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(会津武士の娘 井深八重) .
会津・東山温泉の入り口近くに家老家・西郷邸をモデルに復元した観光施設「会津武家屋敷」がある。鶴が城とともに観光・会津の目玉である。邸内のお成り御殿に幕末の藩主・松平容保公が同邸を訪った時のシーンがジオラマで再現されている。その脇に太刀持ち小姓が控える。会津藩最後の小姓・井深梶之助であると云われる(会津の歴史施設は観客の目のとどかない部分にまで実に子細な考証が行き届いている)。
この井深梶之助は維新の後、キリスト者になり、草創期の明治学院において教育者、経営者として大きな貢献をすることになる。この梶之助の弟に、戊辰戦争の直前に生を受けた彦三郎がいる。
少し話題がそれる。日本ではほぼ罹患しなくなったが、かつて業病とされたものにハンセン病がある。病原が抗酸菌の一種であるライ菌とされる。鼻腔・気道が感染経路で、抹消神経細胞内寄生によって発症するという。感染力は弱いながら、伝染病である。なによりもその症状の外見性が忌み嫌われた。
ハンセン病については古来、多くの記録が残っている。罹患者として知られるところでは、戦国大名・大谷刑部がそうであったとされ、近いところでは『いのちの初夜』を遺した夭折の作家、北条民雄がある。現代医学による治療方法が確立されるまで、ハンセン病罹患者は差別、隔離の対象となり、社会の埒外にあることを余儀なくされた。
さて、井深彦三郎、有為転変、逸話の多い人生を送ったが、ここでは触れない。彼には娘があった、1897(明治30)年生で、八重という。彼女は家庭を顧みることの少なかった父に替わって伯父・梶之助の膝下で扶育される。同志社女学校専門部英文科卒業後、長崎の県立女学校教師となる。
長崎での教員生活1年目、22歳の時、身体の変調と皮膚に生じた斑点のため、診療を受けた。診療の結果は本人に知らされることなく、そのまま、伯母に伴われ伊豆・御殿場のカトリックらい病院、神山復生病院へ隔離入院させられることになる。
「私が何のためにここにつれて来られたかを、初めて知った時の私の衝撃、それは、到底何をもってしても、表現することは出来ません。‥(中略)‥きのうまで住み慣れた生活環境とは余りにも隔たりのある現状に、私は、悲痛な驚きと恐怖に怯える毎日でした」(『道を来て』井深八重)と述べる。ここで、ハンセン病罹患の疑いの宣告を受けたのであった。まさに彼女にとって青天の霹靂ともいえる出来事であった。
前途の悲観と、周囲の患者を目のあたりにして、自殺も考えたことも一再ではなかったと思われる。しかし、絶望の淵にあった隔離療養生活の中、ハンセン病患者の施療にあたる真摯な人びとの姿をまた別の思いで見ていた。
「当時のハンセン病者は今日では到底見ることも出来ないような重症者の多い時代でしたが、そんな中で同胞さえ、親兄弟でさえ、捨ててかえりみないこのような病者のために、地位も名誉も学問、財宝などすべてを捨てて、この子等の為には如何なる苦難もいとわぬ迄に捧げ尽くされた宣教師達、そして今、眼のあたりに見るドルワ—ル院長の人柄に私はすっかりうたれてしまいました」(前掲『道を来て』)
1年の隔離生活で症状が進行しないことから、上京して再診察を受けた専門病院の医師によって、彼女のハンセン病罹患は「誤診」であると知らされる。
「一転して絶望の底から救われたにもかかわらず、なぜか喜んではいけない気がしていた」そして「信仰の故とは云いながら、故国を遠く、風俗習慣すべて異なるこの見知らぬ国へ渡り、このような病者をわが子と呼び、御自身もその親ともなって尽くして下さるそれらの偉業に対し、日本人としてだまっていてよいのだろうか、私はしみじみと考えました。何のとり得もない自分ではあっても、何か出来ることをしてすべての日本人に代わってこれらの大恩にはご恩返しをしなければならない」(前掲『道を来て』)と自我を超えた心象域にたどりつく。
「(誤診であることを知った)ドルワ—ル院長は非常に喜ばれ、おっしゃるのに「あなたがこの病気でないことがわかった以上、あなたをここにおあずかりすることは出来ません。あなたは、もう、子どもではないのですから、自分で将来の道をお考えなさい。もし、日本にいるのが嫌ならば、フランスへ行ってはどうか。私の姪が喜んであなたを迎えるでしょう。」とまで云って下さいました。
然し、私の心は既に定まっておりましたし、今、自分がこの病気ではないという証明書を得たからといって、今更、既に御老体の大恩人や、気の毒な病者たちに対して踵をかえすことができましょうか。私は申しました。「もし許されるならばここに止って働きたい」(前掲『道を来て』)この若い命は「召命」を直感したのであろう。
「レゼ—翁は、私のこの希望を祝福して受け入れて下さいました。当時、病院が最も必要としていたものは、専属の医師と看護婦でした。はじめは医者になろうかと思いましたが、規則書によると、その頃で、少なくとも五、六年はかかりました。ドルワ—ル院長は御老体でしたし、病院としても手の足りない時でしたので、私が最も短期間で資格のとれる看護婦として、速成科を選び、検定試験によって資格をとり、看護婦として働くことになりました」(前掲『道を来て』)
こうして神山厚生病院における看護婦としての井深八重、その60有余年にわたるライ患者の看護・救済の人生が始まる。
しかし、それは決して安易な道ではなかった。今云う3kどころではなかったはずである。さらに病院の財政そのものが破綻の危機にあった。彼女はその両面でひたむきに自己を捧げる。「献身」というべきであろう。
この間の功績が高く評価され、1959(昭和34)年、教皇ヨハネ23世より聖十字勲章「プロ・エクレジア・エト・ポンティフィチェ」を受賞。さらに、1961(昭和36)年、国際赤十字から看護婦の最高名誉・ナイチンゲール賞が贈られる。
日本のマザー・テレサとうたわれた井深八重、1989(平成元)年5月15日永眠。時に91歳。その生涯を救ライ事業に捧げた。
井深八重は、困難に向かうたびごとに、口に出していたと伝う。「自分は会津武士の娘である」と。
※井深八重さんに興味のある方は、以下お薦めします。
『人間の碑−井深八重への誘い』(「人間の碑」刊行会編著 井深八重顕彰記念会刊 2002 年12 月)
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