古畑 任次郎事務所・日誌。

東北関東大地震で被災された方々にお見舞い申し上げます。古畑は元気です。

その日・その時

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お静地蔵

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《 「お静地蔵尊 由来」 東京・目黒 成就院境内在 》
 
 この石仏像は徳川二代将軍秀忠の側室お静の方の発願で奉納されたものです。お静は江戸城大奥にあがり将軍の寵愛を受け「お腹さま」となることを願い、三体の観音像を納め奉りその素願叶い慶長一六年(一六一一年)に男子「幸松麿」を授かります。

 その後、秀忠公正室浅井常源院の威勢を畏れながらもそのつつがない成育を祈り三体の地蔵を刻み納められます。そして再び願い叶い、また家康公の側室見性院(武田信玄公の娘)の庇護もあり、保科正光公の養子となり元服後保科正之公となります。

 元和年間三代将軍の家光公は目黒で鷹狩の際当寺に参拝され舜興和尚(中興第十五世)とのご法談の折、正之公との浅からぬ縁を知り寛永八年、正之公は信州高遠城主となります。お静は大願成就のお礼として阿弥陀如来像をおさめ奉りました。

 正之は後に山形城主、さらに正保元年会津二三万石の城主となり会津松平家の祖となります。また、家光公の命により四代将軍家綱の後見人として幕政に力を注ぎ善政を施されました。お静地蔵はその由来により、古くから縁結び・子宝・子育て・出世・福徳・開運を願う人々の信仰を集めてこられました。
           
   平成一五年癸未年 道文之記 
                        [*古畑注:見性院は家康の側室であった訳ではない]


 久しぶりにデイパックを背負い、スニーカー穿きの小さな旅をする。都内ではあるが、旅は旅なのである。JR目黒駅。日頃は縁がない。この駅頭に降り立つのも数十年ぶりか。当時はこの駅から目蒲線が走っていた。雑踏を抜け下目黒方面に向かう。

 天台宗・成就院。古くから「蛸薬師」の別称で親しまれているという。開山が慈覚大師と伝う。 
慈覚と云えば、栃木・壬生で触れた彼の事跡のことがよみがえる。良きにつけ悪しきにつけ、関東の時間はキメが荒い。関東平野といっても旧江戸域は、複雑な起伏を持つ。無数の坂が高低を繋ぐ。むろん目黒も坂の街。

 権之助坂を上り、長い下り勾配をトロトロと下る。下り切った角、大鳥神社を左折する。しばらく歩く路地の先に徳川葵をふった提灯の山門を見つける。

成就院、ささやかな寺である。

 四百年ほど前、北条浪人・神尾(かんのお)栄加(嘉)の娘、静もこの境内に足を運んだ。中肉中背で、しかし、下腹部がやや目立つ程度に身重であった。言葉数の少ない娘であったろう。侍女代りの小女の一人くらいは共をしていたか。静がなぜ成就院を発願の場所としたか、判然としない。ともかく徳川秀忠家と多少の縁故があったことを知ってのことだけは疑いがない。

 この時より、十数年後、家光が鷹狩りの際、同寺に立ち寄って義弟、正之の存在を知ることになる。縁に縁が重なる。見えぬ縁に導かれるように、静は板橋の外れから目黒まで足を運んだ。厳冬の隙の小春日の一日であったであろうか。

 乳幼児の生存率の低い当時、権門勢家にあって血統を連綿させることは重大事である。ゆえに正室は、側室という第二夫人以下を差し出した(名目的にでも)といわれる。正室に継子がない場合、第二、第三夫人の子を家系継承者とする。それはまた、継承紊乱の予防装置−正室公認の外の素姓のしれない女子の生んだ子は継承者としない−血の囲い込みでもあった。

 秀忠の正室・お江与は秀忠に側室を供しなかった。であるから、静は側室ではない。静が望んだことでないが、秀忠の私的なかりそめの恋人であった。この時代の権門勢家の正室は、現代市民社会における庶民のベターハーフというようなものでなく、家政に対し強い政治力を有している。

 正室・お江与が、静の存在と懐妊を知った時、彼女らを物理的に抹殺しようと試みたのは、現代夫婦の嫉妬とは政治性において異なる。お江与のしうちを妻としての「嫉妬」にのみ求めるのは、気の毒であろう。お江与は徳川二代家において、本人が望むと望まざると、家譜正系の隠然たる家政機関長であらなければならなかった。「嫉妬」とは別の政治論の範疇にある。

 むろん静も時代の常識として、そのことは知悉している。静の懐妊は家系正統維持の埒外にある。まかり間違えば子の存在は、徳川家家系紊乱の萌芽になりかねない。胎児ながら濃厚な政治性を帯びていた。ゆえに、最初の胎児は静自らの意志で闇に葬った、私生児であったゆえにそれも可能であった、とも言える。

 境内の六体の石像の前に、上掲の碑文がある。「お静地蔵由来」。碑文を目にする。『‥「お腹さま」となることを願い‥』とある。しかし、前述のようこれは誤りであろう。静が城内に奉公したのは「お腹さま」を望んでのことではない。先立つ懐妊では、城下がりをし、里で堕胎している。この二度目の妊娠においても同様に考えていたはずである。「お腹さま」の立場でないこと自明である。

 二度目の懐妊に当たって神尾家で一族会議が開かれた。弟の「二度にわたり貴種の種を闇に葬るのは畏れ多いこと」とする主張に一族会議がなびいた。次第によっては神尾家の災禍になりかねない。勇気の要る決定であった。胎児の持つ強い意志のゆえんであろうか。この決議で静の出産に対する心も固まった。漠とした尋常でない将来不安は大きく横たわるが、母になる決定は静を強いものにしたであろう。
 
 成就院への参詣と三体の観音像の奉納は、その決意の一つの表れであった。

 このときの胎児、後の保科正之はこの自身の有史以前を生命に刻みこんでいたのかもしれない。奉納した三体の石像観音は何れも、静の心境を映した如く穏やかな表情をしている。生命を胚胎する性のみが到達することの出来る精神域なのであろう。

 苦境とは別に「母子ともに生きること」を心決めしたこの瞬間から、薄幸の母子の意志は陰に陽に周囲の庇護を呼び込むことになる。城内勤めの間、知遇をえたであろう武田信玄の娘、見性院が、母子生命の防波堤となった。
 
 胎児は無事この世の光を浴び(武田の名跡を襲うという)望外の進境に静は感謝し、さらに三体の石地蔵を成就院に奉納する。

 これがお静地蔵と呼ばれている。

 昨年、信州・高遠町歴史博物館前に建立された地蔵は、これを模刻したものである。母子の生存と安心を保障した見性院は、この時から数年後に世を去る。母子にとってまことに時宜に適った存在であった。物言わぬ胎児は天与の強運の持ち主であった。幸松丸、のち保科正之は母の胎内にあるうちにその人生の方向を感得したのではないか、そんなふうに想ったりした。
 
 四百年前の薄倖の女性の心象を映した形だけが時空を超越して厳然と残り続けている。不可思議を思う。

 とりとめのない感覚の世界を漂いながら小振りの山門を抜ける。
 つかの束の間であるが妄想を掻き立てる小さな旅であった。

 同じ東京ながら馴染みのない街をさまようのも、また楽しからずやである。


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                  高遠町歴史博物館前の保科正之、母・志津石像
                     (kazeさん提供写真に古畑加工)


うやまって申祈願の事

南無氷川大明神、当国の鎮守として跡を此の国に垂れ給い、衆生普く助け給ふ。
ここにそれがしいやしき身として太守〔将軍・秀忠〕の御思ひものとなり、御胤を宿して当四五月頃臨月たり。

しかれども御台〔秀忠夫人・達子また於江、於江与〕嫉妬の御心深く営中〔江戸城内〕に居ることを得ず。
今信松禅尼〔信玄遺娘・松姫〕のいたわりによって身をこのほとり〔武蔵・足立郡の大牧村=見性院知行地〕に忍ぶ。それがし全くいやしき身にして有難き御寵愛を蒙る。

神罰としてかかる御胤をみごもりながら住所にさまよう。
神明まことあらばそれがし胎内の御胤男子にして、安産守護し給い、二人とも生を全ふし、御運を開くことを得大願成就なさしめたまはば、心願のこと必ずたがひたてまつるまじく候なり

慶長十六年二月 志津             
                                   (『会津若松市史』〔 〕注は古畑)

 
 志津の悲劇は(秀忠による寵愛と妊娠は)彼女が、徳川家正当の血統維持機構の埒外の女性であった、ということによる。秀忠の父、家康のような一ダースを超える側室との間がらのことであれば、慶事である。この時代稀なことに秀忠は、側室を置かなかった。いや、置けなかった。正夫人の達子(於江与、於江)は嫉妬深い恐妻であったが、夫婦にはなにより子宝に恵まれた。いかなる達子でも子をなさなければ、むろん、血統維持のために側室は用意されたであろう。

 その、側室を持たない秀忠が、現代で云えば総務課の若い女子職員に恋心を抱いた、という方がわかりやすいであろうか。志津にとっては迷惑な話であったかもしれない。ことの果て自然の摂理として懐妊する。それも二度。一度目は堕胎するが、二度目の懐妊の時、里帰りした志津は身内のアドバイスにしたがって、出産を決意する。

 しかし、志津懐妊のうわさを聞きつけた達子は、激しく嫉妬の炎を燃やす。燃やしただけではない。里下りした志津の周辺に探索の目を当て、刺客を差し向けようともする。武田の遺娘(見性院、信松尼)がこの盾となる。以後、志津は彼女らの息の掛かった隠れ家を転々とする。上述の武蔵国・足立郡大牧村もその一つであった。(上記の願文はその時のものである)

 やがて、生を受けた正之(幸松)と志津は、見性院の養子名目で、城中、田安門内の比丘尼屋敷内に移り、七歳まで撫育される(この後のことは http://blogs.yahoo.co.jp/fnj8823/37736530.html を参照されたい)。正之は、こうした自身の誕生秘話を母あるいは、見性院から物語として聞いたに違いない。

 女性に関してもう一つ、達子同様正之の魂を動揺させる出来事があった。

 成年後の正之には正室菊姫があった。菊は夭折する。側近の於万を継室とする。この於万、ファナチックな部分において達子に共通するのはどうしたことであろう。正之の側室の娘が自分(於万)の娘より格上の加賀家に嫁ぐ事に嫉妬し、毒殺しようとする。が、手違いから皮肉なことに、実の娘に毒の入った食事が回り、娘は中毒死する。

 正之は嫉妬による殺害行動を再び身近で経験する。家綱の政治後見に寧日ない中、毒殺事件関係者を厳に処断しながら、つくづく女性の妬心、怨の強さを再認識したことであろう。(於万は正之死後も会津家中で女謁を行い、藩政を混乱させる)

 ただ、聡明な正之はそうした女性の美質と醜悪とをパーソナリティーで仕訳するにとどまらなかったであろう。ことごとしい言い方をすれば、女性の宇宙原理を捉えようとしたであろう。

 女性(に限らず人一般も)には無慮の感情の陰陽、抑揚があり、時々刻々変化する。化学実験のように試薬や触媒を変えると、同じ成分が全く別の化学変化を起こすように、人において状況ときっかけは、その魂のありどころを著しく変えるもの、との結論に至ったに違いない。


 翻って為政の立場にあって、正之は、その試薬・触媒を過たず調整することで、中国の理想政治 「尭と舜」の仁政が行える、そう結論づけたのではなかったか。正之の政策視角は時代を超えたところがあり、近代人のようであると思いもしていたが、実は東アジアに太古からある、形に表し難い統治原理を知らずのうちに感得したのではないか。

 特に、その統治原理に達するに当たっては、上記のような愛と憎を両極に具有し個性の際立った、正之を取り巻く「女性たち」の存在があったと思えてならない。

 むろんこれは古畑の勝手な思いにすぎない。
 
 慈愛の母、お志津とお志津地蔵(正之のために目黒・成就院に献納したものの模刻か)の写真を眺めながら、四百年も前の、しかし、つい近くにいるような高遠出身の高邁・高潔な政治家・行政家、保科正之に、ふつふつとつまらぬ思いをはせるのである。


                                                                                                                                            ・

特技

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                     (記事内容とは無縁ですが)                                   
                                                       .
 世の中には人に出来ない特殊な技術を持つ人がままいる。また、積年の職業から身につけた、余人を驚かす技能を有する人がいたりすることも耳にする。我が身には、とりたてて誇るべき特別な技術や能力はなにもない。職業経験からくる蓄積のようなものも威張れるほどのことはない。悲しいかな無芸大食なのである。

 ある時、記事依頼が回送されてきた。テーマは「私の特技」。
「特技?‥無縁だナ」一瞥して放って置いた。それで、そのことは忘れていた。

 暫く経って、主催者から「原稿が集まらないのでなんとか、何でもいいですから‥」哀願の催促がきた。そう言われても無いものはない。人の話しを聞きながら他の事を考える、鯨飮馬食、手先がほんの少し器用、足の指でモノがつかめ字が書ける、文章を書くのが速い、貧乏ユスリ、野歩き‥とても特技と言えたしろものではない。「なんとか、助けて下さい‥」懇願され連絡は切れた。

「特技なぁ‥」来し方まで頭を巡らせてみた。

 大昔の学部学生時代、何時の頃か、教室で聴講した講義をほぼ誤たず、頭の中で再現し、言葉として発することが出来る。このことに気が付いた。きっかけは講義を休んだゼミ仲間に「□□の講義、どんな内容だった?」と尋ねられたことだったであろう。

 その講義の骨子を語る。質疑に答えるうち、頭の中に講義者の板書や詰まらないジョーク、仕草までがはっきりと蘇った。興を覚えて、講義者の第一声から締めまで声に乗せてみた、再現出来た。

 それから、自分の専門領域とする幾つかの講義をレポート用紙に再現してみた。淀むところなく、つるつると鉛筆が走る。ほぼ、覚えている。で、以降、これらの講義に関して文字に起こした。年度末には通年分の講義録が出来上がった。

 おろかにも、太安麻呂に対する稗田阿礼もこんな感じだったかと考えてみたりした。もっとも阿礼ほど膨大な知識量であるはずもなく。さらに、古事記チームとは異なり、自供自記である。
 
 講義起こしをしていると、その内容にかかる思いが拡がる。

 論理立ての巧拙、聞かせる工夫の有無、テクニカル・タームを多用するが、果たしてこの講義者、斯学の本質が理解出来てるのか、情報・知識が血肉になってるのか、頭固いナ‥、などなど生意気なことを思えば、文字にするより聴いている方が面白いナ、という講義もあれば、むろん傾聴に値するものもあった。聴くのとは別の切り口から、表の講義と裏に沈むものとを感じることが出来た。これは効能であったろう。
 
 この件、仲間には驚かれた。「口に出せなくとも誰だって覚えているだろう、すぐ忘れるにしてもサ」「いや、出来ない。ポイントは覚えているにしても、誰にでも出来ることじゃない」(ふ〜ん、そんなものか)と思う。乗せられて、コンパの余興でダイジェストを口演したこともあった。

 誰にでもできることじゃない、というこのことは、特段のことをする訳ではない。講義者の話をぼんやり聴いているだけである。板書は骨子以外(数値・グラフ・図表等は必要に応じて書いたが)あまりとらなかった。

人の話はよく聴く、集中力はある方だが、体を耳にして聴くようなこともなく、ただ聴く。もっともというか、だからと云うべきか、自分にとって詰まらない講義は頭の中がスルーした。


 そのことを思い出した。以上のような事を、先の主催者に「‥は、だめだろうか」と打診してみる。
「いやいや、それ、立派な特技ですよ、是非、まとめて‥」何とか特技に認定してもらったようである。特技というよりは特技もどきなのであろう。

 
 この特技もどき、どうも一言一句を順番に記憶中枢に送り込むというより、全体のリズムで覚えているようなのである。単なる記憶力だけではなさそうである。音楽好きな人が、瞬時に楽曲のメロディを覚えるような感覚なのかもしれない。

 残念ながら、試験直前のごく内々の仲間への情報提供として、重宝された程度で、それ以外にはあまり役立ったり、効果的な活用法には恵まれた記憶はない。観光カイド、役者、あるいは咄家にでもなっていれば、多少重宝していたかもしれないナ、と思う程度でしかない。

 さらに、このささやかな特技もどき、その後活躍の舞台もなく、今となっては、錆ついてしまって「かつての特技もどき」になりはててしまっているのである。

                                                        .

高遠小彼岸桜 in 会津

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          (鶴ヶ城・郭内 県立博物館脇の高遠小彼岸桜’07 会津のKomachi様提供)

 
 高遠の桜の見事さは、小ぶりながら、花の色の赤味にあると思っている。
 
 高遠城は廃藩置県後、他所同様、城棄却の憂き目に合う。「伊那郡高遠本町松島屋徳次郎旧高遠城建物等落札届(明治六年三月)」が残っている。これによると、高遠城の構造物はもとより、小石類、庭石、ついには郭内外の諸木まで売却の対象となり、城は一木一石もない殺風景な赤裸となった。

 みかねた旧藩士が城地のうち、高遠町が内務省より管理をまかされていた本丸、笹郭、勘介郭、南郭に旧馬場の小彼岸桜を移植したものである、と伝わっている。明治七、八年の時期のことであろう。
 
 旧藩には、三峰川の河原沿い天女橋の上あたりの「柳の馬場」、藤沢川河原の(現在も馬場と呼ばれる)「紅葉の馬場」、郭内の「高田馬場」、そして、河南・小原の「桜の馬場」。四ケ所の馬場があった。それぞれが単独の木で統一されているのが嗜好であったのか、どうか。

 ともかく、移植元は「桜の馬場」のモノであったと考えられる。本丸、二の丸、笹郭を中心に移植された桜樹は、桜の時期には、近郊住民の花見どころになったことであろう。さらに、口伝えで年月を経る毎に城址公園は、桜を愛でる人々で賑合うようになる。

 昭和9年、城址公園の一角に、東京で整形医として成功した内田孝蔵揮毫の「天下第一桜」の碑が建てられた。余談ではあるが、この高遠町出身で、日本美容外科(二重眼瞼術)の先駆者・内田孝蔵は、どういう訳か土地では今一つ知名度が低い。それは別にして、この頃には高遠は、押しも押されもせぬ関東甲信越・中部の桜の名所となった。
 
 マメザクラとエドヒガンの交配種の一系である、と云われる高遠小彼岸桜は、昭和35年、長野県の天然記念物に指定され、平成2年「国際さくらシンポジウム」では、高遠固有の桜の種類である、と認定される。この固有の桜保護のために地元では「桜憲章」が制定され、苗木は門外不出とされている。

 天然記念物であるから厳格な保護がなされているようであるが、しかし、例外的に保科正之の縁故地、会津若松と内藤家の下屋敷(内藤新宿)のあった東京都新宿区には親善交流都市、姉妹都市のよしみで、献木された(鶴が城の郭内[県立博物館東側]、新宿御苑、にそれぞれ数本)。また、最近の情報では東京世田谷・盧花公園にも植樹されているとも知った。
 
 気にかかっていることがあった。高遠小彼岸桜は会津、東京の地で高遠城址公園のようなピンクの花を咲かせているのだろかということである。特に我が会津の場合。
 
 思うのには理由があって、この桜、樹木としては何処でも生育するが、高遠以外の地では、花は白く、赤みの強いピンクに発色しない、という気掛かりな情報を耳にしていた。また、高遠においても「開花時期にぽかぽか温かい日が続いたら色が出ない」なる地元の古老の話を耳にしたこともある。実際に赤みの弱い桜を見たこともあった。
 
 高遠ですらそうである。地味も標高も寒暖のサイクルも異なる高遠以遠の地の桜は、果たして赤いのか、白いのか。
 これは実地見聞しかない。しかし、春の限られた桜の開花の時期は、なにかと所用が多く、地元の新宿御苑の桜ですら、チェックしそびれている。まして、会津においてをや、である。

 ならば、百歩譲って、電子情報に頼るか。春先には桜の写真を載せるHP、ブログはあまたあるが、新宿御苑の高遠小彼岸桜、会津の数本の高遠小彼岸桜(いずれも目立たない場所)に限った写真はひっかかってこない。こちらもシーズンが過ぎれば忘れる。この繰り返しで幾歳かの時が流れた。
 
 心に潜り込んだ小さな気掛かりを、過日、会津のブロガ−さんが、いともたやすく解消(我が願いを容れ、記事に)して下さった。写真の掲載も快諾して頂いたので、桜の時期尚早ながら披露する次第である。会津のブロガ−さんに感謝、感謝である。この写真は当年のものではないにしても、御覧のように、原産地高遠と変わらない「ピンク色」なのである。良き哉。

 なにやら、苦手科目の宿題を四苦八苦でやり上げた小学生のような気分になった。
 余人にとって他愛いもないことであろうが、古畑にとって最近の欣快なのである。

                                                                                                                .

初対面の印象

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                        (江戸城・道灌濠)
 
 若い時はあまり意識しなかった、する気持の配りもなかった。が、中年に差掛かったあたりから、多少気に引っ掛かるようになった、どうも初対面で他者に与える印象が、あまりよくないようなのである。

 極め付けは「硬い・こわい・厳し気である」との印象を仄聞することであろうか。これで得をしたという経験は、まったくない。確かに、いまだに人見知りの名残りはある。慣れない相手との言葉数は少ない。そのことが人をして、傲岸で不遜を感じさせるものなのであろうか。

 さりとて、自分で鏡を見たり、写真を見る限りにおいては、こわもての風も、威圧感も、目つきが悪い訳でもないがナ、と映るのであるが。

 何かの定期的な会合の打上げの歓談で「取っ付きにくい、近寄り難い感じだったので、心配だったけれど‥」と、初対面とその後のギャップを語られたりする。この手のことはよくある。

 言葉の率直な若い人からは「最初はビビったけど、慣れてくると‥冗談も言うし、オヤジギャグを飛ばしたりするし‥」当たり前である。さらに「ジッと目の奥を覗き込まれるとイタタマレない」「ジョークを飛ばす時は、それなりの顔つきでお願いしますよ」と、馴れたが故の余計な要望まで加わったりする始末。

 10年ほど前、ある硬派の活字メデイアに隔週の連載コラムを依頼されたことがあった。本誌が硬い内容のものなので、別の論点から読者の頭休めの意味合いもあったのであろう。スペースのわりに手間の掛るものであった。が、それを2年ほど続けた。

 謹厳な学者の某氏の目にそれがとまったらしい。何かの折、古畑の仲間、Aに書き物についての感想を漏らしたという。あれはなかなか読ませるものだったが、と前置きして、「本当は、彼(古畑)が書いたものではないのではないか」と。ことと次第によっては穏やかならざる発言である。

「どういう意味か」さらにAに尋ねると、某氏は語ったという「彼(古畑)には一度会ったことがあるが、ああいう文を書く男ではない、と思う」と‥。

 多少顔を見知った方が、顔をあわせる度にもの言いた気な風情で、会釈して通り過ぎる。何時だったか、もぞもぞするように「あの‥、少しお話する時間をいただけませんか?」と近付いてきた。立ち話でよいですか、というと頷く。安心したような表情の彼の口から出たのは、他愛のない内容(もっとも彼にすればそれなりの意味があったろうが)であった。

 了解しましたよ、という意思を伝えると、彼の体中が弛んだように見えた。「もしかして、いつぞやから会う度にもの言いた気だったのは、この件でしたか?」彼は深く頭を振る。「だとしたら何時でもよかったのに‥」「いえいえ、それが敷居が高いというか、なかなか声が掛けづらく、勇気がいりまして‥」
 
 自分が醸し出す雰囲気は、自分では分かりようもない。男40からの顔は本人の責任、と云われるが、雰囲気もそうなのであろう。城の濠のように人の交通を妨げるファーストインプレッションは、何の得にもならない。しかし、こればかりは今さら如何ともしがたい。初対面で満面笑みを浮かべる表情は作れようもない。
 
 困ったものである。
 
 ただ、ブログは見知らぬ方々と、この「通過儀礼」なく通行が出来、大変気楽なものである。これは実にありがたい。
 このメデイアに感謝するしかない。



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