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意外だった。突然運転している父親が語りはじめた。
「お父さんの幸せは、お母さんが幸せになること。お母さんが幸せなら、お父さんも幸せだ。でもお母さんの幸せは、お前が幸せになること。お前が幸せなら、お母さんは幸せだと思う」
思わず、「なんだ、じゃお父さんの幸せも、俺が幸せになることじゃないか」と言いかけたら、「違う。お父さんは、お前の幸せを優先しない。お母さんの幸せが一番だ」
そして父親は話を続けた。
「人は自分のために生きていると思ったら、それはまだ、まだ、未熟な人間の生き方だ。人は誰かのために生きている。誰かが幸せになることで自分の幸せを感じることができる生き物に神様は造られた。そこに人間として生きて行く価値がある」何を言い出したかと思うほど、いつもの酒だけを食らって、居間で酔っ払って寝ている親父からは想像すらできない言葉を、高速道を北に向かって走っている車内で急に言い出したのだ。
後部座席に乗っている母親ですら、聞こえているのかいないのか不思議な顔をしていた。
3年ぶりに家族で帰省している。
800kmはある道中、日頃、顔をみても会話すらなくなった家族。挨拶すら真面にしていなかった。俺も妹も成人してからは、みんな勝手な生き方をして、迷惑さえかけなければそれぞれの生き方に干渉しないで生きる家族になっていた。そんな折だから父親の話にはびっくりした。酔っ払って酒だけを食らって、人のことはお構いなし。自分さえよければ良し。家族のために犠牲になんかなるか・・・・・・と思いきや、自分の幸せはお母さんが幸せになること・・・・だと。
俺は真面な親父を持っているのか? この人本当に俺の親父なのか?
尊敬するに値するじゃないか? うちの社長のようなことを言うじゃないか?
その言葉、頂いてもいいか? 人生の目的が判ったような気がする?
中央道、長野道、上越道、北陸道を経て、磐越道から東北道に出たのは、家を出てから8時間を過ぎた頃。あと3時間ってところだけど、ここからが国見峠を超えるあたりまでが渋滞エリアになる。はじめてのワン吉の帰省でもある。やっと車にも慣れてきたのだろうか、大人しくドライブボックスで寝ている。
サービスエリアで休憩の時、母親に思わず聞いた。
「さっきの親父の話、聞いた?親父の幸せはお母さんが幸せになることだって」と母親の顔を覗き込んだら、母親は不思議な顔して「何っ言ってんの?煩いBGMで、前の席で話している会話は、後ろの席ではわからないよ。誰が言ったの?そんなことを言うはずの無い人だよ。あんたの親父は・・・・」「そうだよね。そんなことを言う親父じゃないよね。じゃぁ?誰に聞いたのだろうか・・・・・夢を見ていた?」 不動堂
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机に向かいキーボードを打ちこんでいる不動堂がいる。そんな時は間違いなく「がいじんトーク」の原稿を書き込んでいる。300回も書き込んでいるとテーマというか話題というか、何について書こうか・・・・・と悩んだりしている今の自分がいる。
こんな程度の文章で何を悩むと不思議がる人もいることだろう。何を明かそう不動堂は普通の会社員なのです。会社のオーナーでも、社長でも、役員でもない立場の人間のコラムなのです。その上、幼い頃から文学とは程遠い世界で、読書感想文が苦手な外遊びばかりしていた小・中学生で、何とか三流私立大学の理工学部を経て、この会社に入社したものだから、文法とか、構成だとかは中学生レベル。高校の時の好きな教科は、数学と物理。苦手な教科も数学と物理。好きだけど点数が取れない学生だったのが現実。文系の世界史や現代国語はもちろん音楽までも選択していなかった高校時代をおくっていたから、公明な読者の方なら、もう不動堂の人物像が想像つくかもしれない。
では、「何で?書き始めたんだ」という質問が聞こえて来そうである。
300回ということは年に12回。単純に25年間も書き込んでいることになっている。(実際には320〜330話は書いている。倫理委員会?に引っ掛かり、ボツになった原稿がかなりある。未だに基準が不透明)
25年も前というと不動堂も若かった。あの頃は、間違いなく熱かった。
社会への不満、会社の理不尽さ、上司のいい加減さや同僚たちの不正義さなど、どこにもぶっつけられない「怒り」や「情熱」が、心のあるがままに「がいじんトーク」を書かせてくれた。それは、私のストレス発散コーナーだった・・のに・・・・最近は、それ自体がストレスになっている・・・・・・不思議なものである。
最近、自称20年以上の読者さんから辛口のご意見を頂いた。
「最近、酔っ払いとか飼い犬の話ばかりでスケールが小さすぎる。もっと夢、希望の持てる話を書いてください」というご意見だった。
不動堂としては、自分の会社の愚痴は書いたことはあるが、他人に夢とか希望を与える話を「がいじんトーク」で書いた覚えがないのだけど・・・・・そのように感じてくれる人もいたことが驚きだった。その時は「がいじんトーク」も捨てたものじゃないなぁ・・・と内心、鼻を高くしている不動堂がいたことも隠せません。
また言い訳をさせてもらうわけじゃありませんが、この「がいじんトーク」のコラムの欄は、あくまで不動堂個人の意見であり、会社、グループとしての代表者の意見ではないこと、特定の政治団体の応援も宗教団体の応援も一切しません。時には、不動堂個人が特定の国、団体に対して、意見を述べる場合がありますがあくまで個人の人間としての意見、感覚であることをご理解ください。今後とも、よろしくお願い申し上げます。
不動堂
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あの黒ネコの回し者なのか、突然目の前を通り過ぎた黒い影。一瞬不覚にも立ち停まってしまった。その瞬間、未確認飛行物体が我領域を侵犯したのです。
気持ちの良い朝であったはず、いつものようにお父さんに朝の挨拶をして、お父さんが居間の掃出しの窓を開けた、その瞬間にそいつは僕とお父さんの目の前を横切り、すごい速さで居間の吹き抜けの2階の天井の方へ飛び上がって行った。その速さは僕が生まれてから初めて感じた速さだった。お姉ちゃんの僕との駆けっこより速かった。(僕の「高速回転時計回りの術」に匹敵する速さかも・・・・・・)
何より、そいつは我が家の領域の空中を自在に飛び回れる技を持っている。僕の知っている空中を飛ぶ蝶ならふわふわしか飛び回れないのに、そいつは自由自在に動き回れるようだ。1階へ降りて来たかと思うと、そのまままた2階の天井へ。その繰り返しを何度もしている。まるで僕に「動きを止められるものなら止めてみろ」と言わんばかりの自由自在の空中遊泳をしている。初めはびっくりしたけど、このワン吉1歳、もうお前の動きとスピードには目が慣れてきていることをお前は判っていないようだ。急降下して降りてきたところを僕のジャンプ力で撃ち落として・・・・・・と思いきや、突然方向を変更して僕の右フックの一撃をかわした。そいつは上下飛行を繰り返し、3〜4度と僕の一撃を同じように繰り返しかわされた。悔しいいけど、そいつは僕のジャンプする高さを見切っているのか、中々ジャンプして届く高さまで降りてこない。完全に、そいつの思うままの飛行を繰り返し許してしまった。死闘すること15分。耐えがたい時間だった。
僕は我を忘れた。
居間を汚したくはなかったが、このまま舐められておくわけには「番犬」としてのプライドが許さない。勝負してやろうじゃないかという僕の本能が目を覚ました。
まだ一度も使っていない技だけど、「三段跳び空中連続ワン吉パンチ」を出すタイミングを計った。次のタイミングで椅子に飛び上がり、その勢いでテーブルに右足を掛け、そいつ目掛けてワン吉連続パンチ。微かに左の一撃がそいつのテイル部分に届いたように思った。嫌、間違いなく左の爪が触った感触が残っている。
そいつはびっくりしたのか開いている掃出しの窓の方向へ針路を取り、我が家の領域から逃げるように飛び出て行った。着地は無事ソファーの上に降りえたが・・・・。
勝利の代償が大きかった。テーブルの上は水浸し、倒れるコップ3個、椅子の上にあった新聞は水浸しで読めない、ソファーに掛けていたお母さんのカーデガンが僕の着地でグチャグチャ。僕も着地の時にカーデガンに足を取られ着地に失敗。全身打撲。
しかし、番犬としてのプライドが奇跡の「三段跳び空中連続ワン吉パンチ」を生み出した。
この技の別名が「ツバメ返し」。ワン吉は、この技修得により、それ以来何度もこの技を使うようになり皆から「やめなさい」と怒られる羽目になった。 不動堂
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私の中学での軟式野球公式戦は5番キャッチャーで出場した。最終打席は、最終回の7回、0−1のビハインドの1アウト3塁でまわってきた。結果はインコースに来た2球目を打ちにいってキャッチャーフライで終わった。あの時、本当に試合に勝ちたかったんだろうか。
今でも覚えているのは、そこに後悔があったからかもしれない。
小学校のクラブは、野球部がなかったから、迷うことなくソフトボール部を選択し過ごし、中学は軟式野球部を選択した。高校では野球をやめてラグビー部に入った。
当時、ソフトボール部に入るために参加者が多くて、入団試験があったことを記憶している。キャッチボールと遠投、フリーバッテング2打席、内野ノック10本。2打席ともヒット、10本とも送球までノーミスで1番合格した記憶がある。
私の野球能力は、小学校の低学年から1〜2つ上の地域の先輩らに混ざって野球遊びをしていたことが、自然と身に付いて、ある程度のレベルになったのだろう。
学校のソフトボール部だから週に一度しか練習はない。練習試合などもなく、小学生の自己管理で試合に臨むのである。個々の運動量力に頼る作戦。
結果、地域で6チーム中、3位だったことを覚えている。
中学の軟式野球部では、それまで指導していた顧問に1年生の時から試合で使ってもらったが、2年になると同時に、それまで指導していた顧問が人事異動になり、軟式野球部の新しい顧問は野球の知らない英語の先生がみることになった。野球のルールは素人なりに知っていたとは思うがノックができない顧問だった。当然、メンバー選出も作戦も主将任せだった。毎日、毎日主将の決めたワンパターンの練習内容で明け暮れた。私は、ひたすらフリーバッテングでは、ボールを遠くへ飛ばそうとひたすら練習していた。右打ちの練習やタタキの練習(ボールをバウンドさせる打ち方)なんか一度もしたことがなかった。バント練習さえ、トスバッテングの時しか練習しなかった。
私は、自分の子供を通じてリトルリーグに3年、地域の中学の軟式野球部の指導に8年コーチとして携わった。その傍ら、他の指導者から野球の基本、点の取り方を勉強させてもらった。審判の講習会にも参加し、ルールブックを読み、ノックの練習もし、子供たちに言葉で野球を伝えることの難しさを知った。練習方法、そのチームに合ったフォーメーイションなど「守」「破」「離」の精神で少年野球に取り組んできた。もう少しというところで卒業、そして毎年新入生が加わる組織体制。
未だに育てたチームに満足することはない。
もし、私があの頃、良き指導者に出会っていたら、「私の野球」の結果は変わっていたかもしれない。良き指導者に出会い、指導してもらいたかった自分自身が今ある。不思議なものだ。
そうすれば、もっと野球がうまくなっていたかもしれないし、甲子園を目指した高校生活を送ったかもしれない。野球が好きだったから、頑張れたかも・・・・・・・・・人生にタラレバはない。
最後のあの場面、打ち気満々を装い、確実にスクイズを決め、1点を取れる選手に成りたかった。
不動堂
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私は、親の愛情を一身に受けて育ったのだろう。
もの心がついてから、私は経済的に困ったことはなかった。
それまでは、幼いころの写真を見ると決して「おぼちゃま」だったことはない。
誰からかの御下がりのようなサイズの合わない服を着ている写真しか残っていない。
しかし、小学生ごろの記憶によると、ほしいものは買ってもらっていた。グローブやバット、ユニホーム至るまで好きなものを買ってもらった記憶がある。自転車やカセットデッキやステレオまでも。洋服も好きなものを買い与えてもらった記憶しかない。
まわりの友達と比べても、そこには不満はなかった少年時代だった。
ただ、いい子を演じることを強いられたことは忘れられない。学歴の無い親だったから、人並み以上の学歴を望み、勉強には煩かった。高校の進学も地域で一番の学校を望み、
私も親のそれに応えるのが役目だとも思っていた自分自身があった。入学は何とか出来たものの、それ以降が私には辛かった。高校の授業に付いていくのがやっとで、一科目も赤点を取らないことが目標になってしまった高校時代だった。当時、数人の留年生がクラスに数人はいる高校であった。その仲間にならないようにするのが私の唯一のプライドだった。そして、そのプライドを守ることが親孝行だと勘違いして歯を食い縛っていた少年だった。いい子を演じる=この高校を3年間で卒業すること=それが親の期待に応えること。
親と一緒に過ごしたのは18の時まで。私自身が望んで親元を離れた。
その時から親・兄弟との交流は、盆と正月に会う程度で、遠く離れている所為もあり、
独立して所帯を持っても、親族の法事や親族の行事などには声はかからないようになった。
その一日のために帰省することはもったいないと考えている私自身と身内の心の中の本音があった。それが、故郷との距離をおくことになってしまった。
離れて36年にもなる。その間、親・兄弟からも困ったことの相談を受けることもなく、逆に、こちらも意見を仰ぐこともなく、勝手気ままに判断して生きて来た。
テレビドラマのような家族会議のような光景は一度もない。いつの間にか、どこか身内からもあてにされない程度の存在になっているのかもしれないし、当てにならないぐらいの実際の距離をおいてしまったことだけは事実だ。
自由気ままにさせてもらうことを望み、叶っていることが、なぜこの年になって寂しく感じてしまうのだろうか。苦労を掛けることも、掛けられることも嫌な性格だったから親元を離れたのに。なぜだろう。
すべて、望み通りに生きて来られたのに、なぜ納得出来ないんだろう。
36年前、自分自身が選択したのは「親の干渉からの卒業」だった。
不動堂
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