がいじんトーク

人生、迷ってばかり。死ぬまで迷っているのかもしれない。

無題

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 我が家のワン吉は、郵便配達の人や宅配便の人には良く吠える。番犬らしくなってきた。おやつやごはんを貰える人には吠えることは決してない。身体が小さい割に声は大きく、近所中の迷惑になってしまっているだろうと心配をするぐらい吠えている。留守番中も知らぬ訪問者には良く吠えているのだろう。
 
 先日、廊下越しにじっと見つめるワン吉。吠えることもしない。ソファーに座っている私を完全に無視。誰か玄関にいるなら吠えるはずなのに吠えない。ワン吉は、玄関に何かの気配を感じ取っていた。見つめるワン吉の態度が気に成り、ソファーから立ち上がり廊下越しに玄関の方を覗くと誰もいない。「誰もいないじゃん、ワン吉」というとワン吉は自分のおもちゃで遊びだした。
何だったのか?15秒か20秒ぐらいのわずかの間の不思議な出来事であった。
 
最近、やたら夢に死んでしまった知人や親戚の人が現れる夢を何度もみてしまう。
過去にこれほど夢に現れたことはなかった。何かの知らせを伝えに来たのか、私を迎えに来たのか。夢の中では特別の会話は交わさないけど、やたら現れるのが気になっていた。そんな矢先のワン吉の行動だった。ワン吉には見えているのか、それらの訪問者の気配を感じ取っているのか。ワン吉には、怯えた様子はなかった。だから危険を感じているわけではないのだろう。
 
 以前、我が家でワン吉を飼う前までは「座敷童」が家を守ってくれている話をしたことがあったけど、ワン吉を飼い出したらここ1〜2年「座敷童」の存在を家族は感じないようになっている。
いつも留守番している間、ワン吉は「座敷童」に遊んで貰っていたのだろうか。
もしかしたらワン吉が気配を感じ、見つめていたのは我が家の「座敷童」だったのかもしれない。
 
 ワン吉が人間の言葉が話せたら、すぐ解決するけど、そこは犬。
アイコンタクトはしてくれるけど、言葉には変換出来ない。
いつもの「抱っこしてほしい」、「外へ出してほしい」、「おもちゃを取ってほしい」、「ごはんを食べたい」、「おやつ忘れていないか」、「留守番は嫌だ。出かけないで」ぐらいは、アイコンタクトで我が家の家族は理解して、ワン吉に対応している。ワン吉もこの程度の返される人間の言葉は理解しているようだ。彼も生きるために必死だ。
 それにしても気になる訪問者は誰何だろう。不思議に誰かが訪問してきたことだけは、
私は確信している。                     不動堂

「トータルペイン」

 ある薬の副作用に苦しんでいる患者がいる。回数を重ねれば重ねるほど副作用はきつくなる。きつくても患者は病が治ることを信じて投与を受け入れている。医者に言われるがまま従っている。患者には医療の知識はない。医者の言われるまま受け入れるしかないのが現実だ。この薬の副作用が「身体的な痛み」だけなら問題はない。厄介なことにそれ以外の「痛み」が伴うことがこの薬の副作用だ。
 
「身体的な痛み」なら、医者に頼ればいい。しかし、それ以外の痛みがある。
その痛みから解放されるために誰を頼れば良いのだろう。
例えば、「精神的な痛み」を感じたら、家族?友人?
「社会的な痛み」を感じたら誰?会社の総務?
「魂に痛み」を感じたら誰?神父、お坊さん?
 
誰を頼ったら良いのか。誰がこの苦痛から解放してくれるのか。誰もが相談には乗ってはくれても痛みを解決してはくれない。それらを抱えてしまった人間はどうすれば良いのだろうか。抱えてしまった者にしかわからない。そこまで追い詰められた者にしか共感することができない苦痛。日頃「死ぬなんて怖くない」と語っている正常な健全者が、想像で簡単にそれらを語ってはほしくはない。そんな奴に限って死に未練タラタラだったりする。
 
精密な人間の構造は些細なバランスが崩れると大変もろいものだということに気づくだろう。ある者は、一度バランスが崩れると正常には振舞えなくなる。すべてからの離脱、信じているものへの不信が積り、己の存在すらも否定してしまいたい感情に走るだろう。それが普通の人間の姿だと思う。
 
病からくる「身体的な痛み」に、周りの偽りの薄ぺらな人間関係からくる孤独・孤立から生まれる「精神的な痛み」と圧力による「社会的な痛み」に耐えられなくなり、心の中の「魂の痛み」と合わさって生まれる苦痛が「トータルペイン」だ。
 
 つまり4つの痛みと戦うことがこの薬の副作用と戦うことなのだ。
これらを克服することが病を乗り越えるということ。
 
それは、つまり「奇跡」を起こすということだ。
不動堂

「幸せ」なんて幻?

 そんなものを追いかけているから、大事なものを見失っている。
 
細やかな「幸せ」を守るために貴女は、働き続けていた。いつも泣きながら笑っていた。
この先にあるものを信じて頑張っていたはずなのに、いつまで経っても何もかわらない。
どこまでそれにしがみ付いているんだろう。そろそろ現実というものを受け入れてもいいと教えてあげたい。
 
 50半ばの男の人が寒い雨の中、車の中で声をこらえて泣いていた。理由はわからない。ただ止めどもない涙が流れていた。どれほど悲しいことがあったのだろうか。自分のためにそれほど泣けるものだろうか。もしかすると大事な人のために泣いているのだろうか。失ってしまった悲しさのため?これから失うことの辛さのための涙なのか。
 
 「幸せ」とは、悲しみの裏返し。人は、いつも悲しみを背負って生きるもの。
自分だけが悲劇のヒーローの被害者になってしまって生きている。自分自身を第三者的角度でみられず、悲劇を背負うことに酔ってしまっている。冷静に考えると自分より悲劇な人はたくさんいることに気づいていない。
 
 今、すれ違った人と私の「幸せ」の基準は違う。信号待ちをしている向こう側の人と通り過ぎる車の助手席に乗っている人の基準も違う。「幸せ」を感じることには鈍感で「不幸」を感じることには敏感に生きているのが人間である。つまり、どっぷり浸かってしまった「幸せ」に気づかず、いつ来るかも判らない「不幸」に怯えてしまって生きている。
 
 優しい言葉に飢えてしまっていて、自分自身に向けられた言葉に涙している。その時の他人は本人ほど真剣には考えてはいないし、喉元を過ぎれば忘れてしまっている。
特に日本人は、慣習的な情け言葉にそれは過ぎない。時に、儀礼的に向けられた言葉でもある。そんな言葉に一喜一憂してしまって悲劇の主人公として涙を流している。
 
 自分が思い込んでいる「幸せ」の到達点は永遠にやってこない。いつまでも満足することなく、それを求め続けて生きている。生きるための「志」「目標」をしっかり定めて、それに向かって生きていること事態が大切。そのことに「幸せ」を感じる生き物が人間なんだから。「幸せ」の大きい、小さいは意外と関係ないのが真実。
そこを見間違っては・・・・・・大事なものを見失ってしまう。
 
不動堂

 最近、ワン吉は自分のゲージの中で寝なくなった。何故かゲージの外で寝るのである。
冬の間、床暖房の所為なのかとも思い、それを許してしまったことは、単純にワン吉のペースに合わせてしまった甘い我が家の家族の性格を彼に見抜かれたのかもしれない。
 
 彼は、悪さをすると叱られることを覚え、「反省のポーズ」(伏せして、頭下げる仕草)をして我々の叱る行為を妨げるのである。
思わず「お利口さんになったね」と声をかけてしまう。時に、その度におやつを与えてしまう家族がいたりする。
それはすべてお見通しのワン吉の「おやつ獲得作戦」に、はめられてしまっているのである。自分がおやつをほしい時に我々の気を引くようにわざと悪さをするのである。彼の誘導作戦にまんまと乗せられてしまう。
おやつがほしくなると『悪さをする→叱られる→反省のポーズ→おやつを与える』彼は満足。知らぬ間に我々は、ワン吉に彼の思いのままに誘導され、許してしまうのである。
 
 彼は、人間の言葉は話せない。話せないけど人間の言葉は理解している気配はする。
間違いなく「おやつ」と「ごはん」は理解している。そして「ダメ」「こら!」も叱られていると理解しているようだ。しかし人間の言葉は発しられない。時にボディーランゲージで伝えようとするけど、伝わらない。どうしても伝えたいことがあっても言葉にできない。それはまるで英語の話せない私が片言の英語を屈ししてアメリカ人に伝えようとしている風にもとらえられる。最終的にはアイコンダクトをしてくる。じっと見つめてくるのである。その眼には伝えたい思いがしっかり貯まっている。その仕草が「いとかわいい」。
彼なりに伝えようと工夫する術が愛おしいのである。
 
 彼を怒ってしまうけど、大抵の事は許してしまうのである。
そんな特権を彼の努力で私たち家族から獲得している。
 
厳格な家庭?で育ってきた子供たちが一番驚いている。
「あの親父が許すのか?」言い出したら聞かない、自分自身が間違っていたとしても決して謝らない。時に鬼のように、時に赤子のように振舞う親父が・・・・なぜワン吉だけは別格?なのかと・・・・・。だったら俺たちの子育ての時もそうあってほしかったと口にしてしまうほどの変わられようだと。何があの親父をそこまで変えてしまうのだろうか。
我が家の七不思議のひとつになることは間違いない。
不動堂

「生きていますか」

 Dear 定年前の君へ
 
 前略、もう時期、桜の花が咲く季節になりますね。
大分、ご無沙汰していますがお元気ですか?
今年の桜の花を一緒に酒でも囲みながら、昔の友達と世も屋話でもして過ごしませんか。
 
 あ、そうそう、あの時の君は、意外に弱虫だったね。もっと強く振舞うかと思い気や誰もいなくなると泣き叫んでいるだけだった。子供たちや身内の前で語り掛けても言葉尻になると泣き出していた。私の知る君は、そこでも演じられると想像していたんだけど、そうではなかった。
それほど、怖かったのですか?
日頃、構ってもらえない分、甘えたかったのですか?
それとも、優しい言葉・行為に飢えていたのでしょうか?
 
 強がってばかりいた人生、一番大切なものが、あの時初めて判ったのでしょうか。
あの時を機会に新たなスタート切れましたね。
すべてが一度、終わったと思えば、今までとは違う生き方が出来るのではないでしょうか。
もっと、周りを見て、いろんな人の意見を聞き、穿ってしまった過去の人生を捨てて、
リスタートを切るチャンスが、あの時来たとは思えないでしょうか。
 
 君が思うより、周りは優しく受け入れてくれるものです。
さあ、今年の春の桜から、神様からいただいた「復路の人生」勇気を絞って歩きだしましょう。私が応援します。あの人も応援してくれます。みんな応援してくれます。
迷うことはありません。昔、十分に迷ったではありませんか。
 
心のままに、今日を生きて、明日も生きる。
自分自身に素直に、お天道様に素直に、まわりの人々に感謝して肩の力を抜いて、もっともっと素直に生きて行けば、また違った景色が目の前に広がるはず。
勇気を出して、皆を誘って花見をしよう。
今年の花は、多分、今までで一番美しいだろう。
                                                                                       早々
 
 
不動堂

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不動堂
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