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 Travels with Charley 
In September 1960, John Steinbeck and his poodle, Charley,
embarked on a journey across America by an RV named Rocinante.

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Book; Travels with Charley in Search of America
John Steinbeck with Charley at home in Sag Harbor in 1962

■読んでみたくなった本がある。 それは、スタインベック氏のノンフィクション小説 ”Travels with Charley in Search of America。 著者が主人公で、愛犬のプードル ”チャーリー”と共に”ロシナンテ”と名付けたキャンピングカーで 1960年にアメリカを横断した旅行記。 スタインベック氏は、映画『エデンの東』や『怒りの葡萄』の原作者で、1962年にノーベル文学賞を受賞している。

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Rocinante; Steinbeck's truck mounted camper
National Steinbeck Center収蔵のスタインベック氏特注トラキャン

■著者スタインベック氏は58歳の時、アメリカを再発見しようとキャンピングカーを特注し、愛犬チャーリーを連れて大陸一周の旅(4ヶ月間)に出かける。 時は、ベトナム戦争前の古き良きアメリカ。 既に小説家として売れっ子だった彼は、誰にも気付かれない様にしていたらしい。 多くの州を巡りながら人々と交流し、砂漠や森林などの雄大な自然に浸る。 この実体験の旅行記を小説にしたのが本作品。 故郷のサリナスでは旧友や家族に再会。 南部ではジムクロウ法 Jim Crow lawsによる人種差別の現実を体験する。 旅先における著者の思考や洞察、人々と交流する様は、旅行者の参考になるらしい。

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Steinbeck's route in "Travels with Charley”

■この小説を読みたくなったのは、単にキャンピングカーでアメリカ大陸を周遊する旅行記が読みたいという理由。 であったが、東京成徳大学人文学部非常勤講師 林 惠子氏の論文に スタインベック氏の興味深くて身につまされる所論が記載されているのを見つけたから。

どんなにあらかじめ計画していようと、安全を気にかけていようと、いったん旅に出てしまえば無駄。

人が旅に出るのではなく、旅が人を連れ出す。 旅そのものが個性を発揮しはじめたら最後、きっちり定めた目的も練り上げた計画も取っておいた予約も頓挫する。

誰かの注意や助けを誘って会話を始めたいなら「迷子」になること。 迷子のフリをすれば話すきっかけとなり、相手のことを知るチャンスにもなる。

迷子になった時に手を差し伸べてくれる反応には、相手の職業ではなく個人のバックグラウンドが関係している。

旅行者の中には、時間を浪費して喜ぶ地図マニアがいて、彼らは景色を直に楽しむより 地図そのものに注意を払う傾向にある。


■昨日のブログでアメリカ 長距離旅行のルート設定について述べたが、スタインベック氏がGPS(カーナビ)を知ったら何と言うだろう? 「迷子になり難いので、人との交流が希薄になるね。 人間性を変えてしまうモノだが、景色を楽しむ余裕が確保できてイイね〜。」かな?  車旅行中の夫婦喧嘩/離婚が減るという予測もするだろうか。

 実際に前回のアメリカ旅行中、”旅そのものが個性を発揮してしまい、きっちり定めた目的も練り上げた計画も放棄する”という事態に数度となく陥った。 シカゴからルート66を走りだして間もなく、アイオワ州の とある場所が気になってルートを逸脱した。 ナビにいちいち指図されるのが煩わしくなったのも一因。 確かに旅そのもの個性は次第に出来上がってくるようで、思い起こすと旅の前半と後半では全く違う行動パターンだった。

これでもか!強力サポート体制のGPS群

 また、GPSは優秀な水先案内人だからトラブルなく旅程が進行し、アメリカ人との関りが少なくなったと感じる。 更に、モーターホームは動く家なので居室内で全てが自己完結し、自ら進んで外との関りを持たないと、アメリカ人のことを知る機会を逸してしまう。 迷子や不便は、人と触れ合うチャンスなのだ。 これは技術が進歩して便利になった現代社会の人付き合いにも当てはまるでしょう。

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ギャレー(キッチン)とダイネット(ダイニングスペース)
キャンピングカーには、ワンルームマンション同等の設備が備わっているので、
目的地に到着しても車外に出ずに食事〜トイレ/シャワー〜就寝が可能。


アメリカを旅行しても僕の英会話が上達しないのは、
GPSとモーターホームが原因なのかも。



『チャーリーとの旅――アメリカを求めて』にみる「迷子」の表象
Being Lost as a Symbol in Travels with Charley in Search of America
林 惠子
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※図は、Fuji-maruが挿入。
はじめに
 アメリカの作家John Steinbeck (1902-1968) は1960年、58歳のときにキャンピングカーで愛犬の Charley と一緒にアメリカ一周旅行にでかける。というのも、自分自身が実はアメリカをあまり知らずにいたということに改めて気づき、もっと知りたいという欲求にかられたからである。そして、約4ヶ月をかけて全米34州を巡る旅を終えると旅行記『チャーリーとの旅――アメリカを求めて』(Travels with Charley in Search of America, 1962) を執筆した。その冒頭でアメリカを知らずに書いていることに“In short, I was writing of something I did not know about, and it seems to me that in a so-called writer this is criminal” (5) と心情を吐露している。また、ユーモアと既知に富む作家Steinbeck の手にかかると、この旅行記は単なるアメリカ見聞録というより、むしろ登場人物や物語性が表現豊かに創作された長編小説のようでもある。例えば、旅のお供をしたフランス系プードル犬の Charley は非常に賢く、Steinbeck の心を癒すだけでなく、旅で出会う人々との親善大使としての役割を果たしている。無事に旅を完遂できたのは Charley のおかげかもしれない。また道中で出会う人々も Charley に劣らず個性的である。

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※図(centergrove.k12.in.usより)は、Fuji-maruが挿入。

 旅行の行程は当時Steinbeck が住むNew York を北上し、北東部から中西部に進む。その後、西部を経て南部に移動した後、東部に帰還するルートとなる。アメリカを再発見するために旅をしたのに、Steinbeck はNew York に戻った街中で迷子になる。“And now I’m back in my own town, where I live―and I’m lost” (210) と旅行記を締めくくる。この解釈を巡って研究者たちの間では、彼が旅の目的を遂行できなかったという比喩である、という見解と、そうではなく旅の目的を遂行できている、という見解に分かれている。後者の肯定的見解を示す一例として、“Steinbeck is not lost. He sees clearly, and at the end of his journey, he has a lot to think about and to mull over” (Heavilin 236) がある。筆者もこの見解に賛成である。ところがよく見ると、この“I’m lost”という表現がときに“I got lost”の表現に変わることもあるが、旅行記の初めから終わりの至る所で意図的と言えるくらい頻繁に挿入されていることに気づく。つまり、最後に New Yorkで突如としてSteinbeck が迷子になったわけではなく、旅の間ずっと迷子の状態だったと言えるのである。このことから、Steinbeck はこのフレーズに切要な意味を孕ませ、迷子という状態をテクストの表象としていることが読み取れる。そこには一体どんな意味があるのだろうか。

 そこで、本論ではこの旅行記に幾度も引用される “I’m lost” 又は “I got lost” 等のフレーズに着眼し、テクストで「迷子」がどのように表象されているのか考察する。また、その表象とテーマとの関連性を探る。まず、本論の第1 章では、旅の準備をするSteinbeck の様子と旅における独自の姿勢や見解などからSteinbeck にとって「迷子」とは何かを考察する。第2 章では実際に旅が始まってから、その過程でどのように「迷子」になるのか検証する。第3 章では旅の終え方における「迷子」の描写に焦点を当てる。そして、最終的には度重なる引用の “I’m lost” や “I got lost” 等がどのような意味でそれぞれ使われているのかを軸に、Steinbeck が旅行記をいかに構築したか、結論づける。

1.旅の始まり
 旅の前に悪天候が続き、出発が遅れてしまう。次第に旅への期待と不安が交錯する中、Steinbeckは用意周到に旅支度を始める。キャンピングカーにドン・キホーテの愛馬からロシナンテ号と名付け、自身とCharley の食料、燃料、釣り道具、そして、いざというときの為に銃も揃えていた。また、Steinbeck は既に作家として大成していたが、その身分を隠し、現地の人々とは一旅人として接したいと考え、洋服にもたいそう気を使っていた。その甲斐あってか、”I would find it impossible to move about without being recognized. Let me say in advance that in over ten thousand miles, in thirty-four states, I was not recognized even once” (6) と成功談を語る。小説だけでなく、映画『エデンの東』や『怒りの葡萄』の原作者としても広く知られていたので、本人だと一度も気づかれなかった喜びは想像に難くない。

 Steinbeck は前もって旅の計画を大まかにしか立てていなかったようだ。自らを風来坊と呼ぶSteinbeck なので頷けるが、その理由は、どんなにあらかじめ計画していようと、安全を気にかけていようと、いったん旅に出てしまえば無駄だからと言う。Steinbeck の見解、旅の計画がどうして無駄なのか、以下から窺える。

We find after years of struggle that we do not take a trup; a trip takes us. Tour matters, schedules, reservations, brass-bound and inevitable, dash themselves to wreckage on the personality of the trip. . . . In this a journey is like marriage. The certain way to be wrong is to think you control it. (3-4)

 長年あがいた末に我々は気づく。人が旅に出るのではなく、旅が人を連れ出すと。旅そのものが個性を発揮しはじめたら最後、きっちり定めた目的も練り上げた計画も取っておいた予約も頓挫する。このような旅は、結婚に似ていて、コントロールしようというのが間違いなのだとSteinbeck は述べる。まず、旅が人を連れ出すとは、旅を単に擬人化しているわけでは無論ない。旅が実際に人を導き始めると、旅人が受身の状態に変わることを指している。それゆえ、自ら能動的に旅をしているつもりでも、実はそうではなく、あくまでも旅に連れて行ってもらっている現象となる。これは、記憶に例えると分かりやすいだろう。記憶も同様に人が記憶を常に司っていると思いがちだが、記憶が人を司る現象が実際に度々起きる。例えば、心に残る記憶を無理やりに思い出そうとしなくても、その思い出に関連性のあるものや人に出会うと、自動的に記憶が人に当時を想起させる。視覚や聴覚だけでなく、臭覚、触覚、味覚等の五感が特定の記憶と繋がれば、記憶は突然やってくる。この場合、人はコントロールしようがない。つまり、旅も旅人にとって制御不能のものとなれば、抗えず、受身にならざるを得ない、ということなのだろう

 旅の性質に関する見解もさることながら、Steinbeck は旅で出会う人々との交流においても独自の世界観を持つ。どうやって旅で見知らぬ人々と親交を深めるのか。その一番良い方法を伝授している。

The techniques of opening conversation are universal. I knew long ago and rediscovered that the best way to attract attention, help, and conversation is to be lost. (8) [下線筆者]

 ここでSteinbeck は、会話を始めるテクニックは全国共通であると言う。昔から知っていたことを再確認したのだが、誰かの注意や助けを誘って会話を始めたいなら「迷子」になること“to be lost”だと話す。確かに実際に迷子になっていなくとも、もし迷子のフリをすれば話すきっかけとなり、相手のことを知るチャンスにもなる。迷子の状態が人との交流をもたらす一番の方法であることを、旅先で見知らぬ人たちから親切にされた旅人なら容易に理解できるだろう。だが、道中Steinbeck が常にこの方法を使って会話を始めていたわけではない。Steinbeck は、旅仲間の愛犬Charley を大使として遣いに出す。Steinbeck によると “A dog, particularly an exotic like Charley, is a bond between strangers” (8)であるため、Charley がSteinbeck の代わりに「迷子」のフリをして新しい友人を見つけてSteinbeckのところに連れてきてくれる。Charley が親善大使の役目を十二分に果たしていたおかげである。

 そして、悪天候が終わり、いよいよ出発の時が来る。しかし、色々と考えながら旅の準備をしていた為、Steinbeck は出発する前から既に旅に導かれていた感覚だったのではないだろうか。

2.旅の途中
 キャンピングカーなど車の移動ではやはり地図があると便利である。Steinbeck も縮尺の大きな地図と小さなものを持ってきてはいた。それでも彼は頻繁に迷子になってしまう。New England地方 Maine州 Deer Isle に向かう途中で早くも道に迷う。“I got thoroughly lost in Bangor, what traffic and trucks,horns blaring and lights changing” (39) となり、Main州で警官に道を尋ねている。

 I seem to be lost” “Where is it you want to go?” “I’m trying to get to Deer Isle.”He looked at me closely, and when he was satisfied that I was't joking he swung on his hips and pointed across a small stretch of open water, and he didn’t bother to speak. (40) [下線筆者]

 Steinbeck は本当に迷子になったので、交流のためではなく、道が知りたくて州の警官に尋ねた。だが、本来は国民を助ける立場の警官が道を尋ねる人に対して異常に警戒心が強く、本当に迷子で道を尋ねていると分かっても、道案内をするのに言葉を発せず指をさし、ただ頷くだけの応対に、いささか気を悪くしているのが分かる。Steinbeck の一方的に話しているさまから居心地の悪さが感じ取れる。迷子になったときに手を差し伸べてくれる反応には、相手の職業ではなく個人のバックグラウンドが関係していることを改めて知ることになる。なぜなら、Steinbeck はアメリカの警察官に対する嫌悪感を吐露しているが、旅の終わりで紳士的で親切な警官たちとも出会っているので、悪いイメージは最終的には払拭されたからである。

 また、Steinbeck も地図を利用している旅人であるのに、地図の存在意義の希薄さを説く。旅行者の中には、時間を浪費して喜ぶ地図マニアがいて、彼らは景色を直に楽しむより地図そのものに注意を払う傾向にある。また、どんなときも自分の居場所を地図上で正確に確認しないと気が済まない類の旅行者もいる。そういう旅行者と自分は違うと話す。

It is not so with me. I was born lost and take no pleasure in being found, nor much identification from shapes which symbolize continents and states. Besides, roads change, increase, are widened or abandoned so often in our country that one must buy road maps like daily newspapers. (55) [下線筆者]

 私は生まれながらの「迷子」で、見つけてもらいたいと思わないし、大陸や州を表す形から居場所を確認したいとも思わないと言う。逆説的に言えば、正確に自分がどこにいるかを確認できたとして、それが何になるのか、と言い換えられる。つまり、確認することで事実や自身の何かが変わるわけではなく、安心を手に入れた気になっているだけである。本人曰くSteinbeck は生まれながらの迷子なのだから、旅行中に何度も迷子になるのは自然である。誰かに見つけて欲しいと思う感情は、おそらく旅人が地図上で居場所の確認をするのに似ている。どちらも不安から逃れ安心したいのだろう。しかし、旅人は地図上で旅をしているのではなく、旅そのものを肌で感じるために旅しているのだから、不安な気持ちも受け入れて旅に没頭すべきだ、ということなのではないか。

 後半では、アメリカの道路事情に触れている。アメリカの道路は道が変わったり増えたり広がったり塞がったりが多く、それでは新聞を買うように毎日ロードマップを買わなくてはならない。このことから、信用できる地図などもはや存在しないと言える。その結果、変化の多い道路や渋滞の酷さから、道路上で頻繁に迷子となる場合が多くなる。

 また、道中で迷子になる理由の一つに道路標識をあげている点が興味深い。アメリカの各州はそれぞれ独立した個性があり、それがハイウェイの州境の標識にも見受けられる。例えば、New Englandの各州は言葉や文字数を節約していて、簡潔な言い回しで指示する。New York 州は常時どなり散らして命令する。Ohio 州の標識はもっと優しくフレンドリーな提案に近いそうだ。そこで、Steinbeckは標識に関して結論づける。“Some states use a turgid style which can get you lost with the greatest ease” (62)であると。仰々しい言葉使いのせいであっという間に道に迷う。そして、ここでは迷うのが “I” ではなく “you” になっている。これはSteinbeck のように熱心に標識を読めば、彼でなくとも誰もが簡単に迷子になる可能性を説いている。つまり、本当にアメリカという国に興味があればを前提にしているのだ。

 それでは、Steinbeck の故郷California州 Salinas に立ち寄ったときは迷子になったのだろうか。Steinbeck はSalinas に近い Monterey に行き、旧友のJohnny Garcia が営む酒場で再会する。そこでSteinbeckは昔を懐かしみながらも、一方ですっかり変貌してしまった故郷について旧友Johnny に語りはじめる。

“I will now tell you true things,brother-in-law (Johnny). Step into the street―strangers, foreigners, thousandsof them. Look to the hills, a pigeon loft. Today I walked the length ofAlvarado Street and back by the Calle (Street) Principa´l and I saw nothing butstrangers. This afternoon I got lost in Peter’s Gate. . . . If this were myhome, would I get lost in it? If this were my home, could I walk the streetsand hear no blessing?” (154) [下線筆者] 

 Steinbeck は故郷で多くの余所者たちを見かけて愕然とする。今日も街をぶらぶらしてみたが知らない顔ばかりだった、そしてPeter’s Gate の辺りで道に迷ってしまった、と言う。もし、ここが自分の故郷なら、迷うことなんてあるか、と続ける。Thomas Wolfe が書いたYou Can’t Go Home Again という本がある。まさにその本のタイトル通りだと、旧友に告げる。このとき、Steinbeck は実際に故郷で迷子になったのは間違いないだろう。だが、故郷に戻っている気がまったくしない失望感から「迷子になった」というフレーズを使ったとも考えられる。

3.旅路の終焉
 Steinbeckの旅はNew York に帰宅する前に終わっていたと言う。

I know exactly where and when it was over.Near Abingdon, in the dog-leg of Virginia, at four o’clock of a windyafternoon, without warning or good-by or kiss my foot, my journey went away andleft me stranded far from home. (208)

 旅がどこでいつ終わったのか正確に分かっている。Virginia 州Abingdon の近くの急カーブで、風の強かった日の午後4時だ。前触れもなく、別れのキスもなく、旅はSteinbeck から去って行った。家から離れた場所で取り残されてしまった、と。この突然訪れた旅の終焉は、旅の始まりで触れた旅を計画することの無益さ「旅が人を連れ出す」に酷似している。なぜなら旅人は旅をコントロール出来ない。旅の意思を受け入れるしかないのである。

 Virginia 州Abingdon 以降は、景色を見ることもなく、ただ車を走らせて何も覚えていない、とSteinbeck は振り返る。よって「迷子」だったのかどうかの記述はない。しかし、南部に寄った後、己が使命に気づき、それをどう表現して行くか「迷い」の中で運転していたのではないだろうか。

 そして、New York に戻って来たときにはSteinbeck は行き交う人々の渦に巻き込まれ、交差点の真ん中で立ち往生してしまう。強引に歩道の縁石に車を寄せ、駐車禁止地帯に車を停めた。警官が近づいて来てSteinbeck に尋ねる。

“What’s the matter with you, Mac, drunk?”he asked. I said,“Officer, I’ve driven this thing all overthe vountry―mountains, plains, deserts. And now I’m back in my own town, where Ilive―and I’m lost.” He grinned happily.“Think nothing of it, Mac,” he said. “I got lost in Brooklyn only Saturday. Now where is it you were wanting to go?” (210) [下線筆者]

 このキャンピングカーでアメリカ中を運転し、今戻って来たばかりで迷子になったのだと答えるSteinbeck に警官は笑いながら言い放つ。「そんなのはたいしたことない。私など、この土曜日にブルックリンで迷子になったばかりだ」と。そして旅人Steinbeck は自分の家に戻り、旅行記は終わる。ここでSteinbeck が迷子になっているのは帰宅ラッシュの都会に追い立てられ、道路から歩道に出るしかなく文字通りに迷子になった、の解釈で良いだろう。しかし、ここは、旅の終わりが突然訪れたように、渋滞する道路も人間がもはやコントロール出来なくて、警官さえも迷子になるという含蓄でもある。よって、最後にSteinbeck が迷子になったのは、アメリカを知る旅の目的を果たせていないという比喩には至らない。

おわりに
 これまで旅行記Travels with Charley にみる迷子の表象を考察した。というのもテクストの最後に「迷子になる」と出てくるが、そのフレーズは全編を通して表出されていたからである。旅の始まりでSteinbeck は、迷子になることが会話を始める契機となり、交流をスムーズに活かせる手段である、とユニークな見解を示していた。また、旅が人を連れ出す、という旅に抗えない旅人の受身な視点も興味深いものであった。

 旅の途中では、自らが生まれながらの「迷子」であり、見つけてもらいたくないとまで語っていた。その姿勢は地図マニアへの批判にまで及ぶ。地図で常に自分の居場所を確認しなければいられない旅行者に批判的な眼差しを向け、Steinbeck は確認などせず、旅そのものを体感しながら旅行をしていた。それでもSteinbeck は時々地図を使っていたのである。地図を使ってもハイウェイの渋滞や道路標識などで迷子になることが証明された。変容し続ける実在の道路で地図が活かされないことをSteinbeck は思い知ったのである。その後、故郷でも迷子になってしまう。しかし、ここで言う迷子とは、故郷に帰ったのに自分の知る懐かしい故郷の姿はもはやなく、その変貌ぶりに落胆し困惑している意味で迷子になっていたといえよう。

 そして、旅の終焉では、家に戻る前に旅がSteinbeck に突然終わりを告げる。最後はNew York の街中でSteinbeck は渋滞に巻き込まれ、道に迷ってしまう。警官にそう話すと、警官もBrooklyn で迷子になったばかりだと切り返される。ここでの迷子とは、文字通り、道路で迷子になることだが、一方で、近代化した世の中で道路は車で溢れかえり、渋滞の渦に身動き出来ない。これは社会の変貌に追いつけないSteinbeck の一面も映し出している。

 このように、一貫して迷子になることが表出されていた。つまり、迷子はテクストの表象であり、テクストのテーマ「アメリカ再発見」の旅に身を置くSteinbeck の終始一貫した様相だったのである。よって、Steinbeck が意識的に挿入し続けていたと考えられる。ときに修辞的意味で、またあるときは文字通りの意味で使われていたと言えよう。

 Steinbeck 研究者の上優二氏はこの作品を「整然としたルポルタージュの形式で書かれているわけでなく、旅行中のさまざまな経験、人間観察、個人的回想、アメリカの神話、そして風刺のきいた、ときにユーモアを交えた文明批評等々を、いわばモザイクふうに収録した旅行記である」(上439)と批評している。つまり、形式の如何を問わず読み応えのある秀逸な旅行記に間違いないのである。それでも、一貫した「迷子」という表象に裏打ちされた「アメリカ再発見」というテーマが存在し、最後は読み手によって解釈の余地を残す点で、この旅行記はまさに小説としての要素も構築されていたのではないだろうか。

※ここまでが引用



<参考サイト>
charlesenglishclass Travels with Charley


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