古畑 任次郎事務所・日誌。

東北関東大地震で被災された方々にお見舞い申し上げます。古畑は元気です。

古畑任次郎・青春譜。

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アルバイト

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 入学したばかりのまだ有髪の中学生(http://blogs.yahoo.co.jp/fnj8823/37823591.html) は、部活は剣道をと思った。大昔の運動部、特に剣道部では特有のしごきやら不条理やらを経験させられた。若いうちに不条理を経験するというのはあながち悪いことではない、人生を学ぶひとつであろう。馬齢を重ねるとそう思う。

 さて、剣道。今時のスポーツのように用具が整った時代ではない。新米はトレパンと体操着でひたすら竹刀の素振りと摺り足の毎日。先輩相手の打ちこみをさせてもらえるようになるまで多少の期間を要した。これでは面白い訳がない。一緒に入った仲間がだんだん抜けていく。

 学校の備え付けの古く臭い防具の着装が許される頃にはトレパンと体操着から胴着・袴姿になり、みかけだけでも剣道少年らしくなってくる。

 夏も近くなる頃、新人戦や対抗試合も経験し、勝ったり負けたりするうちに多少の自信もついていく。防具(昨今の言い方だとMY防具か)も欲しいと思うようになる。他の競技に比べ、剣道は用具への初期投資が大きい。この負担を中学生のあるかなしかの小遣いで賄うのは荷が勝ちすぎる。さりとて親にねだるのも気が引ける。生来、親にモノをねだるということが少なかった。親に遠慮をする、これは天性の癖である。

 故郷の実家近く古往還に沿って商店街があった。現在は寂しくなったようであるが、当時は鍛冶屋、饅頭屋、電気屋、衣料品店、床屋、銭湯、煙草屋、家具屋などが軒を接し活気があった。

 その一角に店構えそのものが商品のような骨董屋が店を構えていた。軒に大小のヒョウタンをぶら下げていた。ガラス張りの陳列に書画、骨董、古道具が脈絡なく置かれてあった。建てつけの悪そうなガラス戸の奥、店の内では干物のような老店主が、店番していた。きまっていつも居眠りしていた。

 ある学校帰りに何気なく陳列をのぞくと、使い古された剣道防具一式が吊るされていた。胴は竹胴。「おおっ‥」思わぬ出物に足を止め、仔細に眺めた。胸当ては相当疲れているし、つづり皮のところどころはほつれていた。が、実用に十分耐えるものと思われた。

 黒胴を着装するのは有段者。初心者は胴に薄い生地皮を張った生地胴、または竹胴をつけるというような時代の雰囲気があった。黒胴は先の話としても、竹胴はさすがに貧相に思えた。せめて生地胴であればいいのにと思う。が、当時の自分の技量に似つかわしいとも思った。

「ほしいナ‥」しばらく吊るしの防具に見入っていた。
 それから下校時には骨董屋に足を止めるようになった。

 早上がりのある時、例によってガラスに身を寄せて、防具を眺めていた。店先で水打ちしていた老店主が「よっぽど欲しいんじゃネヤ‥」かすれた金属音で声をかけてきた。深くかぶりを振る。「安うしといたげるが」と売値を提示したが、むろん及ぶところではない。また、金策の宛てもない。返事に困っていると店主は「アルバイトせんかナ?」と瞳を向けてきた。

 店主のいうアルバイト、とは古新聞・雑誌などの回収である。回収した古紙は店で引き取る、ついては防具代に相当するまで店に届けよ、というようなことであった。その程度のことなら中学生でも出来そうである。なんとも有難い申し出であった。

 シャイで人付き合いが不得意科目。できるだけ対人接触は避けたい口だが、こういう場合は別人なのである。さっそく、隣近所、近隣の顔見知りの家に古紙の取り置きを依頼して廻った。ころあいを見計らって自転車で集荷して、古道具屋まで運ぶ。いくたび古道具屋の裏口に古紙を積み上げたか、そのあたりの記憶は抜け落ちている。

 ある日曜日、自転車に山積みの新聞を届けに行くと主人が手招きした。

 店の奥に入ると真新しい唐草紋様の袋に包みこまれた防具が置かれてあった。

「防具袋は新品。サービスしちゃらい」
「持って帰ってええん?」
 皺だらけの顔が笑いながら頷いた。

 ずしりと重い防具袋を両手で抱いた。「自分のモノ」の喜びが伝わる。相好崩すことの少ない少年がこの時ばかりは頬が緩んだと思える。店主に謝辞を述べたかどうか、その知恵があったかどうかも疑わしいが、ともかく浮き立って店を出た。

「明日からこれで練習出来ライ」。肩に背負った防具が重い。それが嬉しかった。

遠い日のアルバイト事始めであった。

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坊主刈り

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 何時からこうした現象が風靡したものであろう。彼の昔、多くの男子中学生は坊主刈りであった。我が母校も例にもれなかった。学校規則には丸刈りにせよとの具体的な記述があった訳ではない。規則的な根拠は「中学生らしい品位のある服装、態度‥」との抽象的な記述だけだったと記憶する。多くの学校も多分そんなものであったのではないか。

 ともかく、小学校を卒業する前後からクラスに可愛らしい坊主頭が増えていった。多くは春休みの内に馴染んだ頭髪との訣別をした。いずれもが照れて眩しそうな顔で登校してきた。

 行き付けに「松竹館」という、銭湯の大きな構えの隣にちんまり建つ、床屋があった。ガラス戸に縁取りの薄くなりかけた「理髪松竹館」の金文字がおどっている。店の構えには大きに過ぎるほどのサインポールが三色縞をゆるゆると廻していた。

 店は小柄な中年婦人が独りでやっていた。几帳面な気の配りが、店の隅々まで張り詰めていた。引戸を引くと、強烈な整髪料の匂いが鼻をついた。

 大人たちはこの女主人を「松竹のチイさん」と親しく呼んでいた。チイさんは白いエプロンとマスク掛けが仕事着である。潔癖が過ぎて、口煩くもある。子供客には厳格な教育者の視線で接する。高じて皮肉にもなった。小さな頭に鋏を入れながら、訓戒を垂れた。

 口の重い古畑の場合、言われることは決まっている。「受け答えがきちんとできんようじゃ、いかん。世渡りで困ライ」「人には愛想よくするもんゾネ」‥。

 そう言われたところで性格である。これだけは如何ともしがたい。この間、窮屈である。しかし、近くには他に床屋がある訳ではない。むろん、チイさん本人は、大真面目に親切で言うのである。聞かされる身になってみれば、髪を切りにいったか、説教を拝聴しにいったんだか解らない。

 訓戒の内容は変われど、他の少年たちにも同じふうだった。指摘のひとつひとつは建て前である、徳目であった。腕白盛りには耳に煩くてかなわない。そうであったから、「うるそうてかなわん、小言ババじゃ」子供の世界で松竹のチイさんは極めて不評であった。

 松竹館の待ち合いは畳座敷になっていた。順番がくるとチイさんはマスク越しに客の名を呼ぶ。客が多くても間違えるということはなかった。待ちくたびれた子供たちが騒ぎ始めると、鋭い注意が飛ぶ。まさに、鶴の一声であった。

 中学の新学期が始まってもクラスで数人、坊主頭でない生徒がいた。古畑もその一人である。髪を残した他の生徒同様、坊主頭へのほんの僅かの抵抗以外、さしたる大きな理由はない。周囲の無言の圧力に屈服するように、月曜日を迎える度、非坊主頭の数は減っていった。
 
 髪がのびて、「松竹館」に行く。詰襟の有髪中学生は、チイさんの恰好の検断の対象である。「丸刈りにするじゃろ」プレッシャーを掛ける。「いや、せん!」激しく頭を振る。稚気ながら意地である。「中学生は坊主が規則ジャロ」「ほんに変わった子じゃね、他の子はみんな坊主にしとるちゅうに」「規則を守れンようじゃ人間としてダメぞね‥」(校則には”坊主にせよ”とは書いとらん‥)とは思うが、もちろん口にはできない。散々に坊主刈を薦めながら、それでも、チイさんはしぶしぶ若い頑固な客の注文に応えた。

 初夏の頃には、全校男子で古畑のみ頭髪が残っていた。その期間、坊主頭でないことに無風であった訳ではない。陰に陽に坊主頭にすることへの圧力がかかった。HRで、朝礼で、授業担当からことあるごとに注意される。担任や風紀係の体育の教師に何度か呼ばれもした。体育の教師には怖い顔で「今度、床屋に行ったら必ず切ってこい、エエかぁ!」髪を引っ張られながら恫喝された。

 この辺りから生来のつむじ曲がりのつむじがさらに曲る。一寸の虫にも五分の魂。(勉強に何の不都合がある、三年間は伸ばしちゃるワイ)有髪へのこだわりは、古畑の中で小さなイデオロギーになった。

 初めての夏休みのある日。松竹館の客となった。相変わらず坊主刈りか否かを尋ねられたが、当然のように現状維持を告げる。「‥ほんまに、変わった子ぉじゃ」首から白布が掛かけられる。

 話しかけられ言葉を返すという鬱陶しい作業から逃れるには、散髪の間、目を閉じることだった。これは長じても床屋政談をもちかけられることへの忌避の便法となった。現在でもそうである。松竹館で学んだ。

 この時もそうした。チイさんの言葉数が少なかった。いつもは鋏を使っての調髪であるはずなのに、背後で電気バリカンが唸る。後頭皮に冷ややかな金属を感じた。頭頂部に至った時、俄に頭が軽くなったような気がする。髪の塊が落ちた気配がある。(りゃ?!)慌てて目を開けた。大鏡を見る。頭の真ん中をバリカンの筋目が走っていた。

 あやうく声を上げそうになる。チイさんの目が笑っていた。(坊主にしてくれとは頼んどらんが!!)毒気を抜かれ、声にならない。俎の上の鯉である。

 よほど驚きと不満に満ちた表情だったであろう。その間も容赦なく作業ははかどっていく。僅かの間に見たことのない自分の風景が出来上がった。洗髪の後、チイさんは自分のポリシーを全うした満足感に満々としたふうであったが、こちらは感情の遣り場に困った。一瞥以上に鏡を正視できなかった。

 入口の引戸を開けて外に出るのに抵抗がある、勇気が要った。頭部にひとしきり暑い日差しを感じる。思春期のささやかなレジスタンスが不慮に挫折した。

「坊主にされた、髪がなくなった‥」手で頭の上で起こった現実を確認しながら、気持ちと事実の段差を埋めるのに多少の時間が要った。暑い夏の一日であった。
 
 高校生になって社会が拡がると、散髪は多少遠くはあったが、市内の別の床屋に通う。もう「松竹館」には足を向けなくなった。

 つい先頃。床屋のイスに座って瞑目の最中、「コンであんたも中学生らしゅうなったわいネ」勝ち誇ったようなチイさんの表情があわあわと蘇った。今となっては、チイさんの背信のサービス精神を懐かしく感じるのである。 
 
 長い時の経過というのはどうも、過去を喜劇に化学変化させてしまう作用があるようである。


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バレン

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 西洋の何処かの国の風習に、女性から男性にその思いを伝える日があるという。それに便乗して、媒介としてチョコレートを贈る。これはチョコレートメーカーの市場戦略であったろう。この風習’60年以降、瞬く間に列島を席巻する。多分にテレビの影響によるところが多かったであろう。

 古畑の中学生時代にもむろん、その市場戦略に乗せられた風習は成長期にあった。

 わが中学は、群古墳の台上にある。運動場の拡張や通学路の整備の度、無数の須恵器の破片が出てきた。家から学校に通うにはいくつかのルートがある。最短は等高線を垂直に辿るものである。その道は「がけ道」と呼ばれていたか。道筋は、樹叢を纏った神社があり、大きな屋敷の廃墟があったり、墓地があったりで、ほとんど人気のない雰囲気の暗い、不気味な印象があった。

 思いは住民の誰も同じであったらしく、がけ道の利用者は殆んどいない。未舗装の狭い道は、秋は落葉で埋まり、雨の日はくるぶしまで沈むほどぬかるんだ。このがけ道で、人攫いがあった、神隠しがあった、殺人があったというふうな忌わしい噂が、まことしやかに一人歩きしていた。好奇心が旺盛だったのか、怖いもの見たさだったのか、今となっては知るヨシもない。

 どういう了見だったか、ともかく一時期、*曜日の下校時だけ、がけ道を下った。夏場はともかく、外灯とてない冬場は、油断ならない。目と鼻の先を、いたちだか、狐だかが走り抜けることすらあった。林の間の闇に妖しく光る双眸を見たこともある。

 クラブ活動が終わって竹刀を肩に、トロトロとこの曜日もがけ道を下った。

 がけ道がゆるやかになり、さらに下ると、人や車の往来が豊かになる。人々が群れなす集落に至る。集落に出る少し手前に看板だけは大きく「ほうらい屋」と上げた商店があった。乾物、飼料、肥料、薪、錬炭ほか多少の日用品を扱っていたようであるが、喰い気盛りには視野の外の店だった。

 数段の石垣積みの上の建屋はこころもち傾いていたであろうか。「ほうらい屋」の前を過ぎ、人の賑わいが遠目に入ってきたとき、背後の高い所から、甲だかい禽獣の遠ぼえを聞いた、と思った。一瞬身を堅くする。身構える。竹刀を肩から外した。一度だけでない。耳を澄ますと禽獣ではなく、人声であった。それも我が名を呼んでいるようである。

 それと思しき方を振り返ると、杉の大木の枝に腰を掛け、足をブラブラさせる「人影」がある。闇を透かし観察すると、同級生の「ほうらい屋」の娘だった。地黒ですすけた印象の、この「ほうらい屋」の娘は、気の毒なことに、少し知恵の成長が遅れていた。

 枝の上から、
「今日はバレンの日じゃろォ」
バレンとはバレンタイン・デイのことを言っているらしい。黙って首を振るしかない。
「うちんくはチョコレート売っとらんき、これあげる」
木の上からなにやら放って寄越した。重量感がある。ビニール袋に入った干しイモであった。

 生来、人からモノを貰うのは苦手である。

「俺はええよ、イラン!投げ返すけん、受けとれよ」
「いかん、いかん、バレンのプレゼントは、断ったらいかんチ」高いところの声が跳ね返った。
「それにウチね、古畑君がここ通るまで、ずっと待っちょったんやきにね」
「‥何で俺が、がけ道通るがわかる?」
「そいぢゃて、*曜にはたいてい、うちんくの前通るがいね」知らないところで行動を読まれている。

(ふ〜ん、バレンタインのプレゼントは、拒否しちゃいけないのか、面倒なことじゃナ)
「ほな、もろとく、ありがと」きびすを返して、また歩き始めた。

 一日四食食べても、なお足りないくらいの成長期の腹に、この思わぬ差し入れは有りがたかった。
 ムシムシ齧りながら家路をたどった。

 
 このころは、まだ現在のようにホワイトデーは影が薄い。バレンタインの贈り物は「お返しなし」であったように思う。
 これは古畑にとって、大変さいわいな事であった。
 
 もし、現在のように1月後のお返しをしなければならなかった場合(おもわぬ律儀な面もあるので)、あの手間の掛る娘にどのような方法で、どんな顔をして、それを実行したであろうか、片意地張った、不器用な少年、古畑が。と、今思い返しても、自らのことながら可笑しく、微苦笑を誘われるのである。
 
 印象に残る、セントバレンタイン・デイにまつわる思い出である。

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たまご

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 鶏卵は何時の頃から親しく庶民の口に入ったものであろう。江戸も末期の風俗誌「守貞漫稿」に記述がある。「(鶏卵の水煮は)価大約廿文。詞に、たあまご たあまごと言う。必ず二声のみ、一声も亦、三声も言わず」。

 鶏卵の行商人がいた事は、鶏卵は江戸末には庶民生活の近いところにあったのであろう。それでも、廿文は庶民の常食とはいかなかったであろうことは、想像がつく。本格的な養鶏卵の大量生産は、1960年以降とされるようであるから、これも戦後の高度成長経済とのからみであろう。以降、鶏卵が物価の優等生と言われて久しい。
 
 おぼろの記憶がある鶏卵は、貴重品だった。菓子箱に籾殻を敷き、1ダースほどの鶏卵を詰め、病人見舞に遣わす風習があった。そんなことをあやうく覚えている。

 郷里の実家では当時、敷地の一角にささやかな鶏舎を作り、数羽の鶏を飼っていた。餌と水をやるのは子供の仕事である。餌箱を抜き取って、飼料(時には蔬菜を切り刻んで)に多少の水を落とし、かき混ぜる。餌を満たした餌箱を持っていくと、鶏たちは激しく鳴きを発し、羽をうち鳴らし騒ぐ。餌箱をセットするや、狂ったように嘴を落し混み、争って餌を啄んだ。

 子供の身に、この一瞬が嬉しかった。頭を激しく振り、餌以外に余念のない鶏の動きを、飽きもせず見入った。産みたての温かい卵を収獲するのも、楽しいもう一つの仕事である。卵が二個もあった時などは、大喜びしたものである。
 
 ある朝、餌を遣りに行くと、夜のうちに鶏舎の一部が破られ、羽がそこら辺りに散乱し、ちぎれた足や部位が飛んでいる。残った何羽かが、鶏舎の隅で身を縮めている。異変である。父親から「イタチの仕業らしい」と知らされる。泣きながら、あの鶏の羽を集め、片足を拾い、争乱の後片付けをした。悲しかった、そして、憤った。

 愛用の手作りの木刀を腰に、ゴムのパチンコを携え、イタチの潜みそうな森や薮に「仇討ち」に向かうが、敵もさるもの子供の手にかかるほどヤワでない、巣すら発見できず、空しく帰ってくるだけであった。
 
 小学校の低学年時、遠足で2キロほど離れた大きな公園に行った。池の中島の淵に陣取り、弁当を広げる。ゆで卵の殻を取り光沢のある剥き身が現れた瞬間、手を滑った。手の許から護岸の石に何度か跳ね、最後にポンと高跳ねすると、飛まつを残して、水中に潜り込んだ。口惜しさよりも、落ちていくスローモーション映像だけが残った。
 

 同じ頃、腺病質な同級生がいた。病弱で学校をよく休んだ。何度か、給食のパンを届けに小商店を経営していた彼の家を訪った。行く毎に母親が、ゆで卵を持ってくる。この差し入れは当時としても異風だった。相伴することになる。天文に頗る関心をしめしていた彼らしく、病床の枕元に星座にかかる何冊かの本が置いてあった。

「これ、コウテ、モロタ」顔中をゆるめて、新品の星座早見盤を見せる。ゆで卵を咀嚼しながら、とつとつと星座のあれこれを語り聞かせる。彼の知識量に舌を巻いた。
 
 長の休校をした後、彼は冥界に旅発った。

 元のクラスを代表してお別れ式に出た。もう彼は居ないんだ、ということを身体が納得するのに時間がかかった。
「ボク、ゆで卵が好きなんジャ‥」痩せ細った指で殻を剥くたたずまいが、暫く網膜を離れなかった。


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キャベツ

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 古米、インスタントラーメン、レトルトカレー、卵、もやし。これらが、大昔の貧乏学生時代、自炊生活の柱だった。
 
 地方出身者は、折々に実家から届きものがある。分けることのできるものは、仲間同士ですそ分けをする。食べるものであれば、束の間、その地方の味と空気を楽しんだ。土地固有のモノが多かった。そうした地方発の産品をやり取りするにつけ、日本は広いナ、と思ったものである。
 
 すそ分け品目のユニークさで、最右翼ともいうべきものに、キャベツがあった。

 ある時、後輩が、紙袋を携えてきた。バツが悪そうに「こんなもんで、恥ずかしいんですけど‥」。袋に何個かのキャベツが入っていた。恥ずかしいもなにも、胃袋に入るものなら、何でもありがたかった。「うれしいことけど、たくさん送ってきても、困るんです‥」畳の上に並べながら、そのうちの一個をバリバリ食べ始めた、寒玉だったのであろうか。

「そんな風に食べるのか?」原始人もどきの野趣満点の食べ方に驚く。「知らないですか?旨いですよ、塩を掛けるともっといい‥」薦められるままに、倣った。なるほど、旨いとまでは言わないが、甘い。水気に味がある。関東の北郊出身の親元からは、穫れ秋に、自家の畑で作った野菜を段ボールで送って寄越すらしい。その中の一つであったようである。

 我が郷里では、古老はキャベツのことを「カンラン」と言った。甘藍とする。これは淵源が中国であったからであろう。キャベツの発祥は古代、地中海であると伝う。ただし、地中海でのキャベツは、現在のもののように「結球」であったかどうかは、学説の別れるところであるらしい。ローマ人はこのキャベツを食用としてだけでなく、薬用としたふしも見受けられる。

『農業論』、『起源論』を著した政治家カトーは、キャベツを食した人の「尿」は、筋肉の痛みの薬になる、幼児をこの尿で沐浴させると強くなると薦めた、と云われる。現在でもこの成分の薬があるくらいであるから、古代からキャベツには薬用効果が期待されていたのであろう。

 日本には他の洋野菜同様、江戸時代の末期に伝わる。国内でも栽培されるようになり、戦後、高度成長と合わせて生産が急膨張する。日本人の食志向の急激な変化担った食材の一つでもある。

 それはさておき、我が自炊生活にも、この時から、キャベツが食材の柱の仲間入りをすることになる。食卓に顔を出す頻度が高かったことを思い起すと、買っても安かった、あるいは安い時の調達だったのであろう。消化は悪い。その分腹持ちがよかった。だから、経済逼迫の折には「主食」に化けた。ただ、食の度が過ぎると、腹がキリキリ悲鳴をあげた。

副材としても、サラダ、味噌汁の具、お好み焼き、一夜漬け、油炒め、微塵に刻んで鰯の缶詰めとの炊き込み飯‥と、重宝した。もっとも、昨今のロールキャベツは知らなかった。

 
 
 学校を了え、郷里に戻る彼を最寄り駅に見送った。ひとしきりなごりを惜しんだ後、ふと思い出した。
「キャベツ、‥あれは、ありがたかったよ」
 彼は、照れたように表情をゆるめた。

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古畑 任次郎
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