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♤喜寿美堂:会津には思い入れが深いようですね。
♦古畑任次郎:そう、10回くらい行ったかな。
♤喜寿美堂:会津への入り方も様々とか。
♦古畑任次郎:越後口、母成峠口、勢至堂峠口、八十里越え‥。
♤喜寿美堂:会津の特に何にかき立てられるのでしょうか?
♦古畑任次郎:会津の語源(記紀では四道将軍の大彦命は、北陸方面、武淳河別名は東山道方面から東北の経営に遣わされ、両者が出会ったところで「相津」)が示すロマン、南北からの異文化の融合という点では信州と同類なんだ。
そして、古色を帯びた秩序美、陸奥の国とはひと味違った硬質の精神性、そして風景。もっとも、冬景色には立ち会ったことがないけども‥。
♤喜寿美堂:『みちのく』の語感にもロマンがありますよね。イメージとしての陸奥には樹木や小山ひとつひとつに神聖が宿っているような。
♦古畑任次郎:古代は中央に「まつろわぬ」という気分がいつも漂っていて。中央政権が元気な間は強く服属を求めようとするが、なかなかはかどらない。
中央にとって無気味な人文地理であったのだろう。強力な軍団が組織されているという風でもないのにね。
♤喜寿美堂:粘り強い、頑固一徹の印象がありますよね。
♦古畑任次郎:正史では記されない生の歴史を、街全体で感じさせられるという思いがある。
初めて会津に入った時(ずいぶん昔のことになるけれど)タクシーの運転手さんから「会津で戦後というのは『戌辰戦争』戦後のこと」「維新後城は徹底的に破壊され、釘1本残さなかった」(観光惹句として相当割り引いても)と、つい昨日のことのように語られたのにはインパクトがあった。
『戌辰戦争』がまだ歴史になっていない、市民の肉の中にあるという驚き。
♤喜寿美堂:そうでしたね。同様のことで、会津では、新政府の軍のことを、官軍とは表記しない。西軍あるいは薩・長軍ですね。徹底してますね、研究誌から名所の説明表記まで。
♦古畑任次郎:うんうん。郷土の歴史に対する意識が明解だし、研究が活発だ。地方史研究の質と量はおそらく日本有数だろうね。
♤喜寿美堂:変な話ですが、形骸化しているとは言え「征夷大将軍」は、朝廷からの勅による朝廷の出先機関のはず。(実態は強大でも)行政の一端な訳ですよね。必要に応じて動かす軍隊は、例え徳川軍閥であれ、官の業務の肩代わりをするのだから「官軍」でありえた訳でしょう。
♦古畑任次郎:政治力学によって官・反官の墨付きも変わる。紙切れ一枚で手品のよう。古代の太政官は徴兵制を布いていたから、正規軍は存在した。が、有事でも正規軍の他に豪族の私兵を借りた。弥生以来、正規軍のみの戦闘はあったのだろうか?私兵といえど統率者に「勅」が下れば「みなし官軍」になる。この国には、近代まで純粋な正規軍はなかった。それがずっと尾を引いている。
それだけ、外地からの武力侵略が頻繁でなかったとも言える。必要なとき私兵を調達すりゃいいやと、必要にして充分な常備軍の観念が希薄だった。ところが、時代を経るごとに私兵は軍拡を続けていく、軍閥になる。ついには官の威令が行き届かなくなる。
♤喜寿美堂:鳥羽伏見の戦いの二日目に「錦旗」があがった。新政府軍といったって組織としての政府があった訳ではないですからね。古代や中世の時代でないにも関わらず。でも、「みなし官軍」。幕府の側はショックを受ける、実態のない政府と、「錦旗」を私製した薩・長の藩軍に。
軍事行動の正統性を誰の目にもわかる「錦旗」という「形」にしたわけですよね、私製であれ、偽物であれ。あの発想は凄みがありましたね。
♦古畑任次郎:その「錦旗」にもっとも敏感に反応したのが、将軍・慶喜。江戸に逃げ戻り、恭順。
♤喜寿美堂:倒幕の軍事行動を起こした薩・長は、振り上げた拳の下ろしどころがない、肩代わりとしての会津征討、そんな感じでしたね。イデオロギー戦争ではない。私怨。戦後処理を含めて、会津には苛烈で、気の毒でしたね。
♦古畑任次郎:近代へのスケープ・ゴート。それに白虎隊、婦女子の自刃のような惨劇の逸話が加わる。京都守護に携わり、孝明天皇の信を得、真筆まで頂戴した会津が、なぜ「逆賊」か、新政府軍の実態は朝廷工作を巧みにおこなった君側の奸ではないか、と。
「逆賊」は汚名なり、これが近代初頭からの会津の政治テーマだった。「官軍」ではない、王意を具現する政府ではない、その叫びの一端が「西軍」表現なんだろうね。
♤喜寿美堂:会津戦争は、信州・高遠城の籠城戦と重なるような気がしませんか?仁科盛信とその郎党の敢闘精神、諏訪ハナのような女性の出戦、少年武士の奮戦。強引に符合させれば、戦場から消えた保科氏と末裔・会津の西郷頼母‥。
♦古畑任次郎:伊那衆は、保科・会津の中核「高遠以来」の遠祖だし。非妥協的なDNAを僅かながら受け継いでいるといっても間違いではなさそうだね。
♤喜寿美堂:この写真の甲賀町(こうかまち)郭門のあるあたりは、蒲生時代、本貫地の江州・日野の商人を住まわせたことから、日野町でしたかね、もとは。
♦古畑任次郎:加藤時代、日野町は火の町に通じると嫌われ、郡名の甲賀町を採ったと。
♤喜寿美堂:江州では「コウカ」と濁らない、会津ではどうなんでしょうね?
♦古畑任次郎:コウガ、コウカの両用があるようだけど、公式には「コウカ」らしい。
♤喜寿美堂:鶴ケ城には16の郭門があったといわれますが、この甲賀町郭門は大手門ですね。大阪城の蛸石ほどではないですが、みごとな巨石が使われてますね。
♦古畑任次郎:会津の城下は蒲生氏、加藤氏など都市計画に秀でた領主によって整えられる。甲賀町の郭門は、加藤明成の時代に整備されたものだろうと思う。石材は城下の東「石切山」から切り出されたものらしい。「石切山」には現在でもその痕跡がある、乱開発の中世版といったとこかな。
♤喜寿美堂:戌辰戦争ではこの町筋が主戦術路になりましたね。郭門の戦い、政府軍の本丸への侵攻の橋頭堡。また、西郷邸での惨劇、泣血氈の舞台としても。
話は変わりますが、この甲賀町通りで、旅行者としてのエピソードがあるとか。
♦古畑任次郎:アッ、そうそう、これもずいぶん昔、滝沢から甲賀町通りをたどって城に入るつもでいた。途中、道筋が分からなくなった。通りすがりの女子高校生に尋ねたんだ、大手筋は何処か?ってね。これが実に折り目正しく、毅然とした回答だった。
これぞ、会津の文化なんだ、武家子女の人に対する応接だ、長い時間が育んだ無形財産だと大袈裟すぎるほどに心動かされた。暫く彼女の後ろ姿を目で追った記憶がある。
♤喜寿美堂:会津の面目躍如といったところですね。
♦古畑任次郎:もっとも、つい最近、会津に行ったときには、茶髪の女子高校生たちから、旅行人に対する冷やかしの言葉を投げかけられた。このときは、鼻白んだが。
♤喜寿美堂:それも、これも会津の文化だということで(笑)。
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