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♥助手アベナ:あのさぁ、時代劇や小説で、江戸時代のお百姓さんは『白米なんぞ食べたことがねぇ』『銀シャリなんて正月くらいしか拝めねぇ』とかのセリフ耳にするでしょう。生産者のくせに不思議だよね?
◇古畑任次郎:生涯、米を口にしたことのない人もいたことは疑いない。ただ、比率の問題だけども。網野善彦さんは、百姓=百の職業とし、農民のみを特定したものではないとした。それにならって百姓を農民と言換えようか、この層は、米経済を支える中心層として広範な類型に分けられる。
また、地方によって、藩政の在り方によって、千差万別。農民層をひとくくりにすることは出来ない。食える食えないも同様。農民だから食えないというのは違う。雜業者、軽格の士分でも食うに困っている層は散在していた。江戸中期以降は特に‥。
◆喜寿美堂:武士だけれど営農の、郷士と称される(薩摩郷士、土佐郷士あるいは藩全体が窮乏していた米沢のなど在郷士など)ような層がいると思えば、富農で商業資本家、農業技術の指導者になるような農民(例、二宮尊徳のような)もいれば、藩財政の立て直しを請負う者もでてきたようですよ。
徳川幕府も中期以降は米経済が破たんしかけて、少なくとも江戸初期の士農工商とは、景色がそうとうに異なってきていますよね。
◇古畑任次郎:農業社会でも富の分化が、緩やかに進行していく。「米が食えない」一部の層もあったことは疑いない、が、それを敷衍して「江戸期の農民は米が食べられなかった」と言い切ってしまうのは全くの誤解だ。
♣安濃スクラ氏:近代になって旧藩時代を、封建・反動の時代と「意識して蔑視してきた」ことも影響してるベサ。そいがら、唯物史観の領主(搾取者)一百姓(被搾取者)の一元的な図式へのはめ込みも江戸米経済の考察にフィルターをかけてしまったカナ。
♠田圃青年:考えてみると妙な話しですね。瑞穂の国二千年といいながら、その生産者の実態がつい江戸時代のことでもはっきりしないんですね。
◇古畑任次郎:面白い話がある。井沢元彦氏のエッセイに「かつて、江戸時代の農民は米を取り上げられて食えなかった」という講義をした教授が、外国人留学生から『それではその米は何処へ輸出したのですか』と質問されて困った」とある。
このエピソードどこまで事実に基づいているのか知らないが、十分ありえる話なんだ。米流通の数量的な把握は、現在の学界でも曖昧模糊としているようだ。
◆喜寿美堂:石高制というのは米の生産高を元に成り立っている社会。
♠田圃青年:対馬藩のように米がとれないところでは海産物を、松前藩のようなところでは、交易の利益を石高換算して何万石といったそうですよね。
◆喜寿美堂:うん、そう、でも他の多くの藩は米収で何万石としたのでしょう。米経済を大きな流れで考えてみましようか。細かなことは除外して考えてみますよ。1石=2.5俵(150Kg−時代によって微妙に異なるんですが〕。この1石は1人が1年間食する米の量なんだそうです。これを基準として「米の消費の行方」を考えてみましょうか。
♣安濃スクラ氏:どっかで習ったナス。江戸時代まで石高と人口が近似であるッてなこと。幕藩制体制下で、3千万石の米収で、人口3千万石ってとッかナ。
♥助手アベナ:分かりやすいね。単純再生産の経済システムだから。一定の人口で推移したんでしょ。でもさ、人口はそんなにうまくコントロールできたの。少子化もベビーブームも起こらなかった?
◇古畑任次郎:兄弟があっても田分けはしない、分家はしない。稲の栄養を奪われないよう草取りするごとく乳児の間引きなどということあった。余剰労働力は生涯独身をとおした。結婚は家督相続者が中心だったろう。これは武家も同じ。そんなことで、人口の調節を図ったらしい。
♥助手アベナ:なに、それって、ひどいじゃないのさぁ。
◆喜寿美堂:で、原始共産制なら3千万石、3千万人で主食分配面での計算は合います。江戸時代はそうはならない。表高で全国3千万石のうち、徴税率を仮に5公5民として、幕府・藩は1千5百万石を幕・藩領から徴収します。これを幕府・藩の取り分、行政費、家臣への俸給、藩ではさらに参勤交代・幕府のお手伝い普請一これらが藩財政をひどく圧迫しますが一などの費用に宛てるため御用商人を通じて換金します。
家臣も同じで、俸給米のうち家族・傭人の食用米を除いて、余剰は米を商人に売って消費財の購入に宛てることになります。当時の米は主食でもありながら、準通貨でもあります。
♣安濃スクラ氏:農民も同じっこッダナ。収穫の半分公租として供出し、肥料、農具の修理・購入、べべもたまには買うワ、牛・馬の係り、村入費、付合い費‥‥いろいろ現金も要るワサ。サレバ、その手持ち米をローカルの商人に売って換金するベサ。残りが自家消費米・種籾だワナ。
◇古畑任次郎:藩米の一部は大阪の商人を通じて大阪、江戸の蔵屋敷に入る。
♠田圃青年:商人はその米を、江戸・大阪の都市生活者に売るってことになりますね。
◆喜寿美堂:ここで妙なことに気付きませんか。
♣安濃スクラ氏:ンだ、ンだ。ワシィ、釈然とシネ。
♥助手アベナ:何が?
◆喜寿美堂:単純なところから考えてみますと、米は準通貨であっても、主食という商品なのです。最終的に人間のお腹に入る以外の用途はありません。また、人間1人が食する米の量は、大金持ちでも、そうでない人も大差ありません。だから1石という度量衡ができたわけですね。3千万石は1年のうちに消費してしまうべき財なのです。
◇古畑任次郎:当時の人口構成比は、公家・武家1.5 工・商層1.5 以下農民7(このうち富農・自立農3.5)との教科書図式で考えてみよう。
◆喜寿美堂:そうしますとね。米は売ったり買ったりされながら、最終的には少なくとも1年以内には人の胃袋の中には収まらなければならない。もちろん飢饉などに対する備蓄米もあったでしょうが。大きな流れはそんなことでしょう。それを元に米相場も立った。
つまり、単年度会計と考えてもいい訳です。単年度3千万石収穫される。それが市場を巡って最終的に食べるということで消費されなければならない。
♠田圃青年:生産者から税収とし幕府・藩の1千5百万のうち、450万石は自家消費用で、残りの1千50万石は米市場で売買される。
♣安濃スクラ氏:一方、2100万人の農業生産者の手許に残った1千5百万のうち自給米・種籾を残して3割を在郷の商人に売るとすると、450万石がローカルの米市場に流れるワナ。確かに1人1石の基準で考えると一人当たり0.5石ってことかア。これは平均値といえ、厳しい。1日1人2.5合。現代人の食生活ならゆとりだけどナ。
♥助手アベナ:わかったぁ!米の流通の図式の変さが。支配者の食用分、生産者の食用分を除いてもなお、江戸・大阪米市場とローカルの米市場合算で、1千5百万石が滞留してる。「誰がそんなたくさんのお米食べるの」って問題になる訳ね。江戸・大阪など大都市の消費者はそんなに居ない。
江戸の人口の半分は各藩江戸詰めの武士でしょ。武士の消費分は藩から(理論上)支給されてっから、お米の消費者は町人だけよね。町人は大阪と併せても数十万ってとこかな?各藩のローカル市場はもっと消費規模は小さいわよね。とすると、人口のおよそ半分を賄えるお米が宙に浮いているってことかぁ。
♣安濃スクラ氏:煎餅、米粉、酒など主食以外の消費に廻ったってことは考えられない?
◆喜寿美堂:煎餅や米菓子の類は、現在でも多用途米、つまり流通の過程で出るクズ米を宛てているようだし「米の食えない農民」が煎餅や米菓子だけは、ふんだんに食べていたというのはおかしな話だし、武家も同様でしょうね。現在でもそうですが、煎餅や米菓子の米消費量は、全体からみれば微量だったでしょう。
醸造米も単独で生産されている様ですが、これも現在、米生産のうちの数%程度です。当時は米以外の原料の酒も多かったでしょうから。さらにささやかなものだったと考えられます。
♠田圃青年:江戸時代でも時期によって石高は、生産力の向上で表高との差異が出てくるでしょう。もっとも、西南雄藩のような交易による利も増えてくるようですが。いずれにしても、消費の行方が分からない米が増えますよね。
◇古畑任次郎:人口の相当数の農民層の消費が明確であれば、初歩的な疑問は解消するんだけれどね。結果論的には米市場において、驚くような米余剰はなかったはず。米価格調整のため、何百万石の米を埋め立て地に投棄したということもなさそうだし。
♠田圃青年:堂島の米市場が市場価を下げっぱなし、暴落に次ぐ暴落ということもなかったようですしね。
♣安濃スクラ氏:食管制度があった訳でなし。自然の調節作用なのダベカ。ビルトイン=スタビライザーってとこか?見方変えれば「進んでた」とも言えるベナ。
♥助手アベナ:一部の人は、お米食べられなかったもしれないけど、実際のところ圧倒的多数の農民層は食べてたんでしょうね、きっと。田圃さんやあたしのようにワシワシと。じゃないと働けないもん。
♠田圃青年:石高と実流通の建てと実態の違いもかなりあったのでしょうね。謎の多い江戸時代の米流通ですね。
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