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この世の中には、使う側と使われる側がある。
使う側の理屈で使われる側の運命が決まってしまうことが多い。
使われる側がいくら理屈をこいても、その運命は変わりやしない。
将棋盤上には、使える20枚の駒がある。
指し手がその駒の指し順を決めて打つ。駒には指し順を決めることは出来ない。どの場面で何を打つか、相手の先、先を読んで駒の選択をする。それは、相手を攻め混乱を誘い勝利を導たり、
時に、それは愚かな手だったりして苦渋を舐めたりする。
指し手は常に「盤面この一手」の思いで打つ。しかし、それは必ずしも成功を導くわけではない。
この場合は、棋士は使う側で将棋の駒は使われる側である。
グリーン上にボールがある。カップまでは5mある。
ゴルファーは芝目を読み、傾斜を見、パターを持つ。5m打つ感覚はわかっている。
この場面でその打つ強さの加減が勝負になる。畳の上ではない。練習場の芝とも違う。傾斜もある。ゴルファーは経験を生かし、その感覚だけを頼りに力を加減する。この時ボールには自ら転がる力はない。すべてはパターで押し出される力だけで転がる。確かに言える事は「カップまで届かなかったら、決してボールはカップに入ることはない」ということ。
しかし、届き過ぎても入ることはない。
この場合は、ボールが使われる側である。
組織にも使う側と使われる側が存在している。
使う側が使われる側に「使う側の気持ちをわかってくれ」といつも願っている。
しかし、使われる側はそれを理解しようとしていないのか、理解できないでいる。
これは、使う側の屁理屈で、使われる側には罪はない。それは、使われる側は将棋の駒であり、ゴルフのボールなのだから。彼らは、その役割を果たそうと一生懸命なのだ。
だから、考えなくてはならないのは使う側である。彼らを使い粉さなければならないのである。
それが出来ないのなら、棋士になってはならないし、ゴルファーになってはいけない。
間違いなく言えることは、私は家に帰ったら将棋の駒であり、ゴルフのボールである。
決して、棋士にもゴルファーにもなれない。
不動堂
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2010年09月16日
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