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1945.10.27 朴烈、秋田刑務所大館支所を出獄、大館駅前で「出獄歓迎大会開かれる」
1946 『独立の指導者朴烈』鄭泰成、新朝鮮建設同盟宣伝部、国会図書館所蔵
1946? 『新朝鮮建国の指標:独立指導者 朴烈』 朝鮮半島における自由解放の指導者、
朴烈の獄中詩歌、在日朝鮮人同胞へのメッセージ、日本の新聞に対する声明等を収録した、
"独立指導者 朴烈"、及び、朴烈による新朝鮮建国に対する朴烈の信念・思想を収録した
"新朝鮮建国の指標"を収録。 University of Hawaii at Manoa 「Asia Collection,」
梶山コレクション所蔵
1946.12.25 『運命の勝利者朴烈』布施辰治、張祥重、鄭泰成共著 世紀書房
1947.2.21「民団新間」創刊号発行。
1947.5.23 民団第二回大会。団長朴烈、副団長李康勲、元心昌。
1947.8.23 朴烈「三たび八月十五日を迎へて」『民団新聞』週刊13号、在日本朝鮮居留民団中央総本部★★
1947.8.30 朴烈「留日朝鮮学徒の進路」『民団新聞』週刊14号★★
1947.9.13 朴烈「主張第廿五回関東大震災」『民団新聞』週刊15号★★
…当時自ら「不てい鮮人社」と名乗った我々の同志も文字通り一網打尽に検挙されて有無を言わさず、全く投獄されてしまった。由来ゲーペーウー式の日本帝国主義的陰謀によって裁かれ、私は遂に死刑を宣告され、さらに彼等の勝手な判断によって終身の懲役に処せられ、さらにまた彼等帝国主義の世界戦争敗戦の結果として、二十三年余の獄中から、この明るい社会に出てきたのである。……
無署名記事「関東大震災廿五周年を迎えて」想起すれば当時大地震直後陸軍憲兵司令部の謀略に依り『朝鮮人三万名が日本無政府主義者と内応して日本襲撃に上陸して来た』と言う捏造のデマを廣島より全国に飛ばして置いてそれを口実にかかる不可抗力むの機会を逆用して日本軍部及青年団が白昼公然と国際社会の面前にかかる大事件を三日間も続けて敢行したのである……然しアナキスト系では、天変地異は不可抗力である。…本当の愛と相互扶助との懸念の下に、お互に相あわれむのみであった。…
1947.10月1、2日 民団第三回大会(大阪)団長朴烈。
1947年 張義淑と再婚
一九四八年八月一五日『新朝鮮革命論』朴烈、中外出版株式会社
目次
自序
第一章 思想立国
第一節世界は一なり
第二節 現実に徹する思想第
三節 共産党を語る第四節死に生くること
第二章建国の指標
第一節独立とは形式ではない
第二節具体的に建国の立地条件を究めよ
第三節戦線統一への方向
第三章青年と民族の運命
第一節立国の支柱としての青年
第二節操志ある青年
第三節高き文化の使徒青年
第四章生活革命運動の展開
第一節民族的欠陥の反省
第二節社会を発見せよ
第三節公式論、原則論を排す
第四節身を以て再起へ
付録一 三千万我等とともに罪あり
二 対日協力者戦争犯罪人等の処断に関する法案をめぐりて
三 祖国の正しき産業建設のために在日業界人の反省を促す
四 前科者、受刑者、現科者
五 祖国愛と国際的観念
六 世界の現実に学び、世界の現実に捉われる勿れ
七 われらは先ず道義の昂揚から
八 小児病的左翼陣の暴挙を排す
1948年11月20日
『政党人に望む』発行人、朴義淑、東京都杉並区阿佐谷一丁目七四六番地、発行所、中野区野方町一丁目七三二番地、朴烈文化研究所
1949年4月2日 民団第六回大会、選挙に敗れて団長を辞任。
1949年 朴烈は家族と共に韓国に向かう。李政権の国務委員となる
1950年4月 張義淑は二人の子、長男栄一と長女慶姫を連れて帰国
1950年6月25日 ソウルは南下した北朝鮮軍の動きにより混乱状況
1950年6月27日 張義淑、大元ホテルに止宿中の朴烈と連絡がとれたのは27日の未明。
「子供たちをつれて、すぐよその家へうつれ。今後連絡が絶えても、革命家の妻として、
恥ずかしくない行動をせよ」朴烈はこれだけ言って電話をきった。たまりかねた張義淑が慶姫
(当時8ヶ月)を隣家にあずけ、栄一(2年4ヶ月)をつれて、大元ホテルまでたどりつくと部
屋には朴烈がひとり目をつむったまま座っていた。
「……国民のほとんどがソウルに残っているのに、おれだけ逃げられるか。帰れ」
…… 義淑は秘書に送られて桂洞まで戻る。夜になり雨が降り出した。
もう一度朴烈のところへ行こうと決心。……ホテルに出かけた。やっとたどりついたホテルに朴烈はいなかった。
…夜が更けるにつれ、砲声はいよいよ近く、機関銃が地底からのような音をひびかしている。
午前三時、砲声がやみサイレンが鳴った。北朝鮮軍が中央庁に入った合図にちがいない。
夜が明けると、幾千幾万とも知れぬ足音が聞こえ「人民共和国万歳」の叫びが伝わってくる。
……共産軍に捕らえられた朴烈の居所を察知しようとして西大門刑務所に出かけたのもそのころだった。
「十五年目のエンマ帳その一 朝鮮の人 朴義淑さん」臼井吉見より。朴烈、行方不明になる。
1960年1月 「十五年目のエンマ帳その一 朝鮮の人 朴義淑さん」臼井吉見『婦人公論』
1960年1月号掲載<再婚相手は東京 女子大で臼井ゼミの学生であった>
1963年3月、4月 「朴烈・金子文子事件」森長英三郎『法律時報』
1966年6月 「共産主義者と私」朴烈、『統一評論』掲載
私は一時、日本で社会運動をおこそうと思い、政治団体を組織したことがあった。そして日帝の監獄にぶちこまれて苦労もしてみた。……
私は共産主義者の幅広い度量とあたたかい同族愛に深く感動させられ、目頭が熱くなる時が一、二度ではなかった。…
祖国と民族を憂えるすべての人々は、一切の外勢を排撃して、南北が力を合せて祖国の自主的統一を実現する大道を前進しなければならない。★★
1967年 『民団 在日韓国人の民族運動』鄭哲、洋々社
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