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			<title>古畑 任次郎事務所・日誌。</title>
			<description>御訪問ありがとうございます。</description>
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			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>古畑 任次郎事務所・日誌。</title>
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			<description>御訪問ありがとうございます。</description>
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		<item>
			<title>アルバイト</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-4c-67/fnj8823/folder/975889/89/42833789/img_0?1295714135&quot; width=&quot;210&quot;&gt;&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　入学したばかりのまだ有髪の中学生（&lt;a HREF=&quot;http://blogs.yahoo.co.jp/fnj8823/37823591.html&quot; TARGET=&quot;_blank&quot;&gt;http://blogs.yahoo.co.jp/fnj8823/37823591.html&lt;/a&gt;） は、部活は剣道をと思った。大昔の運動部、特に剣道部では特有のしごきやら不条理やらを経験させられた。若いうちに不条理を経験するというのはあながち悪いことではない、人生を学ぶひとつであろう。馬齢を重ねるとそう思う。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　さて、剣道。今時のスポーツのように用具が整った時代ではない。新米はトレパンと体操着でひたすら竹刀の素振りと摺り足の毎日。先輩相手の打ちこみをさせてもらえるようになるまで多少の期間を要した。これでは面白い訳がない。一緒に入った仲間がだんだん抜けていく。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　学校の備え付けの古く臭い防具の着装が許される頃にはトレパンと体操着から胴着・袴姿になり、みかけだけでも剣道少年らしくなってくる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　夏も近くなる頃、新人戦や対抗試合も経験し、勝ったり負けたりするうちに多少の自信もついていく。防具（昨今の言い方だとＭＹ防具か）も欲しいと思うようになる。他の競技に比べ、剣道は用具への初期投資が大きい。この負担を中学生のあるかなしかの小遣いで賄うのは荷が勝ちすぎる。さりとて親にねだるのも気が引ける。生来、親にモノをねだるということが少なかった。親に遠慮をする、これは天性の癖である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　故郷の実家近く古往還に沿って商店街があった。現在は寂しくなったようであるが、当時は鍛冶屋、饅頭屋、電気屋、衣料品店、床屋、銭湯、煙草屋、家具屋などが軒を接し活気があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　その一角に店構えそのものが商品のような骨董屋が店を構えていた。軒に大小のヒョウタンをぶら下げていた。ガラス張りの陳列に書画、骨董、古道具が脈絡なく置かれてあった。建てつけの悪そうなガラス戸の奥、店の内では干物のような老店主が、店番していた。きまっていつも居眠りしていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ある学校帰りに何気なく陳列をのぞくと、使い古された剣道防具一式が吊るされていた。胴は竹胴。「おおっ‥」思わぬ出物に足を止め、仔細に眺めた。胸当ては相当疲れているし、つづり皮のところどころはほつれていた。が、実用に十分耐えるものと思われた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　黒胴を着装するのは有段者。初心者は胴に薄い生地皮を張った生地胴、または竹胴をつけるというような時代の雰囲気があった。黒胴は先の話としても、竹胴はさすがに貧相に思えた。せめて生地胴であればいいのにと思う。が、当時の自分の技量に似つかわしいとも思った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 「ほしいナ‥」しばらく吊るしの防具に見入っていた。&lt;br /&gt;
　それから下校時には骨董屋に足を止めるようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　早上がりのある時、例によってガラスに身を寄せて、防具を眺めていた。店先で水打ちしていた老店主が「よっぽど欲しいんじゃネヤ‥」かすれた金属音で声をかけてきた。深くかぶりを振る。「安うしといたげるが」と売値を提示したが、むろん及ぶところではない。また、金策の宛てもない。返事に困っていると店主は「アルバイトせんかナ？」と瞳を向けてきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　店主のいうアルバイト、とは古新聞・雑誌などの回収である。回収した古紙は店で引き取る、ついては防具代に相当するまで店に届けよ、というようなことであった。その程度のことなら中学生でも出来そうである。なんとも有難い申し出であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　シャイで人付き合いが不得意科目。できるだけ対人接触は避けたい口だが、こういう場合は別人なのである。さっそく、隣近所、近隣の顔見知りの家に古紙の取り置きを依頼して廻った。ころあいを見計らって自転車で集荷して、古道具屋まで運ぶ。いくたび古道具屋の裏口に古紙を積み上げたか、そのあたりの記憶は抜け落ちている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ある日曜日、自転車に山積みの新聞を届けに行くと主人が手招きした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　店の奥に入ると真新しい唐草紋様の袋に包みこまれた防具が置かれてあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「防具袋は新品。サービスしちゃらい」&lt;br /&gt;
「持って帰ってええん？」&lt;br /&gt;
　皺だらけの顔が笑いながら頷いた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ずしりと重い防具袋を両手で抱いた。「自分のモノ」の喜びが伝わる。相好崩すことの少ない少年がこの時ばかりは頬が緩んだと思える。店主に謝辞を述べたかどうか、その知恵があったかどうかも疑わしいが、ともかく浮き立って店を出た。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「明日からこれで練習出来ライ」。肩に背負った防具が重い。それが嬉しかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
  遠い日のアルバイト事始めであった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
                                                                                  　　　        .</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/fnj8823/42833789.html</link>
			<pubDate>Sun, 23 Jan 2011 01:35:35 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>コーヒー</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-4c-67/fnj8823/folder/967093/25/42387825/img_1?1287937629&quot; width=&quot;364&quot;&gt;&lt;br /&gt;
　コーヒーとは自身のセピア色の歴史以来の付き合いである。長い。&lt;br /&gt;
	&lt;br /&gt;
　学齢前であった。焦茶地にシロヌキで「ブラジル コーヒー」と記された缶が、食器棚にあった。食後の一時、父母が飲んでいたであろう。自分も飲んでみたいとねだったか。日頃要求することの少ない子の求めに「子供には刺激が強すぎるが‥」言い訳しながらミルクと砂糖たっぷりで与えられた。カップからたゆたう特有の香が鼻を擽る。甘さの中の苦味を舌が記憶している。我がコーヒー事始めだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　従姉妹に手を引かれ乳児の弟を抱いた母の導きで、陽の落ちた往還をとろとろ歩く。心もとない外灯の往還の先の商店街に不夜の光の世界が現れる。夏の夜店、娯楽の少ない時代の心ときめきの一瞬である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　浴衣の人々がそぞろに行き交う。間のびした喧騒が辺りを包む。ざわめきの間を縫って風鈴の音、ラムネ玉の響き、客引きの胴間声が届く。くしの歯のように居並ぶ、射的、ラムネ、アイスキャンディ、金魚すくい、カラフルなカザグルマ、そして、お面売りの屋台。それぞれに小さな人の群れがある。ほのかに焦げたソース、イカの焼けた匂いが鼻をくすぐる。幼い身には刺激の連続であった。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　母親が大店で用を済ます間、従姉妹と店先の縁台に腰を休めていた。斜向かいに、氷を浮かせたガラス槽に濃褐色の液体を張った出店があった。従姉妹に「あれは、何か」と尋ねたものであろう。世話好きの従姉妹が「冷やしコーヒー。飲みたい？」と気を利かせた。「コーヒー？！」覚えたばかりのそれに強く頷いたことだったであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　従姉妹はツルツルと人の波を泳いで屋台に迫った。店主が次々と手際よく杓で水槽の液をグラスに注いでいく。従姉妹はその列に並んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　店主の側に人形のような童女がいた。石炭箱にチンマリ腰かけていた。ほぼ同じ年頃であった。出店の縁故者であったのであろうか。みなりは幼い目にも粗末なものに映った。ややうつ向き加減で、時おり目をしばたたかせる以外の動きはしなかった。客が離れたり、近寄ったりする間も塑像のように動かなかった。ときおり浴衣から出た小さな足をぷらんぷらんさせた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　アイスコーヒーを手に従姉妹が戻ってきた。甘くほのかに苦い冷やしコーヒーをちびりちびり喉に送る。目は行き交う人のシルエット越しに、相変わらず身じろぎもしないその童女を追っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　淡いが記憶の奥底に残る映像である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　冷やしコーヒーはともかく、コーヒーは現在でも嗜好している。麻薬性に憑りつかれているのかも知れない。健康に悪いといわれている煙草と相性が良い。これだけはこれからも止められそうにもない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
                                                                                             .</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/fnj8823/42387825.html</link>
			<pubDate>Mon, 25 Oct 2010 01:27:09 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>お静地蔵</title>
			<description>&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-4c-67/fnj8823/folder/975880/22/42184422/img_0?1287939663&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_240_320&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;《　「お静地蔵尊 由来」　東京・目黒　成就院境内在　》    &lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　この石仏像は徳川二代将軍秀忠の側室お静の方の発願で奉納されたものです。お静は江戸城大奥にあがり将軍の寵愛を受け「お腹さま」となることを願い、三体の観音像を納め奉りその素願叶い慶長一六年（一六一一年）に男子「幸松麿」を授かります。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　その後、秀忠公正室浅井常源院の威勢を畏れながらもそのつつがない成育を祈り三体の地蔵を刻み納められます。そして再び願い叶い、また家康公の側室見性院（武田信玄公の娘）の庇護もあり、保科正光公の養子となり元服後保科正之公となります。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　元和年間三代将軍の家光公は目黒で鷹狩の際当寺に参拝され舜興和尚（中興第十五世）とのご法談の折、正之公との浅からぬ縁を知り寛永八年、正之公は信州高遠城主となります。お静は大願成就のお礼として阿弥陀如来像をおさめ奉りました。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　正之は後に山形城主、さらに正保元年会津二三万石の城主となり会津松平家の祖となります。また、家光公の命により四代将軍家綱の後見人として幕政に力を注ぎ善政を施されました。お静地蔵はその由来により、古くから縁結び・子宝・子育て・出世・福徳・開運を願う人々の信仰を集めてこられました。&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;indent&#039;&gt;
　　　平成一五年癸未年 道文之記　&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　[＊古畑注：見性院は家康の側室であった訳ではない] &lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　久しぶりにデイパックを背負い、スニーカー穿きの小さな旅をする。都内ではあるが、旅は旅なのである。ＪＲ目黒駅。日頃は縁がない。この駅頭に降り立つのも数十年ぶりか。当時はこの駅から目蒲線が走っていた。雑踏を抜け下目黒方面に向かう。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　天台宗・成就院。古くから「蛸薬師」の別称で親しまれているという。開山が慈覚大師と伝う。　&lt;br /&gt;
慈覚と云えば、栃木・壬生で触れた彼の事跡のことがよみがえる。良きにつけ悪しきにつけ、関東の時間はキメが荒い。関東平野といっても旧江戸域は、複雑な起伏を持つ。無数の坂が高低を繋ぐ。むろん目黒も坂の街。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　権之助坂を上り、長い下り勾配をトロトロと下る。下り切った角、大鳥神社を左折する。しばらく歩く路地の先に徳川葵をふった提灯の山門を見つける。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;&lt;div class=&#039;indent&#039;&gt;
成就院、ささやかな寺である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;
　四百年ほど前、北条浪人・神尾（かんのお）栄加（嘉）の娘、静もこの境内に足を運んだ。中肉中背で、しかし、下腹部がやや目立つ程度に身重であった。言葉数の少ない娘であったろう。侍女代りの小女の一人くらいは共をしていたか。静がなぜ成就院を発願の場所としたか、判然としない。ともかく徳川秀忠家と多少の縁故があったことを知ってのことだけは疑いがない。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　この時より、十数年後、家光が鷹狩りの際、同寺に立ち寄って義弟、正之の存在を知ることになる。縁に縁が重なる。見えぬ縁に導かれるように、静は板橋の外れから目黒まで足を運んだ。厳冬の隙の小春日の一日であったであろうか。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　乳幼児の生存率の低い当時、権門勢家にあって血統を連綿させることは重大事である。ゆえに正室は、側室という第二夫人以下を差し出した（名目的にでも）といわれる。正室に継子がない場合、第二、第三夫人の子を家系継承者とする。それはまた、継承紊乱の予防装置－正室公認の外の素姓のしれない女子の生んだ子は継承者としない－血の囲い込みでもあった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　秀忠の正室・お江与は秀忠に側室を供しなかった。であるから、静は側室ではない。静が望んだことでないが、秀忠の私的なかりそめの恋人であった。この時代の権門勢家の正室は、現代市民社会における庶民のベターハーフというようなものでなく、家政に対し強い政治力を有している。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　正室・お江与が、静の存在と懐妊を知った時、彼女らを物理的に抹殺しようと試みたのは、現代夫婦の嫉妬とは政治性において異なる。お江与のしうちを妻としての「嫉妬」にのみ求めるのは、気の毒であろう。お江与は徳川二代家において、本人が望むと望まざると、家譜正系の隠然たる家政機関長であらなければならなかった。「嫉妬」とは別の政治論の範疇にある。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　むろん静も時代の常識として、そのことは知悉している。静の懐妊は家系正統維持の埒外にある。まかり間違えば子の存在は、徳川家家系紊乱の萌芽になりかねない。胎児ながら濃厚な政治性を帯びていた。ゆえに、最初の胎児は静自らの意志で闇に葬った、私生児であったゆえにそれも可能であった、とも言える。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　境内の六体の石像の前に、上掲の碑文がある。「お静地蔵由来」。碑文を目にする。『‥「お腹さま」となることを願い‥』とある。しかし、前述のようこれは誤りであろう。静が城内に奉公したのは「お腹さま」を望んでのことではない。先立つ懐妊では、城下がりをし、里で堕胎している。この二度目の妊娠においても同様に考えていたはずである。「お腹さま」の立場でないこと自明である。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　二度目の懐妊に当たって神尾家で一族会議が開かれた。弟の「二度にわたり貴種の種を闇に葬るのは畏れ多いこと」とする主張に一族会議がなびいた。次第によっては神尾家の災禍になりかねない。勇気の要る決定であった。胎児の持つ強い意志のゆえんであろうか。この決議で静の出産に対する心も固まった。漠とした尋常でない将来不安は大きく横たわるが、母になる決定は静を強いものにしたであろう。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　成就院への参詣と三体の観音像の奉納は、その決意の一つの表れであった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　このときの胎児、後の保科正之はこの自身の有史以前を生命に刻みこんでいたのかもしれない。奉納した三体の石像観音は何れも、静の心境を映した如く穏やかな表情をしている。生命を胚胎する性のみが到達することの出来る精神域なのであろう。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　苦境とは別に「母子ともに生きること」を心決めしたこの瞬間から、薄幸の母子の意志は陰に陽に周囲の庇護を呼び込むことになる。城内勤めの間、知遇をえたであろう武田信玄の娘、見性院が、母子生命の防波堤となった。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　胎児は無事この世の光を浴び（武田の名跡を襲うという）望外の進境に静は感謝し、さらに三体の石地蔵を成就院に奉納する。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　これがお静地蔵と呼ばれている。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　昨年、信州・高遠町歴史博物館前に建立された地蔵は、これを模刻したものである。母子の生存と安心を保障した見性院は、この時から数年後に世を去る。母子にとってまことに時宜に適った存在であった。物言わぬ胎児は天与の強運の持ち主であった。幸松丸、のち保科正之は母の胎内にあるうちにその人生の方向を感得したのではないか、そんなふうに想ったりした。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　四百年前の薄倖の女性の心象を映した形だけが時空を超越して厳然と残り続けている。不可思議を思う。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　とりとめのない感覚の世界を漂いながら小振りの山門を抜ける。&lt;br /&gt;
　つかの束の間であるが妄想を掻き立てる小さな旅であった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　同じ東京ながら馴染みのない街をさまようのも、また楽しからずやである。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　．&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/fnj8823/42184422.html</link>
			<pubDate>Fri, 17 Sep 2010 02:35:55 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>女性、この玄妙な‥（正之と志津と）</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-4c-67/fnj8823/folder/975880/73/39463373/img_1?1246955389&quot; width=&quot;203&quot;&gt;&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　高遠町歴史博物館前の保科正之、母・志津石像&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（ｋａｚｅさん提供写真に古畑加工）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
うやまって申祈願の事&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
南無氷川大明神、当国の鎮守として跡を此の国に垂れ給い、衆生普く助け給ふ。&lt;br /&gt;
ここにそれがしいやしき身として太守〔将軍・秀忠〕の御思ひものとなり、御胤を宿して当四五月頃臨月たり。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかれども御台〔秀忠夫人・達子また於江、於江与〕嫉妬の御心深く営中〔江戸城内〕に居ることを得ず。&lt;br /&gt;
今信松禅尼〔信玄遺娘・松姫〕のいたわりによって身をこのほとり〔武蔵・足立郡の大牧村＝見性院知行地〕に忍ぶ。それがし全くいやしき身にして有難き御寵愛を蒙る。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
神罰としてかかる御胤をみごもりながら住所にさまよう。&lt;br /&gt;
神明まことあらばそれがし胎内の御胤男子にして、安産守護し給い、二人とも生を全ふし、御運を開くことを得大願成就なさしめたまはば、心願のこと必ずたがひたてまつるまじく候なり&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
慶長十六年二月 志津　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（『会津若松市史』〔 〕注は古畑）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　志津の悲劇は（秀忠による寵愛と妊娠は）彼女が、徳川家正当の血統維持機構の埒外の女性であった、ということによる。秀忠の父、家康のような一ダースを超える側室との間がらのことであれば、慶事である。この時代稀なことに秀忠は、側室を置かなかった。いや、置けなかった。正夫人の達子（於江与、於江）は嫉妬深い恐妻であったが、夫婦にはなにより子宝に恵まれた。いかなる達子でも子をなさなければ、むろん、血統維持のために側室は用意されたであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　その、側室を持たない秀忠が、現代で云えば総務課の若い女子職員に恋心を抱いた、という方がわかりやすいであろうか。志津にとっては迷惑な話であったかもしれない。ことの果て自然の摂理として懐妊する。それも二度。一度目は堕胎するが、二度目の懐妊の時、里帰りした志津は身内のアドバイスにしたがって、出産を決意する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　しかし、志津懐妊のうわさを聞きつけた達子は、激しく嫉妬の炎を燃やす。燃やしただけではない。里下りした志津の周辺に探索の目を当て、刺客を差し向けようともする。武田の遺娘（見性院、信松尼）がこの盾となる。以後、志津は彼女らの息の掛かった隠れ家を転々とする。上述の武蔵国・足立郡大牧村もその一つであった。（上記の願文はその時のものである）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　やがて、生を受けた正之（幸松）と志津は、見性院の養子名目で、城中、田安門内の比丘尼屋敷内に移り、七歳まで撫育される（この後のことは　&lt;a HREF=&quot;http://blogs.yahoo.co.jp/fnj8823/37736530.html&quot; TARGET=&quot;_blank&quot;&gt;http://blogs.yahoo.co.jp/fnj8823/37736530.html&lt;/a&gt;　を参照されたい）。正之は、こうした自身の誕生秘話を母あるいは、見性院から物語として聞いたに違いない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　女性に関してもう一つ、達子同様正之の魂を動揺させる出来事があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　成年後の正之には正室菊姫があった。菊は夭折する。側近の於万を継室とする。この於万、ファナチックな部分において達子に共通するのはどうしたことであろう。正之の側室の娘が自分（於万）の娘より格上の加賀家に嫁ぐ事に嫉妬し、毒殺しようとする。が、手違いから皮肉なことに、実の娘に毒の入った食事が回り、娘は中毒死する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　正之は嫉妬による殺害行動を再び身近で経験する。家綱の政治後見に寧日ない中、毒殺事件関係者を厳に処断しながら、つくづく女性の妬心、怨の強さを再認識したことであろう。（於万は正之死後も会津家中で女謁を行い、藩政を混乱させる）&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ただ、聡明な正之はそうした女性の美質と醜悪とをパーソナリティーで仕訳するにとどまらなかったであろう。ことごとしい言い方をすれば、女性の宇宙原理を捉えようとしたであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　女性（に限らず人一般も）には無慮の感情の陰陽、抑揚があり、時々刻々変化する。化学実験のように試薬や触媒を変えると、同じ成分が全く別の化学変化を起こすように、人において状況ときっかけは、その魂のありどころを著しく変えるもの、との結論に至ったに違いない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　翻って為政の立場にあって、正之は、その試薬・触媒を過たず調整することで、中国の理想政治 「尭と舜」の仁政が行える、そう結論づけたのではなかったか。正之の政策視角は時代を超えたところがあり、近代人のようであると思いもしていたが、実は東アジアに太古からある、形に表し難い統治原理を知らずのうちに感得したのではないか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　特に、その統治原理に達するに当たっては、上記のような愛と憎を両極に具有し個性の際立った、正之を取り巻く「女性たち」の存在があったと思えてならない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　むろんこれは古畑の勝手な思いにすぎない。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　慈愛の母、お志津とお志津地蔵（正之のために目黒・成就院に献納したものの模刻か）の写真を眺めながら、四百年も前の、しかし、つい近くにいるような高遠出身の高邁・高潔な政治家・行政家、保科正之に、ふつふつとつまらぬ思いをはせるのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　・</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/fnj8823/39463373.html</link>
			<pubDate>Tue, 07 Jul 2009 17:29:49 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>塩煎餅</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-4c-67/fnj8823/folder/967093/98/39146598/img_0?1245115146&quot; width=&quot;301&quot;&gt;&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　おそらく悲鳴を上げたことであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　学齢に達する前のことである。近くの祭礼に店を出していた同世代のテキヤさんの息子と意気投合した。夕闇迫る工事現場で二人で遊んだ。夢中で積み木代わりのレンガを積み上げる。これは面白くてたまらなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　どうした弾みかテキヤさんの息子は、わが手に誤ってその一つを落とした。灼熱が走り、間をおいて激しい痛みが襲った。レンガの間から手を抜くと、見る間に黒ずんだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　それから先の記憶はない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　話は飛ぶ。煎餅のこと。&lt;br /&gt;
　練った小麦粉に味を加え火を通した食品、この淵源は中国にあるらしいが、この国に伝わって久しい。この間、煎餅は原形が解らなくなるほどの進化を遂げてきた。本来の小麦粉原料以外に、米、穀類、根茎類、そして海産物などを原料として多くの「煎餅」が登場するようになる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　小麦粉を常食とするユーラシア、また新大陸では小麦粉加工品はそれほど多くはない。東アジア人の、特に日本人の食に対する飽くなき貪欲さ、舌のエネルギーが煎餅の項でも進化発展を求めたのであろうか、また食材の潤沢さがそうしたのかもしれない。いずれにしても現在の我が国の煎餅の爛熟ぶりは尋常ではない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　一時、煎餅のコレクションに凝ったことがある。それを聞き付けた仲間から、出張や旅行で各地の名産、新種、変種の煎餅をいただくことが多々あった。その度に（お礼の意も込めて）画像に取り込んだので、フォトライブラリーが膨らんだ。有り難い事である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　が、それとは別に仲間内にする煎餅蘊蓄のレクチュアは、生活に身近過ぎるものでありすぎるのか、切り口に工夫が足りなかったものか、どうも不人気であった。そのうち煎餅趣味からも遠ざかってしまった。フォトライブラリーも未整理のままである。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　煎餅熱も冷め切ったつい先頃、仲間が、ビニール袋を提げて訪れた。「昔、田舎にこんな物ありましたよね‥」。商品名は別であったが、紛れもない塩煎餅である。この塩煎餅、小麦粉原料で、塩味のスカスカしただけの取り立てて美味なものではない。であるが、現在でもほそぼそと売られているらしい。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　話をもどす。次の日であったろうか、テキヤさんの息子はその日も工事現場で砂遊びをしていた。わが姿をみとめると、微かな中国地方訛りで、無造作に粗末な紙袋を差し出した。塩煎餅が数枚入っていた。事故の贖罪のつもりであったのであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　数日を経ずテキヤさんの息子は父親の稼業にともなって、わが故郷を離れていった。その後、二度と出会う事はなかった。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　その時から半世紀。&lt;br /&gt;
　古畑の右手薬指の爪は、現在でもその時の傷痕を残している。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　塩煎餅‥、懐かしい記憶が焼き込まれていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　.</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/fnj8823/39146598.html</link>
			<pubDate>Tue, 16 Jun 2009 10:19:06 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>坊主刈り</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-4c-67/fnj8823/folder/975889/91/37823591/img_0?1237900089&quot; width=&quot;171&quot;&gt;&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　何時からこうした現象が風靡したものであろう。彼の昔、多くの男子中学生は坊主刈りであった。我が母校も例にもれなかった。学校規則には丸刈りにせよとの具体的な記述があった訳ではない。規則的な根拠は「中学生らしい品位のある服装、態度‥」との抽象的な記述だけだったと記憶する。多くの学校も多分そんなものであったのではないか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ともかく、小学校を卒業する前後からクラスに可愛らしい坊主頭が増えていった。多くは春休みの内に馴染んだ頭髪との訣別をした。いずれもが照れて眩しそうな顔で登校してきた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　行き付けに「松竹館」という、銭湯の大きな構えの隣にちんまり建つ、床屋があった。ガラス戸に縁取りの薄くなりかけた「理髪松竹館」の金文字がおどっている。店の構えには大きに過ぎるほどのサインポールが三色縞をゆるゆると廻していた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　店は小柄な中年婦人が独りでやっていた。几帳面な気の配りが、店の隅々まで張り詰めていた。引戸を引くと、強烈な整髪料の匂いが鼻をついた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　大人たちはこの女主人を「松竹のチイさん」と親しく呼んでいた。チイさんは白いエプロンとマスク掛けが仕事着である。潔癖が過ぎて、口煩くもある。子供客には厳格な教育者の視線で接する。高じて皮肉にもなった。小さな頭に鋏を入れながら、訓戒を垂れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　口の重い古畑の場合、言われることは決まっている。「受け答えがきちんとできんようじゃ、いかん。世渡りで困ライ」「人には愛想よくするもんゾネ」‥。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　そう言われたところで性格である。これだけは如何ともしがたい。この間、窮屈である。しかし、近くには他に床屋がある訳ではない。むろん、チイさん本人は、大真面目に親切で言うのである。聞かされる身になってみれば、髪を切りにいったか、説教を拝聴しにいったんだか解らない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　訓戒の内容は変われど、他の少年たちにも同じふうだった。指摘のひとつひとつは建て前である、徳目であった。腕白盛りには耳に煩くてかなわない。そうであったから、「うるそうてかなわん、小言ババじゃ」子供の世界で松竹のチイさんは極めて不評であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　松竹館の待ち合いは畳座敷になっていた。順番がくるとチイさんはマスク越しに客の名を呼ぶ。客が多くても間違えるということはなかった。待ちくたびれた子供たちが騒ぎ始めると、鋭い注意が飛ぶ。まさに、鶴の一声であった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　中学の新学期が始まってもクラスで数人、坊主頭でない生徒がいた。古畑もその一人である。髪を残した他の生徒同様、坊主頭へのほんの僅かの抵抗以外、さしたる大きな理由はない。周囲の無言の圧力に屈服するように、月曜日を迎える度、非坊主頭の数は減っていった。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　髪がのびて、「松竹館」に行く。詰襟の有髪中学生は、チイさんの恰好の検断の対象である。「丸刈りにするじゃろ」プレッシャーを掛ける。「いや、せん！」激しく頭を振る。稚気ながら意地である。「中学生は坊主が規則ジャロ」「ほんに変わった子じゃね、他の子はみんな坊主にしとるちゅうに」「規則を守れンようじゃ人間としてダメぞね‥」（校則には”坊主にせよ”とは書いとらん‥）とは思うが、もちろん口にはできない。散々に坊主刈を薦めながら、それでも、チイさんはしぶしぶ若い頑固な客の注文に応えた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　初夏の頃には、全校男子で古畑のみ頭髪が残っていた。その期間、坊主頭でないことに無風であった訳ではない。陰に陽に坊主頭にすることへの圧力がかかった。ＨＲで、朝礼で、授業担当からことあるごとに注意される。担任や風紀係の体育の教師に何度か呼ばれもした。体育の教師には怖い顔で「今度、床屋に行ったら必ず切ってこい、エエかぁ！」髪を引っ張られながら恫喝された。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この辺りから生来のつむじ曲がりのつむじがさらに曲る。一寸の虫にも五分の魂。（勉強に何の不都合がある、三年間は伸ばしちゃるワイ）有髪へのこだわりは、古畑の中で小さなイデオロギーになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　初めての夏休みのある日。松竹館の客となった。相変わらず坊主刈りか否かを尋ねられたが、当然のように現状維持を告げる。「‥ほんまに、変わった子ぉじゃ」首から白布が掛かけられる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　話しかけられ言葉を返すという鬱陶しい作業から逃れるには、散髪の間、目を閉じることだった。これは長じても床屋政談をもちかけられることへの忌避の便法となった。現在でもそうである。松竹館で学んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この時もそうした。チイさんの言葉数が少なかった。いつもは鋏を使っての調髪であるはずなのに、背後で電気バリカンが唸る。後頭皮に冷ややかな金属を感じた。頭頂部に至った時、俄に頭が軽くなったような気がする。髪の塊が落ちた気配がある。（りゃ？！）慌てて目を開けた。大鏡を見る。頭の真ん中をバリカンの筋目が走っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　あやうく声を上げそうになる。チイさんの目が笑っていた。（坊主にしてくれとは頼んどらんが！！）毒気を抜かれ、声にならない。俎の上の鯉である。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　よほど驚きと不満に満ちた表情だったであろう。その間も容赦なく作業ははかどっていく。僅かの間に見たことのない自分の風景が出来上がった。洗髪の後、チイさんは自分のポリシーを全うした満足感に満々としたふうであったが、こちらは感情の遣り場に困った。一瞥以上に鏡を正視できなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　入口の引戸を開けて外に出るのに抵抗がある、勇気が要った。頭部にひとしきり暑い日差しを感じる。思春期のささやかなレジスタンスが不慮に挫折した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「坊主にされた、髪がなくなった‥」手で頭の上で起こった現実を確認しながら、気持ちと事実の段差を埋めるのに多少の時間が要った。暑い夏の一日であった。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　高校生になって社会が拡がると、散髪は多少遠くはあったが、市内の別の床屋に通う。もう「松竹館」には足を向けなくなった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　つい先頃。床屋のイスに座って瞑目の最中、「コンであんたも中学生らしゅうなったわいネ」勝ち誇ったようなチイさんの表情があわあわと蘇った。今となっては、チイさんの背信のサービス精神を懐かしく感じるのである。　&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　長い時の経過というのはどうも、過去を喜劇に化学変化させてしまう作用があるようである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　.</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/fnj8823/37823591.html</link>
			<pubDate>Tue, 24 Mar 2009 22:08:09 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>杖突街道と御堂外垣</title>
			<description>&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-4c-67/fnj8823/folder/1031730/30/37736530/img_0?1247972467&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_208_139&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-4c-67/fnj8823/folder/1031730/30/37736530/img_1?1247972467&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 2&quot; class=&quot;popup_img_208_139&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　　（写真上、御堂外垣宿本陣遺構　下、旧ゑちご屋）&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　写真撮影・提供：伊那市 じんちゃ様&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　高遠に発する杖突（藤沢）街道は、想像を絶するほどの古色に染まっている。延喜式以前の古東山道は、宮田&amp;#12316;伊那そして、高遠を経、杖突峠を越えた後、諏訪盆地に至る。さらに大門峠、佐久平を通過し、上野に出たとある（高遠&amp;#12316;峠を下った諏訪までが杖突（藤沢）街道）。&lt;br /&gt;
　四世紀初頭には開削されていたという。もはや、蒼古としか表現のしようがない。悠久の道筋なのである。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　この筋は高遠市街（高遠宿）から両側を河岸段丘に厄され、Ｖ字の底を流れる藤沢川に沿い遡行する。低地には段田、段畑が展開する。太古の水稲耕作はおそらくこの土地のような緩傾地から発達したであろうことを納得させられる。稲作発展モデルの典型のような地形である。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　北に延びた杖突（藤沢）街道の先は、諏訪の盆地を形成する巨大な土手のピークに至る。杖突峠である。この峠において日本武尊が杖を突き諏訪を見下ろしたので「杖突峠」。命名の口碑が遺る。峠から羊腸の道を下ると、諏訪の南端（現在の茅野市）に至る。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　生活道ではない。大和覇権の道、政治の道であった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　年代によって多少の付替えがあったと云う。戦国の頃は杖突峠を高部あるいは神宮寺辺に下ったものらしい。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　ともあれ、この街道は政治、軍事、文化伝播の血脈であった。日本武尊（口碑であるが）、大河原（現大鹿村）に土着本拠した後醍醐天皇の皇子宗良親王もたどり、戦国の武田信玄、勝頼親子、織田信長、信忠父子ら戦国武将も多々通行したことであろう。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　のち、甲州街道の開通により、バイパスとも云うべき金沢街道が開削され、がぜん江戸表との往来が頻繁になる。参勤交代のルートになった。高遠を訪ねる青木昆陽、伊能忠敬、剣術の斉藤弥九郎、桂小五郎（木戸孝允）、そして松平容保も通ったとされる。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　さて、御堂外垣（みど〔う〕がいと）。高遠から二里半（約10辧砲竜ァＬな音であるが、地名である。「ガイト」は日葡辞典にも収められている。屋敷、ないしは村落囲いの外。ここでは垣の外であろう。つまり、普通名詞である。日葡辞典に採録されるほどに、地名までもが苔むしている。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　中世、付近に堂が五つあった。よほど信仰心を集めた五堂らしい。その「五堂の垣の外」の地域であった、ということであろう。集落としては豊の地であったに違いない。エリアの外であるということが地名なのである。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　その中心を南北に杖突（藤沢）街道が走る。江戸初期、金沢峠を越え甲州街道に達する金沢街道が分岐したので、古くから宿場町の性格を帯びた。追分には小振りながら諏訪社がある。脚下の金沢街道脇に「右は江戸、左は諏方」深彫りの大石の道標が当時のまま残る。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　元和３（1617）年11月、晩秋の風吹く金沢街道。御堂外垣に向かう武家、子女総勢十人ばかりの道中がある。中に７歳の少年がいた。武田信玄の娘（見性院）の庇護を離れ、高遠の領主肥後守・保科正光の養子として城下に赴く幸松丸、のちの保科正之である。一行は、御堂外垣に投宿する。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　この御堂外垣の夕刻、事件が起こった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　正之の養父となる保科正光にも事情があった。実子がなかった。継嗣として、内々に妹婿の子、左源太なる者を既に養子としていた。その後、見性院を通じ、土井利勝から幸松丸の養育を要請される。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　将軍秀忠の庶子の養育は、当然ながら、嗣子の含みを持っている。幕府筆頭閣僚からの要請を受けざるを得なかった正光は困惑したことであろう。このことが城下の下々まで通じていたらしい。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　御堂外垣の夕餉の頃、幸松丸は女性たちの噂話の中で、前記の高遠事情を小耳に挟んだ。母の静に向かい「肥州（保科正光）のところには既に養子がいるという、それであるなら（それを押し退けて、保科の養子になることはできない）予は高遠には行かぬ」と告げた。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　本能にも似た不安と先任の嗣子候補への配慮だったであろう。母と側近の女達は慌てた。困り果て、城下に急使を立て「正光には実子なく、養子もなく」との旨を聞き届けさせ、幸松丸を宥めた。翌日、一行は杖突（藤沢）街道から高遠入りした。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　以上の趣旨のことが『会津松平家譜』に記されてある。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　後、この幸松丸の懸念の払拭を図るため正光は「保科の継承者は幸松丸とする、しかし養子、左源太には可能な限りの優遇を与えて欲しい」との「置文（遺言）」で、継嗣問題を明確にする。（保科正之が大河ドラマに取り上げられた場合、前半の小ピーク足り得るエピソードになろう。古畑が脚本家ならそうする）&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　天和元（1681）年、杖突（藤沢）街道も整備され、御堂外垣は同街道第一の宿場となり、正保時代に本陣が設けられた。したがって、幸松丸がこの街道を通った時点では宿ではあったが、本陣はなかったことになる。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　豊の地であることは述べたが、この御堂外垣、米の生産は天正期、312石「天正高帳」、正保期、275石「正保書上」、天保には米に加えて、炭80表が、弘化ではさらに松板3500枚が出荷され、農本経済から林業、さらには地場の産品を移出するようになる。享和年間から本陣に寺子屋が開校。この小さな集落も商品経済の渦中に包摂され、高遠のロジスティックを支える城下近郊農村の色彩が濃くなる。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　現代では他の農業地帯同様、近郊に職場を求めながらの農業経営、第二種兼業農家の比率が相当数に上るものと推察する。いずれも時代を写している。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　杖突（藤沢）街道は、今や政治道路から生活道路になり、往古の武張った痕跡はなくなり、古老の温和がある。景観を支える人の住みなしも大きく変化しているであろう。しかしながら、杖突（藤沢）街道とその沿線風景は、太古以来の田園風景と寸分変りないように思える。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　辺り一帯に淡い緑の古代風が吹きぬける。長い帯を曵いた時間の流れに悠久とはこんなことだろうかと思う。眠ったような集落に存在の圧倒がある。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;「御堂外垣」好きな場所の一つである。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　.&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/fnj8823/37736530.html</link>
			<pubDate>Thu, 19 Mar 2009 15:17:22 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>高遠・殿坂事件</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-4c-67/fnj8823/folder/1031730/93/37689993/img_0?1237204715&quot; width=&quot;280&quot;&gt;&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（高遠城址・殿坂、登り口の案内板）&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　殿坂は高砂橋から段丘上の高遠城の大手門に至るヘアピンの急な長い坂である。この殿坂、かつては高遠城の名所であったとみえ、幾つかの絵巻に残されている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　現在、この坂は、桜のシーズンには城址公園に向かう大型観光バス、乗用車の交通渋滞がピークに達する場所である。であるから、観光バスの乗客は殿坂手前の高砂橋辺りで降ろされ、脇の人幅ほどの自分坂から徒歩で大手門跡まで登り、桜会場に臨むことが多い。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　旧時代は殿坂を挟んで、家臣団の武家屋敷が櫛比していた。高遠が生んだ砲術の先覚者、坂本天山の屋敷もこの一角にあった。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　江戸時代、この坂で刃傷沙汰があった。その大略が役方の報告書として遺っている。&lt;br /&gt;
　以下、多少膨らませて再現してみることとする。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　幕末の天保末期、内藤頼寧治世のこと。&lt;br /&gt;
　家中に久保田敬信なる藩士がいた。養父は雪荷派弓術の達人として家中に知れ渡っていた。このことが敬信の性格形成に陰に陽に影響したかどうか、敬信は粘着質な性質で、さらには短慮であったと思える。倅に敬一郎がいた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　敬一郎はある時、同じく藩士の子弟の川島悌次郎と些細なことから口論になり、掴み合いの喧嘩になった。敬一郎、悌次郎とも元服前の前髪であったと察せられる。喧嘩は悌次郎に分があった。しかし、事はそれで終わらなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　帰宅した敬一郎から事の次第を聞いた久保田敬信は、自子の不甲斐無さよりも、喧嘩相手の川島悌次郎に遺恨を持った。両人の喧嘩から日を経ずして、敬信は悌次郎を自宅に呼びつけた。訪れた悌次郎に敬信は悪口雑言の限りを浴びせた。あるいは打擲を加えたもしれない。みかねた隣家の藤田某が仲裁に入って、ようやくその場は収まった。敬信の行動はよほどエキセントリックなものであったことが伺える。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　日頃の両家の関係（久保田敬信は川島家の上役筋であったと考えた方が、前後関係に無理がない）、あるいは込み入った事情は分からないが、ともかく「子の喧嘩に親が出た」。敬信の人格の一端が知れる。敬信の怨恨はしかし、これで鎮まった訳ではない。「夫婦相語りて折あらば（川島家に）恨みを晴らさんと（その時機を）待ち受けたり」と報告書にある。夫婦揃って、悌次郎転じて川島家に憎悪を抱くに至った。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　長月（九月）の六日。御役番を退けた敬信は家路をたどるべく大手門を出、殿坂を下り始めた。折から御番役で登城中の悌次郎の兄、川島小藤太と出くわした。敬信はここぞとばかり小藤太に「拙者の倅と貴殿の弟の件について話し合いたい、ついては同行されたし」と強引に持ちかける。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　小藤太は当然ながら「拙者、今から御番役上番につきその件、他日に願いたし」と峻拒した。しかし、敬信「乱行、暴言も甚だしかりしかば」とあることから小藤太を蹴ったり、殴ったりしたものであろうか。さらには著しく武士の名誉を傷つける言辞を吐いたことであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　武士は名誉で生きている。「その言や武士として聞き捨てならぬ！」堪えかねて小藤太は言ったものであろう。敬信の「なにを腰抜けが」という暇もあらばこそ、小藤太は抜刀した。驚愕狼狽する敬信に、初太刀こそ頬をかすめたものの、続く太刀で袈裟掛けに切り下げた。よほど太刀風が鋭かったか、間合いが近かったか、敬信は絶命した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　敬信の死を確認すると小藤太は、成りゆきといいながら、藩士を殺めたことであるから月番の目付、岡部十郎左衛門に事の委細を届け出た。次いで、自決しようと帰途につく途中、（よほど逆縁なのであろう）つい今し方斬殺した敬信の倅、敬一郎と出くわした。小藤太は「今其処にて汝の父を切り殺したり、仇を討ちたくばいざ来れと」呼ばわった。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　が、このとき敬一郎は思いもよらない行動を取る。きびすを返し「逃げた」のである。「蒼皇逃れ去れり」と報告書には記されている。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　前髪（元服前）の若年と云えど、現代の中学生、高校生と同日に論ずることはできない。幼少期から（特に嗣子たるもの）武士のたしなみは臓の腑まで教育されている。若年でも、仮に家長が不慮で致仕すれば、相続し職務を全うし、家庭を支えていかなければならない。言うまでもなく、親の仇を討つこともたしなみの一つである。それが武士たる家の子の倫理でなければならなかった。&lt;br /&gt;
　　&lt;br /&gt;
　江戸時代は戦国の軍事体制のまま、戦のない長い時代を経営してきた。幕府・各藩は膨大な武士と云う名の余剰人員を抱え続けた。その一部は、役方と呼ばれる行政職（内政・外交・経済・内部監察）と番方の治安、軍務に大別された。現今の軍隊制度に無理に当て嵌めてみると、背広組、制服組ということになろうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この事件の当事者達はいずれも番方、制服組である。つまり、本来の武士である。武士ＯＮ武士の倫理の中で生きていた。観念としての士道以前の、自己と家を存続させる保存倫理であるといってもよい。むろん、倫理より前に、人間には心の強弱がある。敬一郎はその意味で弱かった、というより本能に忠実であったと云うべきかもしれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ともかく、親の仇の現行犯を名乗る川島小藤太の前から血相を変えて遁走し、家に舞い戻って震えていたであろうか。これもまた、時を越えて血の通った人間の選択肢の一つであろう。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　呆然としながらも小藤太は家に戻り、父母や親族を集め、事の顛末を語り、弟妹に後事を託し、自室において割腹した。時に小藤太、二三才であったという。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　藩は仇の面前で逃奔した士道不覚悟の敬一郎を放逐し、川島小藤太の父、小兵衛に閉門を仰付け事済み、とある。&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（末裔の名誉を慮り当事者を仮名とした）&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　人間が社会を形成するところに必ず発生するのが人間関係における諸問題であろう。政治といった管理装置に絡めとられるはるか手前の、小共同体において人間関係を結ぶ上で無数のトラブル、ストレスが存在する。その許容を越えた先に確執、闘争が存在する。いずれの場合にも根源は、極めて些細なところに起因する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　さらにやっかいなことには（意識するとせざると）同一人が加害者であり、状況次第では被害者にもなりえることである。人が社会に住みなす業である。人類発生以来いずれの時代にも欠くことなく抱えてきた問題である。悲しいかな人間はそれを完全に超克する知恵を未だに獲得していない。未来永劫にかかる課題であろう。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　どうにもやりきれない事件ではあるが、人間社会における、古くて新しい課題であることと理解することができれば、その一点において、意味があることかもしれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　.</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/fnj8823/37689993.html</link>
			<pubDate>Mon, 16 Mar 2009 20:58:35 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>特技</title>
			<description>&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-4c-67/fnj8823/folder/975880/94/37580894/img_0?1236610391&quot; width=&quot;320&quot;&gt;&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（記事内容とは無縁ですが）　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　.&lt;br /&gt;
　世の中には人に出来ない特殊な技術を持つ人がままいる。また、積年の職業から身につけた、余人を驚かす技能を有する人がいたりすることも耳にする。我が身には、とりたてて誇るべき特別な技術や能力はなにもない。職業経験からくる蓄積のようなものも威張れるほどのことはない。悲しいかな無芸大食なのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　ある時、記事依頼が回送されてきた。テーマは「私の特技」。&lt;br /&gt;
「特技？‥無縁だナ」一瞥して放って置いた。それで、そのことは忘れていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　暫く経って、主催者から「原稿が集まらないのでなんとか、何でもいいですから‥」哀願の催促がきた。そう言われても無いものはない。人の話しを聞きながら他の事を考える、鯨飮馬食、手先がほんの少し器用、足の指でモノがつかめ字が書ける、文章を書くのが速い、貧乏ユスリ、野歩き‥とても特技と言えたしろものではない。「なんとか、助けて下さい‥」懇願され連絡は切れた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「特技なぁ‥」来し方まで頭を巡らせてみた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　大昔の学部学生時代、何時の頃か、教室で聴講した講義をほぼ誤たず、頭の中で再現し、言葉として発することが出来る。このことに気が付いた。きっかけは講義を休んだゼミ仲間に「□□の講義、どんな内容だった？」と尋ねられたことだったであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　その講義の骨子を語る。質疑に答えるうち、頭の中に講義者の板書や詰まらないジョーク、仕草までがはっきりと蘇った。興を覚えて、講義者の第一声から締めまで声に乗せてみた、再現出来た。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　それから、自分の専門領域とする幾つかの講義をレポート用紙に再現してみた。淀むところなく、つるつると鉛筆が走る。ほぼ、覚えている。で、以降、これらの講義に関して文字に起こした。年度末には通年分の講義録が出来上がった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　おろかにも、太安麻呂に対する稗田阿礼もこんな感じだったかと考えてみたりした。もっとも阿礼ほど膨大な知識量であるはずもなく。さらに、古事記チームとは異なり、自供自記である。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　講義起こしをしていると、その内容にかかる思いが拡がる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　論理立ての巧拙、聞かせる工夫の有無、テクニカル・タームを多用するが、果たしてこの講義者、斯学の本質が理解出来てるのか、情報・知識が血肉になってるのか、頭固いナ‥、などなど生意気なことを思えば、文字にするより聴いている方が面白いナ、という講義もあれば、むろん傾聴に値するものもあった。聴くのとは別の切り口から、表の講義と裏に沈むものとを感じることが出来た。これは効能であったろう。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　この件、仲間には驚かれた。「口に出せなくとも誰だって覚えているだろう、すぐ忘れるにしてもサ」「いや、出来ない。ポイントは覚えているにしても、誰にでも出来ることじゃない」（ふ&amp;#12316;ん、そんなものか）と思う。乗せられて、コンパの余興でダイジェストを口演したこともあった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　誰にでもできることじゃない、というこのことは、特段のことをする訳ではない。講義者の話をぼんやり聴いているだけである。板書は骨子以外（数値・グラフ・図表等は必要に応じて書いたが）あまりとらなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
人の話はよく聴く、集中力はある方だが、体を耳にして聴くようなこともなく、ただ聴く。もっともというか、だからと云うべきか、自分にとって詰まらない講義は頭の中がスルーした。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　そのことを思い出した。以上のような事を、先の主催者に「‥は、だめだろうか」と打診してみる。&lt;br /&gt;
「いやいや、それ、立派な特技ですよ、是非、まとめて‥」何とか特技に認定してもらったようである。特技というよりは特技もどきなのであろう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　この特技もどき、どうも一言一句を順番に記憶中枢に送り込むというより、全体のリズムで覚えているようなのである。単なる記憶力だけではなさそうである。音楽好きな人が、瞬時に楽曲のメロディを覚えるような感覚なのかもしれない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　残念ながら、試験直前のごく内々の仲間への情報提供として、重宝された程度で、それ以外にはあまり役立ったり、効果的な活用法には恵まれた記憶はない。観光カイド、役者、あるいは咄家にでもなっていれば、多少重宝していたかもしれないナ、と思う程度でしかない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　さらに、このささやかな特技もどき、その後活躍の舞台もなく、今となっては、錆ついてしまって「かつての特技もどき」になりはててしまっているのである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　.</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/fnj8823/37580894.html</link>
			<pubDate>Mon, 09 Mar 2009 23:53:11 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
		</item>
		<item>
			<title>高遠小彼岸桜 in 会津</title>
			<description>&lt;p class=&quot;img&quot;&gt;&lt;img src=&quot;https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-4c-67/fnj8823/folder/975880/47/37525947/img_0?1243008497&quot; alt=&quot;&amp;#x0030a4;&amp;#x0030e1;&amp;#x0030fc;&amp;#x0030b8; 1&quot; class=&quot;popup_img_432_324&quot;&gt;&lt;/p&gt;&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　       　　　　　　    　（鶴ヶ城・郭内 県立博物館脇の高遠小彼岸桜’07　会津のKomachi様提供）&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;indent&#039;&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;
　&lt;br /&gt;
　高遠の桜の見事さは、小ぶりながら、花の色の赤味にあると思っている。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　高遠城は廃藩置県後、他所同様、城棄却の憂き目に合う。「伊那郡高遠本町松島屋徳次郎旧高遠城建物等落札届（明治六年三月）」が残っている。これによると、高遠城の構造物はもとより、小石類、庭石、ついには郭内外の諸木まで売却の対象となり、城は一木一石もない殺風景な赤裸となった。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　みかねた旧藩士が城地のうち、高遠町が内務省より管理をまかされていた本丸、笹郭、勘介郭、南郭に旧馬場の小彼岸桜を移植したものである、と伝わっている。明治七、八年の時期のことであろう。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　旧藩には、三峰川の河原沿い天女橋の上あたりの「柳の馬場」、藤沢川河原の（現在も馬場と呼ばれる）「紅葉の馬場」、郭内の「高田馬場」、そして、河南・小原の「桜の馬場」。四ケ所の馬場があった。それぞれが単独の木で統一されているのが嗜好であったのか、どうか。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　ともかく、移植元は「桜の馬場」のモノであったと考えられる。本丸、二の丸、笹郭を中心に移植された桜樹は、桜の時期には、近郊住民の花見どころになったことであろう。さらに、口伝えで年月を経る毎に城址公園は、桜を愛でる人々で賑合うようになる。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　昭和９年、城址公園の一角に、東京で整形医として成功した内田孝蔵揮毫の「天下第一桜」の碑が建てられた。余談ではあるが、この高遠町出身で、日本美容外科（二重眼瞼術）の先駆者・内田孝蔵は、どういう訳か土地では今一つ知名度が低い。それは別にして、この頃には高遠は、押しも押されもせぬ関東甲信越・中部の桜の名所となった。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　マメザクラとエドヒガンの交配種の一系である、と云われる高遠小彼岸桜は、昭和35年、長野県の天然記念物に指定され、平成２年「国際さくらシンポジウム」では、高遠固有の桜の種類である、と認定される。この固有の桜保護のために地元では「桜憲章」が制定され、苗木は門外不出とされている。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　天然記念物であるから厳格な保護がなされているようであるが、しかし、例外的に保科正之の縁故地、会津若松と内藤家の下屋敷（内藤新宿）のあった東京都新宿区には親善交流都市、姉妹都市のよしみで、献木された（鶴が城の郭内［県立博物館東側］、新宿御苑、にそれぞれ数本）。また、最近の情報では東京世田谷・盧花公園にも植樹されているとも知った。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　気にかかっていることがあった。高遠小彼岸桜は会津、東京の地で高遠城址公園のようなピンクの花を咲かせているのだろかということである。特に我が会津の場合。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　思うのには理由があって、この桜、樹木としては何処でも生育するが、高遠以外の地では、花は白く、赤みの強いピンクに発色しない、という気掛かりな情報を耳にしていた。また、高遠においても「開花時期にぽかぽか温かい日が続いたら色が出ない」なる地元の古老の話を耳にしたこともある。実際に赤みの弱い桜を見たこともあった。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　高遠ですらそうである。地味も標高も寒暖のサイクルも異なる高遠以遠の地の桜は、果たして赤いのか、白いのか。&lt;br /&gt;
　これは実地見聞しかない。しかし、春の限られた桜の開花の時期は、なにかと所用が多く、地元の新宿御苑の桜ですら、チェックしそびれている。まして、会津においてをや、である。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　ならば、百歩譲って、電子情報に頼るか。春先には桜の写真を載せるＨＰ、ブログはあまたあるが、新宿御苑の高遠小彼岸桜、会津の数本の高遠小彼岸桜（いずれも目立たない場所）に限った写真はひっかかってこない。こちらもシーズンが過ぎれば忘れる。この繰り返しで幾歳かの時が流れた。&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
　心に潜り込んだ小さな気掛かりを、過日、会津のブロガ&amp;#8722;さんが、いともたやすく解消（我が願いを容れ、記事に）して下さった。写真の掲載も快諾して頂いたので、桜の時期尚早ながら披露する次第である。会津のブロガ&amp;#8722;さんに感謝、感謝である。この写真は当年のものではないにしても、御覧のように、原産地高遠と変わらない「ピンク色」なのである。良き哉。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　なにやら、苦手科目の宿題を四苦八苦でやり上げた小学生のような気分になった。&lt;br /&gt;
　余人にとって他愛いもないことであろうが、古畑にとって最近の欣快なのである。&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;&lt;br /&gt;
&lt;div class=&#039;wiki&#039;&gt;　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　.&lt;br /&gt;
&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/fnj8823/37525947.html</link>
			<pubDate>Fri, 06 Mar 2009 18:36:43 +0900</pubDate>
			<category>練習用</category>
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