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ギャフン

 わたしの家では朝日新聞を購読している。楽しみにしているのは、夕刊に掲載される3本の連載記事である。そのうちの一つである船越園子氏の「素顔のプロ達、米国ゴルフツアー」の9月3日付けの記事で、ある選手に関して書いた雑誌記事とそれに対する本人の反応について書かれていた。
 その記事で一番重要な記述は「書き手にも意志があり意図がある。それがなければ『見ざる、聞かざる、書かざる』」(朝日新聞平成21年9月3日夕刊)という部分だろう。船越氏はこの記事でゴルフジャーナリストという肩書きが付けられている。ジャーナリストとして、選手との馴れ合い記事では「波風は立たないが、生まれるものもない。」(同記事内)というのだ。
 日本では日頃からマスメディアは不偏不党を謳っている。テレビ・ラジオ局等は、放送法の第1条の2項で「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保すること」が求められている。8月30日に投票・開票が行われた衆議院選挙の報道でも、選挙公示日までは活発な意見交換を行う番組を放送していたテレビが、急に選挙以外の内容が増えたのもこのためであろう。
 しかし、ある人の何かを伝えたいという思いは既にその人の主観である。その瞬間、不偏不党はもはや有り得ない。それなのに、不偏不党を謳うのは、実際には確固たる意志と意図がないことを、この言葉を隠れ蓑にして誤魔化しているだけなのではないだろうか。或いは、本来の意志と意図を隠して報道することで何らかの成果を挙げようとしているのではないかと疑ってしまう。
 わたしは、報道に不偏不党を期待しない。発信者の確固たる意志を期待する。
 因みに、今回の選挙では小選挙区も比例区も自民党に投票した。

 前稿にあるように、わたしの住む愛知県岡崎市は8月末の豪雨で被害をうけた。9月4日、5日の2日間ボランティアに参加したのだが、以下その時の雑感である。
 
 9月4日に行った先では、水害以来殆んど手付かずといってよいような家があった。家具調度やカビが発生している畳などを運び出したが、犠牲者が発生した地域、即ち災害直後に人員を集中したであろう地域に、何故この様な手付かずの場所が発生したのか訝しく思った。又、自らの経験をわたし達に語ってくれる地元住民の方がいたが、未曾有の体験を人に喋ることでストレスの発散にもなると聞いたことがある。ボランティア団体の活動報告などに「話し相手になるだけでも喜ばれる」という記述を見ることがあるが、それを実感した気がする。
 9月5日に行った先は、その周囲で1軒だけ浸水被害にあったようだった。道沿いの家の脇から奥に入っていくのだが、その時1メートルほど土地が下がっている。その様にして一方を段差のある土地に、残りの三方を隣家との境界線のブロック塀に囲まれてしまい、水の逃げ場がなくなった為に浸水被害にあったようだった。普段の雨量なら側溝などで排水できていたのだろうが、今回の豪雨では間に合わずに、その一画だけ水が溜まったものと想像する。家などを建てる時に、細かいところまで気を配っているかをチェックする必要があるのだろう。そしてここも手付かずに近い状態だった。水が退いた後の畳の上にシートを引き生活していたようだった。家屋自体が古いこととあいまって、畳をはがした後の床板や、それを支える梁も深刻なダメージを受けており、その日の夜からの生活に支障が出るものと想像できた。ボランティアセンターに状況を説明し、社会福祉協議会・民生委員などのフォローを入れてもらうことにして撤収したが、住民の方のこれからを思うと無念の思いであった。
 よく、災害時のボランティアで「積極的なニーズの掘り起こし」等という表現がある。押し付けがましい気がしないでもないが、このような事例を2日に渉って目にすると確かに必要なことなのだろうとも思える。

 今回の豪雨で死亡者があったのは市内を流れる伊賀川流域の数百メートルしか離れていない狭い範囲である。つまり、そこには水害による被害の要因が集中していたとも言えるのであろう。そして、そこから少し離れていた地域では、比較的軽度の被害で済み、500メートルも離れれば、大雨が降った以上のことは無かったかの様である。
 ボランティアセンターのある福祉会館は、人の出入りが普段より多く、それが非日常的空間を作っているが、センターから被害地域の間にある街は岡崎市民であるわたしにとって見慣れた日常風景である。しかし、幹線道路を曲がれば今度は胸が締め付けられるような光景である。まさに紙一重の差である。わたしの家が無傷だったのも、只の偶然と考えるべきなのであろう。大げさに言えば世の無常である。
 そして、他の地域からボランティアに参加するために来た人たちがいる一方で、被害を免れた夜の街はいつものように酔客で賑わうのである。
 愉しめるうちに愉しむべきという気もするのだが、複雑な気分である。

平成20年8月末豪雨

 先月末の大雨について、気象庁では「平成20年8月末豪雨」と命名したそうである。
 わたしの住む愛知県岡崎市は美合町で1時間に146.5ミリの豪雨となり、同町と蓑川町の境界近くを流れる川の橋が落ちた他、河川の増水により2名の犠牲者を出すなど大きな被害を受けた。
 被害地区の多くは水害の恐れが指摘されていたそうである。わたしは、その地区に時々行くことがあるが、確かに水害対策の必要な地形である。河川改修工事や橋梁の架け替えなどが行われており、行政が無策だったとは言わないが、結果として「遅く、少ない」ということになってしまったようだ。
 ところで、全市対象の避難勧告だったのにも関わらず、その情報を知らされた人数の少なさについて批判があるようだ。わたしは8月28日の夜から29日未明にかけて起きており、ラジオ・テレビで避難勧告について承知していたが、行政を通じての連絡はこないままだった。同じ町内でも、町内会の総代→評議員(そこそこ田舎なのでこの様な機構が生きている)を通じて電話連絡を受けた人もいるようであり、狭い地域でも対応に差があったのは事実である。
 とは言え、強制力の無い勧告を午前2時頃に電話で連絡するのも気が引けるだろう。わたしも、その時は知らなかったとはいえ、既に死亡者が出るような危険な状態の地域があったのにも関わらず、4時頃には差し迫った危険は無いと判断して寝てしまったのである。このあたりの判断はかなり難しいのではないだろうか?

 日本人は、裁判を真実を明らかにする場として見ているのであって損得関係を調整する場としては見ていないはずだ。(民事の場合でも、法的にはどうなのかをはっきりしたいだけの場合が多いのではないか)
 わたしが、裁判に挑む弁護士に期待しているのは、被告人の刑罰を多少なりとも減免する為に嘘を言ってまで利益を誘導することではなく、裁判に不慣れな被告人に専門家としての助言を与える事により裁判の公正さに寄与し、さらには真実を明らかにすることで、社会正義の実現に寄与することである。その過程で、被告人が贖罪と反省の気持ちを持つに至るなら万々歳である。>>776の言うように、「あらゆる言論をする」時に、嘘や、反社会的行為が混じるのは被告人の利益の拡大解釈であると思う。

以上、さっき2ちゃんに投稿した内容。

 つい最近、2ちゃんの速報の中で、「嗚呼、なるほど」と思った事がある。
記憶が定かではないのだが、多分、愛知県長久手町で起きた立て篭もり事件の時の報道陣のマナーを扱ったスレタイだったはずだが、そのなかで、「報道の自由と報道局の自由を勘違いしている」という記述があったのだ。報道の自由は大切だが、それに携わる人の行動を無制限に許しているわけではないということだ。
 最近は、憲法改正論議やテレビの捏造問題などで、マスコミ規制について言及されることが有るが、それに対して報道の自由を唱えるときの彼らを見ると、特権階級にいるがごとき勘違いをしているのではないかと思うときがある。事件・事故が起こると、すぐに関係者に対して第三者機関でのチェックを言い出すのに、マスコミは特別みたいに自律を唱えるのは公正さに欠けるのではないか?

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