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ちょっとまじめな内容「生きる=食べる」
こうして考えていくと、芸術と科学は別々に存在するものではなく、「心と体に与える影響」という意味では、どちらも等価であるとわかるでしょう。

つまり、「エネルギーが高い」、もっと平たく言えば「質が高い」ものであったら、それが食べ物であっても器であっても、同じようにその人の心身を活性化させる働きがありうるわけです。

まずその人の存在している場があって、まとっている衣服があって、口にしている食べ物がある。その「衣食住」のトータルのエネルギーの質によって、その人の健康状態や心身の活性度が決まる。

もっと言えば、その人自身の値打ちが決まる。そこには、有機質も無機質もそれを取り巻く空間すらも「すべて」が関与しているはずです。
鉱物の世界に着目することは、栄養学に代表されるエビデンスの世界から、エビデンスではとらえきれない、物質そのものが持つ固有の質、エネルギーに着目することにつながってきます。

栄養学を勉強し、食品に含まれるミネラルの重要性を理解し、日常生活に取り入れていくことも大事ですが、私たちが影響を受けているのは、食物だけではない。直接、口に運ぶもの以外でも、じつは広い意味での「栄養補給」であったり、「食べる」ということであったりする。有機質も無機質も、この世界にあるものは最終的にはすべて元素にまで還元できることを考えれば、「すべてはつながっている」ことになるでしょう。

つまり、コンクリートでできたビルも、ペットボトルの容器も、ジャンクフードも、元素のレベルではもともと一緒。それぞれが固有のエネルギー、固有の質感を発して存在しているということもできます。

その「質」によって「価値」が決まるということを理解しておくと、食事1つ とっても意味合いが変わってくるはずです。大切なのは、何を食べるべきかではなく、いかに質のよい、エネルギーの高いものを摂取するか、なのです。

もっと主体的に、自らの意思で、自分らしく自由に生きたいと欲するならば、まずは自分自身の質を高めることに意識を向けていきましょう

いきなり超一流、達人の世界が拓けてくるわけではありません。思い通りにいかなくてつらい思いをしたり、もっと手っ取り早く欲しいものを手に入れたいと横道にそれることもあるかもしれません。でも、一歩一歩、そうした「道」を追求してみませんか?

体の声に耳を傾ければ、生物としての自分が本当は何を望んでいるのか? 誰に開かずともわかってきます。その声に正直にならずして、いったい何が正直と言えるでしょうか?体はそうした声を実現させるための土台であり、思いを形にしていくための大事な器にほかなりません。

もっと上手に使いこなせるよう、自分の体を大事にしていきましょう。そのために、食べることの意味を見つめ直しましょう。しっかり呼吸し、人とつながっていきましょう。
そうした探求のプロセスにこそ心地よさや楽しさ、本質の世界とふれあうことで感じられる深い感動がひそんでいます。迷いなく、好きなことに打ち込み、人生を輝かせていけるに違いありません。

確かに、「脳」はそういった「ブランド」に左右されることはしばしばあります。「テレビで紹介されていた一流レストラン」というだけでありがたい気分になって、料理が美味しく感じられることもありますから、プラセボ(偽薬) 効果のようなものだと見なすのもわからなくはありません。

でも、はたしてそれだけで割り切れる話でしょうか?lつ言えるのは、明らかに賛の変化が感じられたとしても、それを科学的に計測し、数値化するのは難しいということ。では、数値化できないものは存在しないのか?

人生も、生命力も、最高に高める容容易に結論が出る話ではないですが、鉱物の世界というのは、このように数値化できない「何か」と密接につながっている。

それは、比喩的な言い方をすれば、生のエネルギーに対する死のエネルギーです。

死の世界とは、哲学的には形而上という言葉を使います。形而下と形而上、この2 つがあわさってこの世界は形成されています。

鉱物= 無機質の世界は、素材としては物質(元素) ですが、物質的なくくりのなかでは収まりきらない何かとも言えるわけです。

その何かとは、科学に対する芸術の位置づけと重なるものでしょう。科学の一歩向こう側には、芸術の世界からアプローチされる無形の、エネルギー的なとしか言いようがない、もう1 つの生命の本質が隠されているのです。

たとえば、「たたずまい」という言葉がありますね?

目の前にいる人がダンディーだとか、貫録があるとか、楽しそうだとか…確かにそれを認識するのは脳ですが、認識するということはその人が付かを発しているはずです。
これと同様、盛りつけを変えたら料理がとても美味しく感じられた、心までウキウキしてきた。

そう認識しているのも脳かもしれませんが、脳がそう感じている以上、やはり何かが発せられているはずです。

脳は、表情や体型などから相手の存在を判断しますが、私たちの体はもっと本能的なところで相手の発する何かを感じ取っているはずです。

その何かは、五感だけですべて感じ取れるものではないでしょう。科学ではこうした発想をすること自体ないようですが、東洋では五感だけではとらえきれないものを「気」と呼び、1つのエネルギーとしてとらえてきました。

もちろん、そのエネルギーのなかには、その人に宿っている「生命力」も含まれるでしょう。人という存在は、肉体として見れば、タンパク質や脂質の填でしかありませんが、それがすべてではない。私たちは他者にエネルギー的な何かを感じ、その人の価値を自分なりに感じ取っているわけです。

こうした価値は科学のフレームでは思うようにとらえられないため、脳の作用としか言いようがなくなってくるわけですが、ないと言ってしまえば、価値そのものが成り立たない世界もある。要は科学と芸術とでは、認識する体系がまったく違う。
鉱物の世界は「科学の目」でとらえたらただのモノ(石ころ)でしかありませんが、そのフレームを外すと、そこに別の価値が生じてくる。要は、それが芸術の世界の認識であるわけです。

こうしたヒトとモノとの関係を見直すため、最後に、もっと広い視野から地球の生態系をとらえてみたいと思います。

そこには、動物、植物、微生物といった生き物ではない、様々な種類の「鉱物」も存在しています。「食べる-食べられる」の関係で成り立っている生物に対し、鉱物は基本的に「食べられない」世界に属しています。鉱物のなかにはミネラルとして摂取できるものもあるため、完全に食べられないわけではありませんが、それはとてもわずか。人間の体内でミネラルが占める割合は、ほんの5% ぐらいしかありません。

こうした鉱物が「無機質」と呼ばれているのに対し、生き物の体を作る炭水化物や脂質、タンパク質は「有機質」と呼ばれています。これらの栄養素にかぎらず、体内に棲んでいる菌やウイルスも、あるいは酵素もミトコンドリアもDNAも。

基本的に有機質からできていますから、そこに生命活動のすべてがあるように錯覚してしまいがちですが、地球全体を見渡した場合、その土台となっているのは無機質のほう。私たちにしても死んだら燃やされて骨と灰になるでしょう。有機質から無機質へと変化し、「土に返る」ことでこの人生を終えるのです。

有機箕が「生」の世界であるとしたら、無機質は「死」の世界。つまり、有機質でできている私たちからすると、鉱物は生きてはいない。でも、生きてないものだから不要なのかというと、そんなこともない。

自分自身を発酵(蘇生) させることが重要であるなら、大事なのは食べ物だけでないことも見えてきます。

たとえば、洋服や、雑貨、インテリアにしても、「少しでもいいものを手に入れたい」と思っている人は多いでしょう。少し奮発していい腕時計を買ったりするのも、時計には「時間を見る」という役割のほか、「身につけることで自分の質が高まる」という価値がひそんでいるからでしょう。

頑張って働いて、少しでもいいものを手に入れ、身につけ、あるいは心地いい空間に身を置く… … 。それは、「衣・食・住」の充実によって自己の質が高まるという実感があるから。

いわゆる成金がさげすまれ、どこか本当の豊かさとつながっていない感じがするのは、この「質」の部分が追いついていないからでしょう。

逆に、お金の有無にかかわらず品のいい人は、センスが良く、身につけるものを大事にしていることがわかります。

つまり、質を保とうという意識が高い。昔の人は、それを「粋」と呼んできました。生命力を高める。感覚・感性を磨く。品格を高める… … 。どんな言い方でも構いませんが、こうした言葉の総和が「自己を発酵させる」ことだと考えれば、この世界とのつながりがもっと有機的になってきます。

これまでの科学の世界は、この有機的なつながりを軽視して、数値化できるものばかりを追いかけてきた面がありました。しかし、数値化できないところに物事の本質があることは、芸術の世界を見れば明らかです。もっと自分自身を発酵させていきませんか?

自らを発酵させるためには、衣食住、生きることのすべてが大事であるはず。健康という狭い枠を離れて、自分自身の生命力をもっと開いていくという方向性で、発酵の意味をとらえ直してみる。一人一人が発酵し、生命を蘇生していくことで、この社会ももっと変化していくでしょう。

わずか2割で変化する

食べることは単なる栄養補給にとどまらず、生きることそのものにつながっているということを深く理解できる、ヒトと微生物の関係についてです。

発酵…ヒトを蘇生に向かわせるもの。
腐敗…ヒトを老化や死に向かわせるもの。

どちらも微生物が関わっていますが、かたや蘇生に向かい、かたや死に向かう。ヒトにとっては、生死に関わるくらいの差があるわけです。

たとえば、発酵食品が体にいいのは、「発酵によって食べ物の栄養価・保存性・味わいが高まるから」と言われています。これは微生物の力で食べ物の質が高まり、蘇生するということでしょう。

こうした発酵食品を取り入れれば腸の働きが活性化し、私たち自身が元気になり、蘇生に向かいます。植物を食べることが「生きる」ことの基盤だとしたら、微生物とのつきあいは、「より良く生きる」ことの基盤。私たちは目に見えない存在、菌とのつきあい方によって、自らの存在の質を高めていけるのです。

腸の環境を良くするには、腸内細菌の5分の1(約20%)を善玉菌が占める必要があるのですが、これは、「たった5分の1 が変わるだけでも生命力は十分に回復していく」ということでもあります。

すべてをいいものに変えなくてもいいのです。腐敗をうながす悪玉菌がいたとしても、その力は全体のバランスのなかで打ち消されますので、

自分自身を蘇生させる力が阻害されることはありません。はんの20% 、腸と相性がいい善玉菌たちが働くようになれば、善も悪も、どっちひよりみつかずの日和見も、すべてが共存したまま、全体が活かされるように環境が整っていくわけです。

現実社会もこれと同じでしょう。腐敗を起こすものを無理に排除せず、発酵できる環境を整えれば、ヒトはいくらでも蘇生していけるのです。

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