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			<title>亡き友の霊に捧ぐる我が誓ひ思ひ出深し九月一日</title>
			<description>タイトルは金子文子の遺著『獄窓に想ふ』からです。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/fu_tei</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
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			<title>亡き友の霊に捧ぐる我が誓ひ思ひ出深し九月一日</title>
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			<description>タイトルは金子文子の遺著『獄窓に想ふ』からです。</description>
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		<item>
			<title>上海爆弾義挙・李康勲</title>
			<description>上海爆弾義挙・李康勲&lt;br /&gt;
時はまさに1933年１月の中頃であった。 わたしは本来、何々主義だと標榜することを否定する。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
わが祖国を強奪する敵を憎んでいるのだから民族主義だと断定したり、無政府主義と革命事業を&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ともにしたからといって、私を黒とみなしたり、あるいは共産主義者と握手したことが過去にあるとい&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
って、赤と考える人がいるとすれば、それも笑うべき話である。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　私がこのたび上海に来て、無政府主義者と行動をともにし、無政府主義者として知られている白&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
貞基義士と事をともに挙げたからといって私を無政府主義者と断定することも誤りである。 　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1930年代の上海 　その時まで連絡をとりあっていた白貞基義士をまっ先にたずねた。この時の&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
上海は、11年前に見た上海に比べると非常に変貌をとげていた。まず、フランス租界の福履理路、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
歩高里にあるアパート亭元坊をたずねた。ここは白貞基義士をはじめ、彼と志を同じくする革命闘&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
士、とりわけ世間で無政府主義者と称する人物たちの革命の根拠地であった。ここに集まって来&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
る人物は口先だけではなく、直接行動で義のためには肉体を鴻毛のごとくに考える革命闘士たち&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
であった。 　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　すなわち、私が逮捕された後、敵を処断して逮捕 され、敵の絞首台で殉死した呉冕稙《一名楊&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
汝舟》、厳舜奉《一名亨淳》、十余年の獄中暮らしをへて8.15解放で釈放された金聖寿《別名芝江&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あるいは朱烈》李圭虎《李会栄の息子、現在鉄道有貞郵逓局長》義烈団の中堅人物として、当時&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
は教授生活をしていた柳子明《別名友槿》陰に陽に革命闘士たちを助け、指導的な立場にあった&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
鄭華岩《現在ソウル在住》李守鉉《本名朴基成、現在予備役准将》李容俊《別名千里芳》鄭海里&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
《一名東吾》、李達ら、多士済済で、見識や勇気や義理の面で信じるに足る集団であった。 　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　こうした情勢の中で、ある意味で無政府主義革命闘士が、臨時政府の法統を死守しつつ、抗日&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
闘争を展開していた金九先生の事業を一時、そのまま引き継いで代行しているように思われたり&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
した。事実、究極的な目的や理想は少し異なるが、抗日闘争を展開する過程では民族陣営と無政&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
府主義革命闘士は渾然一体となって独立運動をくりひろげた。また無政府主義的な革命理論は、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いつも理論の貧困によって若いエリートたちを導くのに苦しい立場にあった民族陣営を、理論と実際&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
的な行動面で補強する力となった。丹斎申采浩や柳子明をはじめとして、多くの自由革命闘士は高&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
邁な知識人であり、自主独立のために高貴な聖血を捧げた人であった。しかしかれらをアナキストだ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
というだけで、その科学的ですぐれた自由革命理論を理解する卓見も推量もないくせに、祖国の光&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
復運動にうちたてた彼らの輝かしい業績を高く評価せず、白眼視する者たちがいたことは本当に残&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
念あった。しかし、清廉潔白な彼らは、名誉や利益を度外視して闘った。すでに、人によっては周知&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
のことであるが、無政府主義の指導的革命闘士の一人であった鄭華岩は、白凡とあい謀って、互い&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
に緊密な連係のもとに走狗たちの粛清など、多くの事業に協力した。そして、白凡が上海をさらざる&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
をえなかった時期には、鄭華岩が第二の白凡であるといっても過言ではないほどで、上海フランス租&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
界の中で革命同志から信頼と協力を受けながら、たえまなく活動を続けた。 　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　走狗のやからは、彼の名を聞いただけでも怯える状態であった。とりわけ、1932年頃からそうであっ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
た。 　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この頃には義烈団員の活動もあるにはあったが、上海方面ではさして注目するほどの活動はなかっ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
た。しかし、義烈団員の中の中心的な幾人かは無政府主義連盟に参加し、猛烈に活動を展開した。 　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　1932年、実権を握ったのは陸軍大臣の荒木貞夫であった。荒木は駐中公使有吉明ら彼の腹心を中&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
国に派遣し、中国国民党の要員を買収しようと画策した。日本円で4000万円の巨額な金を有吉に与え、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
中国の敗残軍閥や国民党内の腐敗分子、反逆分子および失意の政客をだきこむために陰謀をたくらみ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
始めた。日帝の当面の目的は、国民政府をして反満・抗日運動を慰撫あるいは取締ること、熱河省にお&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いて抗日運動を中止させるようにすること、韓人の抗日運動家を取締まるに際しては協力することなどで&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あった。万が一この通りに妥協が成立するならば韓・中両国民の運命を左右するほどの暗黒の場面がお&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
し迫ってくることになる。 　日帝の軍閥は中国の執権者をして対日抗戦を終息させ、事実上、満州大陸を&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
侵略した既成事実を黙認させてしまおうと夢見て、長期間にわたって陰謀を画策し続けていた。それまで&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
の策動を総括する会議が1933年３月17日、上海の共同租界の文路にある日本人経営の高級料亭、六&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三亭で開かれることになった。 　時は1933年３月５日、場所は上海フランス租界にある亭元坊というアパ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ートの二階の床の間であった。集まって来た革命同志は白貞基、厳舜奉、呉冕稙、李容俊、金芝江、李&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
達、元勲《一名心昌》鄭華岩、李守鉉、そして私、李康勲であった。 　有吉は私が処断するから同志たち&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
は了解してほしいと発言した。…… 　爆弾は前年、伊奉吉義士が使用したものと同じ性能の最も強力な&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ものを用いることにした。有吉らが会議を終え、出てきて、自動車に乗る瞬間に弁当の形にした爆弾を投&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
げ込めば、必ずや警備をしていた日本領事館警察が私を捕間えに襲撃してくるであろうから、白貞基義&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
士は手榴弾を奴等に投げ込み、その次におし寄せてくる敵に拳銃を発射し、できるかぎり一人でも多くの&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
敵を処断しようということにした。…… 　このたびの失敗は、前に述べたように、私の単独テロ計画を放棄&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
して同志たちの言う通りにしたがったことが、第一の原因であり、次は元心昌同志の手落ちによるもので&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あった。しかし、逮捕された時から白義士と私は、少しも元昌心を怨む気はなかった。事をやってみてどう&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
したわけかこのような結果にいたったのであるから、いかんせん。元心昌同志も気魄にみちた革命家とし&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
て、人間的にも立派な人物であった。また、日本社会運動の先覚者であり、大思想家である大杉栄と、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もっとも親しい間柄であった。また、彼の先輩でもある朴烈とともに、無政府主義的な革命家して、日本に&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
居留する韓人の無政府主義的な自由革命家の代表的な人物であった。 　この文を書いている1973年７&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
月は、元心昌がこの世を去ってから満一年になる。彼は昨年７月４日、念願していた祖国の統一を見るこ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ともなく異域の日本で逝去した。 　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　白義士は1935年５月22日、長崎刑務所で獄死した。 　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　…… 　ここでもう一つ、私が明かにしなければならない問題は、団体の名称である。当時、どの新聞にも、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
あるいはその後、現在までに出版されたどの独立運動史にも「黒色恐怖団」という名称が散見されるが、事&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実は、このような団体はあるはずもなく、このような名称を使ったこともなかった。この名称が生まれたわけは&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちが有吉を爆殺することに決定し、白義士や柳子明、呉冕稙、鄭華岩と私の五人が善後策を考えている&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
時、私たちがこの闘いを断行した後、世間に声明書を発表しなければならないが、団体の名称をどうしようか&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
というのが問題になったからである。 　しばらく、座中が静まりかえっていたが、柳子明が敵が聞いても恐怖&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
を感じるよう「黒色恐怖団《BLACK TERRORIST PARTY》」にしようと提案した。その話に反対する者はなく、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そのまま決定されたのであった。これは一回きりの幽霊団体であったが、従来からあった既成団体のように&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
知られるところとなったのである。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/fu_tei/14744532.html</link>
			<pubDate>Fri, 02 Mar 2007 07:37:10 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>集会案内転載</title>
			<description>～　日本の人種主義等に関する報告書を作成した国連特別報告官ドゥドゥ・ディエンさんをお招きして　～&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ドゥドゥ・ディエンさん（セネガル）は、２００２年、国連人権委員会から「現代的&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
形態の人種主義、人種差別、排外主義および関連する不寛容に関する特別報告者」に&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
任命され、２００５年７月に調査のために来日して、その調査結果を２００６年１月&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２４日に「日本への公式訪問に関する報告書」として発表されました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　人種差別問題に関しては、２００１年に日本政府報告書に対するカウンターレ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ポートを作成して国連に提出した日弁連を中心に、弁護士会としても積極的に取り組&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
んでまいりましたが、今回ディエンさんが来日するにあたり、日本公式訪問報告書お&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
よびそれに対する日本政府の反論文書への再反論、カナダ・コロンビアなど他に報告&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
書を作成された国と日本との比較、特別報告者制度と現在進行中の国連改革制度など&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
についてお話をうかがうとともに、併せて意見交換を行う機会を設け、この問題につ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いての弁護士会の今後の取り組み、ひいては日本における人種差別撤廃へむけての一&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
歩としたいと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１　日時　２００７年２月２６日（月）　午後６時～９時&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２　場所　東京都千代田区霞が関1-1-3(地下鉄霞ヶ関駅B1b出口)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　弁護士会館１２階　第一東京弁護士会講堂&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
３　予定プログラム&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
(1)ドゥドゥ・ディエンさん講演&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
(2)裁判所から調停委員の採用を拒否された在日コリアンの弁護士から&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
のアピールおよび弁護士会からのこの問題に関する報告&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
(3)外国籍住民に対する職務質問についての弁護士会からの報告&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
※ 入場無料&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
お問合せ先　　東京弁護士会法律相談課　０３（３５８１）２２０６&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　　　　　　&lt;a HREF=&quot;http://www.toben.or.jp&quot; TARGET=&quot;_blank&quot;&gt;http://www.toben.or.jp&lt;/a&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/fu_tei/13215765.html</link>
			<pubDate>Thu, 08 Feb 2007 03:03:11 +0900</pubDate>
			<category>倫理学</category>
		</item>
		<item>
			<title>「真実と和解のための過去事整理委員会」</title>
			<description>昨年11月、韓国の「真実と和解のための過去事整理委員会」のメンバーが来訪した。先行したのは委員長をはじめとした幹事メンバーで委員会の活動の周知と協力要請が行われ、在日コリアンを中心として人権問題、歴史研究に関わっている十名あまりの人たちと懇談の場がもたれ私も出席をした。当日は日本語に翻訳された委員会の概要が資料として配布された。そして数日をおいて調査グループも来訪し具体的に調査協力のための文献を提供した。&lt;br /&gt;
同委員会は資料によると韓国政府の組織であるが大統領所属ではなく独立した国家機関であり四年を活動年限としている。略称は「真実和解委員会」。05年5月に国会で制定された「真実と和解のための過去事整理基本法」＜法制定過程に関しては『韓国の「過去清算」とは何か』というタイトルで藤永壯（ふじながたけし）氏が『情況』05年10月号に論文を掲載＞に基づき、05年12月から同委員会が公式に活動を始めた。&lt;br /&gt;
「犠牲者」「遺族」からの真実糾明申請を受付、職権調査をすすめることができる。＜「申請」は06年11月末日で締切られている＞。来訪に合わせて広報も行われたが『朝日新聞』が十数行の記事掲載をしただけのようである。重要課題として&lt;br /&gt;
「民族独立糾明」の領域として≪日帝強占期あるいはその直前に行われた抗日独立運動、日帝強占期以降、2005年12月1日まで我が国の主権を守り国力を伸張させるなどの海外同胞史≫。&lt;br /&gt;
「集団犠牲糾明」の領域として≪1945年8月15日より権威主義統治時期に至るまでの憲政秩序破壊行為など違法あるいは著しく不当な公権力の行使によって発生した死亡・障害・失踪事件、その他重大な人権侵害事件と造作疑惑事件≫。＜李承晩・朴正煕・全斗煥政権＞&lt;br /&gt;
その他の課題とし≪「民事訴訟法」「刑事訴訟法」による再審事由に該当し真実糾明の必要性が認められた裁判所の確定判決事件、疑問死真相糾明委員会の未完結事件あるいは再調査申請事件≫を対象としている。&lt;br /&gt;
昨7月29日「韓国自由共同体研究会」と共同で聞慶（ムンギョン）セジェ博物館にて朴烈と金子文子に関しワークショップを東京や山梨からの参加者と共に開催した。聞慶市は、2000年に朴烈記念事業会を発足させ、展示館の建立、生家の復元など多様な事業を繰り広げている。この共同のワークショップは聯合ニュースとハンギョレ新聞により告知され、前記「真実和解委員会」から調査委員二名が当日参加した。参加した趣旨は朴烈、金子文子たちが1923年にたちあげた「不逞社」に参加していた活動家の遺族が同委員会に「真実糾明申請」をしたことによる調査開始のためである。そして協力を求められ東京での再会となった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
当時「不逞社」への日帝によるフレームアップ弾圧は治安警察法＜秘密結社に相当とする＞、爆発物物取締罰則からエスカレートし、刑法73条＜大逆罪＞が浮上してきた。金子文子と朴烈は同志への波及を阻止するため自らが有していた天皇とその一族への打倒の意志を具体的計画が進捗していたわけでもないが予審廷で語り始めた。そのため不逞社メンバーは一年前後の不当拘留のあげく予審免訴＜不起訴＞となった。しかし、その後金子文子、朴烈への救援を担ったメンバーがその過程の1925年に成立した治安維持法違反により韓国の「真友連盟事件」というグループに関わる件でフレームアップされ3年から5年の実刑を受け、二名の朝鮮の活動家が実質獄死する要因となっている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　この国においては、金子文子・朴烈への大逆罪によるフレームアップに対して1945年以降、今日に至るも国家としての責任がとられていない。そして二人の「事件」の十五年前に全体としてはフレームアップであった「幸徳事件」への犠牲者への責任も国家は回避した。今年も1月27日に＜大逆事件の真実をあきらかにする会＞により「大逆事件処刑97年追悼集会」が開かれた。同会は1960年の再審準備が発足の大きな柱となっている。その経緯は「1961年1月18日、坂本清馬、森近栄子(運平実妹)東京高裁に再審請求申立て、森長弁護人等代理人、1965年12月1日再審請求棄却、1965年12月14日特別抗告、1966年9月20日最高裁審理決定、1967年7月5日高裁決定を有効と判断、特別抗告棄却」であり再審の途は閉ざされている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　今年の集いも管野須賀子の墓碑がある正春寺に全国各地から50名を越える参加者＜幸徳事件の被弾圧者「子孫」、関係者、横浜事件の被告関係者、再審弁護団等＞があった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　また金子文子の死去から八十年を迎えた昨年6月には「徹底した平等主義、天皇や天皇を中心とした国家の存在の否定」に現れた金子文子の思想、生き方や裁判の検証、朝鮮の人々への思いへの研究を柱として、「やまなし金子文子研究会」が発足し全国に向けて参加が呼びかけられている。韓国では7月の聞慶におけるワークショップ、8月にはKBS TVにより「金子文子」の生き方がドラマ化されている。8月26日付『釜山日報』に番組の内容が解説されている。以下部分引用。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＜天皇暗殺を図った朝鮮の男性朴烈(パク・ヨル)と日本の女性金子文子に死刑が宣告された。瞬間、朴烈は「裁判長、君も苦労したな」と語り、金子文子は万歳を叫んだ。日帝の死刑宣告にも屈しなかった彼らは、果たしてどんな人たちだろうか。「KBSスペシャル」が、彼らの人生と死を扱った特集ドラマを送りだす。26、27日午後8時KBS 1TVで放送される2部作「金子文子」「朴烈と一緒なら、死も満足する」という熱い愛、無政府主義に傾倒した彼女の思想を盛り込んでいる。世界の無産革命を夢見た二人は、革命の最大の障害物と天皇を規定し、彼を除去する計画を立てるが、爆弾テロによる天皇暗殺企画は計画段階で挫折する。平凡な「不良な取締まり」にひっかかり、計画全体が発覚してしまったのだ。しかし、彼らの真の闘争はこの時から始まる。朴烈と金子文子は無罪を主張せず、自分たちが正しいことをしようとしたと話した。「天皇暗殺計画は、極めて正当だった」と主張しながら、法廷を闘争の場に変えたのだ。以後、彼らは「天皇はなぜ暗殺されるべきか」をめぐり、日本の司法府と命を担保にした正面対決を展開する。＞&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　また「独立記念館」においても朴烈と金子文子のみならず闘争を行い日帝の監獄に囚われたアナキストたちの活動内容が「展示」された。一方、この国では「昭和の日」制定、「昭和記念館」開館と天皇＜制＞が強められている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
 虎ノ門事件や桜田門事件の検証をも含めて「大逆罪弾圧」を糾明する機会がより多くもたれることを願う。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/fu_tei/12998662.html</link>
			<pubDate>Mon, 05 Feb 2007 07:58:24 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>「布施辰治・自由と人権」</title>
			<description>二〇〇五年一月一三日、「布施辰治・自由と人権」と題した記念シンポジウムが明治大学・明治大学法学部主催で開かれた。&lt;br /&gt;
　記念とは韓国政府が布施に日本人として初めて「建国勲章」を授与したことである。副題が「明治法律学校出身の社会派弁護士」。布施は明治大学とゆかりがあり公判書類、蔵書等の一部は明治大学図書館に遺族から寄贈がされている。&lt;br /&gt;
　布施が韓国で評価されたのは朝鮮人留学生による独立宣言への弾圧、出版法違反裁判への無償弁護を始めとし（一九一九年二月八日、神田の朝鮮基督教青年会館で宣言された）、義烈団、朝鮮での農民の土地問題、朝鮮共産党事件などの弁護活動、関東大震災下の虐殺事件の調査・抗議等はば広く朝鮮の民衆のために活動したことである。&lt;br /&gt;
弁護活動の一つに金子文子・朴烈の大逆事件もある。&lt;br /&gt;
第一部として関係者の挨拶が続き、遺族を代表し孫である日本評論社、大石進会長の発言でしめられた。&lt;br /&gt;
第二部のシンポジウムのパネラーは明治大学から山泉進法学部教授他一名、布施の伝記を執筆中という森正名古屋市立大学名誉教授、そしてソウルから招請された李文昌国民文化研究所名誉会長。&lt;br /&gt;
　発言の主題は「朝鮮民族との連帯」、主要には朴烈・金子文子との関係で語り一九二二年からの布施と二人の邂逅から、大審院の法廷闘争での連帯の内容を語った。また布施の著作『自治研講和』から「無為而治」（為さずして始める）を引用、「人間生活の理想は誰からも支配されない自由と誰も支配しない平等の社会」を建設することにあると布施の理想を無強制無権力の完全な自治社会の実現にあると、論を展開した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
翌日、私の案内で李会長を金子文子の故郷である山梨の牧丘町へと誘う。牧丘町訪問に先立ち塩山市内で「李文昌さんを囲む会」が開催され金子文子を通じての韓国、ムンギョンと山梨のつながりを重点にした懇談会を開かれた。遺族である金子こま江さんら金子文子に関心を寄せてきた人たち二〇名近くの参加者があった。&lt;br /&gt;
牧丘町の金子家では歌碑の説明を受け、葡萄畑から山並みを展望、築二百年前後という文子も出入りしたこま江さん宅に上がらせてもらい、文子の生きてきた時代を偲んだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三月一三日、布施の出身地、石巻市において布施辰治を語る会（市、市教委、布施辰治顕彰会主催）が開かれ李文昌さんが再び日本の地に招かれた。筆者も参加のため石巻を初めて訪問。布施の生誕地、記念碑を見学、布施辰治顕彰会の人たちと交流した。会場には二百人余りの市民が集まり熱心に聞いていた。&lt;br /&gt;
　講師のもう一人は岩手大の早坂啓造名誉教授。大正期に布施が扱った岩手の小繋（こつなぎ）入会権訴訟を語った。&lt;br /&gt;
　李会長は朝鮮独立と布施の関わりを語り「差別のない平和な社会は、今からの東アジアの共通課題だ」と結んだ。&lt;br /&gt;
　</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/fu_tei/9380184.html</link>
			<pubDate>Fri, 22 Dec 2006 05:55:46 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>布施辰治著『運命の勝利者朴烈』目次と主要内容</title>
			<description>布施辰治著『運命の勝利者朴烈』目次と主要内容 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一、獄中闘争23年 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1　運命の勝利 朴烈君の生還 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2　獄中闘争23年 総日数、8091日。22年2ヶ月1日。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3　朴烈君の健康 1923年10月、市ヶ谷刑務所に収容当時の健康調査、身長五尺二寸二分……幾つかの病気 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4　朴烈君の生還 最後の面会は千葉刑で文子さんの死を伝えた時、一秒間面会。 生還後の第一次会見「丈夫で会えたのが嬉しい」「僕の生還は少しも偉くありませんよ」「生還するなどと云うことを考えて生還したのじゃないんだから……」「死ぬことばかり考えていたんです」「……死ぬまで闘争の力を逞しく保って死ぬことばかり考えたね」「おれは呪いはじめた天皇を呪い抜きたい。力強く、獄死の一瞬間まで呪い抜きたい。できたら呪い殺したい。天皇を呪い殺す力を最後まで失いたくないと思ってね。大正15年4月6日千葉刑務所下獄の第一日空、生還する秋田刑務所の最後の日まで、冷水摩擦を一日だって怠らずにやり続けているんだがね。その健康法が、このおれを生還させたのさ」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5　獄中生活の足どり 9月3日の逮捕は保護検束という行政執行法第一条…… 9月4日、救護検束24時間を過ぎ、警察犯処罰令「……徘徊する者」の該当者として「拘留29日」 10月20日には拘留期間満了と同時に1924年2月5日まで治安警察法違反被告として市ヶ谷刑務所に起訴収容、「秘密結社は之を禁ず」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6　運命の奇蹟は続く 「朴烈は恩赦前後の十日間を筆者に語った」 1926年3月26日、秋山刑務所所長に面会、死刑の執行を打ち合わせ、死刑執行の三箇条要求 その一箇条「……日本の法律を認めないのだから、執行命令の申渡しなどという彼らの合法手段を省略し、イキナリ締め殺してしまう虐殺を希望すること」 その二箇条「俺は自分の生を否定して、天皇の生を否定する大逆事件の決行を企てたのだから、俺は絶対に死刑の執行を恐れないし、また、死刑の執行に抗議するような態度は絶対にとらない。いつでも好きな時、大いに安心して執行の準備を進めてもらいたいこと」その三箇条「ただし死刑を執行するまではできるだけ、俺の言動を自由にし、俺の気に入った看守を俺の申し出通り俺のところへよこして、俺の話を聴かしてもらいたいこと」 　妻の文子も俺と同一意見だから、俺と同様に待遇してもらいたいといったら、秋山所長も覆いに感激したらしいようで、4月4日まで俺の要求通り看守どもに話を聴かせて、死刑執行の日を待っていたのだ。 しかるに4月5日、突然思いもかけない死刑一等を減じて無期懲役にするという彼らの恩赦……文子のいう生命の翻奔がやってきた……　ともあれ、恩赦令を手にした秋山所長は、喜んで朴烈君にもその旨を伝えた。すると朴烈君は、 「生かすのも天皇の勝手だよ。殺すのも天皇の勝手だよ。生かしておくことが刑罰なら生かしておくがいいさ。殺すことが刑罰なら殺すもいいさ。しかし、それはあくまで天皇の勝手で、俺は天皇の勝手になりたくないね。日本の天皇から恩赦だなんて恩を着せられる義理もなければ、理由もない。ただ俺は俺の呪いたいように、生きていれば生き霊になり、死ねば死霊になって天皇を呪うだけで、そんな恩赦令などというものには用がないね」 布施「恩赦は政治的判断、その後の恩赦からは外されている」「現実に朴烈君を生還させたものは進駐軍司令官の政治犯人即時釈放に関する指令である」「当然10月10日までに釈放されるはずの朴烈君が10月27日まで抑留されたのもそのためであること……」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
7　文子さんはなぜ獄死したか？ 筆者は12月7日、朴烈君の東京における歓迎会で、歓迎の言葉とともに文子さんの獄死を悼んだ。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
二、朴烈君の法廷態度&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1　法廷態度の研究と追憶 2　警察における被告態度 取調べを拒絶し、一枚の調書をもとらせていない。 3　検事局における被告態度 一枚の検事聴取書をも残していない 4　予審における被告態度 「俺は同志に関することはもはや何もいわぬことに決めている」 結局不逞社事件は事件に関連した同志12名の起訴を免訴せしめている 5　法廷における被告態度 筆者を通じて交渉した四条件 6　鑑定の拒絶 7　証人と同志のために 予審での李小紅調書関連 8　怪写真のエピソード 朴烈自身の証言 筆者の論文「怪写真事件の主点と批判」『改造』1925年10月所載&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
9　爆発物取締違反から大逆事件へ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
10　十七回訊問調書 筆者は朴烈君と共に、この調書を読み返して当時の悲憤と激情を語り合ったのだが、少しも無理のない筆者の解説が、朴烈君によって承認されたことを附記しておく。 問「そのほか、何か申立てることはないかね？」もうこれで大体取調べが終わるのだがね……ということを示唆すると、 朴烈君はいう。 「俺は君に読ましておこうと思って、俺が監獄で書いた『陰謀論』『不逞鮮人より日本の権力者階級に与ふ』『俺の宣言』『働かずにどしどし喰ひ倒す論』というのをもってきた。『俺の宣言』と『働かずにどしどし喰ひ倒す論』とは、俺の虚無的思想を表したものである。『陰謀論』は虚無主義としての戦略を書いたものである。『不逞鮮人より日本の権力者階級に与ふ』は、朝鮮人として、俺が、日本帝国に対する態度を宣言したものであるから、ぜひ読んでみるがいい。」 このとき被告人は、右の書き物四綴りを提出した、と記したのち、 問「この書き物を押収しようと思うがよいか？」 答「俺が、こんなものを書いたものは、どうせ君たちに読ませるつもりなのだし、君たちにとっては実物になるかも知れないから、押収しておくがいいさ。しかし、公判廷に立った時それを読むつもりだから、その時は俺の方にかえしてくれなければいけない。裁判官の問などに答えず、俺のいいたいことをいうために、これを読みあげるんだから、そのことをハッキリ書いて、後にまごつかないようにしておいてくれ」 このとき、予審判事は被告人に対し、右書き物四綴りを押収する旨を告げ、さらに弁護人について何か希望があるか、と問うた。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三、大逆事件の真相&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1　判決書による不発爆弾 2　総督府のスパイ工作と金相玉事件 3　大逆事件の思想的背景 義烈団の本拠上海と連絡することが一番便宜であり、爆弾入手の可能性が確実……義烈団の対日憎悪を結集した革命宣言に動かされている影響が多い。 筆者は、朝鮮で義烈団事件の弁護を担当し、金思◆君、金元凰君らから義烈団の革命精神を聴き、……二重橋事件の……金思◆君をも弁護した関係で義烈団の革命宣言を閲読し、大いにその壮烈を賛嘆した。朴烈君の大逆事件にも日本政府は義烈団事件の革命宣言を参考記録として取寄せており、朴烈君の大逆事件と義烈団の革命精神は不二一体の関係にあるといっても差支えないように思う。…… &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
四、朝鮮革命宣言 1　強盗日本に喰い殺される祖国朝鮮 2　祖国朝鮮を監獄にした惨虐日本 3　俺たちの敵、祖国朝鮮の敵&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4　内政独立運動の痛撃 5　朝鮮自治運動の夢を破る 6　文化運動の麻酔から醒めろ 7　敵の所在を突き止めろ 8　外交論の誤謬を指摘する 9　準備論の愚劣と迂遠と欺瞞 10 俺たちの革命理論と革命宣言&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
11 暴力革命の目標 12 破壊と建設の交互関係 13 異族政治の破壊 14 特権階級の破壊 15 経済掠奪制度の破壊 16 社会的不平均の破壊 17 奴隷文化の破壊 18 むすび 4256年1月　義烈団 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
五、対日憎悪の爆撃 朴烈の論文 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
六、朴烈君の思想生長&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1　高等普通学校入学 第四予審調書から &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2　日本渡来後の活躍 郵便配達夫として毎日宮城内に出入り、天皇の動静や出入りの経路研究 義挙団、鉄挙団、血挙団に関する件 警察の報告書掲載&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3　爆弾入手の苦心 柴田武福、社会主義者、エスペラント労働者協会会長 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4　陰謀論の強調 ……張祥重君の実話によると、朴烈君が固く同志を守るために義烈団関係や、一旦爆弾の入手を頼んで取消した金重漢との関係以外は調書にのぼせなかったのだというが、今日になって何の憚るところもなく当時の実情を告白すれば不逞社の目的が天皇打倒にあり、その方法は爆弾の使用にあり、従って爆弾の入手につきそれぞれの便宜を辿って同志のあるものは相当手を差伸べた事実もあり、窮余の一策として、当時最少限の爆薬自由販売が許された0.02ずつ数百件 の薬局から買い集めて、爆弾製造を朴烈君が企てる程度までそれを進めたのだそうである。しかし、爆弾製造の容易ならざる技術難が遂に成功しえなかったことも事実であるという。 朴烈の論文&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5　朴烈君の生いたち 実兄、朴庭植の予審調書から&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6　文子さんの生いたち 予審調書から &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
七、文子さんの天皇観&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1　天皇制打倒が夫婦の約束 第十二回予審訊問調書&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
2　人間の平等性を蹂み躙る天皇制 予審調書から&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
3　荒唐無稽な天皇制の尊厳 予審調書から &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
4　天皇制は悪魔的権力の代表 予審調書から&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
5　天皇の尊厳は奴隷の承認 予審調書から 6　法律と道徳は強者の武器 予審調書から &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
八、文子さんを語る &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
筆者の二つの講演録から 二つめに出会いを記述 「大正11年の末頃だったと思う。前から知っている朴烈氏の妻君だという名乗りを上げて訪問を受けた瞬間は、大変キビキビした婦人だという印象を受けた。……柳某の渡米の送別会を不逞社の一味が襲撃したというので西神田警察署へ検束……刑務所で朴烈氏の有名で貴重な長髪を既決拘留刑執行のために刈取ろうとした紛議から私に電報を打ってよこしたので面会ができ、正式裁判の申立もでき結局公判で無罪になった事件の弁護と、その無罪を警察官憲の糾弾にまで逆襲した人権蹂躙官憲糾弾演説会が神田三崎町の朝鮮キリスト教青年会館で開かれた一連の交渉と協力は、私と朴烈氏とを大変親しいものにしたのである。私のそうした関係とその後の事件と最近朝鮮の甥を通じて私のところへ寄越している手紙等から、私の見た朴烈氏と私が先に挙げた初訪問の文子さん、およびやはりその後の交渉と事件を通じて知った文子さんとは、非常に強く強く結びつけられるもののあったことに、一種の不思議を感じさせられるくらいです。………文子さんの自殺の原因は後に詳しく書いておこうと思うが、ある者の飛ばした妊娠のためだなということは誣罔も甚だしいデマであることを断言しておく。……私がその前最後に朴烈氏に会ったのは、いわゆる『不逞鮮人』の発行が禁止されて『太い鮮人』になったり、出版法の問題その他何の計画だったかは忘れたがともかく何かの問題で、カンパを起こすというような用件で、震災の翌日には私の所へ来た時です。…」</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/fu_tei/3737014.html</link>
			<pubDate>Sat, 21 Oct 2006 08:37:54 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>解放後の朴烈</title>
			<description>1945.10.27　朴烈、秋田刑務所大館支所を出獄、大館駅前で「出獄歓迎大会開かれる」 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1946 　　　　『独立の指導者朴烈』鄭泰成、新朝鮮建設同盟宣伝部、国会図書館所蔵 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1946? 　　　　『新朝鮮建国の指標:独立指導者　朴烈』　朝鮮半島における自由解放の指導者、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
朴烈の獄中詩歌、在日朝鮮人同胞へのメッセージ、日本の新聞に対する声明等を収録した、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;quot;独立指導者　朴烈&amp;quot;、及び、朴烈による新朝鮮建国に対する朴烈の信念・思想を収録した&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&amp;quot;新朝鮮建国の指標&amp;quot;を収録。 University of Hawaii at Manoa　「Asia Collection,」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
梶山コレクション所蔵 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1946.12.25 　『運命の勝利者朴烈』布施辰治、張祥重、鄭泰成共著　世紀書房&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1947.2.21「民団新間」創刊号発行。　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1947.5.23　民団第二回大会。団長朴烈、副団長李康勲、元心昌。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1947.8.23　朴烈「三たび八月十五日を迎へて」『民団新聞』週刊１３号、在日本朝鮮居留民団中央総本部★★&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1947.8.30　朴烈「留日朝鮮学徒の進路」『民団新聞』週刊１４号★★&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1947.9.13　朴烈「主張第廿五回関東大震災」『民団新聞』週刊１５号★★&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
…当時自ら「不てい鮮人社」と名乗った我々の同志も文字通り一網打尽に検挙されて有無を言わさず、全く投獄されてしまった。由来ゲーペーウー式の日本帝国主義的陰謀によって裁かれ、私は遂に死刑を宣告され、さらに彼等の勝手な判断によって終身の懲役に処せられ、さらにまた彼等帝国主義の世界戦争敗戦の結果として、二十三年余の獄中から、この明るい社会に出てきたのである。……&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
無署名記事「関東大震災廿五周年を迎えて」想起すれば当時大地震直後陸軍憲兵司令部の謀略に依り『朝鮮人三万名が日本無政府主義者と内応して日本襲撃に上陸して来た』と言う捏造のデマを廣島より全国に飛ばして置いてそれを口実にかかる不可抗力むの機会を逆用して日本軍部及青年団が白昼公然と国際社会の面前にかかる大事件を三日間も続けて敢行したのである……然しアナキスト系では、天変地異は不可抗力である。…本当の愛と相互扶助との懸念の下に、お互に相あわれむのみであった。…&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1947.10月1、2日　民団第三回大会（大阪）団長朴烈。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1947年 張義淑と再婚&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一九四八年八月一五日『新朝鮮革命論』朴烈、中外出版株式会社&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
目次&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
自序&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一章　思想立国&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一節世界は一なり&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二節　現実に徹する思想第&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三節　共産党を語る第四節死に生くること&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二章建国の指標&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一節独立とは形式ではない&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二節具体的に建国の立地条件を究めよ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第三節戦線統一への方向&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第三章青年と民族の運命&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一節立国の支柱としての青年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二節操志ある青年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第三節高き文化の使徒青年&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第四章生活革命運動の展開&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一節民族的欠陥の反省&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二節社会を発見せよ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第三節公式論、原則論を排す&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第四節身を以て再起へ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
付録一　三千万我等とともに罪あり&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
二　対日協力者戦争犯罪人等の処断に関する法案をめぐりて&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三　祖国の正しき産業建設のために在日業界人の反省を促す&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
四　前科者、受刑者、現科者&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
五　祖国愛と国際的観念&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
六　世界の現実に学び、世界の現実に捉われる勿れ&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
七　われらは先ず道義の昂揚から&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
八　小児病的左翼陣の暴挙を排す&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1948年11月20日　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『政党人に望む』発行人、朴義淑、東京都杉並区阿佐谷一丁目七四六番地、発行所、中野区野方町一丁目七三二番地、朴烈文化研究所&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1949年4月2日　民団第六回大会、選挙に敗れて団長を辞任。 　　 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1949年　朴烈は家族と共に韓国に向かう。李政権の国務委員となる &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1950年4月　張義淑は二人の子、長男栄一と長女慶姫を連れて帰国 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1950年6月25日　ソウルは南下した北朝鮮軍の動きにより混乱状況&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1950年6月27日　　張義淑、大元ホテルに止宿中の朴烈と連絡がとれたのは27日の未明。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「子供たちをつれて、すぐよその家へうつれ。今後連絡が絶えても、革命家の妻として、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
恥ずかしくない行動をせよ」朴烈はこれだけ言って電話をきった。たまりかねた張義淑が慶姫&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（当時8ヶ月）を隣家にあずけ、栄一（2年4ヶ月）をつれて、大元ホテルまでたどりつくと部&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
屋には朴烈がひとり目をつむったまま座っていた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「……国民のほとんどがソウルに残っているのに、おれだけ逃げられるか。帰れ」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
……　義淑は秘書に送られて桂洞まで戻る。夜になり雨が降り出した。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もう一度朴烈のところへ行こうと決心。……ホテルに出かけた。やっとたどりついたホテルに朴烈はいなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
…夜が更けるにつれ、砲声はいよいよ近く、機関銃が地底からのような音をひびかしている。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
午前三時、砲声がやみサイレンが鳴った。北朝鮮軍が中央庁に入った合図にちがいない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
夜が明けると、幾千幾万とも知れぬ足音が聞こえ「人民共和国万歳」の叫びが伝わってくる。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
……共産軍に捕らえられた朴烈の居所を察知しようとして西大門刑務所に出かけたのもそのころだった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「十五年目のエンマ帳その一　朝鮮の人　朴義淑さん」臼井吉見より。朴烈、行方不明になる。 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1960年1月　　　「十五年目のエンマ帳その一　朝鮮の人　朴義淑さん」臼井吉見『婦人公論』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1960年1月号掲載＜再婚相手は東京 女子大で臼井ゼミの学生であった＞ &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1963年3月、4月　　「朴烈・金子文子事件」森長英三郎『法律時報』　 &lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1966年6月 　　「共産主義者と私」朴烈、『統一評論』掲載&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私は一時、日本で社会運動をおこそうと思い、政治団体を組織したことがあった。そして日帝の監獄にぶちこまれて苦労もしてみた。……&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　私は共産主義者の幅広い度量とあたたかい同族愛に深く感動させられ、目頭が熱くなる時が一、二度ではなかった。…&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　祖国と民族を憂えるすべての人々は、一切の外勢を排撃して、南北が力を合せて祖国の自主的統一を実現する大道を前進しなければならない。★★&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
1967年 　　　『民団　在日韓国人の民族運動』鄭哲、洋々社</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/fu_tei/3637203.html</link>
			<pubDate>Thu, 19 Oct 2006 23:26:40 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>「私は大正8年中朝鮮に居て朝鮮の独立騒擾の光景を目撃して、私すら権力への叛逆気分が起り、朝鮮の方の為さる独立運動を思う時、他人の事とは思い得ぬ程の感激が胸に湧きます。」</title>
			<description>調書(大正十二年十月二十五日東京地方裁判所)　　　金子　文子&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
(原本　冒頭略)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一問　氏名、年齢、族称、職業、住所、本籍及出生地は如何。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
答　氏名は金子文子。年齢は戸籍面では二十二歳でありますが本当は二十歳であります。族称は平民。職業は人参行商。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
朴烈の妻か。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
入籍して居るか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
何時朴と一緒に為ったか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
昨年五月中より朴と同棲して居ります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
虚無主義です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
不逞社に加入して居るか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本年四月中私と朴とが相談して不逞社を組織しました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
不逞社の仲間は誰か。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二回被告人訊問調書(大正十三年一月十七日東京地方裁判所)&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
虚無主義の思想&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
家族関係「私には其の様に両親もあり弟妹もあり乍ら、私は両親か捨てられ姉弟離散して仕舞って家庭の味を知りませぬ。無籍者で生れたと云ふので社会制度の欠陥あり、私は社会から圧迫を受けました。私は親の愛を疑ひ社会を呪はずに居られませぬ」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「幼い頭の私に今でも其の様に其印象が明に残って居る程父は酷しく母を虐めた上私等親子三人を捨てて仕舞ひました。私は父の愛を疑はずには居られませぬ」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
家庭環境、母親の同棲相手から虐待、「無籍者であると云うので、学齢に達しても小学校に入学する事が出来ませぬでした。」校長に嘆願&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父親、伯母(文子の母親の妹)と同棲&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「私は父に逃げられ又母には斯うして捨てられ、子供乍らに考へても判らない自分の身の上に嘆き呪ひました。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
九歳の秋に朝鮮に送られる、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「朝鮮でも私は非常に無理解な待遇を受けました」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
12行だけの記述&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
6歳の春母の郷里山梨に返される&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父親の対応、実の叔父と結婚させようとした&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大正九年四月私の十七歳の時に上京&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
苦学を始めた、大叔父窪田方、新聞売捌き店、昼間、正則英語学校&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本郷区湯島に間借り、粉石鹸の夜店、浅草区聖天町、砂糖屋に女中奉公&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
本郷区追分町社会主義者堀清俊方に同居、印刷屋の活字拾いをして苦闘&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「其の間私は母の郷里にも父方にも一二度出入りしましたが、当時私が堺利彦氏の著書や社会主義の雑誌を読んで居りましたので、父母は夫れを見て漸時私が社会主義的傾向を持つ事を怖れて居る模様でありました。大正十一年三月頃私は無資産にして無名の一鮮人朴烈と相知り、同人と同棲仕様と決心しましたので、私は父に対しては口上で母に対しては手紙で其の旨を宣言しました。父は面と向かって賛意を表しませぬでしたが、同年五月私が朴烈と同棲してから父から私に宛て、苟くも太政大臣藤原房前卿の第百何十代やらの後裔を生んだ私が卑しい鮮人と同棲すると云ふ事は光輝ある佐伯家の家系を汚す者である、今日限り勘当するから親ありと思うなと云う旨の手紙が来ました。私は捨てられた父から勘当を受けたのであります。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父親の愛の移動&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「父の心の空虚を補ふ間のみ所謂子供に対する愛が動いたのでありました。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「父は十年前に捨てた子供に対する所有権、親としての権利を復活せしめて、本人の私に只一言の断りも無く私の身体や心を野心の対照に縛り付けて、元栄の寺の財産を目当てに私と元栄との結婚を同人と約して仕舞ったのであります。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父親の元栄への批判の勝手&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
父親への批判、母親への批判、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「強者への屈従の約束が所謂道徳であります。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「此の道徳が各時代を支配し各社会を構成して居ります。左様して支配者は何時も此の道徳をより長く保つ事を第一義的条件として居ります。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「従って私は父を母を恨みませぬ。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「此の呪を何処に持って行くか、自然を呪ひ生物を呪って私は総ての物を破壊して自分は死なうと思ひます。私が親族的関係を中心として虚無的思想を抱く様に為った一端は今迄申し上げた通りであります。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　　第3回1924年1月22日&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一問　虚無的主義を抱く様に為ったと云う次第は什うか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「社会制度の欠缺(けん、こん)による侮辱の総てでありました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
社会制度の欠缺は私が無籍であったと云う事に依って私が社会から受けた待遇が一端として十二分に証明して居ります。前回申上げました通り私は幼児無籍でありました。つまり私は日本の土地の御厄介に成り乍ら日本の人間でも無く何処の国の人間でも無く私の籍は天国に在ったが為め、私は日本の人間で無いのに拘らず、日本の制度から精神的にも堪え得られない虐待を受けました。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
無籍と法律&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
東京での生活、上野三橋に立って毎晩夕刊を売りましたが、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三箇の思想団体、仏教済世軍、キリスト救世軍の一団、血を吐く様な悲鳴を挙げる長髪の社会主義者の一団であり…&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
堀清俊方の話、九津見房子への幻滅&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
二問　それでは被告の所謂虚無主義とはどう云ふ思想か。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
三問　日本の国家社会制度に対する被告の考え方&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一階級は皇族であり&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第二は大臣、其の他政治の実権者であり、&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第三階級は一般民衆であります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第一階級たる皇族を丁度　摂政宮殿下は何時何分に御出門と云う様に牢獄的生活に在る哀れなる犠牲者であり、皇族は政治の実権者たる第二階級が無智な民衆を欺く為めに操って居る可哀想な傀儡であり操り木偶であると思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「私は目下入監中日誌を認めて居ります。昨年11月6日の欄に私は次の様な事を書きました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＜人間の命なんて権力の前には手毬の様に他愛なく扱われて居る。御役人方遂々私を監獄に投り込みましたね。だがね悪い事は言いませぬよ。今度の事件を具体化した様な未然に防ごうと御思召なら此の際です私を殺して仕舞はなければ駄目ですよ。私に何年でも牢獄生活をさせても再び私を社会に出したなら、必ず必ず遣り直して御目に懸けますよ。貴方方の御手を煩わす世話の無い様に先ず私の此の身体を亡して御目に懸けますよ。まあまあ私の此の身体を何処へなりと持っていらっしゃい。断頭台へでも八王子へでも。どうせ一度は死ぬ身体です。勝手に為さるがいい　君等が私を左様する事は飽く迄も自分に生きたと云う事を証明して呉れる丈けです。私はそれで満足します。＞」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「御役人方君等の前に改めて勇敢に宣言しましょう。＜私はね、権力の前に膝折って生きるよりは寧ろ死して飽くまで自分の裡に終始します。それが御気に召さなかったら何処なりと持って行って下さい。私は決して恐ろしくは無いのです＞&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
四問　其の思想を抱いてから朴烈と知ったのか&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
答　左様であります。私は朴を知って後互に思想を語り合って共鳴したので、同人と運動を共にするが為め同棲する様に為ったのであります。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第4回被告人訊問調書　　　　　　　　　　　　　　　1924年1月23日&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「大正11年2月頃朴烈を知り、其後同年4月末頃東京府荏原郡世田谷池尻412番地相川下駄店の二階を間借りして朴と同棲を初め、大正12年3月頃私等は同府豊多摩郡代幡町代々木富ヶ谷1474番地に移転して居住中検挙されたのであります」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＜朴と知り合った状況＞校正刷り「青年朝鮮」朴烈の詩「犬コロ」力強い叛逆気分が漲って居る事を感じて、初めて朴烈と云う人の名を知り、其の印象を受けました処程無くして鄭方にて朴に会い、交際するようになった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＜朴との結婚の経緯＞&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「主義に於ても性に於ても同志であり協力者として一緒に為ったのであります。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
＜朴の思想＞&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「私は大正8年中朝鮮に居て朝鮮の独立騒擾の光景を目撃して、私すら権力への叛逆気分が起り、朝鮮の方の為さる独立運動を思う時、他人の事とは思い得ぬ程の感激が胸に湧きます。」</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/fu_tei/3218965.html</link>
			<pubDate>Sat, 14 Oct 2006 21:37:55 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>続・独立記念館 &amp;#39;アナーキストたちの抗日闘い&amp;#39;展 15日開幕 韓国文</title>
			<description>続&lt;br /&gt;
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			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/fu_tei/3198002.html</link>
			<pubDate>Sat, 14 Oct 2006 17:27:12 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>朴烈の意志・第二に朝鮮民衆に対しては、同民族が一般に日本の皇室を総ての実権者であると考へて居り憎悪の的として居るから、此の皇室を倒して朝鮮民衆に革命的独立的熱情を刺激するが為め</title>
			<description>第六回訊問調書二四年二月四日&lt;br /&gt;
「大正十年秋頃には黒濤会、…十一年九月頃には黒友会、大正十二年四月頃には不逞社等の無政府主義的思想の研究会を組織したり、金子文子と二人で&lt;br /&gt;
『太い鮮人』──後に『現社会』と改題──等の雑誌を発行したり、其の他種々の運動をして来た」&lt;br /&gt;
爆弾は不逞社と別問題だ&lt;br /&gt;
「日本民衆に対し皇室が一の迷信の上に建てられた偶像に過ぎない事を示す為め、及び天皇や皇太子たる幽霊の為めに一般民衆が如何に縛られて居るかと云ふ事を自覚せしめる為めには製糞器を狙ふ事も捨て難い。殊に朝鮮の一般民衆は日本の天皇皇太子を以つて名実共に有する実権者であり、天を共に戴く事の出来ぬ讐敵だと思つて居るから、此の者の存在を此の地球から抹殺して仕舞ふ事は朝鮮の民衆をして感激せしめ、より戦闘的気持を持たしめる点に於て到底捨てる可からざる有効なる方法の一つである。丁度原敬が殺された時朝鮮人は各地に於て秘密に祝賀会を開いた位だから。&lt;br /&gt;
　然し日本では皇室に対する罪は他の罪と比較して高くて割合に合はぬと言ふ点と木偶であると云ふ点からして、日本の社会運動者は皇室に触らぬ様にして居る様に見受ける。」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第十回&lt;br /&gt;
「第一に日本の民衆に対しては日本の皇室が如何に日本の民衆の膏血を搾取する権力者の看板であり、又日本の民衆の迷信して居る様な神聖なる事神様の様な者では無くて、実は其の正体は幽霊の様な者に過ぎない事を即ち日本の皇室の真価を知らしめて、其の神聖を地に叩き落す為め、第二に朝鮮民衆に対しては、同民族が一般に日本の皇室を総ての実権者であると考へて居り憎悪の的として居るから、此の皇室を倒して朝鮮民衆に革命的独立的熱情を刺激するが為め、第三に沈滞して居る様に思はるる、日本の社会運動者に対しては革命的気運を促す為にあつたのだ。日本の天皇は病人ではあるが皇太子と共に皇室の表面的代表的なる事にし同価値である。&lt;br /&gt;
　殊に俺が昨年の秋の皇太子の結婚期に爆弾を使用する事を思ひ付いたのは、朝鮮の民衆の日本に対する意志を世界に対して表明するには最も都合の好い時機だと思つたからである・」</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/fu_tei/3178581.html</link>
			<pubDate>Sat, 14 Oct 2006 12:34:38 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>朴烈の生い立ち</title>
			<description>朴烈&lt;br /&gt;
　&lt;br /&gt;
大審院に付す意見書から&lt;br /&gt;
「幼にして早く日韓合併を以て祖国民族の悲運なりとして之を慷慨し居たる処、朝鮮総督府の施設せる小学校に入学するに及んで其教育法に付日鮮児童を区別して程度に高下の差を設け、其待遇も亦優劣の別あるを不当なりとして不満を抱懐する間に其過程を卒へ、更に高等普通学校に進むの頃に於ては右日鮮民に対する差別待遇等自己の実感に徴して遂に其由縁を尋ね、同府の統治方針を目して日本民族の帝国主義的野心により、祖国民族を死地に陥擠し其絶滅を期するものなりと做し、茲に日本民族に対する恚忿反抗の情を激越ならしむると共に、其危窮を未然に防止せんには祖国独立の外なしと断定し」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第三回訊問調書一月三〇日&lt;br /&gt;
一問&lt;br /&gt;
「母親は六十幾歳かに為る、五歳のとき病気で父親が死ぬ姉は他家に縁付いている、自宅で農業を営んでいる兄二人」&lt;br /&gt;
三問&lt;br /&gt;
「俺は最初民族的独立思想を抱いて居た。次で広義の社会主義に這入り其の後無政府主義に変じ更らに現在の虚無的思想を抱く様になつたのだが、今でも民族的独立思想を俺の心底から拭い去る事は出来ぬ。俺が其の様な思想を抱く様に為つた次第を沿革的に言へば、先づ第一には登校前俺が八、九歳の幼い時の事であった。朝鮮は伝統的に階級制度を重じ弱者は強者に対して絶対服従の関係あり古典主義であった。…」&lt;br /&gt;
「又朝鮮に於ては朝鮮固有の文字が在るにも拘らず漢文を真書と呼んで尊び新しきを排斥し古きを尊重する。古典的である之等の絶対服従であり古典的である事に就き俺は子供ながらに懐疑の念を抱いて居った。」&lt;br /&gt;
「第二に俺の思想に影響を及ぼしたのは登校後の環境である。」&lt;br /&gt;
「転校当時俺は日本の教育方法の可成り進歩して居る事に感心して相当に勉強したが、其の中に教師から日鮮人同国であり日鮮人は同胞であり平等である事を聞かされ、日本の天皇の有難い事を説かれたが、事実上日本人の小学生は朝鮮人の小学生より先順位に置かれ、学校に於て朝鮮語を使用する事を禁止させ、朝鮮の志士偉人の事は元より朝鮮の天皇の事すら少しも説明せぬ程不平等であつた事に付き俺は疑を懐いて居た処、卒業に迫つて朝鮮人の教師が吾々朝鮮の小学生を集めて之れ迄心にも無い嘘の教育をして居た朝鮮の歴史を尊ばねば為らぬ、日本の教師は警察の刑事であると言つて俺達の前で泣いた事があつた。俺は夫れを見て非常に感じた。学校に於ける生活は其の様に平等を標榜し乍ら事実上不平等であるから更らに学校生活と家庭生活とは矛盾衝突して居る。」&lt;br /&gt;
11行未入力&lt;br /&gt;
「其の様に日本の学校の教育、日本人の生活、日本の官庁の統治方法は平等を標榜して居り乍ら、朝鮮人に対して民族的差別待遇を与へて居るので俺は十二、三歳より十四、五歳に至る間の頃より民族的独立思想を先づ抱く様に為つた次第だ。」&lt;br /&gt;
21行未入力&lt;br /&gt;
「日本人の朝鮮人に対する暴虐を目撃して尠なからず反感を抱いた事があつた。」&lt;br /&gt;
朝鮮政府時代の小学校教科書、没収&lt;br /&gt;
土地測量、「全国的に朝鮮人から土地を奪ひ取つて仕舞つた」&lt;br /&gt;
日本人の高利貸&lt;br /&gt;
日本人による暴行&lt;br /&gt;
「又朝鮮人から視れば志士である処の義兵を日本政府は暴徒だと呼んで虐殺した。夫れらの事が俺の日本民族的日本政府に対する叛逆的気分を抱く様に為つた第二の動機で在つた。」&lt;br /&gt;
第四回訊問調書二四年二月一日&lt;br /&gt;
「第三に俺が思想上の影響を受けたのは高等普通学校時代である。」&lt;br /&gt;
書堂から咸昌公立普通学校に転校した&lt;br /&gt;
高等普通学校師範科に入学、日本の中学に相当、朝鮮人を収容する学校である&lt;br /&gt;
京城の同学校に入学&lt;br /&gt;
「日本の高等師範学校を卒業した心理の若い教師は思想に感じた男で、幸徳秋水の大逆事件の話をして聞かして呉れたので俺は興味を持って其の話を聞いた事もある」&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
第五回訊問調書二四年二月三日&lt;br /&gt;
「心理学の教師から思想上の話を聞いて興味を引き、木下尚江、夏目漱石、小川未明、竹越三叉、黒岩涙香等の著書を読んで思想上得る処が在つた。」&lt;br /&gt;
独立騒擾事件</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/fu_tei/3178387.html</link>
			<pubDate>Sat, 14 Oct 2006 12:31:03 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
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