朴烈

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布施辰治著『運命の勝利者朴烈』目次と主要内容

一、獄中闘争23年

1 運命の勝利 朴烈君の生還

2 獄中闘争23年 総日数、8091日。22年2ヶ月1日。

3 朴烈君の健康 1923年10月、市ヶ谷刑務所に収容当時の健康調査、身長五尺二寸二分……幾つかの病気

4 朴烈君の生還 最後の面会は千葉刑で文子さんの死を伝えた時、一秒間面会。 生還後の第一次会見「丈夫で会えたのが嬉しい」「僕の生還は少しも偉くありませんよ」「生還するなどと云うことを考えて生還したのじゃないんだから……」「死ぬことばかり考えていたんです」「……死ぬまで闘争の力を逞しく保って死ぬことばかり考えたね」「おれは呪いはじめた天皇を呪い抜きたい。力強く、獄死の一瞬間まで呪い抜きたい。できたら呪い殺したい。天皇を呪い殺す力を最後まで失いたくないと思ってね。大正15年4月6日千葉刑務所下獄の第一日空、生還する秋田刑務所の最後の日まで、冷水摩擦を一日だって怠らずにやり続けているんだがね。その健康法が、このおれを生還させたのさ」

5 獄中生活の足どり 9月3日の逮捕は保護検束という行政執行法第一条…… 9月4日、救護検束24時間を過ぎ、警察犯処罰令「……徘徊する者」の該当者として「拘留29日」 10月20日には拘留期間満了と同時に1924年2月5日まで治安警察法違反被告として市ヶ谷刑務所に起訴収容、「秘密結社は之を禁ず」

6 運命の奇蹟は続く 「朴烈は恩赦前後の十日間を筆者に語った」 1926年3月26日、秋山刑務所所長に面会、死刑の執行を打ち合わせ、死刑執行の三箇条要求 その一箇条「……日本の法律を認めないのだから、執行命令の申渡しなどという彼らの合法手段を省略し、イキナリ締め殺してしまう虐殺を希望すること」 その二箇条「俺は自分の生を否定して、天皇の生を否定する大逆事件の決行を企てたのだから、俺は絶対に死刑の執行を恐れないし、また、死刑の執行に抗議するような態度は絶対にとらない。いつでも好きな時、大いに安心して執行の準備を進めてもらいたいこと」その三箇条「ただし死刑を執行するまではできるだけ、俺の言動を自由にし、俺の気に入った看守を俺の申し出通り俺のところへよこして、俺の話を聴かしてもらいたいこと」  妻の文子も俺と同一意見だから、俺と同様に待遇してもらいたいといったら、秋山所長も覆いに感激したらしいようで、4月4日まで俺の要求通り看守どもに話を聴かせて、死刑執行の日を待っていたのだ。 しかるに4月5日、突然思いもかけない死刑一等を減じて無期懲役にするという彼らの恩赦……文子のいう生命の翻奔がやってきた…… ともあれ、恩赦令を手にした秋山所長は、喜んで朴烈君にもその旨を伝えた。すると朴烈君は、 「生かすのも天皇の勝手だよ。殺すのも天皇の勝手だよ。生かしておくことが刑罰なら生かしておくがいいさ。殺すことが刑罰なら殺すもいいさ。しかし、それはあくまで天皇の勝手で、俺は天皇の勝手になりたくないね。日本の天皇から恩赦だなんて恩を着せられる義理もなければ、理由もない。ただ俺は俺の呪いたいように、生きていれば生き霊になり、死ねば死霊になって天皇を呪うだけで、そんな恩赦令などというものには用がないね」 布施「恩赦は政治的判断、その後の恩赦からは外されている」「現実に朴烈君を生還させたものは進駐軍司令官の政治犯人即時釈放に関する指令である」「当然10月10日までに釈放されるはずの朴烈君が10月27日まで抑留されたのもそのためであること……」

7 文子さんはなぜ獄死したか? 筆者は12月7日、朴烈君の東京における歓迎会で、歓迎の言葉とともに文子さんの獄死を悼んだ。

二、朴烈君の法廷態度

1 法廷態度の研究と追憶 2 警察における被告態度 取調べを拒絶し、一枚の調書をもとらせていない。 3 検事局における被告態度 一枚の検事聴取書をも残していない 4 予審における被告態度 「俺は同志に関することはもはや何もいわぬことに決めている」 結局不逞社事件は事件に関連した同志12名の起訴を免訴せしめている 5 法廷における被告態度 筆者を通じて交渉した四条件 6 鑑定の拒絶 7 証人と同志のために 予審での李小紅調書関連 8 怪写真のエピソード 朴烈自身の証言 筆者の論文「怪写真事件の主点と批判」『改造』1925年10月所載

9 爆発物取締違反から大逆事件へ

10 十七回訊問調書 筆者は朴烈君と共に、この調書を読み返して当時の悲憤と激情を語り合ったのだが、少しも無理のない筆者の解説が、朴烈君によって承認されたことを附記しておく。 問「そのほか、何か申立てることはないかね?」もうこれで大体取調べが終わるのだがね……ということを示唆すると、 朴烈君はいう。 「俺は君に読ましておこうと思って、俺が監獄で書いた『陰謀論』『不逞鮮人より日本の権力者階級に与ふ』『俺の宣言』『働かずにどしどし喰ひ倒す論』というのをもってきた。『俺の宣言』と『働かずにどしどし喰ひ倒す論』とは、俺の虚無的思想を表したものである。『陰謀論』は虚無主義としての戦略を書いたものである。『不逞鮮人より日本の権力者階級に与ふ』は、朝鮮人として、俺が、日本帝国に対する態度を宣言したものであるから、ぜひ読んでみるがいい。」 このとき被告人は、右の書き物四綴りを提出した、と記したのち、 問「この書き物を押収しようと思うがよいか?」 答「俺が、こんなものを書いたものは、どうせ君たちに読ませるつもりなのだし、君たちにとっては実物になるかも知れないから、押収しておくがいいさ。しかし、公判廷に立った時それを読むつもりだから、その時は俺の方にかえしてくれなければいけない。裁判官の問などに答えず、俺のいいたいことをいうために、これを読みあげるんだから、そのことをハッキリ書いて、後にまごつかないようにしておいてくれ」 このとき、予審判事は被告人に対し、右書き物四綴りを押収する旨を告げ、さらに弁護人について何か希望があるか、と問うた。

三、大逆事件の真相

1 判決書による不発爆弾 2 総督府のスパイ工作と金相玉事件 3 大逆事件の思想的背景 義烈団の本拠上海と連絡することが一番便宜であり、爆弾入手の可能性が確実……義烈団の対日憎悪を結集した革命宣言に動かされている影響が多い。 筆者は、朝鮮で義烈団事件の弁護を担当し、金思◆君、金元凰君らから義烈団の革命精神を聴き、……二重橋事件の……金思◆君をも弁護した関係で義烈団の革命宣言を閲読し、大いにその壮烈を賛嘆した。朴烈君の大逆事件にも日本政府は義烈団事件の革命宣言を参考記録として取寄せており、朴烈君の大逆事件と義烈団の革命精神は不二一体の関係にあるといっても差支えないように思う。……

四、朝鮮革命宣言 1 強盗日本に喰い殺される祖国朝鮮 2 祖国朝鮮を監獄にした惨虐日本 3 俺たちの敵、祖国朝鮮の敵

4 内政独立運動の痛撃 5 朝鮮自治運動の夢を破る 6 文化運動の麻酔から醒めろ 7 敵の所在を突き止めろ 8 外交論の誤謬を指摘する 9 準備論の愚劣と迂遠と欺瞞 10 俺たちの革命理論と革命宣言

11 暴力革命の目標 12 破壊と建設の交互関係 13 異族政治の破壊 14 特権階級の破壊 15 経済掠奪制度の破壊 16 社会的不平均の破壊 17 奴隷文化の破壊 18 むすび 4256年1月 義烈団

五、対日憎悪の爆撃 朴烈の論文

六、朴烈君の思想生長

1 高等普通学校入学 第四予審調書から

2 日本渡来後の活躍 郵便配達夫として毎日宮城内に出入り、天皇の動静や出入りの経路研究 義挙団、鉄挙団、血挙団に関する件 警察の報告書掲載

3 爆弾入手の苦心 柴田武福、社会主義者、エスペラント労働者協会会長

4 陰謀論の強調 ……張祥重君の実話によると、朴烈君が固く同志を守るために義烈団関係や、一旦爆弾の入手を頼んで取消した金重漢との関係以外は調書にのぼせなかったのだというが、今日になって何の憚るところもなく当時の実情を告白すれば不逞社の目的が天皇打倒にあり、その方法は爆弾の使用にあり、従って爆弾の入手につきそれぞれの便宜を辿って同志のあるものは相当手を差伸べた事実もあり、窮余の一策として、当時最少限の爆薬自由販売が許された0.02ずつ数百件 の薬局から買い集めて、爆弾製造を朴烈君が企てる程度までそれを進めたのだそうである。しかし、爆弾製造の容易ならざる技術難が遂に成功しえなかったことも事実であるという。 朴烈の論文

5 朴烈君の生いたち 実兄、朴庭植の予審調書から

6 文子さんの生いたち 予審調書から

七、文子さんの天皇観

1 天皇制打倒が夫婦の約束 第十二回予審訊問調書

2 人間の平等性を蹂み躙る天皇制 予審調書から

3 荒唐無稽な天皇制の尊厳 予審調書から

4 天皇制は悪魔的権力の代表 予審調書から

5 天皇の尊厳は奴隷の承認 予審調書から 6 法律と道徳は強者の武器 予審調書から

八、文子さんを語る

筆者の二つの講演録から 二つめに出会いを記述 「大正11年の末頃だったと思う。前から知っている朴烈氏の妻君だという名乗りを上げて訪問を受けた瞬間は、大変キビキビした婦人だという印象を受けた。……柳某の渡米の送別会を不逞社の一味が襲撃したというので西神田警察署へ検束……刑務所で朴烈氏の有名で貴重な長髪を既決拘留刑執行のために刈取ろうとした紛議から私に電報を打ってよこしたので面会ができ、正式裁判の申立もでき結局公判で無罪になった事件の弁護と、その無罪を警察官憲の糾弾にまで逆襲した人権蹂躙官憲糾弾演説会が神田三崎町の朝鮮キリスト教青年会館で開かれた一連の交渉と協力は、私と朴烈氏とを大変親しいものにしたのである。私のそうした関係とその後の事件と最近朝鮮の甥を通じて私のところへ寄越している手紙等から、私の見た朴烈氏と私が先に挙げた初訪問の文子さん、およびやはりその後の交渉と事件を通じて知った文子さんとは、非常に強く強く結びつけられるもののあったことに、一種の不思議を感じさせられるくらいです。………文子さんの自殺の原因は後に詳しく書いておこうと思うが、ある者の飛ばした妊娠のためだなということは誣罔も甚だしいデマであることを断言しておく。……私がその前最後に朴烈氏に会ったのは、いわゆる『不逞鮮人』の発行が禁止されて『太い鮮人』になったり、出版法の問題その他何の計画だったかは忘れたがともかく何かの問題で、カンパを起こすというような用件で、震災の翌日には私の所へ来た時です。…」

解放後の朴烈

1945.10.27 朴烈、秋田刑務所大館支所を出獄、大館駅前で「出獄歓迎大会開かれる」

1946     『独立の指導者朴烈』鄭泰成、新朝鮮建設同盟宣伝部、国会図書館所蔵

1946?     『新朝鮮建国の指標:独立指導者 朴烈』 朝鮮半島における自由解放の指導者、

朴烈の獄中詩歌、在日朝鮮人同胞へのメッセージ、日本の新聞に対する声明等を収録した、

"独立指導者 朴烈"、及び、朴烈による新朝鮮建国に対する朴烈の信念・思想を収録した

"新朝鮮建国の指標"を収録。 University of Hawaii at Manoa 「Asia Collection,」

梶山コレクション所蔵

1946.12.25  『運命の勝利者朴烈』布施辰治、張祥重、鄭泰成共著 世紀書房

1947.2.21「民団新間」創刊号発行。                  

1947.5.23 民団第二回大会。団長朴烈、副団長李康勲、元心昌。

1947.8.23 朴烈「三たび八月十五日を迎へて」『民団新聞』週刊13号、在日本朝鮮居留民団中央総本部★★

1947.8.30 朴烈「留日朝鮮学徒の進路」『民団新聞』週刊14号★★

1947.9.13 朴烈「主張第廿五回関東大震災」『民団新聞』週刊15号★★

…当時自ら「不てい鮮人社」と名乗った我々の同志も文字通り一網打尽に検挙されて有無を言わさず、全く投獄されてしまった。由来ゲーペーウー式の日本帝国主義的陰謀によって裁かれ、私は遂に死刑を宣告され、さらに彼等の勝手な判断によって終身の懲役に処せられ、さらにまた彼等帝国主義の世界戦争敗戦の結果として、二十三年余の獄中から、この明るい社会に出てきたのである。……

無署名記事「関東大震災廿五周年を迎えて」想起すれば当時大地震直後陸軍憲兵司令部の謀略に依り『朝鮮人三万名が日本無政府主義者と内応して日本襲撃に上陸して来た』と言う捏造のデマを廣島より全国に飛ばして置いてそれを口実にかかる不可抗力むの機会を逆用して日本軍部及青年団が白昼公然と国際社会の面前にかかる大事件を三日間も続けて敢行したのである……然しアナキスト系では、天変地異は不可抗力である。…本当の愛と相互扶助との懸念の下に、お互に相あわれむのみであった。…

1947.10月1、2日 民団第三回大会(大阪)団長朴烈。

1947年 張義淑と再婚

一九四八年八月一五日『新朝鮮革命論』朴烈、中外出版株式会社

目次

自序

第一章 思想立国

第一節世界は一なり

第二節 現実に徹する思想第

三節 共産党を語る第四節死に生くること

第二章建国の指標

第一節独立とは形式ではない

第二節具体的に建国の立地条件を究めよ

第三節戦線統一への方向

第三章青年と民族の運命

第一節立国の支柱としての青年

第二節操志ある青年

第三節高き文化の使徒青年

第四章生活革命運動の展開

第一節民族的欠陥の反省

第二節社会を発見せよ

第三節公式論、原則論を排す

第四節身を以て再起へ

付録一 三千万我等とともに罪あり

二 対日協力者戦争犯罪人等の処断に関する法案をめぐりて

三 祖国の正しき産業建設のために在日業界人の反省を促す

四 前科者、受刑者、現科者

五 祖国愛と国際的観念

六 世界の現実に学び、世界の現実に捉われる勿れ

七 われらは先ず道義の昂揚から

八 小児病的左翼陣の暴挙を排す

1948年11月20日 

『政党人に望む』発行人、朴義淑、東京都杉並区阿佐谷一丁目七四六番地、発行所、中野区野方町一丁目七三二番地、朴烈文化研究所

1949年4月2日 民団第六回大会、選挙に敗れて団長を辞任。   

1949年 朴烈は家族と共に韓国に向かう。李政権の国務委員となる

1950年4月 張義淑は二人の子、長男栄一と長女慶姫を連れて帰国

1950年6月25日 ソウルは南下した北朝鮮軍の動きにより混乱状況

1950年6月27日  張義淑、大元ホテルに止宿中の朴烈と連絡がとれたのは27日の未明。

「子供たちをつれて、すぐよその家へうつれ。今後連絡が絶えても、革命家の妻として、

恥ずかしくない行動をせよ」朴烈はこれだけ言って電話をきった。たまりかねた張義淑が慶姫

(当時8ヶ月)を隣家にあずけ、栄一(2年4ヶ月)をつれて、大元ホテルまでたどりつくと部

屋には朴烈がひとり目をつむったまま座っていた。

「……国民のほとんどがソウルに残っているのに、おれだけ逃げられるか。帰れ」

…… 義淑は秘書に送られて桂洞まで戻る。夜になり雨が降り出した。

もう一度朴烈のところへ行こうと決心。……ホテルに出かけた。やっとたどりついたホテルに朴烈はいなかった。

…夜が更けるにつれ、砲声はいよいよ近く、機関銃が地底からのような音をひびかしている。

午前三時、砲声がやみサイレンが鳴った。北朝鮮軍が中央庁に入った合図にちがいない。

夜が明けると、幾千幾万とも知れぬ足音が聞こえ「人民共和国万歳」の叫びが伝わってくる。

……共産軍に捕らえられた朴烈の居所を察知しようとして西大門刑務所に出かけたのもそのころだった。

「十五年目のエンマ帳その一 朝鮮の人 朴義淑さん」臼井吉見より。朴烈、行方不明になる。

1960年1月   「十五年目のエンマ帳その一 朝鮮の人 朴義淑さん」臼井吉見『婦人公論』

1960年1月号掲載<再婚相手は東京 女子大で臼井ゼミの学生であった>

1963年3月、4月  「朴烈・金子文子事件」森長英三郎『法律時報』 

1966年6月   「共産主義者と私」朴烈、『統一評論』掲載

私は一時、日本で社会運動をおこそうと思い、政治団体を組織したことがあった。そして日帝の監獄にぶちこまれて苦労もしてみた。……

 私は共産主義者の幅広い度量とあたたかい同族愛に深く感動させられ、目頭が熱くなる時が一、二度ではなかった。…

 祖国と民族を憂えるすべての人々は、一切の外勢を排撃して、南北が力を合せて祖国の自主的統一を実現する大道を前進しなければならない。★★

1967年    『民団 在日韓国人の民族運動』鄭哲、洋々社

第六回訊問調書二四年二月四日
「大正十年秋頃には黒濤会、…十一年九月頃には黒友会、大正十二年四月頃には不逞社等の無政府主義的思想の研究会を組織したり、金子文子と二人で
『太い鮮人』──後に『現社会』と改題──等の雑誌を発行したり、其の他種々の運動をして来た」
爆弾は不逞社と別問題だ
「日本民衆に対し皇室が一の迷信の上に建てられた偶像に過ぎない事を示す為め、及び天皇や皇太子たる幽霊の為めに一般民衆が如何に縛られて居るかと云ふ事を自覚せしめる為めには製糞器を狙ふ事も捨て難い。殊に朝鮮の一般民衆は日本の天皇皇太子を以つて名実共に有する実権者であり、天を共に戴く事の出来ぬ讐敵だと思つて居るから、此の者の存在を此の地球から抹殺して仕舞ふ事は朝鮮の民衆をして感激せしめ、より戦闘的気持を持たしめる点に於て到底捨てる可からざる有効なる方法の一つである。丁度原敬が殺された時朝鮮人は各地に於て秘密に祝賀会を開いた位だから。
 然し日本では皇室に対する罪は他の罪と比較して高くて割合に合はぬと言ふ点と木偶であると云ふ点からして、日本の社会運動者は皇室に触らぬ様にして居る様に見受ける。」

第十回
「第一に日本の民衆に対しては日本の皇室が如何に日本の民衆の膏血を搾取する権力者の看板であり、又日本の民衆の迷信して居る様な神聖なる事神様の様な者では無くて、実は其の正体は幽霊の様な者に過ぎない事を即ち日本の皇室の真価を知らしめて、其の神聖を地に叩き落す為め、第二に朝鮮民衆に対しては、同民族が一般に日本の皇室を総ての実権者であると考へて居り憎悪の的として居るから、此の皇室を倒して朝鮮民衆に革命的独立的熱情を刺激するが為め、第三に沈滞して居る様に思はるる、日本の社会運動者に対しては革命的気運を促す為にあつたのだ。日本の天皇は病人ではあるが皇太子と共に皇室の表面的代表的なる事にし同価値である。
 殊に俺が昨年の秋の皇太子の結婚期に爆弾を使用する事を思ひ付いたのは、朝鮮の民衆の日本に対する意志を世界に対して表明するには最も都合の好い時機だと思つたからである・」

朴烈の生い立ち

朴烈
 
大審院に付す意見書から
「幼にして早く日韓合併を以て祖国民族の悲運なりとして之を慷慨し居たる処、朝鮮総督府の施設せる小学校に入学するに及んで其教育法に付日鮮児童を区別して程度に高下の差を設け、其待遇も亦優劣の別あるを不当なりとして不満を抱懐する間に其過程を卒へ、更に高等普通学校に進むの頃に於ては右日鮮民に対する差別待遇等自己の実感に徴して遂に其由縁を尋ね、同府の統治方針を目して日本民族の帝国主義的野心により、祖国民族を死地に陥擠し其絶滅を期するものなりと做し、茲に日本民族に対する恚忿反抗の情を激越ならしむると共に、其危窮を未然に防止せんには祖国独立の外なしと断定し」

第三回訊問調書一月三〇日
一問
「母親は六十幾歳かに為る、五歳のとき病気で父親が死ぬ姉は他家に縁付いている、自宅で農業を営んでいる兄二人」
三問
「俺は最初民族的独立思想を抱いて居た。次で広義の社会主義に這入り其の後無政府主義に変じ更らに現在の虚無的思想を抱く様になつたのだが、今でも民族的独立思想を俺の心底から拭い去る事は出来ぬ。俺が其の様な思想を抱く様に為つた次第を沿革的に言へば、先づ第一には登校前俺が八、九歳の幼い時の事であった。朝鮮は伝統的に階級制度を重じ弱者は強者に対して絶対服従の関係あり古典主義であった。…」
「又朝鮮に於ては朝鮮固有の文字が在るにも拘らず漢文を真書と呼んで尊び新しきを排斥し古きを尊重する。古典的である之等の絶対服従であり古典的である事に就き俺は子供ながらに懐疑の念を抱いて居った。」
「第二に俺の思想に影響を及ぼしたのは登校後の環境である。」
「転校当時俺は日本の教育方法の可成り進歩して居る事に感心して相当に勉強したが、其の中に教師から日鮮人同国であり日鮮人は同胞であり平等である事を聞かされ、日本の天皇の有難い事を説かれたが、事実上日本人の小学生は朝鮮人の小学生より先順位に置かれ、学校に於て朝鮮語を使用する事を禁止させ、朝鮮の志士偉人の事は元より朝鮮の天皇の事すら少しも説明せぬ程不平等であつた事に付き俺は疑を懐いて居た処、卒業に迫つて朝鮮人の教師が吾々朝鮮の小学生を集めて之れ迄心にも無い嘘の教育をして居た朝鮮の歴史を尊ばねば為らぬ、日本の教師は警察の刑事であると言つて俺達の前で泣いた事があつた。俺は夫れを見て非常に感じた。学校に於ける生活は其の様に平等を標榜し乍ら事実上不平等であるから更らに学校生活と家庭生活とは矛盾衝突して居る。」
11行未入力
「其の様に日本の学校の教育、日本人の生活、日本の官庁の統治方法は平等を標榜して居り乍ら、朝鮮人に対して民族的差別待遇を与へて居るので俺は十二、三歳より十四、五歳に至る間の頃より民族的独立思想を先づ抱く様に為つた次第だ。」
21行未入力
「日本人の朝鮮人に対する暴虐を目撃して尠なからず反感を抱いた事があつた。」
朝鮮政府時代の小学校教科書、没収
土地測量、「全国的に朝鮮人から土地を奪ひ取つて仕舞つた」
日本人の高利貸
日本人による暴行
「又朝鮮人から視れば志士である処の義兵を日本政府は暴徒だと呼んで虐殺した。夫れらの事が俺の日本民族的日本政府に対する叛逆的気分を抱く様に為つた第二の動機で在つた。」
第四回訊問調書二四年二月一日
「第三に俺が思想上の影響を受けたのは高等普通学校時代である。」
書堂から咸昌公立普通学校に転校した
高等普通学校師範科に入学、日本の中学に相当、朝鮮人を収容する学校である
京城の同学校に入学
「日本の高等師範学校を卒業した心理の若い教師は思想に感じた男で、幸徳秋水の大逆事件の話をして聞かして呉れたので俺は興味を持って其の話を聞いた事もある」

第五回訊問調書二四年二月三日
「心理学の教師から思想上の話を聞いて興味を引き、木下尚江、夏目漱石、小川未明、竹越三叉、黒岩涙香等の著書を読んで思想上得る処が在つた。」
独立騒擾事件

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