がいじんトーク

人生、迷ってばかり。死ぬまで迷っているのかもしれない。

無題

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 「今、あなたは重要な節目を迎えていますね。私は直感でそれを感じました」と語るや否や「あなたは自分に厳しい部分がありますね。向上心があり、目的を果たすためにはとても強い意志を持って進むことができる方です。ただ、それゆえに損な役回りになってしまったり、反感を買ってしまったことがあったのではないでしょうか。本当は誰かに頼りたい、と思ってもついつい他人に手を貸してしまい、自分のことは後回し。いつからか、言いたいことも言わずに、自分の感情を押し殺すことが当たり前になっていたのではないですか?我慢を重ねてこられたと感じますよ。あなたの心に影を感じるのですが、それはそういった今までの積み重ねからくるものでしょう」と生年月日と性別を聞いただけで語りはじめた。
 
 一瞬、心が動いてしまう自分自身を感じた。当たらずも遠からず、一度も会ったことも、話したこともないのに、性格までわかるのか。瞬時に、こんな性格だったと納得してしまっているではないか。すごい人だ。本物の占い師かもしれないとまで感じてしまっていた。
 ここまでは無料。この先の1年間の運命を聞くためには、¥3,000−かかる。こんなに適格に私を取り巻く環境が判るなら、¥3,000−ぐらいなら支払って聞いてみようか・・・・と思案している自分がいた。
 
 そして、¥3,000−の罠にかかってしまう。具体的な相談事の回答はこんな具合に返された。それはまるで「おみくじ」の回答表現だった。
 探し物は・・・・根気よく探せば見つかる。病気は・・・・きちんと治療すれば完治する。仕事は・・・・努力すれば報われる。縁談は・・・・精神誠意付きあえば結ばれる。
間違ったことは、語っていない。根気よく、きちんと、努力すれば、精神誠意付きあえば?
当たり前の事じゃないか。前文を良く読めば、「重要な節目」「自分に厳しい」「向上心」「強い意志」「損な役回り」「誰かに頼りたい」「自分のことは後回し」「心の影」なごは、誰もが潜在的に持っている心の中の感情に過ぎない。それを言い当てられたと思ってしまう見事な術中。一瞬に、心の隙間に入り込まれてしまった。
「騙された」と気づくのに時間はいらなかった。見事なフィッシングだ。次回からは割引価格で占いを聞くことが出来るというアナウンスには自分自身への怒りで最後まで読み切れてはいなかった。この私でさえ、騙されてしまうのか。私は決して詐欺には合わないタイプという自信が崩れてしまった。
「人間なんて、こんなもんなんだ」と素直に認めていなかった私。振り込め詐欺に遭う老人を笑っていた。Hサイトにクリックして、高額な請求を受けた仲間を笑っていた。新興宗教活動に参加してしまう人々を愚かな人と語っていた自分自身。そんな自分も同じ人間だったことに気づかなかった。                    不動堂
 ハンバーガーショップで幼い女の子が母親と無邪気にポテトを食べながら会話をしている。3歳ぐらいだろうか。母親は25~6歳という感じかな。女の子は、ポテトとジュースを飲んだ所為だろうか、ハンバーガーを一口か二口かじったぐらいで残してしまっている。
母親は、無理に勧めようとはしない。自分の分を食べたら、残したハンバーガーを持ち帰ろうとはせず、ゴミ箱に捨てて帰ってしまった。その仕草はごく当たり前のように淡々としていた。
 会社の若い連中と行った手羽先が有名な居酒屋でのことだ。飲み放題という設定の所為だろうか、人数分以上の手羽先を頼んだ。きっと残してしまうだろうと思っていたら、案の定残して帰った。
最近、感じるのだが、スーパーでもさんまが内臓と頭を取った状態で売られている。あとはこのまま家で焼くだけでさんまの形すらわからない状態で。もっと凄いのは、惣菜コーナーでは焼き上がった塩サバが切れ身の状態で売られている。チキンもトンカツも「みそソース」までかかった状態で売られている。定価は一人分「198円」とか二人分「298円」で。家で焼く手間とか燃料費を考えたら、この方がずっと得なように思えてしまう。便利になり、面倒くさくないのが一番と考えると悪い話でもない。
 
母親の実家は東北の農家でササニシキのブランド米を収穫していた。私が幼い時は、目の前で祖母が生きた鯉をさばいている姿や鶏を絞めて血抜きをしている姿を見て育った。また、子豚を育てて大きくなった豚を出荷する姿も目にしていた。田舎では米、畑は当たり前で、豚や鶏を飼うって育てていた。近くに牛を飼っている家もあった。常に生きた生き物と触れ合って育った。飼い猫はネズミを捕ると口にくわえて家の人に見せに来るものだとも教わった。自分たちで捕ったイナゴも食べた。鮒も食べた。山に生っているアケビやザクロも、マツタケやキノコ、ワラビやゼンマイ、栗も拾って来て食べた。大人と一緒に行動することで自然と時期と場所、収穫のコツみたいなものを知ることができた。同時に食べ方まで覚えた。
 
間違いなく私が幼い頃より豊かな時代になった。私の田舎にもコンビニがあるし、食べるものを手に入れようとすれば、すべて食べられるような状態まで加工されて売られている。幼い女の子のお母さんには便利に違いない。ひとつのハンバーガーを食べるのにも1頭の牛が犠牲になっていること、手羽先2個で1匹の鶏が犠牲になっていること、120円のさんまにも命があること、198円のカツにも食の代償として命があることを知ってほしい。それを子供に伝えて、理解させてほしい。なぜ「いただきます」「ごちそうさま」という文化があるのか。若いお母さんたちも積極的に理解して文化を継承してほしい。
このままでは、これからの子供たちがかわいそう過ぎる。         不動堂
 「すべてから逃げ出したくて堪らなくなる」そんな孤独感に襲われる。
こんな気持ちわかりますか?こんな気持ちになったことがありますか?
 
 自分にだけ不幸がやってきて、我慢して、我慢してやり過ごしても、また自分に不運が降り注いでくる。これでもかと・・・・負の悪循環に包まれた時に人は、こんな気持ちになるのではないかと思う。
 その時、その人はそれしか見えていないし、そのことだけしか考えられなくなっている。
 他人は簡単に言い切る。「天は障害を乗り越えられない人には、そんな残酷な仕打ちはしないもの」「あなたは神に選ばれた人。神を信じて立ち上がってください。必ず乗り越えられます」と。
 みんな嘘つき。そうなら自分自身の運命を悲観して自殺する人がいるのはなぜ?
祈ることで、すべての人の不幸を克服できると本当に思っているのか。
あなたたちが信じている神様や仏様は、どこにいるのか。答えてほしい。
彼らは、何を見つめているのか、何を見ているのか。
こんなに小さな私の不幸さえ取り除けないのに、何を守っているのか。
 
 彼らを信じ、世界中の人は毎日祈っている。明けても暮れても。
必ず、幸せに成れるものだと信じて祈っている。それは死んだ後からでも。
信者は、時に願いが叶わないのは祈りが足りなかったからだとも思っている。
 
 神様や仏様を侮辱するつもりはない。あえて存在自体を否定するつもりもない。
人間という想像力を持っている生き物にとっては、偶像するものがないと時として心が乱れてしまったり、信じるものがないと人生に迷ってしまったりする生き物だから。
「生きること」に心を乱だしたり、迷ったりすると生物として大自然に対しての適応力が無くなったり、進化する機能が退化したりしてしまうのかもしれない。つまり人間という生命体の絶滅を早めてしまう結果になるのかもしれない。
 
 ただ、もう薄々と感じているように「天国」というものが空の上にあるとか、その世界から神様や仏様が我々を見下ろして守ってくれているとかは、どう何だろう。
熱心な信仰者にとっては、「嫌な話をする奴」だと思うのだろうけど、命のやり取りをする宗教戦争をするまでのことなのだろうか。
 今は「信じるものは、己の心の中にある」これだけは、信じていいのではないだろうか。
                              不動堂
*がいじんトークは、あくまでも不動堂の個人的宗教観です。

「絶望からの脱出」

  「この世で起こるすべては、生まれた時に天から授かったその人の運。如何にジタバタしようと運命には逆らうことは何人もできない。残された時間を慎んで、
運命に従って精一杯生きてください」
 
「最近、何か苦しいことがあってもあなたの苦しみに比べたら、
何でもない事のように思うことがあります」
 
  「あなたの頑張りを見ていると、なぜか勇気をもらえる。仕事で起こったこと等
些細なことのように思えてならない。
それはまるで、高校生の時のラグビーボールを抱えて走った頃のように、
逃げずに正面から事に向かっていける」
 
  「あなたの生きざま・生き方は間違いなく、まわりに影響を与えている。
   最後まで生き抜いてください」
 
 ありがたい言葉を掛けてくれる人がいる。こちらが恥かしくなってしまう。
そんなに立派な人間じゃないのに照れくさい。
 本当は、小心者で臆病者。かっこばかり付けている人間。
他人の目を気にして生きている。何とか楽に幸せに成れないだろうかといつも模索してばかりいる。時に嘘を付いてしまうこともある。私は、そんなどこにでもいる普通の人間に過ぎない。言葉を掛けてくださるすべての皆様に感謝・感謝です。
 
人間はどんな言葉に感動するのだろう。どんなことで気持ちが動くのだろうか。
そして、どんな風に自分自身を震え立たせることが出来るのだろうか。
 
 人間は生きるための「目的(目標)」があれば前向きに頑張れると思う。
その「目的(目標)」までの時間だとか、距離だとか、困難さ等は関係ないように思う。
「そのために・・・」と思った瞬間、その人の心は動きだす。それが合図で、それは感じ取るものに違いない。その合図は、決まった年齢や時間にあるのではなく、人によって20歳の朝かも、50歳の昼かも。70歳の夜かもしれない。その人ひとりひとりだけに与えられているに違いない。皆条件は同じであるのだから「合図」を感じ取れる人間に成長しておくということだけは決して怠ってはいけないのだろう。そこが難しいのかも。
「そのために」の「その」が他人とはそれぞれ違うものであっていい。と言うことは
最近、気が付いた。                        不動堂
 自分というものを持っていないから他人の評価を気にして生きてしまう。
本当は自分の評価は自分で出来なければならないもの。
未熟者だから誰かの評価を気にして生きてしまう。
 
 ある就職活動をしている若者が言う。
自分のことを怠け者だとは思ったことはない。逆に、頑張り屋だと思っている。
そんな自分が今就職活動で迷っている。
自分はどんな仕事に向いているのだろうか。
与えられた仕事を熟す自信はある。どんな仕事でもやり切ることにも自信がある。
そんな自分なのに、自分の就職にどの職種を選択すべきか、どこの会社(組織)に属せば良いのか、わからない。
4年間、いや20年間真面に自分が就職する仕事のことを真剣に考えていなかったことに今、気づいている。いざその時になって自分自身に「何も無い」のである。
これから、何を目指して生きて行けば幸せに成れるのだろうか。
 
 生きるか、死ぬかの選択ではない。
ある意味彼は「ゆとり世代」の犠牲者なのかもしれない。彼は彼なりに真剣なのだ。
就職することは、与えられた仕事を熟す「会社」に入ることが就職だと思い込んでいる。
「仕事」の選択は、個々のラベル貼りをするためのものではない。
しかし、それしか「仕事」というものを感じられない世代なのだ。
 
 「仕事」というものは一つには「社会貢献」なのだ。
自己満足的のものは仕事ではなく、趣味でしかない。
どうようにして「社会貢献」をするか、出来るのか?
誰を幸せにできるのか?社会にどんな良い影響を与え続けることができるのか?
一個人が出来る範囲の手法で最大の効果が得られる成果を極め、求めて続けて行くのが仕事であり、その個人のライフワーク成れば俗にいう「天職」として社会貢献が出来るのである。
もうひとつは、その個人の社会的な健全化が計れて、同時に身体的・心身的にも健全化を計れたら「仕事」としては言うこと無だ!
 
人の評価を気にしてしまう若者の「天職」は、今模索している「会社」に入ることなのだろうか?今一度、再考してみてはどうだろうか。
不動堂

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