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生まれた土地ではない。生まれ育った宮城から700kmも離れた土地に40年も根をはるとは思わなかった。それよりも生まれ育った宮城に拘らずに生きたことが信じられない。私の人生の場が「名古屋」になるとは大学生のあの頃の私には、到底信じられることではなかった。
大学生の時だけは、東京に住みたい。東京の街を知りたい。知り尽くしたい、思いで関東周辺の大学を中心に受験をした。そして、卒業したら宮城に戻ろう。学生時代に見たこと、聞いたこと、知ったことを土産に宮城に帰ろうとあの頃の私は漠然には思っていた。ところが、就職難だったあの当時、卒業と同時に名古屋の企業に就職し、いつの間にか宮城に戻る選択しはなくなった。
学生時代に出会った彼女が今の妻だった所為も大きかったのだろう。心のどこかで天秤にかけていたのかもしれない。オーナー会社だったので給与の問題、労働時間の問題などの不満を言っては辞めて行く先輩、同僚などの姿を見て来た。私の性格もあるのかもしれないが、どこの会社でも同じような問題は付いて回ると思っていた。
私は、「二君に仕えず」の精神からも首になるなら仕方がないけど、再就職するつもりは若いころからなかった。会社を辞める時は宮城で旗を揚げる時とばかり、信じ生きて来た。
ただ、未だにその風を感じることなく、ひたすらその時を待ちながら、宮使いをしているに過ぎない。
しかし、この地、この会社で踏ん張ったことで当初8年は現場監督、その後建築営業で30年弱に渡り、「住まいを通じて」150から200億の仕事に携わって来られた。
お客様の「土地活用」の要望に応える形で個人住宅から賃貸住宅を中心に、老人施設、会社・事務所・店舗等を建設してきた。これらの建物を通じて、そこで過ごす家族の生活のためへの貢献、介護の必要な老人への貢献、社会貢献する会社・店の繁栄への貢献なのに少しは役にたったのではないだろうかと今は自負している。
これからの私に何が貢献出来るか。
当然、このまま社会貢献できる建物を残すことも大切な仕事に違いない。この命果てるまでやり続けていくだろうし、実際、これしか出来ないかもしれない。
ただ、今、この年齢になり最期の「欲」として、この会社で30年以上生きている者として、この会社に社会人として育てられた者の役目として、若い人材を育てるというと敷居が高いけど、これまでの会社の文化を伝えていく役目があるように思えてならない。自分自身の失敗や成功体験などをこれからの社員にために、この会社から受けた恩返しのためにも伝えて行く役目があるように感じる今日この頃。 不動堂
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2016年03月30日
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