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上海爆弾義挙・李康勲

上海爆弾義挙・李康勲
時はまさに1933年1月の中頃であった。 わたしは本来、何々主義だと標榜することを否定する。

わが祖国を強奪する敵を憎んでいるのだから民族主義だと断定したり、無政府主義と革命事業を

ともにしたからといって、私を黒とみなしたり、あるいは共産主義者と握手したことが過去にあるとい

って、赤と考える人がいるとすれば、それも笑うべき話である。

 私がこのたび上海に来て、無政府主義者と行動をともにし、無政府主義者として知られている白

貞基義士と事をともに挙げたからといって私を無政府主義者と断定することも誤りである。  

 1930年代の上海  その時まで連絡をとりあっていた白貞基義士をまっ先にたずねた。この時の

上海は、11年前に見た上海に比べると非常に変貌をとげていた。まず、フランス租界の福履理路、

歩高里にあるアパート亭元坊をたずねた。ここは白貞基義士をはじめ、彼と志を同じくする革命闘

士、とりわけ世間で無政府主義者と称する人物たちの革命の根拠地であった。ここに集まって来

る人物は口先だけではなく、直接行動で義のためには肉体を鴻毛のごとくに考える革命闘士たち

であった。  

 すなわち、私が逮捕された後、敵を処断して逮捕 され、敵の絞首台で殉死した呉冕稙《一名楊

汝舟》、厳舜奉《一名亨淳》、十余年の獄中暮らしをへて8.15解放で釈放された金聖寿《別名芝江

あるいは朱烈》李圭虎《李会栄の息子、現在鉄道有貞郵逓局長》義烈団の中堅人物として、当時

は教授生活をしていた柳子明《別名友槿》陰に陽に革命闘士たちを助け、指導的な立場にあった

鄭華岩《現在ソウル在住》李守鉉《本名朴基成、現在予備役准将》李容俊《別名千里芳》鄭海里

《一名東吾》、李達ら、多士済済で、見識や勇気や義理の面で信じるに足る集団であった。  

 こうした情勢の中で、ある意味で無政府主義革命闘士が、臨時政府の法統を死守しつつ、抗日

闘争を展開していた金九先生の事業を一時、そのまま引き継いで代行しているように思われたり

した。事実、究極的な目的や理想は少し異なるが、抗日闘争を展開する過程では民族陣営と無政

府主義革命闘士は渾然一体となって独立運動をくりひろげた。また無政府主義的な革命理論は、

いつも理論の貧困によって若いエリートたちを導くのに苦しい立場にあった民族陣営を、理論と実際

的な行動面で補強する力となった。丹斎申采浩や柳子明をはじめとして、多くの自由革命闘士は高

邁な知識人であり、自主独立のために高貴な聖血を捧げた人であった。しかしかれらをアナキストだ

というだけで、その科学的ですぐれた自由革命理論を理解する卓見も推量もないくせに、祖国の光

復運動にうちたてた彼らの輝かしい業績を高く評価せず、白眼視する者たちがいたことは本当に残

念あった。しかし、清廉潔白な彼らは、名誉や利益を度外視して闘った。すでに、人によっては周知

のことであるが、無政府主義の指導的革命闘士の一人であった鄭華岩は、白凡とあい謀って、互い

に緊密な連係のもとに走狗たちの粛清など、多くの事業に協力した。そして、白凡が上海をさらざる

をえなかった時期には、鄭華岩が第二の白凡であるといっても過言ではないほどで、上海フランス租

界の中で革命同志から信頼と協力を受けながら、たえまなく活動を続けた。  

 走狗のやからは、彼の名を聞いただけでも怯える状態であった。とりわけ、1932年頃からそうであっ

た。  

 この頃には義烈団員の活動もあるにはあったが、上海方面ではさして注目するほどの活動はなかっ

た。しかし、義烈団員の中の中心的な幾人かは無政府主義連盟に参加し、猛烈に活動を展開した。  

 1932年、実権を握ったのは陸軍大臣の荒木貞夫であった。荒木は駐中公使有吉明ら彼の腹心を中

国に派遣し、中国国民党の要員を買収しようと画策した。日本円で4000万円の巨額な金を有吉に与え、

中国の敗残軍閥や国民党内の腐敗分子、反逆分子および失意の政客をだきこむために陰謀をたくらみ

始めた。日帝の当面の目的は、国民政府をして反満・抗日運動を慰撫あるいは取締ること、熱河省にお

いて抗日運動を中止させるようにすること、韓人の抗日運動家を取締まるに際しては協力することなどで

あった。万が一この通りに妥協が成立するならば韓・中両国民の運命を左右するほどの暗黒の場面がお

し迫ってくることになる。  日帝の軍閥は中国の執権者をして対日抗戦を終息させ、事実上、満州大陸を

侵略した既成事実を黙認させてしまおうと夢見て、長期間にわたって陰謀を画策し続けていた。それまで

の策動を総括する会議が1933年3月17日、上海の共同租界の文路にある日本人経営の高級料亭、六

三亭で開かれることになった。  時は1933年3月5日、場所は上海フランス租界にある亭元坊というアパ

ートの二階の床の間であった。集まって来た革命同志は白貞基、厳舜奉、呉冕稙、李容俊、金芝江、李

達、元勲《一名心昌》鄭華岩、李守鉉、そして私、李康勲であった。  有吉は私が処断するから同志たち

は了解してほしいと発言した。……  爆弾は前年、伊奉吉義士が使用したものと同じ性能の最も強力な

ものを用いることにした。有吉らが会議を終え、出てきて、自動車に乗る瞬間に弁当の形にした爆弾を投

げ込めば、必ずや警備をしていた日本領事館警察が私を捕間えに襲撃してくるであろうから、白貞基義

士は手榴弾を奴等に投げ込み、その次におし寄せてくる敵に拳銃を発射し、できるかぎり一人でも多くの

敵を処断しようということにした。……  このたびの失敗は、前に述べたように、私の単独テロ計画を放棄

して同志たちの言う通りにしたがったことが、第一の原因であり、次は元心昌同志の手落ちによるもので

あった。しかし、逮捕された時から白義士と私は、少しも元昌心を怨む気はなかった。事をやってみてどう

したわけかこのような結果にいたったのであるから、いかんせん。元心昌同志も気魄にみちた革命家とし

て、人間的にも立派な人物であった。また、日本社会運動の先覚者であり、大思想家である大杉栄と、

もっとも親しい間柄であった。また、彼の先輩でもある朴烈とともに、無政府主義的な革命家して、日本に

居留する韓人の無政府主義的な自由革命家の代表的な人物であった。  この文を書いている1973年7

月は、元心昌がこの世を去ってから満一年になる。彼は昨年7月4日、念願していた祖国の統一を見るこ

ともなく異域の日本で逝去した。  

 白義士は1935年5月22日、長崎刑務所で獄死した。  

 ……  ここでもう一つ、私が明かにしなければならない問題は、団体の名称である。当時、どの新聞にも、

あるいはその後、現在までに出版されたどの独立運動史にも「黒色恐怖団」という名称が散見されるが、事

実は、このような団体はあるはずもなく、このような名称を使ったこともなかった。この名称が生まれたわけは

私たちが有吉を爆殺することに決定し、白義士や柳子明、呉冕稙、鄭華岩と私の五人が善後策を考えている

時、私たちがこの闘いを断行した後、世間に声明書を発表しなければならないが、団体の名称をどうしようか

というのが問題になったからである。  しばらく、座中が静まりかえっていたが、柳子明が敵が聞いても恐怖

を感じるよう「黒色恐怖団《BLACK TERRORIST PARTY》」にしようと提案した。その話に反対する者はなく、

そのまま決定されたのであった。これは一回きりの幽霊団体であったが、従来からあった既成団体のように

知られるところとなったのである。

集会案内転載

〜 日本の人種主義等に関する報告書を作成した国連特別報告官ドゥドゥ・ディエンさんをお招きして 〜

ドゥドゥ・ディエンさん(セネガル)は、2002年、国連人権委員会から「現代的

形態の人種主義、人種差別、排外主義および関連する不寛容に関する特別報告者」に

任命され、2005年7月に調査のために来日して、その調査結果を2006年1月

24日に「日本への公式訪問に関する報告書」として発表されました。

   人種差別問題に関しては、2001年に日本政府報告書に対するカウンターレ

ポートを作成して国連に提出した日弁連を中心に、弁護士会としても積極的に取り組

んでまいりましたが、今回ディエンさんが来日するにあたり、日本公式訪問報告書お

よびそれに対する日本政府の反論文書への再反論、カナダ・コロンビアなど他に報告

書を作成された国と日本との比較、特別報告者制度と現在進行中の国連改革制度など

についてお話をうかがうとともに、併せて意見交換を行う機会を設け、この問題につ

いての弁護士会の今後の取り組み、ひいては日本における人種差別撤廃へむけての一

歩としたいと思います。

1 日時 2007年2月26日(月) 午後6時〜9時

2 場所 東京都千代田区霞が関1-1-3(地下鉄霞ヶ関駅B1b出口)

     弁護士会館12階 第一東京弁護士会講堂

3 予定プログラム

(1)ドゥドゥ・ディエンさん講演

(2)裁判所から調停委員の採用を拒否された在日コリアンの弁護士から

のアピールおよび弁護士会からのこの問題に関する報告

(3)外国籍住民に対する職務質問についての弁護士会からの報告

※ 入場無料

お問合せ先  東京弁護士会法律相談課 03(3581)2206

       http://www.toben.or.jp

昨年11月、韓国の「真実と和解のための過去事整理委員会」のメンバーが来訪した。先行したのは委員長をはじめとした幹事メンバーで委員会の活動の周知と協力要請が行われ、在日コリアンを中心として人権問題、歴史研究に関わっている十名あまりの人たちと懇談の場がもたれ私も出席をした。当日は日本語に翻訳された委員会の概要が資料として配布された。そして数日をおいて調査グループも来訪し具体的に調査協力のための文献を提供した。
同委員会は資料によると韓国政府の組織であるが大統領所属ではなく独立した国家機関であり四年を活動年限としている。略称は「真実和解委員会」。05年5月に国会で制定された「真実と和解のための過去事整理基本法」<法制定過程に関しては『韓国の「過去清算」とは何か』というタイトルで藤永壯(ふじながたけし)氏が『情況』05年10月号に論文を掲載>に基づき、05年12月から同委員会が公式に活動を始めた。
「犠牲者」「遺族」からの真実糾明申請を受付、職権調査をすすめることができる。<「申請」は06年11月末日で締切られている>。来訪に合わせて広報も行われたが『朝日新聞』が十数行の記事掲載をしただけのようである。重要課題として
「民族独立糾明」の領域として≪日帝強占期あるいはその直前に行われた抗日独立運動、日帝強占期以降、2005年12月1日まで我が国の主権を守り国力を伸張させるなどの海外同胞史≫。
「集団犠牲糾明」の領域として≪1945年8月15日より権威主義統治時期に至るまでの憲政秩序破壊行為など違法あるいは著しく不当な公権力の行使によって発生した死亡・障害・失踪事件、その他重大な人権侵害事件と造作疑惑事件≫。<李承晩・朴正煕・全斗煥政権>
その他の課題とし≪「民事訴訟法」「刑事訴訟法」による再審事由に該当し真実糾明の必要性が認められた裁判所の確定判決事件、疑問死真相糾明委員会の未完結事件あるいは再調査申請事件≫を対象としている。
昨7月29日「韓国自由共同体研究会」と共同で聞慶(ムンギョン)セジェ博物館にて朴烈と金子文子に関しワークショップを東京や山梨からの参加者と共に開催した。聞慶市は、2000年に朴烈記念事業会を発足させ、展示館の建立、生家の復元など多様な事業を繰り広げている。この共同のワークショップは聯合ニュースとハンギョレ新聞により告知され、前記「真実和解委員会」から調査委員二名が当日参加した。参加した趣旨は朴烈、金子文子たちが1923年にたちあげた「不逞社」に参加していた活動家の遺族が同委員会に「真実糾明申請」をしたことによる調査開始のためである。そして協力を求められ東京での再会となった。

当時「不逞社」への日帝によるフレームアップ弾圧は治安警察法<秘密結社に相当とする>、爆発物物取締罰則からエスカレートし、刑法73条<大逆罪>が浮上してきた。金子文子と朴烈は同志への波及を阻止するため自らが有していた天皇とその一族への打倒の意志を具体的計画が進捗していたわけでもないが予審廷で語り始めた。そのため不逞社メンバーは一年前後の不当拘留のあげく予審免訴<不起訴>となった。しかし、その後金子文子、朴烈への救援を担ったメンバーがその過程の1925年に成立した治安維持法違反により韓国の「真友連盟事件」というグループに関わる件でフレームアップされ3年から5年の実刑を受け、二名の朝鮮の活動家が実質獄死する要因となっている。

 この国においては、金子文子・朴烈への大逆罪によるフレームアップに対して1945年以降、今日に至るも国家としての責任がとられていない。そして二人の「事件」の十五年前に全体としてはフレームアップであった「幸徳事件」への犠牲者への責任も国家は回避した。今年も1月27日に<大逆事件の真実をあきらかにする会>により「大逆事件処刑97年追悼集会」が開かれた。同会は1960年の再審準備が発足の大きな柱となっている。その経緯は「1961年1月18日、坂本清馬、森近栄子(運平実妹)東京高裁に再審請求申立て、森長弁護人等代理人、1965年12月1日再審請求棄却、1965年12月14日特別抗告、1966年9月20日最高裁審理決定、1967年7月5日高裁決定を有効と判断、特別抗告棄却」であり再審の途は閉ざされている。

 今年の集いも管野須賀子の墓碑がある正春寺に全国各地から50名を越える参加者<幸徳事件の被弾圧者「子孫」、関係者、横浜事件の被告関係者、再審弁護団等>があった。

 また金子文子の死去から八十年を迎えた昨年6月には「徹底した平等主義、天皇や天皇を中心とした国家の存在の否定」に現れた金子文子の思想、生き方や裁判の検証、朝鮮の人々への思いへの研究を柱として、「やまなし金子文子研究会」が発足し全国に向けて参加が呼びかけられている。韓国では7月の聞慶におけるワークショップ、8月にはKBS TVにより「金子文子」の生き方がドラマ化されている。8月26日付『釜山日報』に番組の内容が解説されている。以下部分引用。

<天皇暗殺を図った朝鮮の男性朴烈(パク・ヨル)と日本の女性金子文子に死刑が宣告された。瞬間、朴烈は「裁判長、君も苦労したな」と語り、金子文子は万歳を叫んだ。日帝の死刑宣告にも屈しなかった彼らは、果たしてどんな人たちだろうか。「KBSスペシャル」が、彼らの人生と死を扱った特集ドラマを送りだす。26、27日午後8時KBS 1TVで放送される2部作「金子文子」「朴烈と一緒なら、死も満足する」という熱い愛、無政府主義に傾倒した彼女の思想を盛り込んでいる。世界の無産革命を夢見た二人は、革命の最大の障害物と天皇を規定し、彼を除去する計画を立てるが、爆弾テロによる天皇暗殺企画は計画段階で挫折する。平凡な「不良な取締まり」にひっかかり、計画全体が発覚してしまったのだ。しかし、彼らの真の闘争はこの時から始まる。朴烈と金子文子は無罪を主張せず、自分たちが正しいことをしようとしたと話した。「天皇暗殺計画は、極めて正当だった」と主張しながら、法廷を闘争の場に変えたのだ。以後、彼らは「天皇はなぜ暗殺されるべきか」をめぐり、日本の司法府と命を担保にした正面対決を展開する。>

 また「独立記念館」においても朴烈と金子文子のみならず闘争を行い日帝の監獄に囚われたアナキストたちの活動内容が「展示」された。一方、この国では「昭和の日」制定、「昭和記念館」開館と天皇<制>が強められている。

虎ノ門事件や桜田門事件の検証をも含めて「大逆罪弾圧」を糾明する機会がより多くもたれることを願う。

二〇〇五年一月一三日、「布施辰治・自由と人権」と題した記念シンポジウムが明治大学・明治大学法学部主催で開かれた。
 記念とは韓国政府が布施に日本人として初めて「建国勲章」を授与したことである。副題が「明治法律学校出身の社会派弁護士」。布施は明治大学とゆかりがあり公判書類、蔵書等の一部は明治大学図書館に遺族から寄贈がされている。
 布施が韓国で評価されたのは朝鮮人留学生による独立宣言への弾圧、出版法違反裁判への無償弁護を始めとし(一九一九年二月八日、神田の朝鮮基督教青年会館で宣言された)、義烈団、朝鮮での農民の土地問題、朝鮮共産党事件などの弁護活動、関東大震災下の虐殺事件の調査・抗議等はば広く朝鮮の民衆のために活動したことである。
弁護活動の一つに金子文子・朴烈の大逆事件もある。
第一部として関係者の挨拶が続き、遺族を代表し孫である日本評論社、大石進会長の発言でしめられた。
第二部のシンポジウムのパネラーは明治大学から山泉進法学部教授他一名、布施の伝記を執筆中という森正名古屋市立大学名誉教授、そしてソウルから招請された李文昌国民文化研究所名誉会長。
 発言の主題は「朝鮮民族との連帯」、主要には朴烈・金子文子との関係で語り一九二二年からの布施と二人の邂逅から、大審院の法廷闘争での連帯の内容を語った。また布施の著作『自治研講和』から「無為而治」(為さずして始める)を引用、「人間生活の理想は誰からも支配されない自由と誰も支配しない平等の社会」を建設することにあると布施の理想を無強制無権力の完全な自治社会の実現にあると、論を展開した。

翌日、私の案内で李会長を金子文子の故郷である山梨の牧丘町へと誘う。牧丘町訪問に先立ち塩山市内で「李文昌さんを囲む会」が開催され金子文子を通じての韓国、ムンギョンと山梨のつながりを重点にした懇談会を開かれた。遺族である金子こま江さんら金子文子に関心を寄せてきた人たち二〇名近くの参加者があった。
牧丘町の金子家では歌碑の説明を受け、葡萄畑から山並みを展望、築二百年前後という文子も出入りしたこま江さん宅に上がらせてもらい、文子の生きてきた時代を偲んだ。

三月一三日、布施の出身地、石巻市において布施辰治を語る会(市、市教委、布施辰治顕彰会主催)が開かれ李文昌さんが再び日本の地に招かれた。筆者も参加のため石巻を初めて訪問。布施の生誕地、記念碑を見学、布施辰治顕彰会の人たちと交流した。会場には二百人余りの市民が集まり熱心に聞いていた。
 講師のもう一人は岩手大の早坂啓造名誉教授。大正期に布施が扱った岩手の小繋(こつなぎ)入会権訴訟を語った。
 李会長は朝鮮独立と布施の関わりを語り「差別のない平和な社会は、今からの東アジアの共通課題だ」と結んだ。
 

布施辰治著『運命の勝利者朴烈』目次と主要内容

一、獄中闘争23年

1 運命の勝利 朴烈君の生還

2 獄中闘争23年 総日数、8091日。22年2ヶ月1日。

3 朴烈君の健康 1923年10月、市ヶ谷刑務所に収容当時の健康調査、身長五尺二寸二分……幾つかの病気

4 朴烈君の生還 最後の面会は千葉刑で文子さんの死を伝えた時、一秒間面会。 生還後の第一次会見「丈夫で会えたのが嬉しい」「僕の生還は少しも偉くありませんよ」「生還するなどと云うことを考えて生還したのじゃないんだから……」「死ぬことばかり考えていたんです」「……死ぬまで闘争の力を逞しく保って死ぬことばかり考えたね」「おれは呪いはじめた天皇を呪い抜きたい。力強く、獄死の一瞬間まで呪い抜きたい。できたら呪い殺したい。天皇を呪い殺す力を最後まで失いたくないと思ってね。大正15年4月6日千葉刑務所下獄の第一日空、生還する秋田刑務所の最後の日まで、冷水摩擦を一日だって怠らずにやり続けているんだがね。その健康法が、このおれを生還させたのさ」

5 獄中生活の足どり 9月3日の逮捕は保護検束という行政執行法第一条…… 9月4日、救護検束24時間を過ぎ、警察犯処罰令「……徘徊する者」の該当者として「拘留29日」 10月20日には拘留期間満了と同時に1924年2月5日まで治安警察法違反被告として市ヶ谷刑務所に起訴収容、「秘密結社は之を禁ず」

6 運命の奇蹟は続く 「朴烈は恩赦前後の十日間を筆者に語った」 1926年3月26日、秋山刑務所所長に面会、死刑の執行を打ち合わせ、死刑執行の三箇条要求 その一箇条「……日本の法律を認めないのだから、執行命令の申渡しなどという彼らの合法手段を省略し、イキナリ締め殺してしまう虐殺を希望すること」 その二箇条「俺は自分の生を否定して、天皇の生を否定する大逆事件の決行を企てたのだから、俺は絶対に死刑の執行を恐れないし、また、死刑の執行に抗議するような態度は絶対にとらない。いつでも好きな時、大いに安心して執行の準備を進めてもらいたいこと」その三箇条「ただし死刑を執行するまではできるだけ、俺の言動を自由にし、俺の気に入った看守を俺の申し出通り俺のところへよこして、俺の話を聴かしてもらいたいこと」  妻の文子も俺と同一意見だから、俺と同様に待遇してもらいたいといったら、秋山所長も覆いに感激したらしいようで、4月4日まで俺の要求通り看守どもに話を聴かせて、死刑執行の日を待っていたのだ。 しかるに4月5日、突然思いもかけない死刑一等を減じて無期懲役にするという彼らの恩赦……文子のいう生命の翻奔がやってきた…… ともあれ、恩赦令を手にした秋山所長は、喜んで朴烈君にもその旨を伝えた。すると朴烈君は、 「生かすのも天皇の勝手だよ。殺すのも天皇の勝手だよ。生かしておくことが刑罰なら生かしておくがいいさ。殺すことが刑罰なら殺すもいいさ。しかし、それはあくまで天皇の勝手で、俺は天皇の勝手になりたくないね。日本の天皇から恩赦だなんて恩を着せられる義理もなければ、理由もない。ただ俺は俺の呪いたいように、生きていれば生き霊になり、死ねば死霊になって天皇を呪うだけで、そんな恩赦令などというものには用がないね」 布施「恩赦は政治的判断、その後の恩赦からは外されている」「現実に朴烈君を生還させたものは進駐軍司令官の政治犯人即時釈放に関する指令である」「当然10月10日までに釈放されるはずの朴烈君が10月27日まで抑留されたのもそのためであること……」

7 文子さんはなぜ獄死したか? 筆者は12月7日、朴烈君の東京における歓迎会で、歓迎の言葉とともに文子さんの獄死を悼んだ。

二、朴烈君の法廷態度

1 法廷態度の研究と追憶 2 警察における被告態度 取調べを拒絶し、一枚の調書をもとらせていない。 3 検事局における被告態度 一枚の検事聴取書をも残していない 4 予審における被告態度 「俺は同志に関することはもはや何もいわぬことに決めている」 結局不逞社事件は事件に関連した同志12名の起訴を免訴せしめている 5 法廷における被告態度 筆者を通じて交渉した四条件 6 鑑定の拒絶 7 証人と同志のために 予審での李小紅調書関連 8 怪写真のエピソード 朴烈自身の証言 筆者の論文「怪写真事件の主点と批判」『改造』1925年10月所載

9 爆発物取締違反から大逆事件へ

10 十七回訊問調書 筆者は朴烈君と共に、この調書を読み返して当時の悲憤と激情を語り合ったのだが、少しも無理のない筆者の解説が、朴烈君によって承認されたことを附記しておく。 問「そのほか、何か申立てることはないかね?」もうこれで大体取調べが終わるのだがね……ということを示唆すると、 朴烈君はいう。 「俺は君に読ましておこうと思って、俺が監獄で書いた『陰謀論』『不逞鮮人より日本の権力者階級に与ふ』『俺の宣言』『働かずにどしどし喰ひ倒す論』というのをもってきた。『俺の宣言』と『働かずにどしどし喰ひ倒す論』とは、俺の虚無的思想を表したものである。『陰謀論』は虚無主義としての戦略を書いたものである。『不逞鮮人より日本の権力者階級に与ふ』は、朝鮮人として、俺が、日本帝国に対する態度を宣言したものであるから、ぜひ読んでみるがいい。」 このとき被告人は、右の書き物四綴りを提出した、と記したのち、 問「この書き物を押収しようと思うがよいか?」 答「俺が、こんなものを書いたものは、どうせ君たちに読ませるつもりなのだし、君たちにとっては実物になるかも知れないから、押収しておくがいいさ。しかし、公判廷に立った時それを読むつもりだから、その時は俺の方にかえしてくれなければいけない。裁判官の問などに答えず、俺のいいたいことをいうために、これを読みあげるんだから、そのことをハッキリ書いて、後にまごつかないようにしておいてくれ」 このとき、予審判事は被告人に対し、右書き物四綴りを押収する旨を告げ、さらに弁護人について何か希望があるか、と問うた。

三、大逆事件の真相

1 判決書による不発爆弾 2 総督府のスパイ工作と金相玉事件 3 大逆事件の思想的背景 義烈団の本拠上海と連絡することが一番便宜であり、爆弾入手の可能性が確実……義烈団の対日憎悪を結集した革命宣言に動かされている影響が多い。 筆者は、朝鮮で義烈団事件の弁護を担当し、金思◆君、金元凰君らから義烈団の革命精神を聴き、……二重橋事件の……金思◆君をも弁護した関係で義烈団の革命宣言を閲読し、大いにその壮烈を賛嘆した。朴烈君の大逆事件にも日本政府は義烈団事件の革命宣言を参考記録として取寄せており、朴烈君の大逆事件と義烈団の革命精神は不二一体の関係にあるといっても差支えないように思う。……

四、朝鮮革命宣言 1 強盗日本に喰い殺される祖国朝鮮 2 祖国朝鮮を監獄にした惨虐日本 3 俺たちの敵、祖国朝鮮の敵

4 内政独立運動の痛撃 5 朝鮮自治運動の夢を破る 6 文化運動の麻酔から醒めろ 7 敵の所在を突き止めろ 8 外交論の誤謬を指摘する 9 準備論の愚劣と迂遠と欺瞞 10 俺たちの革命理論と革命宣言

11 暴力革命の目標 12 破壊と建設の交互関係 13 異族政治の破壊 14 特権階級の破壊 15 経済掠奪制度の破壊 16 社会的不平均の破壊 17 奴隷文化の破壊 18 むすび 4256年1月 義烈団

五、対日憎悪の爆撃 朴烈の論文

六、朴烈君の思想生長

1 高等普通学校入学 第四予審調書から

2 日本渡来後の活躍 郵便配達夫として毎日宮城内に出入り、天皇の動静や出入りの経路研究 義挙団、鉄挙団、血挙団に関する件 警察の報告書掲載

3 爆弾入手の苦心 柴田武福、社会主義者、エスペラント労働者協会会長

4 陰謀論の強調 ……張祥重君の実話によると、朴烈君が固く同志を守るために義烈団関係や、一旦爆弾の入手を頼んで取消した金重漢との関係以外は調書にのぼせなかったのだというが、今日になって何の憚るところもなく当時の実情を告白すれば不逞社の目的が天皇打倒にあり、その方法は爆弾の使用にあり、従って爆弾の入手につきそれぞれの便宜を辿って同志のあるものは相当手を差伸べた事実もあり、窮余の一策として、当時最少限の爆薬自由販売が許された0.02ずつ数百件 の薬局から買い集めて、爆弾製造を朴烈君が企てる程度までそれを進めたのだそうである。しかし、爆弾製造の容易ならざる技術難が遂に成功しえなかったことも事実であるという。 朴烈の論文

5 朴烈君の生いたち 実兄、朴庭植の予審調書から

6 文子さんの生いたち 予審調書から

七、文子さんの天皇観

1 天皇制打倒が夫婦の約束 第十二回予審訊問調書

2 人間の平等性を蹂み躙る天皇制 予審調書から

3 荒唐無稽な天皇制の尊厳 予審調書から

4 天皇制は悪魔的権力の代表 予審調書から

5 天皇の尊厳は奴隷の承認 予審調書から 6 法律と道徳は強者の武器 予審調書から

八、文子さんを語る

筆者の二つの講演録から 二つめに出会いを記述 「大正11年の末頃だったと思う。前から知っている朴烈氏の妻君だという名乗りを上げて訪問を受けた瞬間は、大変キビキビした婦人だという印象を受けた。……柳某の渡米の送別会を不逞社の一味が襲撃したというので西神田警察署へ検束……刑務所で朴烈氏の有名で貴重な長髪を既決拘留刑執行のために刈取ろうとした紛議から私に電報を打ってよこしたので面会ができ、正式裁判の申立もでき結局公判で無罪になった事件の弁護と、その無罪を警察官憲の糾弾にまで逆襲した人権蹂躙官憲糾弾演説会が神田三崎町の朝鮮キリスト教青年会館で開かれた一連の交渉と協力は、私と朴烈氏とを大変親しいものにしたのである。私のそうした関係とその後の事件と最近朝鮮の甥を通じて私のところへ寄越している手紙等から、私の見た朴烈氏と私が先に挙げた初訪問の文子さん、およびやはりその後の交渉と事件を通じて知った文子さんとは、非常に強く強く結びつけられるもののあったことに、一種の不思議を感じさせられるくらいです。………文子さんの自殺の原因は後に詳しく書いておこうと思うが、ある者の飛ばした妊娠のためだなということは誣罔も甚だしいデマであることを断言しておく。……私がその前最後に朴烈氏に会ったのは、いわゆる『不逞鮮人』の発行が禁止されて『太い鮮人』になったり、出版法の問題その他何の計画だったかは忘れたがともかく何かの問題で、カンパを起こすというような用件で、震災の翌日には私の所へ来た時です。…」

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