がいじんトーク

人生、迷ってばかり。死ぬまで迷っているのかもしれない。

無題

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最近は、街の中に銭湯に変わって「何々の湯」とい名で健康ランド?がたくさん増えてきている。その施設で入浴はもちろん、サウナから岩盤浴、マサージや酸素カプセルまで設置している「今風の銭湯」である。そこでは、飲食から寛ぎが出来るお風呂屋さんで、土日などは小さな子供からお年寄りまでで結構にぎわっている。今回の話は、街中の銭湯の話ではなく、昔からある湯治場的な施設の話である。
 
「どこのロッカーの扉も開かないぞ」と騒いでいる70過ぎのおじいさんが、受付でもらったカギを扉のカギの部分に差し込んでは大きな声を出している。見かねた係りの人が「あの・・・・番号の扉しか開きませんが・・・」「番号?どこに書いてある?」「カギのベルトの部分に・・・・」
また、別の客が「俺のには、カギが付いてない。どうやって開けるんだ」と、これも70過ぎのぐらいの恰幅の良いおじいさんが係りの人に食い下がっていた。「あの・・・・ゴムのベルトの間にありますが・・・・」「あ、あった。あった。先に言ってくれよ」と。
まだ70前だと思うのだけど、この人は、カギの番号と扉の番号を丁寧に見比べている。そして、徐にルーペを取り出しそれぞれの番号を確認していた。その後、カギの穴の場所が判らないらしく、取っ手の部分や扉の面に差し込もうと必死に繰り返し、繰り返し行っていた。2流の漫才師のコントより面白い光景だった。
やっと、裸になったと思ったら、さっき入ってきた入口の方へタオルを持って出て行き、係りの人に大きな声で呼び止められていた80ぐらいのおじいさんもいた。
流石に、この奥地まで足を運ぶ輩は、大きな病気の湯治目的か温泉好き。または山歩きの好きな御仁、自転車やバイクでのツーリングのお客ぐらいしかいない。街の中の健康ランドだとやたら子供たちが多いのが落ち着かないが、ここならそんなことはない。窓の外は鳥の鳴き声か風の音しか聞こえない。雑多な音は一切ない。
 
段々利用者が減る中で、若い人たちも受け入れよう、家族旅行や社内旅行にも使える施設にしようと地域住民みんなのまちおこしで、地域の人の働きの場にしようと取り組んでいることも見え隠れしている。昔の湯治場ならこんな事はなかったんだろう。街の健康ランドのように今風に模様替えをし、街の中にある温泉より入湯料は高いけど、天然のラドン温泉に入れる。湯に浸かって良し、飲んで良し、吸って良しをうたい文句に無料のバスを最寄りの駅から走らせている。帰りに10Lの温泉水を持ち帰っても良いシステムになってもいる上、土日、祭日の朝は10時までなら無料でモーニングを頂けるサービスもしている。無料の送り迎えで、朝のモーニングを食べて、身体に良いラドン温泉に入れて、時間を潰すには街の中の銭湯よりは身体に良いことをしている気分にはなれる。
不動堂
 今までに沢山のものを失ってきた。失って良いなんてものは何ひとつなかった。
 
それは、残酷に、電光石火に、時には知らぬ間に、じわじわと時の流れをあざ笑うかのように奪われてしまった。そんな時、決まって泣き叫び、大声で怒鳴ったり、酒浸りの時間を過ごしたり、周りに当り散らしたりしてしまっていた。
 
そして、ある一定の時間を過ごすと、その都度感じるものがあった。今までは、何かを失うと、その都度間違いなく何かを得ている自分自身がいたことに気づいた。それは、虫が脱皮を繰り返すが如く、悲しみが新しい目標・目的を持って来てくれていたように感じて生きて来た。それが私の生きる糧になっていたことを今は言える。
幸いだったのは、その都度何かを得られていると感じることが出来たことかもしれない。決して「絶望」になったことはなかった。
 
 私のほしかったものは、誰かから賞を頂きたくて生きて来たわけではない。かっと言って、人の評価を無視して生きて来たわけでもない。人の評価は気になり、周りの人がどう思っているのか、どう評価しているのかは気にして生きて来た。
だからと言って、周りにへつらう生き方だけはしてきていないという自負が、私の最後の砦になっていた。
 
 
 世界の人間のほしいものは、「金融」・「食糧」・「情報」・「資源」だと言う。
これらを仕切れるものが世界を制すとまで言われているけど、そこを目指して人間は生きなければならないんだろうか。
私はそれらを制したいなんて思ったことものない。ましてや私のレベルで世界を制すなど考えも及ばない。個人が生活するためのほんの僅かのエネルギーと食糧とお金。必要なだけの情報があれば十分。それより「時間」と「愛情」が約束されている未来があるなら、それで良いと気づいた。
 
「あなたのほしかったものは、なんですか?」  
不動堂
 私には判る。今、親父が「何」を想っているかが。
もしかしたら、この言葉を待っていたのかもしれない。この言葉を引き出すために振舞ってしまったのかもしれない。今の私の周りの人間は皆、優し過ぎる。優しさに慣れていない自分だから、今後どうやって生きて行けばいいのか戸惑っていた。
 
帰省して、5日目の夜、あまりにも弱音を吐く私に82の親父が怒鳴った。
 「お前はいつからそんな様になったんだ。病気をいいことに周りを巻き込んで最後はお前に同情してくれと言わんばかりに振舞っている。情けない。人間一度は死ぬんだ。それが50なのか60なのか80なのかの違いだけで、お前より若い人がもっと大変な病気になって亡くなっていることをもわからないのか。それより、今こうして薬の副作用に耐えられる身体に生んでくれたお母さんに感謝しろ。いつまで、どうすることも出来ない過去を悔いているんだ。前を向くんだ。今をどう生きるか、これからをどう生きて行くのかを全部を受け入れて行くしかないんだから」
 
 今まで一人で生きて来たから、少しだけ田舎の両親に甘えたかっただけ。それ以上も、それ以下もない。弱音を吐くのが嫌で、強がって生きて来たから、自分の周りには甘えて縋る人はいない。自分を鼓舞することで震え立たせ、乗り切ってきた。追い込まれれば追い込まれるほど頑張れる、そんな性格を知ってか知らずしてか。親父は泣きながら怒鳴ってくれた。
 「そんな情けない男に育ててしまったのは、すべて親の私たちの所為だ。学校も出てないし、親とはどうあるべきかなんか、考えたこともなく、職人になって必死で生きて来た。
金を稼ぐことで自分自身の親というものを誤魔化して生きて来た。高校入学の時も、大学入学の時も過分にほしいものを与えてきてしまった。一人暮らしも授業料もお金を出すことで親の責任を果たしたと思い込んでいた。そんな育て方しか出来なかった。そして今、こんな病気になったお前に何もしてあげられない。替われるものなら替わってあげたい。
お前は、一人で35年以上生きて来たのだから、酸いも甘いも判っているかと思ったらこの様だ。大きな図体して、大声を張り上げて。情けなくて、情けなくて」
 
 82の親父に言い返す私を必死に息子が止める。
ワン吉までが私の足を舐めてくれている。心の中で待っていたものが今届いた。
幼い頃のように「怖い親父」に叱ってもらいたくて、忘れかけていた頃を思い出した。
それは、この歳になると懐かしくて堪らない。そんな親父がいるから帰省した。
優しさに慣れていない私には、この薬は良く効く。
窮すればするほど、力が出せる性格の私には堪らなくてならない。     不動堂

「ズルイ娘」

それは、突然でした。
「今の私には受けることは出来ません。理由は・・・・・」
 
 「私の家」には、今母はいません。
父は、会社員で大学を卒業してから、ずっと同じ会社に勤めています。
2年前に病気になり一時入院もしましたが、その後は月に2回ぐらい通院して治療を受けています。病気が治らないから通院をしているんだろうけど、見た目は意外と元気にしています。会社勤めをやりながら、ご飯の用意、ワン吉の世話、洗濯、毎日のお風呂の掃除も全部お父さんがやります。私は洗濯物のアイロン掛けや部屋の中をコロコロで掃除するぐらいのお手伝いはしています。
 
 私には、兄がいます。兄は大学を卒業して、今は県外でアパート暮らしをしています。盆と正月以外、滅多に帰って来ることはありません。兄は小中高大とずっと野球をしていました。リトルリーグ時代には、土日はいつも父と一緒にグランドまで応援に良く行きました。私の目からも「うまい」選手だと思いました。兄が活躍して勝つ試合がたくさんありました。父も野球キチガイなので、夜はいつもプロ野球の中継を観ていました。その所為もあり、野球経験の無い私も知らぬうちに野球は好きになり、ルールや野球用語ももちろん、簡単なスコアブックならつけられるようになっています。
 
 兄は、この秋に結婚をします。父の病気のこともあり、多分、無理をして早めたんだろうと思います。お付き合いして1年ぐらいだと聞いています。本当に幸せに成れるんだろうか私は、少し心配しています。父は喜んでいるようですが、結局、結婚しても職を替わる訳でもないので兄が家に帰って来ることはありません。相手の女性も職場の人らしく、当分共稼ぎをするらしいです。これでは、兄が結婚しても何も我が家には変化はありません。この事は、父は判っているんだろうか?少し心配しています。
 
 今、私がこの家を出てしまったら、父だけになってしまいます。
正確には、ワン吉と父だけになります。
「居間で酒を呑んで寝てしまった父の世話や体調が悪い時の世話は誰がやるの?今年ある兄の結婚式でお金を使ってしまうのに、連続では我が家では厳しいはず。兎に角、今の状態の父を独りぼっちにしては嫁げない。家を飛び出せない。本当は、私だって兄のように家を出て自分の人生を送りたい。自分だけの事を考えて生きたい。父の所為で私の人生が犠牲になるのは嫌だ・・・・・・」と言う心の叫びがあります。
 
 本当は、「父の所為にして決断出来ない」ということが一番楽だから、その所為にしているだけの「ズルイ娘」かも。
不動堂
 人恋しくて、電話が鳴るのを、酒を呑みながら、ひたすら待った。
待っても、待っても電話は鳴らない。
あなたからの電話に待ち疲れてしまう。酒の量とタバコの吸い殻が増えるだけ。
そのうち、誰彼と関係なく電話を駆け回ってしまう。
次の日、誰に何を話したのかさえ覚えていない。そんな一人暮らしをしていた若い頃。
すべてが自分中心で、他人のことなど猶予している余裕がなかった。
 
 願うものはすべて叶うと信じていたあの頃。
自分に成れないものはないと夢見ていた頃。信じられるのは自分自身だけ。
強いものだけが生き残れると信じていた。
喧嘩にも、バイクや車の運転にも、そして、どんな我慢比べにも誰にも負けないという
過信が間違いなくあった。
その頃の自分は、どことなく誰も寄せ付けない、ピリピリした空気を出していたような気がする。
 
 強がっていたのは、「何か」に怯えていたから。
その「何か」を悟られるのが嫌だったから。
そして、それから逃げ出したかったから、大きな声で吠えていたのかもしれない。
それは、偽物の自分を演出していた。格好つけていたに過ぎない。
周りの目を気にして、人の評価を無視していた。
でも自分一人で生きて行けない事。
それは、他人の世話にならないと成せない事も感じていたあの頃。
 
 いつからだろう。すべてを受け入れることを決意したのは。
それは遠い昔ではない。もしかしたらつい最近のことかもしれない。
己の弱さも、見栄も、未熟さも、運もすべて受け入れて生きて行くことに。
蓋をしてしまいたいことや目を瞑っていたことに勇気を振り絞って立ち向かうことも。
運に頼ったり、不運を嘆いたりして運命を罵ったりしても何も始まらないことに気付いた。
自身の不足を補ってくれるものは、自分自身じゃない。取り巻く環境であることに。
 こんな姿勢にあの頃から気づいていたら、もっと他人に迷惑を掛けない人生を送ることが出来たかもしれない。「みんなともに生きていく」ひとりでは生きて行けない。互いに良い影響を与え、受けながら生きて行く。
こんな私でも他人に感謝される人生を謳歌していたのではないだろうか。
不動堂

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不動堂
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