|
さて、こちらは高山の町古来の広範は資料が展示してある資料館です。 写真にもありますが、考古資料・金森氏資料・円空仏・酒造資料・火消し資料 祭り資料・町家資料・美術工芸資料と、多岐に渡って見学できます。 その全てを記事にしたら大変ですので、やんわりと簡単にいきましょう(笑) 今回は高山の町の開祖、金森氏に関して述べます。 (以下、資料館での資料抜粋です) 初代 金森長近 金森氏は美濃の土岐一族の出身で、当初大畑姓であった。 長近は大永4年(1524)美濃国に生まれ五郎八、可近と称し近江国金森(かねがもり)に 移り住み、金森姓を称した。のち織田信長に仕え天正3年(1575)越前国大野の領主となり 大野城を築いた。 信長没後は豊臣秀吉に仕え、天正13年(1585)飛騨へ侵攻した。当時飛騨の大部分は、 三木氏の勢力下にあったが、これを平定し翌年、天正14年飛騨一国を賜った。 飛騨においては高山城の築城や城下町。東西南北街道の整備を行うなど、現在の高山の 基礎を築いた。 関ヶ原の合戦では徳川方につき、飛騨一国のほか、美濃の国上有知(こうずち:現在の美濃の町) 河内国金田の分2万3千石が加増された。 そこで飛騨を可重(もりしげ:嫡男)に預け、自らは上有知に小倉山城を築き、移り住んだ。 また、長近は茶道に通じ、伏見の別邸に家康、秀忠を迎えるほどで、当時一流の茶人として 知られていたことがわかる。 長近は、一向一揆の中心勢力であった照蓮寺を移すなど、民心の安定をはかり、飛騨侵攻の際は 敵将「三木自綱を許すなど、無益な殺生は避け、敵の戦死者を厚く弔ったという、慈悲深い人格で あったことがうかがわれる。 慶長13年(1608)85歳で没す。 法名 金龍院殿前兵部尚書法印素玄大居士 高山城主 金森氏六代 高山城主金森氏六代は長近・可重・頼直・頼業・頼貴である。 初代長近が天正13年(1585)豊臣秀吉の命により入国してから、6代頼貴が元禄5年(1692) 出羽(山形県)上ノ山へ転封されるまで107年間続いた。 金森氏は、高山城の築城、商人を呼びよせて城下町の整備、東山の寺院建立につとめ、現在の 高山市街地形成の基礎づくりをすると共に、豊富な山林資源や鉱山の開発、新田の開墾、 東西南北街道の整備、番所の設置、治水工事などをはじめ、木工業や陶窯を開くなど領内の 産業の発展につとめた。 また、浄土真宗信仰の中心であった白川の照蓮寺を高山へ移したり、飢饉の時には金森家の 家宝の茶壷を売って領民を救うなど、民心の安定をはかるかたわら、高山祭、茶道、連歌、和歌 などを奨励して、山都高山に、上品で質の高い文化を伝え広めた。 古代から中世にかけて、飛騨の地は交通至難な国であったが、金森家の善政によって豊かな 国づくりが進められ、後には幕府の直轄地となった。高山の町づくりにの基礎は、金森六代の業績が 大きかったことを物語っており、高山市誕生の祖である金森家六代道徳が偲ばれる。 @以上、高山市歴史民族資料館資料より |
全体表示
[ リスト ]



高山城主6代頼貴が出羽(山形県)上ノ山へ転封されているのですね。それじゃ親戚みたいなものです。高山は!色々参考になりました。楽しいものです。昔を辿ることは!!
2006/2/20(月) 午前 6:06 [ - ]
のりたけさん>飛騨高山の開祖、金森氏の末裔が出羽に転封されていたことで、のりたけさんと高山の距離がぐっと縮まりましたネ〜♪ のりたけさんが高山に惹かれるのは、遠い先祖の血が騒ぐのかも?…なんて、勝手な想像はいけませんね。。コメント有り難うございました。
2006/2/20(月) 午後 6:58