加増を重ね、最後には最上・山形24万石の大大名にまで累進した。ひとえに忠吉、元忠の七光ってとこだね」

♥助手アベナ:「あのシブチンで鳴らした家康様が?」

♤阿久津弁護士:「24万石を襲封した頃は、家光の治世ではあったけどね。それにしても譜代大名への処遇としては別格だね。徳川の政策としては、前にも言ったように、譜代の石高は低いその代わり幕府閣僚への登用は、譜代大名のみとして、その矜持を立てたんだ」

♥助手アベナ:「最上・山形って大名の出入りの激しいとこよね。保科正之も居たことあるでしょ?」

♤阿久津弁護士:「ベナッチって、最近歴史づいてないか?変なとこオタクじゃないか?」

♥助手アベナ:「安濃さん、喜寿美堂さん、田圃青年でしょ。そんな中にいると、朱にかぶれちゃうわよぉ。古畑事務所は歴史専門じゃないのにぃ。まッ、いいけどさ。‥で?」

♤阿久津弁護士:「せっかくの山形、鳥居2代目に嗣子なく、領地没収。だが、創業の功臣の家の断絶は不憫とて、異母弟、鳥居忠春に信州・高遠三万石を与える。ところが、ところが、この忠春、苛斂誅求、臣下に乱暴狼藉。家臣、領民ともに嫌われた。苛政による領民の兆散は相当数にのぼったと言われる。挙句の果て、忠春は家臣によって刺殺されちゃう」

♥助手アベナ:「ええっ?時代劇でもないよ、そんなん!藩主が家臣に殺される?」

♤阿久津弁護士:「創業の労苦といったものは、それを共有したものでないと分からない。功臣の業績を末代まで伝える家康の遺訓は残ったけれど、時間が重なるとともに、既得権となって制度だけが存続する。どこの世界にでもあり得ることだろう。もう一つ、藩政時代は藩主は絶対君主のようなイメージがあるけれど、それは違う。徳川泰平の時代「藩」(当時は家中といったのだろうが)は大過ない限り、恒久的に続くものと誰も考える。
 
 家中は、数百人から大きなところでは、数万人の家臣団を抱える、今でいう企業と社員のようなものだよ。家中は「法人」の性格に近くなる。藩主は個人でなくなる。いわば名義人としての存在のような。「法人」を実質に運営するのは、有能な事務官僚。暗愚な藩主が、恣意で、妙な施政を布いて、危っかしい政治をしてもらっては「法人」としては困る。多くの社員の生活にもかかわることだからね。したがって、安定期になればなるほど藩主は、政策、意思決定にタッチしなくなる。その方が「お家安泰」だからね。

 法人の安定経営を破たんさせるような藩主が出た場合、藩閣僚が藩主を「閉じ込め、押し込め」といった強硬措置をとった例もある。藩主は凡庸な方が、藩閣僚としては都合がよい。江戸期後半はそうした藩主が多くなる。こうして、責任の所在のはっきりしな体制が出来上がる。どこか現在の日本の組織にも残っていそうだろ。ただ、鳥居忠春の場合は、そうしたこととは、多少違うようなんだ。政治次元の抹殺というより、個人の私怨。もっと救われない気がする。先祖七光りを曇らせただけかもしれない」

♥助手アベナ:「‥情を感じ入ることと、政治化することの難しさか」

♤阿久津弁護士:「この、衝撃的な事件でも鳥居家中の断絶はなく、家は嗣子、忠則が継ぐが、この代には家臣の不始末により忠則は閉門を申し付けられるが、ほどなく、割腹する」

♥助手アベナ:「だんだん、情けなくなる子々孫々。同じ割腹でも元忠とはエライ違いね」

♤阿久津弁護士:「さすがに、幕府は(当時5代綱吉)鳥居家を削封・転封に処するが、それでも創業の功臣の家系を断絶させない。次男・忠英に能登・下村1万石を継がせる」

♥助手アベナ:「ずいぶん、義理堅いじゃないのさ、徳川幕府って。少なくとも、元忠より百年以上たっている訳だよね」

♤阿久津弁護士:「家貧しうして孝子出ず。この忠英って、名のごとく英明だったらしい。やがて、頭角を表し、寺社奉行、若年寄と幕府閣僚を歴任する。それに応じて身上も、近江・水口2万石、そして下野・壬生三万石と累進していく」

♥助手アベナ:「‥それで、かんぴょうか!」

♤阿久津弁護士:「ピンポン♪ 時は江戸中期、米経済が綻びかけ、どの家中も、財政立て直しに腐心していた。忠英も殖産興業に力を注がざるを得なかったと思う。その一つが前任地、近江・水口で目の当たりにしていたかんぴょう生産。かんぴょう栽培だけが財政再建策の全てだとは思わないが、忠英は『かんぴょう大名』として著名になった。

 後々、かんぴょうはさらに多くの農家で栽培され、この地方の特産品として現在まで残る。元忠の末裔の鳥居家にようやく小さな光が灯ったという訳だんべさ」

♥助手アベナ:「そっかぁ、このナガサワ君が、壬生でこうして育てられるまでには、そんな長い人のつながりがあったんだ!‥それはそうとして、ねえ、ねぇ、何か食べようよ。駅前で買ったバナナだけしか食べてないんだよ、朝から。お腹減ったわよぉ!!」

※出所不明の木刷本「鳥居家七代」を転刷され、世に紹介された作家・中村彰彦さんに感謝いたします。〈古畑任次郎・事務所〉

かんぴょう大名 (2)

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「壬生」の郊外のかんぴょう畑

♥助手アベナ:「まるこちゃんに出てくるネクラのナガサワ君の頭みたい。かんぴょうの実って!」

♤阿久津弁護士:「このかんぴょう、壬生はもちろん、上三川、石橋、南河内、国分寺など栃木県南部で、日本の干瓢生産の8割以上を占めている。オラが県の特産品だんべ」

♥助手アベナ:「さてさて、かんぴょう畑から、どんな話しに繋がるの?」

♤阿久津弁護士:「徳川幕府は『松平・岡崎郷文化』の精華ということから」

♥助手アベナ:「『松平・岡崎郷文化』?狸爺の生国文化?」

♤阿久津弁護士:「家康ほど青少年期に苦労した戦国大名はいなかった。だけど、彼ほど忠臣に恵まれた大名もいなかった。これは家康個人のもつ求心力というより、三河武士団の文化、もっといえば『松平郷・岡崎郷』の風土性としか説明のしようがない」

♥助手アベナ:「戦国乱世の主従関係のありかたとは異なっていた?」

♤阿久津弁護士:「大きくね。岡崎五人衆、徳川四天王、徳川十六神将など、幕府が安定して様々な創業者神話は作られるはするんだけれど。作られる功臣神話のネタは十分過ぎるくらいあった。家康家臣団を封建主従の残滓だと表現する人もいるようだけど、例えば、鎌倉幕府を創った東国・武士団の臣従の形とは明らかに異なる。武田二四将などとも違う。松平・武士団の臣従のスタイルの解析は別に求める必要があると思うな」

♥助手アベナ:「同族的、血縁的で主従の繋がりが濃厚だった?」

♤阿久津弁護士:「同族・血縁は、東国では却って相争う原因でもあったじゃないか。武家源氏は内訌の卸問屋みたいだったろう。古代の源家では平治の乱、それから有名な頼朝と義仲、義経・範頼の確執。鎌倉幕府は三代で源家の血が絶えちゃうし。権力にとって血の継承はそれだけで大きな問題だったのだろうね。どうも、貴種同族、権門勢家の結束は難しいらしい。
 
 もっとも、徳川でも幕府創業期には一族の粛清が幾度か行われている。徳川家臣団は血の繋がらない集団であることも大きかったろうか」

♥助手アベナ:「下克上の世界では家臣だって主家を滅ぼしたでしょ?」

♤阿久津弁護士:「そう、守護大名から戦国大名に至る過程がそうだった。それが中世のエネルギーだった」

♥助手アベナ:「そんな中で徳川・松平家臣団は異色だったと言う訳ね」

♤阿久津弁護士:「家康はその家臣団の恩恵を終生忘れることはなかったようだよ」

♥助手アベナ:「ふつうにいい人じゃん?信長はそうじゃなかったよね。実力のある人は秀吉や光秀のように出自を問わず、じゃんじゃん登用したけど、林通勝や佐久間信盛のように譜代でも、容赦なく追放しちゃったりしたからね。まさに合理主義者、機能主義者」

♤阿久津弁護士:「ただ、家康は秀吉とも違い、功臣といえど厚遇はしない。せいぜい数万石の大名に取り立てるていど。吝嗇家だった。それでも家臣は退転しない。さて、家康が人質の時代、城主不在の岡崎の城を守っていたのは鳥居忠吉。忠吉は祖父・清康からの岡崎衆だ。彼は松平の家が、再興されるのを夢見て、密かに蓄財に励む。家康はそれにいたく感動するー逸話が残っている。

 その子の元忠は小姓として家康とともに育った。甲州差配でも力をみせるけれど、なんといっても天下分け目の関ヶ原合戦の前哨戦で身を呈して殊勲をあげたことが知られる。寡勢の伏見城に大阪方の大軍を引き受けて篭城、壮烈な戦死を遂げる。生涯にわたり徳川のために尽くした元忠は、官位も遠慮したという。三河武士の典型のようだろ。家康はそのことを忘れない」

♥助手アベナ:「極め付けの忠臣の話、人情話 (T_T)。ドラマ以上! 家康ってさ、もしかしてA型じゃない?あとぉ、親といい子といい、乱世の中で、私利を捨てて家康を、というか、御家を立てよう、守ろうとする心情は何なの?どこからきたの。共同体への愛、あるいは友情?‥阿久津ッチのいう松平郷・岡崎郷の文化?としか言い様がないね」

♤阿久津弁護士:「この松平・岡崎郷での臣従の文化が美化され、儒教などと相まって、その後の日本文化のスケールの一つになっていったんだろうね。三河の農場経営の仕組みと臣従のかたちをそのまま幕府・東国政権とした。大農園主国家といったところ。日本を語る時「農耕民族・文化」という便利な括りの型があるけれど、農耕文化は、弥生時代以来というより、この時代に確立されたものだとオイラは思うよ。
 
 事大主義的な傾向も、甘えの構造も、事勿れ主義もこの時代が生んだものだろう。封建制は換骨脱胎されて、俸給生活者としての武士は幕府・藩に搦め取られていく。現代サラリーマンと違わない、終身雇用どころか、子々孫々までの永代雇用になった。こうなると中世武士の持っていた個の萌芽は摘み取られる。小心翼々とした世渡り(臣従)が是になってくる」

♥助手アベナ:「A型のA型によるA型のための幕府といったところ?律儀で小事にこだわるA型社会が出来ちゃったんだぁ。B型には生きづらい社会よね」

♤阿久津弁護士:「それは極端だけど、うまいね!そのA型幕府は、商品経済の浸透を可及的に抑制しようとする。体制を脅かすという本能的な危機感・恐怖感があったんだろうね」

♥助手アベナ:「だけど、江戸中期以降は押し寄せる商品経済の波に幕府の屋台骨が動揺してくるようになったのよね。人の欲望を封じ込めてしまうというのは難しいことなんだねぇ」

♤阿久津弁護士:「ふむふむ、‥あれっ、任さんがまたどっか行っちまったぁ」

かんぴょう大名 (1)

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○新宿−栃木−壬生(73′−14′):(JR特急「きぬがわ」)2駅−東武宇都宮線3駅
「壬生駅」は木造の小さな駅である。

♥助手アベナ:「♪お江戸日本橋から23里〜♪『毛』の国よおぉ。風と土まで武張ってるぅ」

♦古畑任次郎:「フッ、たいそうな」

♥助手アベナ:「そんな気がするんだもぉぉん、イイじゃン別に」

♤阿久津弁護士:「まあまあ、仲良くいきまッしょ。今回はオイラが生国『下ッ毛の国』の代表ということで案内させて頂きヤス」

♥助手アベナ:「壬生ってさ、京都にもあったでしょ。新撰組の屯所だったとこ。漢字も同じだし。語源は何? 共通性あんの?」

♤阿久津弁護士:「おっとぉ、いきなりそうきたか。オイラ、そっちの準備はしてこなかったねぇ。‥うろ覚えだけれど、下野国・壬生は上古、東国を平定した崇神天皇の皇子豊城入彦命の後裔「壬生氏」が発祥と伝わっている。「壬生氏」は、今言うとこの先端技術をもった渡来人の族集団とも考えられている。
 
 藤原京・平城京・初期・平安京の宮城12門にはかつて、豪族の名が冠されていた。南の門に「壬生門」があったと言われる。中央に列されたほどの豪族だったのだろうね。それ以外にも、山陽道(安芸)、機内(山城)、東山道(武蔵)に「ミブ」の痕跡がある。

 信州の高遠にも「ミブ川」があるし、武蔵の比企(男衾)の8世紀の初頭の太領(郡司)に「壬生」姓が出てくるらしい。私費で武蔵・国分寺七重塔を再建したのも、その「壬生吉志福正氏」だと伝わってる。そんなことから、京(葛野郡)・壬生も「壬生氏」の西国から畿内・東国への遷移と関わるものだとオイラは思う。

 湿地帯であった京(葛野郡)・壬生では「水生」が転訛して「壬生」になったという(『葛野郡村誌』)んだが‥。オイらは「壬生氏」行動痕跡とにらんでいる。京(葛野郡)・壬生は平安京の頃「全ク京城ノ坊市朱雀大路ヲ中央トシテ左右京ニ跨リ」と書かれ、都の中心に位置していたということだから、族集団「壬生氏」の都での拠点であったと考えられる、そう考えたい。

 結果的に「壬生氏」は、東山道を通じて東国経営に乗り出し(左遷、あるいは追っ払われたのかもしれないが)下野国・壬生で大きく勢力を伸ばした。と、こんな具合かな。壬生氏の「ミブ」語源は解らない。調べとくということにしとこぉ」

♥助手アベナ:「何だかエラく古いことになっちゃったね。・・東山道って中仙道のことでしょ?」

♤阿久津弁護士:「後々ね。東山道は太政官の五畿七道、具体化の一つで、畿内と地域ブロック(七道)とを繋ぐ、当時の公共事業力としては分不相応な官道が整備された。この官道は『太政官ハイウエー』といってもいいほどに、実に気宇壮大なスケールだったようだよ。現在の自動車道感覚で言えば、片側3車線に相当する。また馬車の往来もあったらしい、その痕跡もある。
 
 この『太政官ハイウエー』は意識した直線道路だったみたい。直線道路と言えば武田信玄の「棒道」がイメージされるけれど、あんなもんじゃない。主要幹線は、畿内と九州を繋ぐ山陽道。さしずめ山陽道メガロポリスといったとこかな。さて、東山道の官道は群馬県内でも、その一部が発堀されている。平成6年には東山道・武蔵路の一部が、国分寺市で発掘された。道幅が12メートルもあるらしい。

 同じ道路行政でも、後の徳川幕府の五街道の整備と理念が大きく異なっているんだな。発散と収斂の違いというか、まったく面白いよ。ともあれ、畿内発の『東山道ハイウエー』で、東国に太政官の理念が血流のように注がれることとなる。

♥助手アベナ:「‥で、なんで、なんで東山道なのよぉ?東海道の方が海沿いだし、平地だから交通しやすいでしょうに?」

♤阿久津弁護士:「さすが、ベナッチ!この当時と違い、東海道はずっと後の江戸幕府の五街道中ではメインルートになった。よく知られているように、西国雄藩の反逆東上の際の抵抗線の役目をしたのが、大井川や天竜川、富士川のような何本もの河川。だから、幕府はあえて橋を架けなかった。だけど、太政官道の場合は、逆にこの大河川の存在が、道路の機能を損なうことであったんだろうね。

 それ以外にも理由はあるが、ともかく、山あいでも東山道の方が、利便性が高かったのだろうね。「近江・国府(大津市)」−「美濃・国府(垂井市)」−「信濃・国府(上田市)」−「上野・国府(前橋市)」−「下野・国府(栃木市)」−そして、「白河関」に至る、最長の官道なんだ。脇街道として、飛騨・国府、武蔵・国府へ向かうルートもあった。この頃の武蔵国は東山道に組み込まれていたみたいだよ。

 だから、東国上代は現在の長野・群馬・栃木といった東山道沿線が賑わったと思えるんだわ。西国の作物、金属器の生産・加工技術、牧馬、建築技術などが人の移動に伴って東国にもたらされ。しかし、この『太政官ハイウエー』も8世紀には衰退していく。道路というのは、現在でもそうだけど作るのは大変な事業だけども、維持もこれまた負けず難しい‥」

♥助手アベナ:「地名からエラく話が広がっちゃったね、はぁ。で、阿久ッチってB型だったっけ?」

♤阿久津弁護士:「あっ、失敬な。B型になりたいAB型!でござんすよ」

♥助手アベナ:「それは失礼でござんスタ」

♤阿久津弁護士:「あれっ、愛すべきB型・任次郎氏はどこに行っちゃったの?」

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